第2話 言い掛かりの痴漢冤罪 Ⅰ
化粧が濃い、美人の仮面をつけた、恐らく三十路くらいであろう女が、ハンカチを握っていた少年の右手を強く掴んでいる。
余りに突然のことだったので、彼はハンカチをその手から落としてしまっていた。
「こいつ、痴漢で~す。私のお尻触ってきました!」
その化粧臭い女がなり立てている。周囲にアピールするように。それを事実と捏造する為に。
「言いがかりは止して下さい」
彼は、汗一つ流さず、堂々として、ドスの聞いた重低音な声を張って、冷静に冷たく言い返す。
幸いにも、彼は、身体と同様、その心も大人びていた。年齢に見合わない大人びた知識量と、度胸を持っていた。
(臭い。化粧臭い。香水臭い。人工的な作為的な臭いが混ざった、生ゴミと同等の臭い。そんな臭い纏う奴に、俺が痴漢をしただなんて因縁つけられているなんて、御免被る)
とはいえ、彼の旗色は悪い。
痴漢冤罪。それは原則、女性側が声をあげた地点で男性側としては、詰み、なのだから。勿論、馬鹿でない彼はそれに当然気付いている。
(まさか、後ろから右手を引っ張られ掴まれるとは、な。こんな無理やりな手段、想定していなかった……)
彼と女を中心に、半径3メートル程度が開いている。そして、その外側は、少年を睨む者が殆どで、迷惑そうな顔をしている者と気の毒そうにしている者が僅かに。
今この場で取り押さえられていないだけ、まだましな状況と言えるだろう。
そうなっているもの、彼が毅然とした態度であったことと、彼の両手が顔より上にずっとあって、つり革を握っていない方の手は、鼻に当てていたハンカチのせいで割と目立っていたからだろう。
(状況をひっくり返すには、味方が必要だ。俺が犯人ではないと証言してくれる者が。だが、そういう者はこの場にはいないらしい……。が、)
彼が何とか冷静でいられているのは、他にも、非常停止ボタンを押されたり、自称被害者の女に協力者がいる気配がないというのも大きいだろう。
(まだまし、か……。とはいえ……、猶予は、僅か……)
だが、彼に残された時間は、その区間を電車が進み終えるまでの約10分間しかない……。
スゥゥゥ、ガタン! スゥゥゥ、ゴトン。
「間もなく、山岬町、山岬町」
そんなダミ声の車掌アナウンスと、減速による列車の揺れが、タイムリミットがきたことを彼に知らせる。
(着いてしまったか……。さて、いよいよ不味い……。これだけ大人数に顔を見られているから、逃げるという手段は使えない。駅舎に連行されると詰み。だが、ここで留まることはさせてもらえないでだろうから、)
キィィィィィ、ガコン、プシュゥゥゥ、ゴトンゴトン。
列車が停止し、扉が開いた。
「山岬町、山岬町、詰めてご乗車の程、お願い致します。次は、海森、海森」
(列車から出て、粘るしかない。助けは期待できず、逃げ場はないのだから……。粘り強く、否定し続け、向こうが根気負けするのを待つしかない。が、せいぜい、唯の足掻きにしかならないだろう……。こちらの負けはほぼ確定している……。年齢的に刑務所にブチ込まれる可能性は低いとしても……、経歴に傷は残る、どうしようもない位に深く……)
彼は、自身の手が、汗を掻き始めたことに気付く。どうやら、心が屈し始めた、と。諦めることを考え始めつつある、と……。
外は、未だ激しく雨が降りしきっている。雲は先ほどまでよりもずっと黒々しく、遠くで雷が光っていた。
周囲の人垣が入口付近だけ割れ、出ろ、と、首で目で合図し、急かす。そして、彼が逃げないように監視している。
女は被害者ぶって泣きそうな顔をしてしおらしくしているが、明らかな演技である。正面近くに位置する彼には、俯く女の口元が微かに嗤っているのが見えていた。
(落ち着け……。焦ってもどうしようもない。親父も言っていた、こういうとき考えることを止めてはならない、と。なら、この場合、俺が考えることは、今と先。なら、それに一番関係するのは、相手の動き。そして、相手が俺をどうして痴漢に仕立て上げたか、だ)
さしもの彼でも、そろそろ限界が近づいていた。背中からも汗が流れ始めている。額からそれが流れ出すのも、発狂して叫び散らしそうになるもの、いつ訪れてもおかしくない状態だった。
それでも彼は、暴れないし、逃げない。辛うじて、冷静さを保ちつつ、諦めてしまうことに抵抗している。
彼がホームに降り立ったところで、誰かに呼ばれた駅員が駆け寄ってきた。
「駅員室までご同行お願いします」
と、テンプレのような台詞。
だから彼は拒否を言葉で示そうとするが、
「俺は痴漢なんてしていません。左手はつり革握ってましたし、右手はハンカチ持って、口元にずっと当て…―」
「違うわ、このガキ、私に痴漢したのよ、お尻、思いっきり、触られたのよ。下から手入れられて、思い切りぃいいいいい、あああああああああ――――」
途中で女に邪魔される。
(何つう奴だ……)
それで逆に、少しばかり彼は冷静になった。
(この女の狙いは何だ……? あぁ、考えるまでもない。金だ……それしかない。なら、騒ぎ立てて罪人に仕立て上げる→示談、か?)
そして、また、不安に押し潰されそうになる。だが、それと同時に、折れる訳にはいかないという意志は強くなった。
(なら、親父たちにも面倒かけちまう。それに、親父来たら、俺じゃなく、親父が丸めこまれて終わる可能性もある。母ちゃんはどうせ連絡つかない。兄貴も今日は、母ちゃんの実験に付き合うことになってるから駄目……。あああああ、俺だけじゃねぇ……。これ、家族も巻き添えじゃねぇか……。不味い不味い不味い……、何とか、しないと……)
「左手は釣り革握ってましたし、右手はハンカチ持って、口元にずっと当ててました。青色無地の薄手のハンカチです。列車内に落ちていると思います。それに、この蒸し暑い中ハンカチで鼻抑えてたのは、恐らく俺だけだった筈です。それなりに目立ってたと思うのですが、誰か、証言してくれませんか」
彼は気を張り、女の喚き声、嘘泣き声にかき消されない、大きく、しかし、落ち着いた声で、駅員だけでなく、周囲に訴える。
「この人に急に後ろから手掴まれたときにびっくりして落としてしまったんですが、青い無地の薄手のハンカチです。誰か、誰か、知りませんかぁぁ! 俺は列車内で、両手ともずっと首より上にありました。痴漢なんてしてません。誰か、お願いです、証言して下さいませんかぁぁ!」
(できることはこれで全てだ……。ハンカチを右手に持っていて、この女に手掴まれたときに落としちまったのは不幸中の幸いだった。ハンカチをこの女が回収していないことは確認済みだ。車内に残っているか、他の誰かが、俺が出た後に回収しているか。それを届けてくれる人がいたら、その人に証言を頼めばいい)