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すれちがい、恋初め、恋結び、 ~ほろ苦くも甘い初恋~  作者: 鯣 肴
第一章 助け、助けられて、彼は思い出し、彼女は恩返す。
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第1話 春の桜散らす雨の日のこと

 少々雲は多めではあるが晴れた春の朝。駅へと真っ直ぐ続く一本道を、スーツや制服を着た人々が進んでいく。通勤通学時間帯に入ったばかりである為、人の数はまだまばら。だから周囲の風景がよく見える。


 道の上空と左側には江戸の頃から植えられているシダレザクラが。今年は咲いてから雨や強い風に見舞われていない為、淡桃色の花の屋根はこれ以上になく見事なものとなっている。シダレザクラの更に左側には、緩やかな土手と穏やかな川が。道の右側には近年植えられたイチョウの木が青々とした葉を茂らせている。


 その道は、歩行者専用の道となっているので、車は通らない。川のせせらぎが耳に届く位に物静かで、空気は澄んでいて、時間がゆっくり流れているような錯覚すら感じられる。


 だからそこは通勤通学路なだけでなく、景観の良い散歩道でもあった。


 そしてこの場所は、最近合併によって名前が変更されたこの町の名前の由来となっている。


 春秋町せいしゅんちょう


 そう、名付けられている。






 誰しもが真っ直ぐ駅へ向かって進んでいく中、一人の少年がその流れから出て、左に逸れていく。


 やけに恰幅の良い少年だ。それに、凛々しい感じの老け顔をしている。


 顔は大きくはなく、肩幅のせいか寧ろ小さめに見える程である。あごが太め、一重瞼ひとえまぶたでありながら目力は強い。前髪は額がすっぽり出る程に短く、髪全体の毛先を左斜め上にかき上げるように流した黒い短髪をしている。不自然にならない程度に整えられた眉は少々太め。


 そんな、少年と言うには程遠いような彼ではあるが、老け顔という表現の通り、彼の実年齢はその顔付きから推測されるよりも下である。実のところ彼は未だ高校一年生でしかない。彼が着ている幾つか隣の町の高校の制服である詰襟に、傷や毛羽立ちや色褪せやほつれが見られないことがそれを証明していた。


 暫くはこの少年について見ていくことになる。理由は単純。彼はこの物語の主人公なのだから。






 彼は、シラレザクラのうちの一本の根元で立ち止まった。手を伸ばす。上へ。


 桜並木の桜のうちの一本の根元に立ち、両足を肩幅かたはばに開いて立ち、桜の木の花しだれを見上げるように接視している。


(未だ桜は残っている。入学式から一週間も経っていない為、桜は散っていない。当然、か。早かったからな、入学式、普通よりも)


 そして、それをつかみ、鼻元へ。


(ほんの僅か。錯覚さっかく見紛みまがうかのような、かすかなにおい。優しい甘さと、薄いが確かに存在する淡泊な甘さ、そして、それらをまとめ上げる苦みとまではいかないコクのような香り。それらが混ざり合った、弱弱しくも確かに存在している、匂い。だが、それがいい。そして、恐らく、)


 花越しの空に焦点を合わせた。それは春だというのにいつの間にか黒く雲掛かってきていて、


(今年は今日で見収め、か。家を出るときはそんな感じじゃなかったが)


 一雨来そうな気配だった。


 トッ、タッタッタッタッ――


 かさなど持っていない彼は駆け出した。






 ザァアアアアアアアア!


 あっという間に本降りになっていた。それが、その春振った初めての、雨。桜散らすことになる、雨。


 列車の到着を待つ人々の中には、彼と同様に傘を持ってきていなかったであろう者たちがちらほら見られる。


 電光掲示が、現時刻は07:30であると示している。


(急にくもり出したからなぁ……。にしても、この時間の割には随分混ずいぶんこんでいる。座れるかどうかはかなり際どいところだろう。それはいいとして、問題は、山岬町駅やまみさきちょうえきで降りてからだ。少しは雨足がましになってくれていればいいが)


 そうしていると、電車が駅へと入ってきた。


 スゥゥゥ、ガタン! スゥゥゥ、ゴトン。


(座れそうにない、か。予め乗っていた人の数が思っていたよりも多かった。雨が降ると、こうなる訳、か。どちらにせよ、この時間は雨であろうがなかろうが人が多い気がするが、にしても酷い……。湿気も手伝ってか、居心地はすこぶる悪い。明日以降、出る時間もう少し早くすることも検討しなくては)


「春秋町、春秋町。詰めてご乗車の程、お願い致します。次は、山霞やまがずみ、山霞」


 そんなダミ声の車掌しゃしょうアナウンスがいつも通り流れる中、いつもよりも三割増し程度の人波に流されつつ、彼はその列車に乗り込む。


 ギィィ、ガシャァァァン! フゥオオオオンンンン!


 いつもよりも時間を掛けて閉まったとびら。そして、列車は走り出す。






 ガタンゴトン、ガタンゴトン――


 列車が一定のリズムで音を立てながら走行している。それに、吹きつけ、車体に当たる雨の音が混じる。


 彼は扉近くに立ち、鞄を足元に挟んだまま、左手でつり革をつかんでいる。右手で青い無地の薄手のハンカチを持ち、鼻を覆っている。普段よりも蒸し暑く、それによる周囲からの酷い汗臭さと香水臭くささに耐える為に。


(ん……?)


 ハンカチを鼻に当てる際に見えた、自身の右手の掌の傷。少年はそれに心当たりが無かった。


(親指と人差し指の間、そこから、斜め下に向かって掌を横断するような浅く長い切り傷。そう古くはない。比較的新しい。一週間位前に、気づけばそれは付いていた。もう、痛みはない。そんな目立つ傷だというのに、どうやって付いたか覚えていない、もしくは気付かないうちに付いていた。……。覚えていないということは、どうせ大したことではないだろう)


 意識を外に向けると再び臭さが鼻についた……。気を紛わせようと、考え事をしながら車窓から風景を見ているが、期待した効果はほとど無かった。それは魅力みりょくなく、この数週間で見飽きてしまった風景なのだから。


 半ば山の中を突き進んでいるかのような感じであり、絶景などありはしない。そして、代わり映えしない景色が、駅付近以外は続くのだから。


 彼の住む春秋町から、私鉄である山河鉄道さんがてつどうの各駅停車で東へ三駅分。そこがこの列車に今乗っている大概の人々の目的地である山岬町やまみさきちょうである。


 30分程度の乗車時間だが、山林あり渓谷けいこくあり田畑ありの片田舎である故に、区間距離は長く、道は険しく、迂回路うかいろばかり。と、徒歩や自転車で通うのは現実的ではない。同じ理由で路線バスも適さない。


 列車の本数は、通勤通学時間と帰宅時間は一時間に四本、列車の本数は一時間に一本である。通勤通学の時間帯ですら、各駅停車の電車しか最寄り駅には止まらない。それも三両編成のものしか止まらない。他の時間帯だと一両編成になる。


 なので、人の最も多い時間帯であれば、座るどころか、車内に入り込むのも一苦労。それ故にピーク時の列車の乗車率は物凄いことになる訳である。


 彼は、標準的な生徒の登校時間の二本早めの電車に乗っているのだが、雨が降るとそれでもすし詰めは回避できない、と、この日身を以て知ったのだった。


 そんな満員電車で最も気をつけないといけないこと、それは、痴漢ちかん。男性側の場合は冤罪えんざいを、女性側の場合は被害者になることを警戒しなくてはならない。


 特に、こういう、車両両側面に向かい合うように長椅子型の座席が配置されているタイプの車両での満員時は、危険性が高い。


 そして、彼は正に今からそれに巻き込まれる。当事者として。それは、列車が、彼の目的地の一つ前の駅から出た直後、起こった。

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