魔王の目的
真っ白なリムジンに乗せられ、高速道路へ入ったところでようやく勇者はその不機嫌そうに歪めていた唇を開いた。
「あんた、何を企んでんの?」
視線の先、運転席を背にする形で高級そうな(この皮の質感、何の皮なのか分からないがきっと高い)ソファの最奥に座り、ニコニコとわざとらしい笑顔を貼り付けた魔王は言外に何のことですかと首を傾げてみせる。先程の刑事とのやり取りといい、この白々しさが勇者の逆鱗をいちいち刺激してくる。
一発殴ってやらないと気が済まないが、魔王の隣に寄り添うように座る美人秘書が視線でこちらを威圧しているのでそれもできそうにない。眼鏡の奥で細められた碧眼は「その気になればお前のような小娘などいつでも塵にしてやれるのだぞ」と物語っていた。
学生時代は喧嘩で負けなしの不良少女だった勇者でも分かる。この美人秘書を敵に回すのはまずいと。
「ミランダ、お客様にそういう目をするのは感心しないな」
勇者の質問には答えず、魔王が貼り付けた笑顔のまま秘書を諭す。声自体は柔らかいものだが、その背後に纏う空気を察したミランダは背筋を伸ばして顔を引き締める。
「も、申し訳ありません! しかし、彼女は我が社に害を……」
「怪我人はいなかった。それに彼女は僕を訪問してくれたんですよ? 僕のお客様に対しての失礼は赦さないよ」
「は、はい! 出すぎた真似をいたしましたことをお許しください」
「分かってくれたならいいんだよ。君はいつも僕のために頑張ってくれている。今回も僕を思ってのことだって分かっているつもりだよ」
「あぁん! 私のような者にそのようなお言葉を……恐悦至極に存じます!」
……なによ、この茶番。
目の前で繰り広げられる惚気に質問ごと無視され続けている勇者は怒りを通り越して呆れてしまっていた。
かつて世界を恐怖のどん底に陥れた魔王の一族が目の前で惚気ている。もし、聖剣エクスカリバーが封印されてさえいなければこの世界ごとぶった切ってやりたい。
魔王がこちらの質問に答えるつもりがないと判断した勇者は視線を戻し、ガラステーブルの奥に並んだ高級品の洋酒を眺めることにした。
正直、お酒なんて飲んだことはないが、並んでいる洋酒がすべて彼女の手の届かないような高級品であることだけは分かる。
「お好きなのをどうぞ。お口に合えばいいのですが」
こうなったら自棄だ。
「一番高いのをちょうだい」
「ミランダ」
視線で促されたミランダは静かに立ち上がると、数ある洋酒から比較的小さなボトルを取り出してグラスへ注ぐ。
説明はいらないでしょうとこちらに視線を向け、これを飲んだらさっさと消えなさいとも威圧してくる。もちろん、口には出さないが。
「先代が築き上げた世界平和を乱すつもりはありません。これからは魔王も勇者も手を取り合って生きていく時代じゃありませんか。友好の証として乾杯でも……」
魔王の台詞を無視して飲み干す。
魔王と乾杯? あんた、あたしのことをバカにしてんの?
どや顔を向けたが、鼻から抜けるアルコールの強さに一瞬、意識が飛びそうになった。お酒の味は分からなかった。
「……この小娘がぁ! ブッ殺されたいみたいね?!」
「ミランダ」
「はっ、申し訳ありません!」
尋常ではない殺気は一瞬で霧散する。まともにやり合えば一瞬で殺されるような強者が今はこちらに手を出せない。どんな失礼をしても許されるというのは愉快だった。
悔しそうに顔を伏せるミランダの横で魔王がまったく笑顔を崩さないのは気に入らないのだが、しばらくはこの秘書を苛めて鬱憤を晴らしてやろう。
「つーかぁ、何なのぉこの秘書ぉ? 超失礼なんですけどぉ」
わざと癇に障る口調で刺激すると、俯いたミランダの肩がプルプルと震えた。
我慢してる、超我慢してる!
「それに小娘ってさぁ、あたしとそんなに変わらないように見えるんだけど」
「彼女はこう見えて先代の近衛隊長をしていたんですよ」
「え、マジ? いくつなの?」
「二百四十六歳よ」
「はぁ?! ババアじゃん!」
ブチッ! 何かが切れた音がした。
しかし、ミランダが立ち上がる前に魔王がそれを制止して答える。
「彼女は長寿の種族でね。平均寿命が九百歳だから、人間でいうと今は二十四歳くらいになる。あまり僕の可愛い秘書を苛めてやらないでくれ」
膨れ上がった殺気が霧散し、ミランダが恍惚に頬を染める。つまり人間の十倍の寿命だということは理解できた。
しかし、ということはどこからが子どもでどこからが大人になるのだろう?
まさか百歳を超えてもまだ幼女のような姿だったのだろうかと些かの疑問を抱いた勇者だが、それを訊く前にリムジンは目的地へ到着した。
運転手(よく見たら結構イケメンだった)が扉を開けて降車を促したので、仕方なく車から降りると、そこには午前に彼女が襲撃した魔王の会社、平和グローバルグループの本社が聳え立っている。
東京にあるスカイツリーより頭一つ分低い超高層ビルは、人間界への配慮とリスペクトであえてその高さに留められたとも言われているが、驚くべきはその地下の深さだ。
噂に聞いた話によると、その地下は魔界まで続いているというのだから想像を絶する程深い。
魔界というのは別世界だと思っていた勇者はまさかこの人間界の地下に魔界が存在していたなんて知らず、高校の受験を受けたときに一般教養問題で出題されたこの問いに対して「魔界はどっか遠いところ」と珍回答を記入した。
それでも合格したのは、そこが職業別の養成学校という顔を持っていたからだろう。
並外れた身体能力を持つ彼女は当時から有名だったため、要注意人物として監視下に置きたかったというのが学校側の思惑だったことに違いはない。
内申票はその生徒のステータスを表し、卒業時の勇者のステータスは上から順番に知力7、力999、魔力30、守り700、素早さ830、運のよさ6となっている。
頭と運が絶望的に悪い彼女だが、卒業後の進路希望で家計状況の悪さから就職を希望して、数ある職業の中でハローワークから適正ありと紹介されたのが勇者だった。
聖戦が終わってから二十年以上不在だった勇者が現れたことで、当時は騒がれたものだが、勇者の仕事というのは特筆するようなものがなく、迷子の猫を探したり、お遣いを頼まれる程度。
本来は魔族と人間の諍いが起こった際、それが戦争の火蓋とならないように仲裁し、調律することが中心業務なのだが、長年不在だった勇者の仕事を代行する企業として設立されたこの平和グローバルグループによって彼女の仕事は奪われた。
その後、幅広い分野で活躍する平和グローバルに彼女が逆恨みの念を持つのにそれほど時間はかからなかった。
今朝の本社襲撃も先日、ようやく緊急で入った仲裁依頼を先回りした平和グローバルの社員に処理されたことが原因なのだ。
お遣いでの報酬は微々たるもので、その日暮らしをするのがやっと。家賃は三ヶ月滞納しているし、辛うじて水道、光熱費を捻出する日々に嫌気がさして勇者はテロを起こしたのだが、まさかその元凶である魔王にこうして救われるとは思ってもいなかった。
後ろから降りてきた魔王にエントランス前で待機していた社員が一斉に頭を下げる。
「みんな、ご苦労様。今日も終業まで一緒に頑張ろう」
社員が作ったお辞儀の道を堂々と通りながら魔王が朗らかに笑う。その一歩後ろをミランダ、そこから三歩離れて勇者が続いた。
「あれ、君は一昨年入社したアークデーモン君じゃないか。出世したんだね、これからの働きに期待しているよ」
名前を呼ばれたアークデーモンは一瞬、顔を上げると再び深々と頭を下げる。
「おや、スライム部長。もう定年前なんだからわざわざ出迎えなんていいのに。お体は大事にしてくださいね」
少し年季の入ったスーツのスライム部長はフガフガと頷いた。
こんなやり取りを一歩進む度にするから、勇者はこのまま魔王を追い越して先にロビーへ向かおうかとも思ったのだが、ミランダが三歩以内に入ると殺気を放つのでそれもできず、渋々付き合うことにした。
結局、一行がロビーに到着したのは車から降りて五分後になった。
こんなことを毎回やっているのだろうか、この社長は。出迎えに時間をかけるくらいならその時間を仕事に使えよと思う勇者だが、正直この会社の業務というものがよく分からないので口にはしないことにした。
大企業ってこういうものなのかしら。
ロビーの受付嬢(あ、右の女性はあたしが襲撃の際に人質にした人だ)に挨拶した魔王はいくつか言葉を交わすと小さく頷いてエレベーターのボタンを押した。
「ミランダ、受付にも通したとおり、午後の予定はすべてキャンセルだ」
「はい、かしこまりました」
たった一人の小娘のために午後の予定をキャンセルしてくれたことには驚いたが、彼女は「ざまぁ、これで奴の信用は落ちた」としか思わなかった。
器の小さい勇者がそこにいた。
エレベーターが上昇し、外に顔を向けるとガラス張りの奥には町を一望できる景色が広がっている。
高所恐怖症の人はこのエレベーターには乗れないだろうなと思ったが、後に聞いた話によると、操縦盤の一番下に黒い四角のマークがあり、それを押すと窓ガラスが暗くなり、ブラインドに変更することが可能だそうだ。
親切な造りに皮肉を漏らしたのは別の話として、一分ほど外を眺めているとポンッという音と共にエレベーターは目的の階へと到着した。
扉が開くと広い客間があり、豪華なソファが二組、テーブルを挟んで鎮座している。奥にはエレベーターに向き合う形で立派なデスクがあった。その背にはエレベーターと同じガラス張りで町が一望できるようになっている。
デスクの上には社長と書かれた三角錐。
なるほど、ここが奴のハウスだったのね。
「ああ、高いところが苦手なら窓の外の景色を消しますが……って、エレベーターでも平気そうでしたね。ちなみに、この部屋は僕の許可がない限り入れないので、次回いらっしゃるときは前もって連絡をいただければ歓迎しますよ」
ちっ、じゃあ午前に襲撃したときはどの道魔王には届かなかったということか。
昔と同じで魔王の間への道のりは一筋縄ではいかないものだ。
豪華なソファに案内されて腰をおろすと、魔王はテーブルを挟んで向かいのソファに座った。
「さて、先程の質問に答えると、僕はあなたに仕事を依頼しに来たのですよ」
「断る」
勇者の即答にミランダがメモ帳に記載しようとしていたボールペンをバキッとへし折る。
どす黒いオーラを放つミランダを見ないように視線を逸らし、勇者は続ける。
「今まで散々、あたしの仕事を奪ってきたあんたが今さらになって仕事の依頼をしようだなんて虫が良すぎると思わない?」
そのせいでパンの耳を貪る生活を余儀なくされた。あの惨めさをこの男は知らないからそんなことが言えるのだ。
勇者さんも大変なんだねぇと同情され、望まない形でパン屋のおじさんと知り合いになってしまった屈辱は簡単には払拭できない。
「ええ、仰るとおりです。長年、不在だった勇者の業務を我が社が請け負っていた経緯から、顧客側が選り好みと言うと語弊がありますが、やはりいきなり取引先を変えることに躊躇されていたこともあり、先日のブッキングの件も依頼人様に確認したところ、両方に依頼を出せばどちらかが解決してくれるという安直な理由でした。こういう言い方はあまりしたくはないのですが、我が社には実績があり、勇者さんには目立った活動記録が報告されておりません。それが原因で現状のような悪循環が起きていると僕は考えます」
今のままでは顧客は信頼を置ける平和グローバルに依頼をすることに変わりはなく、そのため実績が欲しい勇者には依頼が舞い込まない。どう考えてもジリ貧だ。
「とはいえ、組織単位で対応していた業務を勇者さんがいるのでそちらにお願いしますと投げてしまえば、勇者さんに依頼が殺到して負担しきれなくなる。数を調整しようにも依頼人様のご意志が最優先なので、そちらに仕事を回すには完全に我が社が仲裁業務から手を引かないことには実現できません。現実的ではない。この問題を現状のままで解決しようとすれば共倒れになるリスクの方が高いんですよ。だから僕はあなたに依頼したい」
魔王は立ち上がると深々と頭を下げた。
「今までのことを水に流して欲しいなんて都合の良いことは言いません。これは僕が背負うべき罪であり、あなたに許してもらえないことがその罰なのだから。ですが、現状を打破するためにはもうひとつしか方法がないのです。どうか、我が社へ来て仲間として仕事を手伝っていただけませんか」
理屈は分かる。双方が損をせず、得をする最良の選択だということも理解できる。
だが、理解と納得は別なのだ。
彼女は既に認識していた。勇者と魔王が分かり合うことなど不可能なのだと。
しばらく黙考した勇者は魔王と手を組まなければ自分の未来がないことへの葛藤を済ませ、静かに口を開いた。
「もし、あんたの提案に乗るとして、いくら出すつもり?」
「それは依頼人様の報酬にもよって変わります。他にも働いている従業員がいる手前、勇者さんだけを特別扱いするわけにはいきません。ですが、最大限の譲歩はお約束します」
具体的な金額には触れず、誠意を示す。何て頭のきれる男だろうか。
だが、それでは足りない。
「これは交渉じゃない、命令よ。さっき車の中でお酒をもらったけど、実はあたしまだ十九歳なの。つまり、未成年へ飲酒を勧めた罪があんたにはあるのよ。警察署へ迎えに来る前にあたしの素性をもっと調べておくべきだったわね」
ここへきて勇者が切り札を出す。勇者の誕生日は来月で二十歳になる。そこをよく調べず、卒業した年で計算したのが仇になった。
勝ち誇った笑みに魔王が苦笑を漏らすと、勇者はそれだけでもこれまでの苦悩が些か報われたような気がした。
しかし、魔王も会社を任されて従業員の安定した生活を約束している立場上、ここで引き下がるわけにはいかない。
「おや、それは僕の配慮が欠けていました。申し訳ありません。ですが、よく思い出してください。僕はお好きなのをどうぞと言っただけで、一番高いのを開けなさいと言ったのは紛れもなく勇者さんです。つまり、僕を告発するということはあなたも漏れなく出頭する必要があるということ。これでは逆転の切り札とは言えませんね」
あたし、こいつのこういうところ嫌いかも。
「少し考えさせてもらうわ」
「ええ、即断してもらおうとは思っていませんよ。良い返事を期待しています。あ、それと次回はちゃんと事前に連絡くださいね? こちらが僕の名刺です」
名刺の作法なんて知らない勇者はそれを片手で奪うように受け取り、適当にジーンズのポケットにねじ込んだ。本当はこの場で破り捨ててやりたかったが、自分の生活がかかっていると思うと無下にはできない。
もうパンの耳生活に戻るのは嫌だ。
取調室で食べたカツ丼の味が彼女の恨みを凌駕した瞬間だった。
「破り捨てられるかと思いました」
くすくすと笑いながら魔王はデスクへ向かい、引き出しの中から正規雇用に関する書類を持ってくる。
まだ返事もしていないのに気が早いとは思うが、給与関係の事項もあるので是非にと渡され、この日はお開きとなった。