負け犬
白煙が巻き起こる。その中からゆらりと人影が現れる。
スズと同い年くらいの少女だ。栗色の長い髪とロングスカートの裾が爆風に揺れる。見事な装飾の成された杖を、地面についている。
傍らには彼女のものとおぼしき精霊が見えた。水で出来た鷲だ。
スズと少女の目があった。
途端、少女はスズを睨みつけてきて。
そこでアーサーが声を上げた。
「わっ、スズっ、前!」
「へっ……!? ミトラ、ストップストップ!」
前方に、人影。背の低い少年だ。スズの声に慌ててミトラが立ち止まろうとする。
が、間に合わない。
少年にぶつかる。
「お、おい……! 大丈夫か!?」
スズが飛び降りるのと、少年がミトラの下から出てくるのは同時だった。
背の低い少年は学園の学生服を着ている。
「健太! 何をしておりますの!?」
背後から、あの少女の険悪な声が飛んできた。
少年はずり落ちた眼鏡をそそくさと押し上げて応じる。
「い、今行くよ! マリー!」
マリー。それがあの少女の名前だろうか。スズ達が呆気にとられる間にも、立ち上がった背の低い少年、健太が一つ頭を下げた。
「え、えっと、はじめまして。第三学年の渡瀬健太です。あっちにいるのは西園寺マリー。学園規定第三十五条に従い、魔物の討伐に来ました」
「ちょ、ちょっと待てよ! あれと戦うのか!?」
「ご心配なく。貴方は戦う必要などありませんわ、第二学年の雑魚専さん」
スズの声に応じたのは馬鹿にしたようなマリーの声だ。
スズが振り返って顔をしかめれば、彼女は小さく鼻を鳴らす。
「貴方のことは、かねがね噂に聞いておりましてよ? 低級の魔物しか狙わない、向上心のない生徒だと。そんな態度だから、このような戦いで苦戦するのではなくて?」
「っ……じゃあ、お前らなら、なんとか出来るのかよ?」
「出来るかどうかではありませんわ」
マリーは目を閉じ、緩やかに杖を持ち上げた。
「やるんですのよ」
杖が軽やかな音を立てて地面につけられる。
マリーの周囲に突如現れる水の壁。それが白煙の影から飛び出してきた戯れ猫を弾き飛ばした。
「サキエル、鎮めなさい!」
「はい、マスター」
不思議な響きを持った女性の声がして、サキエルと呼ばれた鷲が飛び立った。羽ばたく。それだけで水が生まれる。 大量の水だ。給水塔からの水量とは比べ物にならない。
炎に水がかき消される。
炎は再び生まれることはない。
マリーは微かに笑みを浮かべた。
「流石、健太の言う通りですわね!」
「どういうことだ……?」
「大切なのは大量の水、です」
アーサーの声に健太が丁寧に応じる。
じっとマリーの方を見つめる視線は真剣そのものだ。
「特に、今回に限っては普通の水で大丈夫なんです。今いる魔物はアイニですよね? その性状は炎と増殖ですから……対病原体理論に基づいて考えると、癌と同じ、という結論になります」
「癌?」
「アイニの使い魔である戯れ猫は炎から生まれます。炎が少しでも残っていれば、そこから増えて、再び元の体を形成できる。癌だって同じです。取りきれなければ、転移したり、再発する。だから、癌を治すためには、癌そのものを完全に取り除く必要がある」
「そうか……大量の水を一度にかけて、元となる炎を消す必要がある、と」
「はい……ってすいません、なんか偉そうに言ってしまって」
はっとしたように健太は頭を下げた。
「僕はマリーと一緒に本体であるアイニを探してきます。二人はこのまま避難してください」
「足手まとい、ってか?」
スズの低い声に、健太は目を瞬かせた。
「えっ……そんなことは思ってませんけど」
「気にすることはありませんわ、健太」
周囲一面を水浸しにしたマリーが、鼻先で笑った。
「卑屈にとるということは、自覚があるということですもの」
「う、うるさいな!」
「事実でしょう? 悔しければ行動で示してはいかがかしら?」
「それは……」
スズは拳を握りしめて顔を俯ける。
俺は、お前たちとは違う。
そんなスズの思いを読み取ったみたいだった。
マリーが目を細める。
「負け犬」
一言だ。たった一言。
だが、そのたった一言でスズの中の何かが音を立てて、切れる。
「っ……ふざ、けんなっ!」
スズがそう言ったのと、ミトラがマリーに向かって飛び出したのは同時だった。
健太が悲鳴を上げる。マリーは驚いたように目を見開く。
そしてミトラは――マリーの背後から飛び出した悪食狼に噛みついた。
「っ、なんですの……きゃっ!?」
スズはマリーを引き寄せた。胸の内で抱きとめる。ちょうどマリーの立っていた場所に噛みちぎられた悪食狼の上半身が落ちた。
「なっ、なっ……」
「雑魚専だの負け犬だのうるせぇんだよ! お前もミカエルも……! 俺だって好きで逃げてる訳じゃねぇし! でもこれしか出来ないんだからしょうがないだろ!」
「な、何を言ってますの!?」
「だから!」
マリーを立たせる。そうしてスズはマリーに人差し指を突きつけた。
「お前らは好きなようにアイニと戦えよ! 俺は悪食狼の相手をしてるさ! 雑魚専らしくな!」
「っ、な……」
「なんだよ、アイニと戦うのが怖くなったのか?」
やけくそで、半笑いになりながらスズが尋ねれば、マリーはさっと顔を赤くした。
「そ、そんな訳ないでしょう! 馬鹿にしないで! 貴方が突拍子もないことを言うから驚いただけですもの!」
「だったらとっととアイニを倒しに行けばいいだろ?」
「当然ですわ! 貴方こそ、悪食狼を私達の方へ寄越さないようになさい!」
「雑魚専なめんな! 言われなくてもそのつもりだよ!」
「健太、行きますわよ!」
「あ、う、うん!」
足音高く歩き始めたマリーを慌てて健太は追いかけていった。
二人が向かうのは燃え盛る屋上の方だ。
その背を睨みつけ、スズは鼻息荒く声を荒げる。
「俺達も行くぞ!」
「……っ、ふふっ」
返事の代わりに返って来たのはアーサーの押し殺したような笑い声だった。
スズは顔をしかめる。
「なにがおかしいんだよ?」
「いや……そうだな、なんか楽しくなっちゃって」
「はぁ? 俺は真面目で」
「うん、それは分かってる」
アーサーがやけに自信満々に頷いた。
それが何となく気に食わなくて、スズが唇をとがらせると、彼はまた少し笑ってから口を開く。
「ねぇ、訊いていいかな」
「なんだよ」
「さっきは逃げようって言ってたじゃないか。どうして今度は助けようって思ったんだい?」
「別に助けたいって思った訳じゃねぇし」
「そうなの?」
「……腹が立ったんだよ」
ミトラの背に飛び乗りながらスズはぶっきらぼうに言葉を続けた。
「確かに俺は雑魚しか倒せねぇけどさ、俺は俺の出来る範囲で精一杯やってんの。それを馬鹿にされる筋合いはねぇって思っただけ」
「…………」
「おかしいと思うか?」
「……ううん」
ちらりとスズが視線を送った先で、アーサーが緩く首を振る。
「素敵な考えだと思う。うん、ボクにも是非協力させてほしいな」
「協力?」
「マリーだって健太と力をあわせて戦ってるじゃないか。スズだけ一人で戦うのは不公平だよ」
だからボクも一緒に戦う。そう言って、アーサーもまたミトラの背に飛び乗った。
***
屋上では炎と水が入り乱れていた。
スズにとって幸運だったのは、そのおかげで悪食狼が一匹ずつでしか襲いかかってこなかったことだ。群れでは恐ろしい悪食狼も一匹ずつならば何の脅威もない。
スズ達を背に乗せ、唸り声を上げたミトラは次々と悪食狼を狩っていく。
「ミトラ、次はその奥だ!」
「スズ、伏せて!」
アーサーの声にスズは素早く身を屈めた。
頭上から響く悪食狼の唸り声……それが耳障りな音と共に途中で情けない悲鳴に変わる。
降り注ぐ鮮血。
「ごめんスズ、浅かった……!」
「いや、十分だ! ミトラ行け!」
赤い刃の短剣を握ったアーサーが呻く。それ応じながらスズはミトラの背を叩いた。
ふらつく悪食狼にミトラが襲いかかり、瞬く間に息の根を止める。
「やった……!」
「気を抜くな! さっきの奴狙うぞ!」
アーサーに釘を差しながらも、スズも少しだけ頬がゆるむのを抑えきれなかった。
やりやすい。そう思ったからだ。アーサーがいてくれるだけで、スズ自身に向かってくる攻撃を気にせずに、周りの状況を見ることが出来る。
そこで、周囲の炎が苛立ったように大きくうねった。
アイニの声が響く。
「なんなのよぉ、この水!」
「観念なさい」
マリーの凛とした声に、炎が揺らめく。
そこから顔を歪めたアイニが姿を現した。
「この小娘……っ!」
「いい加減に負けを認めてはいかが?」
マリーは、悠然と微笑んで付け足した。
「貴方と私では相性が悪すぎますのよ。大人しく負けを認めれば、」
「負けなんて……負けなんて認めないわよぉ!」
アイニの背後から炎が吹き上がった。
今まで見たどんな炎よりも熱く、激しい。
アイニの声とも悲鳴ともつかない声が響き渡る。
呼応するように燃え上がった炎は、マリーに殺到する。
けれど。
「勘違いなさらないで――負けを認めても、私は貴方を許す気などさらさらありませんわ」
マリーは地面を杖で叩いた。
サキエルが一際高い鳴き声を上げる。彼女の肩から飛び立つ。
水を纏ってサキエルは弾丸のごとくアイニに突撃した。
大量の水と大量の炎。拮抗して見えたのは一瞬だ。
水が炎を飲み込む。その中で、アイニの胸をサキエルが貫く。
衝撃のような音。一拍遅れて辺り一面が白煙で覆われる。水が全て気化する。
それでも――炎は全て消えた。
「……終わった、のか……?」
「当然ですわ」
ミトラの背から飛び降りたスズに、マリーが足音高く近づいてきた。
その表情は厳しくて、スズは思わず後ずさる。
「っ、な、なんだよ……」
「手」
「は?」
「だから、手をお出しなさい!」
反射的にスズは手を差し出した。その手をマリーはしっかりと握る。
「痛っ……なにすんだよ!?」
「失礼ですわね! なにしてるか分かりませんの!?」
「はぁ? 分かるわけないだろ!?」
「わ、分かるわけないだなんて……! 私が折角、お……おっ……」
「お?」
「お礼が、言いたいんだよね。マリーは」
助け舟を出したのは健太だった。顔を真っ赤にしてマリーが口ごもる。
「お、お礼って……」
スズの言葉に返事はない。マリーはツンとしてそっぽを向く。健太はそんな彼女を見て、申し訳無さそうにスズに頭を下げる。
「えええ?」
疑問符を躍らせるスズの掌に、ミトラが嬉しげに湿った鼻先を擦りつけてから消えた。
傍らに立ったアーサーはスズを見て微笑む。
「良かったね、スズ」
「よ、良かったって……」
「おい、お前ら! 大丈夫か!?」
そこで青空の下、一ノ瀬の声が響いた。シエラも一緒だ。
マリーと健太が一の瀬に向かって話し始める。そしてシエラは、
「皆、無事ね! 安心したわ!」
「うわっぷ!?」
思い切りスズを抱きしめた。柔らかくて暖かい胸元。そこから顔を真っ赤にしてスズは体を突き放す。
「し、シエラ先生っ……!」
「あらあらぁ? このままでも良かったのに。なんならこの先までいくのも構わな、」
「な、何言ってるんですか!?」
スズがあわあわと反論すれば、シエラはにっこりと微笑んだ。
「ふふっ、冗談よ。さぁ、とりあえず怪我がないかどうかだけ確認させて?」
「怪我なんて大げさですよ、先生。別に俺は、」
「いいからいいから。とりあえずスズからにしましょう……そうね、服を脱ぐから、あっちの見えないところに行った方がいいかしら。まだ言ってないんでしょう?」
シエラがアーサーの方をちらりと見る。スズは慌てて首を縦に振った。
アーサーが小首を傾げる。
「スズ? 言ってないって何をだい?」
「っ、お前には関係な、」
「見ぃつけた」
そこで少年の声が青空に響いた。無邪気で明るい。なのに、どこか絡みつくような声。
スズ達は弾かれたように顔を上げる。
宙空。なにもないはずのそこに、一人の少年が浮かんでいた。
頭から灰色のフードをすっぽり被っている。
顔はよく見えない。
だが、その口元は笑みを浮かべている。
歪んだ微笑みを。
「――アイニ、いつまで寝てるの?」
少年が歌うように口を動かす。その瞬間、何もないはずの空に、紅の魔法陣が現れる。
魔法陣に描かれているのは、矢印のような文様だ。
それが激しく瞬き、人の大きさほどもある炎が突如として生まれて。
急速に膨らんだ炎が、爆発した。