スズとクロガネ
幼い頃のスズの記憶は、いつも同じものだった。
真っ黒な部屋。床も壁も真っ黒。並び立つ高い円柱の先も真っ暗で、見上げても果てが知れない。
唯一、壁に四角く空いた窓から差し込む光だけが、太陽の出ている間だけ、この〈塔〉の中を照らす。
スズの知る限り、彼はいつもそこにいた。
母さんと同じ、ダークブラウンの髪を日に透かして。
今日も。
「ねぇローラン」
「どうしたんだい?」
柱の陰からスズが名前を呼べば、彼が――ローランが振り返った。
ぼうっと窓の外を眺めていたのが嘘みたいに、にこりと微笑んで手招きをされる。
少し迷ってから、スズはローランの方にまろぶように駆け寄った。
辿り着けば、ローランがスズを抱えて、膝の上に乗せてくれる。
窓の外の景色が見えた。
青い空にはぽっかりと白い雲が浮かんでいる。
「おっきくなったなぁ! スズは今日で五歳だっけ?」
「八歳だよ。母さんがそうやってわたしとクロガネをつくったから。すぐにおっきくなれるように」
「そっか」
「すぐにローランより大人になるよ」
首をひねってローランの方を見上げた。
「そうしたら、ローランは外に出られるんでしょう? 母さんが今日、教えてくれたよ。わたしとクロガネがおっきくなったら、ローランとあるじを交代するって」
今日、母さんから聞いたばかりの話だ。そのために、あなた達は生まれてきたのよ。そうスズ達に告げた彼女は、珍しく上機嫌だった。
多分、それくらい嬉しい事なのだ。そう思ったから、スズはローランに話そうと思った。
いつもぽつんと、一人で窓の外を見ている彼にも、笑って欲しかったから。
けれど、何故かローランは少しだけ悲しそうな顔をする。
「ローラン……? どうしたの……?」
「ううん、なんでもないよ」
「でも、」
「ねぇスズ。スズは外の世界に行きたい?」
「えっ」
「いつも俺のとこに来て、窓の外見たそうにしてるよね」
「それは……」
ローランが、いつも寂しそうだからだ。そう言いかけて、けれど何となく気恥ずかしい。
スズは顔を赤くしながら顔を俯ける。ぶらりと足を揺らした。
「……な、なんとなくだよっ」
「なんとなく?」
「そう、なんとなく! いつもだって、窓が高くて外よく見えないもん……ローランはどうなの? ローランは外が好き?」
「俺かい? 俺は好きだよ。だって……ほら、見て」
ローランはスズを窓枠に座らせてくれた。
そうすれば窓の外の景色がよく見えて。
「わぁ……!」
風が吹く。初めて見た外の景色にスズは声を上げた。
眼下に広がるのは廃墟の街並みだ。
けれど、その向こうには赤い屋根の大きくて綺麗な建物があって、さらにその後ろには、守られるようにして立ち並ぶ街並みが見えた。
それから青い空と白い雲……降り注ぐ日差しを、目を細めて見つめようとしたスズの頬に、ぱらりと雨のしずくが当たる。
「ローラン、晴れてるのに、雨が降ってるよ!」
「天気雨だよ。この辺りはこういう天気が多いんだ」
「すっごく、きらきらしてる!」
「そう。だから俺はこの天気が好きなんだ」
微笑んで、ローランはスズの横で頬杖をついた。
優しく風が吹く。
スズの、ローランの、髪先を揺らす。
彼の胸元で赤い宝石のついたペンダントが揺れる。
そんな中で、ローランは歌うように口を動かす。
「世界はこんなにも広いんだ。こんなにも明るい。ここに見えてるだけじゃない、たくさんのもので溢れてる。その全部を見るのが、俺の夢なんだ」
「それ、すっごくいい! わたしも行けたらなぁ!」
「大丈夫。スズだって行けるさ。スズだけじゃない、クロガネも」
「え? でも、ローランの代わりに〈塔〉のあるじになったら、わたしも、クロガネも、外には出られないんでしょう?」
だから、ただの夢のつもりで言っただけなのに。スズは純粋に疑問に思って、小首を傾げる。
けれどローランはゆるりと首を振った。
「そんなことないよ。スズは外に出られる。勿論クロガネも……誰も、俺の身代わりになんかさせない」
「ローラン?」
最後の言葉は聞き逃してしまいそうなほどに小さかった。
スズはローランの方を見やる。
けれど彼はやっぱり優しく笑うだけで。
***
「ロー……ラン……」
「うん、なにかな、スズ?」
「!?」
軽やかな、明るい男の声。それにスズは飛び起きた。
目の前にはダークブラウンの髪の青年が一人。
胸元には〈塔〉の主の証である、赤い宝石のついたペンダントがぶら下がっている。
知らない……顔ではなかった。
成長しているが、夢の中に出てきた少年の面影が少しだけ残っている。
「ローラン……!」
戸惑うスズを、ローランは楽しげに眺めている。
「なんでお前が……!」
「なんでって、俺がいられる場所はここしかないからさ」
「ここしか……って、まさか、ここ、〈塔〉の中なのか?」
「まっ、そんなとこ」
「え、でも……ちょっと待てよ! クロガネがお前の身代わりになったはずじゃ……」
「僕の知らないところで、何を話してるの?」
響いた声にスズは振り返った。
高い柱の立ち並ぶ部屋の奥、暗がりからクロガネが姿を現す。
〈塔〉の中に、クロガネがいる。
それなのに、ローランが出られないということは。
至った結論にはっとして、スズはローランを庇うように立ち上がった。
「っ、ローラン! 下がってろ!」
「え…?」
「出られないの、クロガネのせいなんだろ!?」
理由は分からないが、それしかない。
彼が魔物を使って、ローランを〈塔〉に閉じ込めているとしたら。
身代わりになるのが嫌だと言って、ローランに〈塔〉の主を強要しているのだとしたら。
自分が、守らなきゃ。義務感に駆られてスズはクロガネを睨みつける。
そんなスズを見て、クロガネは笑う。
「その分だと、ちゃんと全部思い出したみたいだ」
「……おかげさまでな」
「それでも僕に反抗する気?」
「反抗もなにも、お前に味方する理由なんか、」
「ママに気に入られるチャンスがある、っていっても?」
「……どういうことだよ?」
スズはどきりとした。
雨の中、自分を捨てて去っていったシエラの背中が脳裏をよぎる。
クロガネはそれを見抜いたかのように微笑んだ。
「僕達で力を合わせて、そこのローランより優れてる、ってことをママに見せてやるんだ」
「なんだって?」
「そうすればママは僕達を選んでくれる。〈塔〉に閉じ込められるのは僕達じゃなくて、ローランになる。素敵でしょ? スズだってきっとママに振り向いてもらえるよ?」
だから、さあ。そう言わんばかりに、クロガネがスズに向かって手を差し出した。
「君の力が必要なんだ。僕と一緒に来て」
スズは、信じられない思いでさし出された手を見つめる。
それはずっと望んでいた手だった。
それはずっと望んでいた言葉だった。
そしてその手を取れば、ずっと望んでいた願いが、叶うかもしれなくて。
けれどそこで、スズの脳裏にアーサーの顔がよぎった。
女だとか、男だとか関係ない。そう言って、自分のために泣いてくれた、彼の顔が。
キミが、いいんだ。そう言って、自分を抱きしめてくれた彼の顔が。浮かんで。
「……かない」
「え?」
「俺は、行かない」
顔を上げる。スズは目を丸くしているクロガネを見据える。
「クロガネ、お前は可哀想だ」
「なんだって?」
「母さんにとらわれて、ずっと一人なのはお前の方じゃないか」
「っ、そんな目で僕を見るな!」
クロガネの悲鳴のような声に周りの空気が揺らめいた。
彼の足元に紫色の魔方陣が浮かび上がる。霧が噴き出す。
そして次に魔方陣が瞬いた時、紫色の巨大な蛇が姿を表した。
とぐろを巻き、しゅうしゅうと口から紫色の霧を吐き出して、スズの方へ鎌首をもたげる。
「いけ!」
「ローラン、こっちだ!」
クロガネの合図と共に、蛇がスズ達に向かって襲いかかった。
スズはローランの手を引いて、それをよける。
距離をおくように、柱の間を駆け抜ける。
クロガネの馬鹿にしたような笑いが木霊する。
「そうやって逃げてると、あの雨の日を思い出すよ! ママに要らないって言われて、捨てられてから、スズは一回も戻ってこなかったよね!」
「っ、ミトラ!」
逃げながら、スズも素早く指先を踊らせて魔法陣を描いた。弾ける白い光。
現れたミトラが、蛇に向かって飛びたす。
スズは立ち止まって振り返った。
ミトラが蛇に喰らいつく。
だが、少々体が噛みちぎられても、蛇はなんとも思っていないようだった。
クロガネが勝ち誇ったように笑った。
「ずっと、逃げてたんだろ? 〈塔〉から。それで今だって逃げるんだ。無様にさ!」
荒々しく蛇が体を動かし、ミトラを振り払う。ミトラが白い光を散らして消える。
それでもスズが再び走りだすことはなかった。
「まさか! 俺はもう逃げない!」
スズは指先を躍らせる。
そこに灯る光は白ではない。
赤銅色。
「契約の天使の名において命ずる」
描いた魔法陣が赤銅色に輝く。
その文様は、ミトラの魔法陣ではない。それどころかスズが今まで知らなかった魔法陣だ。
それでも、言葉が自然と口をつく。
知らないはずの精霊の名前が。その真名が、スズの頭にひらめいた。
「我に従い、力を貸せ――鳥の守護者!」
魔法陣が激しく瞬き弾けた。
赤銅色の光はそれぞれが合わさり、鳥の形を成す。
鋭い鳴き声を上げながら何十匹、何百匹、何千匹という鳥になって大蛇に襲いかかる。
瞬く間に、大蛇が鳥に覆われて見えなくなる。
ローランが息を呑んだ。
「別の精霊……!? スズ、いつの間に契約を、」
「違う、契約したんじゃなくて、喚んだだけだ」
「え?」
「自分が敵に攻撃を受けた時、その敵に対応した精霊を、真名を使って喚び出せる……それが俺と」
スズはちらりとクロガネの方を見つめて言葉を続けた。
「あいつの能力、免疫だ」
通常の契約に、真名は必要ない。魔法陣を描いて、定められた手順を踏み、血液を精霊に与えて精霊と契約を交わす。
そうであるが故に、一人の人間は契約できるのは一つの精霊のみなのだ。数が違うとはいえ、アーサーも同じ。
だが、スズとクロガネの能力は違う。
魔物であれ、精霊であれ、真名を持っている。本来誰も知るはずのないそれを知り、喚び出すことが出来る――それが免疫という能力だった。
クロガネであれば魔物を、スズであれば精霊を支配する。真名による支配は絶対だ。契約をしていようがしていまいが関係なく、強制的に精霊を召喚できる。
「くっ……」
「諦めろ、クロガネ」
顔を歪めたクロガネをスズは睨みつけた。
「お前が何度魔物を呼んだって、俺が何回でも倒してやる」
「くそ……!」
「分かったら大人しく引き下がれ! 俺たちを〈塔〉の外へ帰すんだ!」
「何を偉そうに! そんなの、従えるわけないだろ!」
クロガネが再び魔物を喚び出そうとする。スズも身構える。
何が来てもいいように。
後ろにいるローランを守れるように。
逃げずに怒り狂っているクロガネを見据えて。
「――なんてね」
「っ!?」
そのクロガネがニヤリと笑う。
瞬間、首筋に痛みが走って、ぐらりとスズの視界が傾いた。
え、と思う間もない。体中から力が抜ける。そのまま地面に倒れ伏す。
「な……」
「駄目だよ、スズ」
戸惑うスズの耳にローランの声が届いた。
驚いて視線だけ上げれば、彼は笑う。
優しく。
けれどひどく違和感のある笑みを。
「ローラン……?」
「スズ、君は一つ勘違いしてる」
「え……?」
「俺はクロガネに囚われてるんじゃない。自分の意志でここにいるんだ」
「どういう……?」
「まだ分からない? 俺とクロガネはグルなんだ。クロガネにスズを渡すのが俺の役目」
笑顔のローランの言葉は、スズを凍りつかせるのには十分だった。
「その言い方はやめろよ」
足音高く近寄ってきたクロガネが不機嫌そうに吐き捨てた。
「利害関係が一致しただけだ。僕はお前を信用した訳じゃない」
「素直じゃないなぁ。俺はクロガネのこと、信用してるのに」
「黙れ、消えろ」
「はいはい……じゃあ俺はいつも通り、奥の安全なとこにいるから」
ひらりと手を振ってローランが去っていく。
一度も振り返ること無い。
遠ざかっていく背は、まるであの雨の日のシエラのようで。
「残念だったね、裏切られて」
クロガネのあざ笑うような声に、スズは体を震わせた。
「っ……」
「信用するから、こうなるんだよ。案外、スズの信じてる奴らも、あっさりスズを裏切っちゃうかもね?」
「そ、んなこと……!」
「ない? 本当にそう言い切れる? じゃあ僕が試してあげよう」
「っ……あ……っ!?」
くすくすと笑いながら、クロガネがスズの顎を掴んで強制的に視線を合わせた。
自分と同じ、赤い目。
それは深い……どこまでも深い色をしていて。
その瞳を見つめる内、スズの意識は急速に薄れていった。