『 』なんて要らないんだよ
雨の中、彼女が去ろうとしていた。
コート代わりの白衣を揺らし、傘をほんのすこし傾けている。
それを追いかけたい自分がいて。なのに、体が動かない。雨を吸った体は重い。冷たい。寂しい。悲しい。想いばかりが空回る。
かあさん。結局転がり出てきた言葉はそれだけで。
「スズ」
返事があった。待ち望んだ声にスズは顔を跳ね上げる。彼女が振り向いてくれたのか。そう思って。けれど。
「な……!?」
見えたのは、視界いっぱいに広がる炎だった。彼女の背が炎の中に揺らめいて消える。狂ったような少年の笑い声が聞こえてくる。獣の唸り声も。
炎が揺らめいて、見覚えのある人影が見えた。
「アーサー……」
「……スズ、どうしてボク達を助けてくれなかったの」
ねぇ、どうして。彼はそう言った。そこにいつものような笑みはない。
憎々しげに顔を歪めている。
スズを睨みつけて、その唇が動く。
「キミは出来損ないだ。『 』なんて要らないんだよ」
***
スズは悲鳴を上げて飛び起きた。体を掴まれる。それが嫌で、喚きながら拘束から逃れようとして。
「落ち着いて!」
「っ……!?」
突然、声がクリアに聞こえた。
悲鳴のような声。
スズはピタリと動きを止める。
「せ、んせい……?」
荒い息のまま、おずおずと顔を上げる。ほっとしたようなシエラの顔がそこにあった。
ゆるゆると辺りを見回せば、どうやら自分がベッドの上に座っているらしいことに気づく。
「良かった……落ち着いた?」
「ここは……」
「保健室よ。大丈夫。もう、戦いは終わったから……何か飲む?」
シエラの髪がスズの頬を掠めて、ぬくもりが離れる。陶器の擦れる音がして、ほんのりと湯気の上がったピンクのマグカップが差し出された。
「どうぞ」
「あ、りがとうございます」
まだぼんやりした頭で、スズはそれを受け取った。じわりとぬくもりが染みる。それでようやく自分の体が冷えきっていたことに気づく。
向かいの椅子に座ったシエラは安心したように息をついた。
「本当によかったわ……三日間も目を覚まさなかったんだから」
「三日間って……そうだ、アーサー達は!?」
「安心して。皆、怪我は思ったより軽かったの。もう普通に授業に出てるわ」
ほっとスズは息をついた。そんなスズを見て、シエラは組んだ膝の上に頬杖をつく。
「魔物が私に襲いかかろうとしたのは覚えてる? そしたら突然、目の前で魔物の頭が砂みたいに粉々になって消えてしまって」
「粉々に?」
「そう、私も驚いたわ。敵の方も予想外だったみたいだしね。その後すぐに、仲間の魔物と一緒に引き上げていったから、こっちとしてはありがたかったんだけど……あら、腑に落ちない顔してるわね」
「だって……」
「なんで奴らが去っていったのか、知りたい?」
「分かるんですか!?」
スズがシエラの方へ身を乗り出す。
彼女は困ったように笑った。
「知ってるわけじゃないわ。ただ仮説だけ……えぇでもそうね、これが本当ならスズが皆を救えるかも」
意味深な言葉にスズが目を瞬かせる。
しかしシエラは含み笑いを浮かべただけだった。
「まぁ、この話はもう少しスズの体調が良くなってからにしましょう」
お薬取ってくるから、その間に着替えてしまいなさい。そう言って、スズからマグカップを取り上げたシエラは、仮眠室から出て行った。
軽い音を立てて扉が閉まる。
スズは一つ息をついた。
少しばかりよろめきながらも、ベッドから降りて立ち上がる。
衣擦れの音を響かせて服を脱ぐ。
サイドテーブルに置いてあった新しい制服を取りあげる。
その影から写真立てが見えた。
今より少し若いシエラと、スズと同い年くらいの茶髪の少年が写っている。少年の顔は見覚えがあった。前にシエラが見せてくれた写真と同じだ。
ローランっていうのよ。自分の息子の名前を、愛おしげにシエラが呼んでいたのを思い出した。今は離れて住んでるけど、いつか一緒に暮らすのが夢なの。そう言っていたことも。
それが眩しくて、羨ましくて……胸が痛かった。
スズの指先が微かに震える。服が指先をすり抜けて床に落ちる。
部屋の片隅の姿見。そこに自分の姿が映った。
――あなたは、出来損ないなのよ。
「っ……」
耳の奥で響いた女の声に、スズは体を固まらせた。
嫌だ。そう思うのに鏡から目を逸らせなくなる。
窓の外からの日差しは柔らかい。外からは小鳥の鳴き声が聞こえてくる。あの戦いが嘘みたいに静かだ。けれどその静けさがかえって辛かった。
あの雨の音が聞こえてきそうだ。無意識の内にぎゅっと体を抱きしめる。
怖い。怖かった。
鏡を見るのは嫌いだ。こんな体だから捨てられたのだと、見る度に思い知らされるから。もしかしたらまた捨てられるのかもしれないと思ってしまうから。
息が、自然と荒くなる。背中に嫌な汗が伝う。ふと思い出したのは、さっきの夢の中に出てきたアーサーの姿だ。
アーサー。天然で、少し強引で、ちょっとどころか大いに変で……大切な、友達。
アーサーだけじゃない。マリーも健太も。このことを知ればどんな顔をするのだろう。
「出来損ないって、言うに決まってるだろ」
そう言ったのは、鏡の中から見つめ返してくる自分自身だった。意地悪く笑う。その笑い方は、あのアイニを連れていた少年にひどく似ている。
「や……めろ……」
スズは首をゆるゆると横にふる。
それでも鏡の中の彼は言葉を続ける。
「それからこう言うんだ」
「やめろって……」
「出来損ないはいらない、って。そうだよなぁ、あの人が望んでたのは男で、なのにお前は、」
「やめろ!」
鏡の中の笑う自分がかき消える。彼の言葉も途中で消える。
けれど鏡の中の言葉の続きは、すぐ後ろから聞こえてきた。
「お、んな……?」
ぽつりと響いた言葉にスズは振り返る。
半開きの扉。そこに目を丸くしたアーサーとマリー、健太が見えて。
――あなたは、出来損ないなのよ。女なんて、要らないの。
雨の中の女の言葉が、耳の中で響き渡る。
スズは青ざめて、悲鳴を上げた。