第10話 咎負いし偽物の英雄 Ⅰ
一方その頃、少年の追体験の世界の外、現実。
彼の体は手術台の上であり、青褪めて、体中から発汗している。悪夢にうなされるかのように、追体験に恐怖している。
「それでも、もう退路は断たれている……」
追体験中に新たに思い描いた心の声が、言葉になって漏れていた。
装置は一度作動させてしまえば後は自動制御である為、母親はアーロンチェアーに乗って奥から出てきており、彼の傍で、彼の口から漏れたその言葉を聞いていた。
(ったく、あんたは……)
だからだろうか。
「そう。あんたは忘れるべきではなかった。あんたは責任を取らないといけない。二重の意味で。あの子に。女に恥をかかせるなんて男としてもっての他なのだから」
(こんなの、男としての当然の嗜みでしょうがぁ……)
眠っているに等しい彼に向かって、今言うのだ。彼の意識にその言葉が届かないと知っていて。だからそれは彼のある種の愚かさに対する愚痴でしかない。
「あんたは、確かに頭が回る。冷静なら、並みの大人なんて物ともしない位に。けれど、こういうことには疎い。呆れる位に疎い。図体ばかりデカい子供と何ら変わらない。昔のあの人にそっくり。で、女性の容姿の好みは逆、と。……。もしかして、私のせい……? はぁ……」
母親として、息子である彼に向ける、愚痴。
(普段から弄り回し過ぎたかしら……?)
スッ、トン!
アーロンチェアーから跳ね降りた母親は、座部の高さを最大に調整し、
ガッ、ガラララァ。
地面を蹴りながら座部に両膝を乗せて中座し、肘立ての片方に頬杖をつきながら、彼のすぐ傍、右側上からその顔を覗き込む。
「ちゃんと、気づいてきなさいよ」
そう耳元で優しく囁き、後はじっと、暖かく見守るのだった。
そして、それに応じるかのように、彼は深く、その苦難の再演に没入していくこととなる。その記憶を捨てた核心へ、迫り始める。変えようもない過去に苦悩する。
目前の扉の窓から見えた光景。それが彼の動きを止めた。
(成程、やはり、ここか)
息を潜め、気配を消し、そろりと、窓の先にある光景を凝視する。それは、彼にとって奇妙な光景だった。
二重の視点、二重の記憶、二重の感情。見えているそれは、彼にとって予想の範疇だったとはいえ、それを受け取る彼自身が、普通でない。
それは、厳密には追体験ではない。濃厚な重い返し、精度が限りなく高い思い出し、過去の再現、でしかない。機械仕掛けの過去の記憶の再生、再現。
だから、彼は、そこで自らの視点と過去の自身の視点の両方でその過去を体験しながらも、彼の頭は、脳は、一つ。
それは、最早、主観ではない。二つの定点からの観測。それを束ねた、客観、俯瞰。それでいて、全ての責は自身に由来する。だからこその、俯瞰する主観。だから彼にとって、それはまるで他人事かのように乖離しつつも、このときまで覚えが無くとも、それは自身の因果であるということを否定できないのだ。
その過去を、過去のその時以上に濃厚に味わいつつも、それは過去の終わった出来事であると、映像解析でもするかのように、リアルタイムで考察する。
(車両二両目。いるとしたらここしかなかった。この三両列車にはトイレなどは備え付けられていない。最後尾である三両目にはいなかった。だから、当然、ここしかない訳だが……。やはり、きつい……。直前に覚悟し終わっていなければ、残る追体験の尺は無為、それどころか、害悪でしかなくなっていただろう……)
それは、たった二人だけの車両。一人は被害者たる例の女の子。もう一人は、加害者たる痴漢男。近くには、彼女の鞄が転がっている。
恐らく、彼女は突然襲われたのだろう。
痴漢男が上で、彼女が下。痴漢男は彼に背中を向けている。彼女は足を向けている。だが、少年の側から、虚ろな目をしている彼女の顔と、汗滴り、脈動する首元がよく見えていた。
彼女の首筋に当てられているのは、ナイフ。それが、彼女が積極的に抵抗できない原因だろう。
しかも、そのナイフは、軍用のしっかりとした造りのもの。
(つまり、これは、計画的犯行……。そして、ここにきて、加害者の姿が認識できることが、やるせなくて堪らない……)
それを結びつけるかのようにその男の姿を認識するのは初めてだが、この地点での彼の記憶が、今の彼に、その男が自身の逃した痴漢と同一人物であると伝えてくる。
最初に遭遇したときの姿も、同時に記憶として浮かび上がってきたのだから。
二度目の遭遇であるこの時の痴漢男の姿はみすぼらしい限りである。七三分けの光沢のあった銀髪はぼさぼさに痛んでおり、その目は焦点が合っておらず充血しており、目下には深い隈。手や顔の皮膚は生活の荒れや破綻があったのを示すかのように粉吹いてささくれており、明らかに高級な黒いスーツは皺・ほつれ・擦り切れで酷い有り様だった。
咽るような、不摂生に因る体臭。それは加齢臭混じりで、それでいて、酒類の臭いが混ざっていないことが、狂気を感じさせて、恐ろしい限りである。
が、彼にとって、痴漢男のそんな状態など、どうでもよかった。彼の頭の中にあるのは、彼自身のことと、自身の不手際のつけを代わりに支払わされているかのような彼女のこと。
(最悪の道筋では無い……。現に、彼女には、後戻りできない出来事があったような痕跡は見られない。着衣の乱れがあるとはいえ、それは彼女のささやかな抵抗の結果だろう。この男に衣類を割かれたり、恥部に手を伸ばされている訳でも無い。そういう臭いがしないから間違い無い。とはいえ、俺の鼻も、この状況下ではかなり怪しいが……。この男、不衛生過ぎる……)
音は彼のいる車両の側へは漏れて来ない。扉に耳を当てても、電車の振動音が邪魔をする。それに加え、彼自身の心拍が、意識の集中を阻害する。
(俺にとって都合の悪い方向に偏っている……。それは確かだ……。そして、今の俺には余裕はそうない。過去の俺はここで頭を沸騰させたかのように思考を放棄、と……。それでいて、変な躊躇みたいなものが、衝動で動かないように繋ぎ止めている)
それを自覚すると、視界が揺らぐ。どうしようもないような気持ち悪さが、腹の奥底から湧き上がってくる。
まるで、今まさに、自身がそうなっている、その場で、行動する力を持っているかのような錯覚。それでも、彼は冷静だった。冷静にならざるを得なかった。
そうしないと、潰れてしまうと分かっていたから。この過去を、無責任に、逃げるかのように、一方的に無かったことにしてしまったから。
だから、崩れ落ちることは許されない。彼にはその資格がない。思い出すと決めた以上、再度逃げることなど、彼が彼自身を決して許しはしないのだから。
その認識が、汗を、拍動を、嘔吐感を、震えを、意識の半喪失を、衝動を、既に終わった過去として、切り離す。
(……。過去のこのとき抱いた気分より、ずっとずっと、欝々《うつうつ》しく、重い……。思い出すのが、今であって良かった……。もし、あの子に言われて空白に思い至った際に再生されたなら、こんなものでは済まなかっただろう……。そうなれば、また、俺は、逃げたのだろうか……)
そうして彼は、今の自身に罪深くも安堵しながら、過去の自身を俯瞰しているのだ。




