深夜の来訪者
「大将、まだやっている?」
時刻は深夜一時を回り、そろそろ閉店準備を始めようとおでん屋の店主がおでんに蓋をしたところへ美しい女性が暖簾を潜った。
「……へい、らいっしゃい」
そっとおでんの蓋を開けて女性の注文を窺う店主に、彼女は「熱燗とだいこん」と短く答えた。
具材は残り少なかったが、彼女の注文には応えられそうで内心ほっとした店主は、その顔を見て一瞬、ぎょっとするが、すぐに無表情に切り替える。
「……へい、お待ち」
熱燗を先に出し、続いてだいこんに汁をかけてそっと差し出す。顔には出さないが、緊張で手が震えていないか心配だった。
熱燗を一口ずずずっと啜った女性はほぉっと安堵のような溜息を漏らし、どこか懐かしむような優しい表情を見せる。
「勇者ちゃんも色々苦労が耐えないのね」
「……へい」
まだ数回しか来店されたことのない超有名人で、まともに話したことがない彼女がそんなことを言いだすのだから、店主は珍しいと感想を抱きながらもいつものように短く返事をした。
聞き上手とはいえ、これほどの相手と直接会話するのは緊張する。
「でも、彼女には必要な試練なの。私たちが過去にそれを乗り越えたように、これから勇者ちゃんにはもっと苦しいことや、辛い現実と向き合わないといけないときが来る。私はあの子なら大丈夫と思って、託したつもりだったけど、やっぱり無責任だったかなと最近は思うようになったのよ」
店主には彼女が何を言っているのか、本当の意味で理解はできない。自分如きが彼女の何かを理解するなどおこがましいとさえ思う。
しかし、きっとそれだけの旅をしてきたのだ。絶望を希望へと変える旅を最後まで彼女が諦めなかったからこそ、今の時代があると知っているから、黙って彼女の台詞に相槌を打った。
その旅の終点を迎え、たくさんの反感を買いながら凱旋する彼女を見たのは店主がまだ故郷を離れて上京したばかりの頃だった。
自分よりも一回り若い女性が世界中から批判され、凱旋だというのに石を投げつけられても表情を変えず、毅然とした態度で官邸へ歩いて行った姿は今でも忘れられない。
当時は居酒屋などで彼女へ対する罵詈雑言が酒の肴になった。今は勇者の体たらくに対する侮辱が酒の肴になっている。いつの時代も損をするのは優しい心を持つ者ばかりだ。
そんな世の中をずっと見続けてきた店主は追加の熱燗を注ぎながら、静かに祈る。
どうか憐れな宿命を背負った彼女たちに神の祝福を。