第3話 言い掛かりの痴漢冤罪 Ⅱ
少年は周囲を見渡しつつ、待つ。
(ハンカチのことが不発だったとしても、こうやって今周囲に堂々と宣言したし、この女の仲間らしいのもいない。だから、誰か一人でいい。証言してくれれば、恐らく収まる。俺が取り押さえられなかったことがその証拠だ)
だが、彼の心は、抱いた希望は、徐々に弱まっていく。
目が合った人に目で懇願すると、すぐさま目を逸らされる。それの繰り返しで……。
そして、とうとう、駅員が彼の手を掴み、引っ張る。
「ここにいつまでもいては、迷惑になりますから、駅舎まで行きましょう」
そんな並みの大人程度の体格でしかない駅員に引っ張られてもそのまま引っ張られていくなんてことにはならないでいられる位には彼は屈強であるというのに、引っ張られた勢いで膝をついた。
「誰……か……。助けて、ください……」
情けなくも年相応な有り様で、そして、惨めに、懇願した……。
彼は虚ろな目をして、絞り出すような細い声でそう何とか口にしたが、周りからは冷たい反応、視線、野次……。
(駄目、か……。もう、最後の手段に出る、か……? 逃げるという最後の手段に……。だが、逃げ切れるのか……。こんなメンタルでは、まともに走れはしない……。現に、今、俺は、立ち上がろうとしているが、立ちあがれない……。それにもし、足が動いたとして……、学校に連絡が行く……。俺は割と特徴的だ……。名前なんてすぐに特定されるだろう……)
本音がぽろりと零れただけで、彼は未だ思考は辛うじてできていた。しかし、最後の手段を、実行前から諦めてしまったり、弁護士を呼ぶ等といった割と当たり前の手段すら思いつかない程にぼろぼろだった……。
(はは……。諦めちまった途端、足が言うこと聞きそうになった……。笑…―)
「うっ、うぅおおえぇえええええ」
折れると同時に、嘔吐した……。
口元を拭うことすらせず、汚れたまま、彼はゆっくりと力無く立ち上がった。泣きもせず、暴れもせず、死んだ目をして。
「ほら、たったと行くよ、君」
駅員が顔を歪めながら面倒くさそうにそう言った。
その隣で、化粧臭い女が勝ち誇った表情をしながら、少年を睨みつけている。もう被害者演技は止めらしい。
だがもう、彼にはそんなことどうでもよかった……。打てる手は打ち尽くし、負けが確定したのだから……。
「ええ……。行きましょうか」
虚ろな目をして、力無くそう言って、駅員に従って駅舎へ向かおうと歩き出した。
(終わり、か……。親父、母ちゃん、兄貴、ごめん……)
が、突然後ろから袖を引かれ、立ち止まる。
「ま、待ってください」
後ろから聞こえてきた、ソプラノな、フワっとした感じの小さな、おどおどしい声。それに加え、遅れて、自身の吐瀉物の臭いに混じって、ほんのりと漂ってきた向日葵のような匂い。
それが、彼の塞ぎ込んでしまった自意識を、現実へと引き戻し、
(これ……は……?)
彼は振り向いた。
そこには、少年の通っている高校の女子制服を着た、一人の小柄な女の子が立っていた。年齢からすれば少女と言うべきだろうが、外見からすれば女の子と呼ぶのがしっくりくる。
そして、彼は、彼女に見覚えが無かった。
(胸元の黄色いリボンから、この子は俺と同じ一年生であると分かる。向日葵のような匂いのする、"小動物"っぽい雰囲気の、小学生とも見紛うような女の子、か。知らない子だな)
一度諦め切ったという意味で頭が冷めてしまっていた少年は、そうやって、他人事であるかのように、彼女について思考を巡らせていた。
(ちょっと色素の薄い、おかっぱぱっつんな髪の毛。つぶらな瞳をした、白い肌の女の子。胸がやたらにデカい。トランジスタグラマーというやつか。初めて見た。……。やはり、知らない子だな……)
「えっとですね……」
彼女は、依然として小さな声で言い淀む。
それを見ていて、彼は、やっと自身の今の状況に目がいった。
(ああ、そうか。俺は、助かったんだ。助けられたんだ、この子に。そうなるんだ、今から。この子は、俺に為に証言してくれる。そういうことなんだ。だが、あと一歩、そう、この子が、証言してくれるところまで持っていかないと、どうしもならない……。そこの化粧臭い女の押しは強い。だから、この子が一歩退かせれてしまえば、おしまいだ……)
すると、
「お、お客様……」
「黙ってなさい!」
駅員が制止するのも構わず、少年を痴漢に仕立て上げた女が向かってきた。すっかり嘘泣きを止めており、怒りに満ちた顔で、彼女に凄んだ。
「あんたぁ、今こっちは取り込み中なんだけどぉ。こいつがさぁ~、わたしにチ・カ・ンしてきたわけよぉ。だから突き出してやんのよ、警察にさあ。きゃはははあは!」
女が動いたため再び強く漂ってきた化粧と香水の臭い。そして汚い言葉遣い。それに加え、自分意外にも災厄を撒き散らす女の身勝手。
(相当、くるなぁ……、心に。頭にくる……。唯一つを除いて、化粧臭い女の取った行動も、それから受けた俺の心の怒りも、想定の範囲に収まっている。唯一違ったのは、化粧臭い女がこの子に凄んだってことだ。何も悪いことをしていないこの子に。何もかもてめぇが悪いんだろうが! 化粧臭い糞女が!)
彼の心に、怒りの炎が灯った。それはある種の喝としても働き、溢れんばかりの気力を取り戻し、
「オバサン、あんたが今相手にしてるのは俺だよな。俺に言いがかり付けるだけでなく、俺の為に証言しに来てくれた子にまで言い掛かりつけるのか?」
彼は意地悪そうに笑いながら、周囲に訴えかけるように、わざとらしく大袈裟に女を責めた。
普段の調子が戻ってきた少年は、怒りに振り回されることなく冷静だった。
物凄い顔をして睨んでくる女をスルーし、
(よし、今のうちに、)
女からの危害に巻き込むこととなった彼女に向かって、真正面から、頭を下げ、頼み込む。
「頼む……。助けて、くれ……」
(この子にもう一歩、踏み出して貰わなければならない。さもなければ、俺は、助からない……。頼む……)
それは伝わったらしく、彼女は覚悟を決めたかのような真剣な顔になって、首を縦に振った。
そして、息を吐いて、大きく吸って、彼女は口を開いた。
「この人は痴漢なんてやってません! 私、見てました、から!」
それは今までのようなぼそぼそ声ではなく、周囲に響き渡る大きな声だった。
周囲の注目を一身に集めた彼女は、彼の右手を掴み、健気に上へ掲げようとするが、身長差がありすぎて、90度分すら少年の手は上がっていない。
約一分後。
そうすることに見切りをつけ、彼女は彼の手を離す。そして、彼を指差し、周囲に訴えかけるように言った。
「この人は痴漢なんてしてません」
再び彼の身の潔白を高らかに宣言したのだ。そして、
「証拠もあります」
と、鞄の中から何か取り出し、掲げる。
「これです。この人の言ってたハンカチです」
それは、彼が落としてしまったハンカチそのものだった。