こんな時間にどうしたのかしら
一人きりになった部屋は、ひどく静かだった。
それでも、彼女は興奮していた。
胸の高鳴りを抑えながら、椅子に座る。
テーブルの上の写真立てに手を伸ばす。
そうして、自分と一緒に写った少年の姿を指先で撫でた。
彼女の息子だ。たった一人の家族。〈塔〉に囚われてしまった彼。
二〇〇〇年、世界中に突如出現した〈穴〉。そこから現れた魔物によって各都市は多大なる被害を被った。その〈穴〉を消滅させるために重要となるのが〈塔〉だ。
〈塔〉の最上階に住まう魔物――〈塔〉の主を倒せば〈穴〉は消滅する。
それが一般向けの、〈塔〉を倒す力のない学生向けの説明だ。
だが、真実は違う。
〈塔〉の最上階にいるのは魔物などではない。
〈塔〉の主は魔物ではない。
人間だ。
〈穴〉と〈塔〉が現れた時に近くにいた人間が一人、〈塔〉に閉じ込められる。なんの前触れも、なんの因果もなく、 ある日突然に。
閉じ込められた人間は、一生出ることが出来ない。逃げようとすれば魔物に食い殺されてしまう。
〈塔〉の主は、〈塔〉の最上階で、精霊使いに殺されるのを待つしかない。
外の人間が、〈塔〉を倒し、〈穴〉を塞ぐために。
外の人間が、平和に暮らすための人柱。
彼女の息子もまた、そうだった。
哀しかった。苦しかった。助け出したい。そう思ったけれど、周りは諦めろとしか言わなかった。
それが、たまらなく悔しかった。
だから、彼女は造ったのだ。
クロガネとスズを。身代わりのために。
必要だったのは、彼女の息子と同じ性別で、魔物を従えるだけの力を持つ人間だった。だからスズを捨てた。偶然、学園で再会して、スズの能力を知った時は驚きはしたが。
それでも、問題など何もない。
スズを捨てた時、クロガネと接した時、二人が悲しそうな顔をしているのに気づいていないわけじゃない。胸が痛くならないわけじゃない。
それでも、もう迷わない。
クロガネを息子の代わりに〈塔〉の主に仕立てる。スズのあの能力があれば、精霊にだって負けることはないだろう。〈穴〉は消えなくなるが、魔物の被害などどうでも良かった。
「もうすぐよ……もうすぐ」
ローラン、あなたを助け出せる。
そう、呟こうとした時だった。
「もうすぐ、なんですか?」
部屋の入口から声が響いた。シエラは顔を上げる。驚きはない。それどころか予想済みだ。
アーサー、マリー、健太。三人にシエラはにこりと微笑む。
「こんな時間にどうしたのかしら」
「お尋ねしたいことがあって来たんです」
マリーも健太も緊張しきった面持ちだ。その中で、人好きのしそうな笑みを浮かべてアーサーが答える。
「ほら、この前の全体集会の時に、先生が仰ってたじゃないですか。スズの血液が魔物に有効だという話」
「えぇ、それが?」
「その発想はどこから得られたのかな、と思って」
アーサーが静かに一歩近づく。シエラは気付かれないように懐を弄った。
「あらあらぁ、それはデパートで戦ってた時よ? この前も説明したでしょう?」
「えぇそうですね。でもボク、分からないんです。記憶が曖昧なせいなのか、説明の時に流された映像と実際が違った気がして」
アーサーの言葉にシエラは動きを止めた。
「あの時、魔物に攻撃されそうになったのは先生のはずだ。先生が小瓶を投げつけなければ、スズの血液は魔物に当たらないはずですよね?」
「そう、だったかしら」
「それに、あの時、フードを被ったアイツはこう言ってた。演技でもやめてよ、そういうの、って……じゃあ、あの時あの場で、演技をしていたのは一体誰だったと先生は思われますか?」
ねぇ、先生。アーサーが問を重ねる。目を細める。
その顔に笑みはない。
「スズが寮にいなくて……先生はどこに行ったかご存知です?」
「さぁ……知らない、わっ」
シエラは適当に掴んだ注射筒をアーサーの方に投げつけた。
三人が慌ててそれを避ける。
その間にシエラは椅子を倒して、勢い良く立ち上がった。
逃げることはしない。逃げる必要なんてない。
「荒賢者」
シエラの声に応じて、彼女の影から、それが飛び出す。
下半身は雄牛、上半身は黒く、半裸の男の姿をしている。
荒賢者。ソロモン七十二柱の一柱にして地獄の大王。クロガネに借りた、魔物。
「あいつらを何とかしなさい!」
シエラの声に、荒々しき賢者は雄叫びを上げながら巨大なコウモリ羽を動かした。
部屋が崩れる――
***
「マリー、アーサー! 大丈夫!?」
「え、ぇ……私は大丈夫ですわ。アーサーは……」
偶然にできた瓦礫同士の隙間。
その中で、マリーと健太の声が飛び交う。
アーサーは、地面に尻もちをついたまま顔を上げる。
瓦礫の隙間から、コウモリ羽をはためかせて地面に降り立つ荒賢者が見えた。その傍らにはシエラもいる。
それだけじゃない。どこから嗅ぎつけたのか、悪食狼の群れの姿も見える。
健太が声を震わせた。
「な、なんでシエラ先生が魔物を……」
「疑問は後だ! 今はあいつを……!」
なんとかしなきゃ。そう言いかけたアーサーは目を見開いた。
おもむろに荒々しき賢者が腕を横にのばす。
近くにいた悪食狼の首もとを掴む。
悪食狼が悲鳴を上げる。
異変が起きたのは直後だった。
悲鳴を上げてもがく悪食狼の動きが、少しずつ鈍くなる。何かが凍りつくような音。バタバタと動いていた悪食狼の足先が、次第に固まっていく。
金属へと変化する。
「なん、ですの……っ?」
マリーが息を飲む先で、悪食狼は完全に鉄の塊になった。
荒賢者は金属の悪食狼を地面に落とし、さらには足先でそれを踏み砕く。
鈍い音に、アーサー達だけでなく、周囲の悪食狼の群れもたじろぐ。
こうもり羽を愉快そうに羽ばたかせ、荒賢者は残忍な笑みを浮かべた。
健太が、はっとしたように声を上げた。
「荒賢者……そうか、錬金術……」
「どういうことだい?」
アーサーの声に、健太が眼鏡を押しあげた。
「生体には、微量の金属が含まれてるんだ。それを増幅して自在に操る、っていうのが荒賢者の能力だったはず……」
「悪食狼の中の鉄の成分を増幅したってことかい?」
「多分。鉄は血液の中に含まれてるから……」
「御託はいいですわ! とりあえず私達はどうすればいいんですの!?」
健太は目を細めた。
「近接攻撃は、駄目だ。悪食狼みたいに金属の塊になるから」
「なら私が遠距離で、」
「なんだぁ、なんか楽しそうな話してんなぁ」
緊迫した空気に似合わない、やる気のない声。それに三人は同時に振り返る。
ちょうど廊下のあった瓦礫の辺りだ。
そこから、一ノ瀬がふらりと姿を見せる。
「せ、先生……っ! どうしてここに!?」
「いや、シエラ先生に夜這いかけようと思って保健室に隠れてたら、出るに出られなくなっ、」
「え?」
「い、イヤー! やっぱセンセイとしては学園の異常放っとけなくてなー!」
白々しく笑いながら一ノ瀬はちらりと空を見上げる。そのまま黙考することしばし。
うん、と何故か一人頷いた。
「ここ、先生に任せていいぞ」
「は……? 先生、何を仰って、」
「いや、この障害を乗り越えた先にシエラ先生との愛の道を見た」
マリーが軽蔑の眼差しで一ノ瀬を見る。一ノ瀬は気にしていないようだったが。
「一ノ瀬先生」
アーサーは口を開いた。
「お言葉はありがたいですが、ボク達はシエラ先生にスズの行方を訊かないと、」
「あー、それなら多分〈塔〉だぞ」
一ノ瀬がアーサーの方を見てニヤリと笑った。
「普通の生徒なら心配だけどなぁ。お前なら行けるだろ? アーサー」
「……なるほど」
「じゃ、そういうことで」
一ノ瀬が、下手くそな鼻歌交じりに、宙に魔法陣を描く。
緑色の光を放つ魔法陣が輝く。
「シャティエル」
一ノ瀬の声と共に、魔法陣から現れたのは、いかつい顔をした小人だ。体の大きさと同じくらいの壺を両手で抱えている。
彼の精霊なのだろう。ふわりと宙に浮いた彼は、一ノ瀬の肩に飛び乗る。
一ノ瀬が、先ほど自分が出てきた瓦礫の隙間を指で指した。
「俺が出てきたとこ、まだぎりぎり外の廊下と繋がってるから。そっから行け」
アーサー達が頷く。
それが始まりの合図だった。