第12話 咎負いし偽物の英雄 Ⅲ (R-15)
※R-15な内容含みます。卑猥かつ、汚い絵面が浮かぶかと思います。そういうのダメな人はこの話は飛ばして下さい。そうしても問題ないように構成してあります。読み進める方は下へスクロールしていってください。
「……」
彼女は何も言わない。彼に向けて手を差し伸べない。目を開けて、彼の方を見て、見て、……、その瞳孔は動かない……。彼女はそのままかくん、と、手をぶらりと地面に垂らし、頭を垂れるように、倒れることなく意識を失った。
彼の視線は、自身の右手に移る。切れた右手。傷口が、開いていた……。べっとりと、流れていた、結構な量の、血……。出血と言っても差し支えない程の、小規模な血の水溜まり程度はそのうち作れてしまえそうな量で、零れ続ける、血。
先ほどまでは、勢いがそう強い訳でもなく、彼自身が臨戦状態であった為、唯の傷口でしか無かった。が、敵対する者を無力化したところで、臨戦状態は解かれたのだ。それに、敵対する者の鎮圧にその手を使ってしまっていた。当然、傷口は拡張し、当然のように流血は起こる。更に、冷静なようで冷静でなかったこの過去の彼は、よりによって、掌が切れた方の手を、彼女に差し出して、彼女の前に、血でべっとりの右手を、掴め、と晒した訳である。
(普通、この年頃の女の子なら、これ位の血量、どうってことない筈だが……。あぁ、そうか。彼女自身でない他者である俺が流したからか、それに加え、彼女はこの傷は、俺が勝手に負ったものとは考えていない。そういうこと、か……。はは……)
「はは……」
過去と現在、同じように、自嘲するするかのように、彼は笑う……。
(が、この子がこのことで俺のことを嫌悪しないのが、せめてもの救い、か……。救い、ねぇ……。そして結局、俺は、自身の為に唯、逃げ、忘れることを選んだ、か……。だが、それだと……理由としては弱いような……。……。くそっ!)
そして、差し伸べた手を引こうとしたところで、
(……)
彼は自身の真の過ちを、知ることとなった。
彼女の足元。そこから広がっていく、色の付いた液体。それは、黄色く、少しばかりの湿気と共に濃厚な匂いを彼に向けて漂わせてくる……。
慌てて引くことすらできずに固まった彼の靴を、それは湿らせた。
何とかそれを記憶しないように、堪能しないように、彼は意識を逸らそうとする。過去での彼も、今の彼も、同様に。
しかし、彼にそうできる筈も無かった。もう手遅れだった。
(間違い無い……。決め手は、これ、だ……。これを含め、ここから……。何故なら俺は、……このとき、これを臭いでなく、匂い、と表現している。つまり……、手遅れ、だ……。)
すると、彼の手が動く。
(ん……?)
血に塗れてない方の手が、顔に迫ってくる。彼女から背を向け、逆側の壁に向かって行った彼は下を向き、口を開き、その手を喉奥へと突っ込んだ。
ゴッ、
「ごぉっ、ぐほぉええええええええ」
(ほう。この時の俺よ。これはお前のこのときにおける唯一の英断と言えるだろう。はは、苦しいのなんてどうってことない。あの匂いを記憶してしまう位なら。それだけは絶対避けないといけない。誰が痴漢か分かったもんじゃない……)
彼にとって、それが、臭いでなく、匂い、と判定が出た地点で、どうしようも無くなった筈だったというのに、更に強烈な臭いによる上書きという妙手で致命的な罪を背負うことを回避することを達成……できる筈もあるまい。
彼はこの時の記憶、そして、その導火線となる記憶を纏めて、葬ることを選択したという地点で、間違い無く、彼女のそれの匂いを記憶しないことに失敗している。
そして、彼がそれの匂いを記憶するしないに関わらず、彼女が漏らしたという事実は消えはしない。
彼女の記憶を消せなくとも、せめて、自分のものだけでも。そうすることで、彼女の恥を知るのは、彼女自身のみになる。
で、彼の記憶消去で事が一先ず解決したことにされたということは、彼はこの後、ちゃんと、次の駅で駅員や他に乗って来るかも知れない客たちに、それらを完全に隠蔽することに成功した、ということでもある。
(ということは、俺は、……拭くのか……。顔を近づけ、より濃厚にその匂いに包まれて……。……そりゃ、消すしかない、訳だ……。なら、母ちゃんはどうして、俺に、消すべきでなかったと言ったんだ……。そんなのどう考えても間違えだろうが……)
そして、再び彼は動き出す。
ピチャッ、ピチャッ、――
彼女をそのまま通り過ぎて、寝かせてある痴漢男の元まで進み、立ち止まる。痴漢男を引き渡す準備を整える為に。というのも、彼は痴漢男を気管を塞いで気絶させた訳ではない。そう長いこと、気絶状態を保てる訳ではない。恐らく、引き渡しまで気絶は保つと思いつつも、念の為に、と、拘束を始める。
彼は優先順位をちゃんと考えていた。
まず第一に、痴漢男が今後彼女に対して再び危害を加える可能性を潰す。それを何よりも優先して避けなくてはならない。第二に、彼女が漏らしたという事実の隠蔽。第三に、呼ぶ駅員や警察を女性で統一すること。第四に、車両に客を入れないこと。
一つ目は絶対に成さないといけない。二つ目は、彼女には酷だが、できる限り、最善を尽くすという形でになる。三つ目は二つ目が、四つ目は三つ目が上手く成されなかったときにやるべき対策。
彼女が漏らした痕跡を消すことは非常に難しい。この電車にはトイレなんて備えられていない。つまり、水で洗い流すという手段は使えない。何かで拭き取るという手段を取るとしても、匂いは残る。換気しただけでそう容易く匂いは飛んでくれはしない。
一方、痴漢男の拘束は容易い。
片方の手は折ってあり、もう片方の手も、親指を折ってある。
だから、親指の折れた手を胴体に固定してしまえばいい。両足を縛るように結んでやればいい。外せはしない。
ビリリリリ!
(そう簡単に気の動転から正気に戻れる筈など無い、か……。買ってまだ一月経たない詰襟の袖を引き裂く、か……)
それを使って痴漢男の折れてない方の手を肘を曲げさせた状態で括り付けるように固定する。そして、残った胴体の布地で、痴漢男の胴体とその曲げた腕を括り付ける。
続いて、痴漢男の腰をまさぐり、ベルトを外す。それを痴漢男の両足足首に巻き付け、締め上げる。更に、彼は自身のベルトも取り外し、両足大腿に巻き付け、締め上げる。
(俺が今思っているよりも冷静だったのか? 益々分からない。だが、そんなことよりも、この子が漏らした痕跡、一体、どうやってごまかすつもりだ? あのときの、痴漢冤罪から助けてくれた後のこの子の俺への好感度からして、間違い無く、周囲には一切バレていない。だから、必ず、何か、打開策を打った筈だ。そうで、あってくれ……)
次の駅への到着は、後五分程度だった。線路の周りの森が終わり、駅のホーム近くに接近し、人の目に付く可能性を考えれば、最後の一分は危うい。実質、後四分程度。
紆余曲折しながらも手際よく進んだにも関わらず、そう十分な時間は残っていなかった。
ピチャッ、ピチャッ。
未だ気を失っている彼女の前に立つ。
「着替え、させなくては……」
(何を言ってる……。正気か……? な、訳ない、か……。追い詰められている。切羽詰まっている。もう終わった過去の出来事として見てしまえている今の俺とは違い、この時の俺は、自責に押し潰されそうになっている。やり遂げられなければ、もう、自分を許せない。そんな感じだ……。だからといって、それは、駄目だ、絶対に、駄目……だ……)
彼はそう、思い詰めた顔をして呟く。片手に、三両目から取ってきた、自身の体操服を持って。
(待てぇええええええええ、止めろぉおおおおおおおおお!)
目を逸らすこともできず、嗅覚を封印することもできない。唯、定められた動作が行われるのを、追体験することしか許されていないのだから……。




