-20180713-
陽が沈もうとしていた。
夜闇に染まっていくのは荒れ果てた街並みだ。瓦礫。ひび割れたアスファルト。ひしゃげた電柱。
そして唯一まっすぐにそびえ立つ、漆黒の〈塔〉。
窓一つない。
周りにかろうじて残るどのビルよりも高い。
そして、天を衝くようにそびえ立つ〈塔〉の先には巨大な〈穴〉が開いていた。
夜闇よりもなお暗く渦巻く、空の〈穴〉。
そんな異様な光景が広がる荒廃した街を一人の少年が駆け抜ける。
肩で忙しなく息をし、表情はひどくこわばっている。頭から被ったえんじ色のフードがはためく。
一心不乱に走っていた彼はしかし、やがて立ち止まらざるをえなくなった。
瓦礫に覆われ道路が寸断されている。
そして獣の唸り声。
「っ……!」
少年は身を固くして振り返った。それと同時だ。
今しがた走ってきたばかりの路地。その奥から砂煙を巻き上げて唸り声の主が現れる。
大人ほどの体躯のある四足の獣だった。全身を薄汚れた毛で覆われ、落ち窪んだ眼下にぎらぎらとした赤い瞳が見える。口元からはだらだらと涎が垂れていた。低く唸りながら吐き出したのは細くて白い何かだ。からん、と乾いた音が鳴り響く。
骨。
「おいおい……今度は俺のこと食べるってのか?」
少年は引きつった笑みを浮かべた。
「やめとけって。分かるだろ? 全然肉とかないし美味しくなさそうじゃん?」
「グルル……」
「お互いのためにさ! なっ!?」
獣の動きが一瞬止まった。これはもしかするともしかするかもしれない。少年は期待のこもった眼差しで魔物の方を見つめる……が。
次の瞬間、唸り声を上げた獣が襲いかかってきた。
「ですよねぇぇぇぇぇ!?」
少年は地面に転がり込んだ。
フードが外れて銀の髪があらわになる。
獣の牙が空を噛んだ。
間一髪――
背筋に冷たい汗をかきながらも、少年は指先を躍らせる。
そこから生まれるのは純白の光だ。
描き出されるのは円と文字が組み合わさった魔法陣。
獣が、唸り声を上げて再び突っ込んでくる。
魔法陣が白い光の粒を散らして輝きを増す。
「彼の者を食え――貪食!」
少年の声と共に、魔法陣から光の塊が獣に向かって飛び出した。
光は瞬く間に獣を飲み込む。獣の姿はすぐに見えなくなる。
それでも獣が悲鳴を上げて身をよじるのが分かった。だが、遅い。
ますます強く輝いた光がまるで獣を飲み下すかのように一度大きく震える。
獣の声がふつりと止む。
獣を食べた光の塊は見る間に小さくなり、イタチのような真っ白な動物の形をとって――
「うっし、計画通ぶわっ!?」
「きゅううっ!」
肩の力を抜く。その瞬間、顔面に先ほど喚び出したイタチがぶつかってきて、少年はそのまま倒れこんだ。
愛らしい鳴き声と共に全力で頬ずりされる。
くすぐったい。
というか、息苦しい。
「や、やめろってミトラ!」
柔らかい毛を掴んで引き剥がした。少年の目の前で首元を掴まれたイタチ、もといミトラがぶらりと揺れる。
長く垂れた真っ白な耳が不満げに動いた。
「きゅうう……」
「そんな声出したって無駄だからな! ったく、突然飛びついてくるなって言っただろ?」
「きゅうきゅう!」
「魔物食べたからいいだろって? いや確かにそうかもしれな、」
『えー、こちら学園本部。学園本部。付近で魔物と交戦中の学生諸君に通達だ』
イヤフォンから響く、ノイズ混じりの声。
少年は眉を潜めた。
「通信……?」
『現在、学園の要人が三丁目地区を移動中。このため魔物および精霊の攻撃など危害を加えるものはこちらへ寄越さないように。繰り返す、我々は……』
「……しまった……!」
少年は、はっと顔を上げて駈け出した。ばたばたと彼の手の中でもがいたミトラが肩の上に飛び乗る。
「きゅう?」
「さっきお前が食った悪食狼! 群れから離した一匹だっただろ! 残りの奴らは……!」
来た道を戻って角を曲がった。開けた道に出る。折れ曲がった信号機。その下の看板には三丁目の文字だ。
そしてそこかしこから響き渡る、あの獣の――悪食狼の咆哮。
「きゅう!」
ミトラが鋭く声を上げて毛を逆立てた。
白毛の下に隠れていたのは、全身を覆い尽くすような無数の目。
それが一斉に開かれる。
見つめる先には人影だ。
三人……いや四人。道の先で十数匹の悪食狼に襲われている。人影が動く度にはためくのは自分と同じ色のフードだ。
幸か不幸か学園の生徒らしい。逃げるのではなく戦ってなんとかしようとしているのが遠くからでも分かる。
「先に行け! ミトラ!」
「きゅ!」
ミトラが、飛び出した。瞬く間に純白の光を纏い、熊ほどの大きさとなって悪食狼の群れに突進する。少年も腰元から短剣を引き抜いた。魔物に効果はないのは百も承知だが、ないよりはマシだ。言い聞かせて少年も飛び込んだ。
悪食狼の耳障りな鳴き声。男たちの忌々しげな声が時たまに聞こえてくる。けれどすぐに別の悪食狼の鳴き声でかき消された。そしてまた別の悪食狼が興奮したように吠え立てる。
「数多すぎだろ……っ!」
これだから群れの相手をするのは嫌なんだ。小さく毒づきながら辺りを見回すが、いかんせん悪食狼が多すぎた。助けるべき人影どころかミトラの姿も見えない。
向かってきた悪食狼を避けて短剣を振り回す。
が、手応えはない。
安々と逃げた悪食狼が少年とは正反対の方向へ駆けていく。
少年は顔をしかめて追いかけようとする。その時だ。
視界の片隅で、金の光が閃く。
見れば、先ほど悪食狼に襲われていた人間の一人が魔法陣を描いている。宙に浮かび上がる魔法陣は円と文字の組み合わさった巨大なもの。
少年がミトラを喚び出したのと同じように、精霊を喚び出すつもりなのだろう。
だが、こうも周りに魔物がいては。
「隙だらけになるじゃねぇか、馬鹿……!」
「っ、うわ……!?」
慌てて人影に駆け寄った少年は思いっきりタックルをかます。魔法陣を描いていた彼を押し倒す。光がかき消える。
だが、遅かった。
けたたましい悪食狼の鳴き声が聞こえる。短剣を構えながら少年は舌打ちする。
ニ匹だ。近くにいた二匹の悪食狼が突進してきている。傍らから唸り声を上げて飛び出してきたミトラが一匹の悪食狼に襲いかかる。それでもあと一匹。
考えるよりも先に体が動く。短剣を大きく横薙ぎに。斬るというよりも殴った。
悪食狼の鼻先に短剣が突き刺さる。鮮血が飛び散る。
悲鳴を上げて悪食狼がもがく。
「っ……!」
その長い爪が少年の右腕に当たった。激痛。悲鳴を何とか噛み殺す。そこで地面に尻もちをついていたフードと目が合う。
澄んだ、青い瞳。透明な、空を思わせる青い瞳と目があって。。
自分と同い年ぐらいだろうか。一瞬だけ、どうでもいいことがふと少年の頭に浮かんで、消える。
「キミ……!」
「黙ってろ!」
少年の声に気圧されたようにフードは口をつぐんだ。その時だ。短剣を突き刺され、ふらりとよろめいた悪食狼の胴体に、他の悪食狼がかじりついた。
鮮血が飛び散る。独特の生臭い臭いが辺り一面に広がる。その臭いに誘われたように他の悪食狼も次々と襲いかかった。あっという間だ。
悪食狼の群れは残らず倒れた仲間に群がった。
食べられている方の悪食狼の悲鳴が時節聞こえる。それに身を硬くする男に少年は耳打ちした。
「こいつら、目は良くないんだ」
悪食狼の内臓の一部が見えたところで、男が目を逸らした。少年も目を伏せて続ける。
「代わりに臭いで判断してる。それも血の臭いで……あとは分かるだろ?」
「なるほどねぇ~。さすが、スズは言うことが違うね」
皮肉混じりの言葉に少年――スズは振り返った。気付けば、残りの男たちが二人を見下ろすように立っている。
皆、フードは下ろしていた。
軽薄な笑みを浮かべる金髪の男。
不機嫌そうな赤髪の男。
影になってよく見えないが、最後の一人は少女のようだ。青い髪をおさげにした彼女は小さく笑う。
それにスズは眉をひそめる。
口を開いたのは真ん中の赤髪だった。
「やっぱり雑魚は雑魚専門に任せた方が良さそうだな」
「はぁ? どういうこ……ッ!?」
怪我した方の腕を思い切り足蹴にされて、スズは息を詰めた。フードの上に血がにじみ出る。ミトラが唸りながら駆け寄ってくるが、蹴った男はそれをかわして鼻を鳴らした。
「言葉通りだ。それとも我の言うことはお馬鹿さんには難しいか?」
「っ、お、まえら……!」
「せいぜい良い囮になることだ。こちらには我らが主を守るという、より重要な任務があるのだからな」
普段のスズならすぐにでも殴りかかっているところだ。だが腕の痛みで睨みつけるだけで終わってしまう。視界の片隅では悪食狼がしきりに空気の臭いを嗅ぎ始めていた。新しい血の臭いにでも誘われたのか。
冗談じゃない。
傍らにいた青い瞳の男が心配そうな顔をしてスズに手を伸ばそうとする。
だが、その腕は金髪の男に押しとどめられた。
「駄目だよ、アーサー」
「で、でも彼はボクをかばって……!」
「大丈夫大丈夫~。彼だって自分の分はわきまえているはずさ」
物は言いようだ。くそったれ。スズは心の中で呻く。
青い瞳の男はさらに何か言いかけたが、半ば無理やり他の男達に引きずられてどこかに行ってしまった。
あとに残されたのは少年の方をぎらぎらと見つめる赤い飢えた悪食狼の目。ミトラが庇うようにスズの前に立って唸る。
「くっそ……っ、ぜってーあいつら後で見返してやる!」
スズはよろよろと立ち上がって、ミトラの背に乗った。走れ。短く指示する。それが合図だ。
ミトラが悪食狼から逃げるように駆け出す。当然だ。悪食狼は一匹なら低級の魔物だが、群れでいる時は下手な魔物よりずっと強い。戦うなんて余程強いか、余程馬鹿かの二択だ。
勿論、あの男たちは馬鹿の方である。馬鹿というよりも大馬鹿だ。自分を笑ったおさげの少女も、軽い口調で退散を促した金髪も、自分を見下した赤髪も。
自分と同い年くらいの、あの少年も。
青い瞳に浮かんでいた心配そうな色を思い出す。胸がつきりと傷んでスズは目を伏せた。
……自分は、何をしてるんだろう。
「きゅう……?」
「……なんでもねぇよ」
無理やり笑って応じる。心配すんな。そう付け加えれば、ミトラはそれ以上何も言わなかった。
ただ走る速度が上がっただけだ。耳元で流れていく風が、悪食狼の足音も鳴き声も、全部後ろへ押し流していく。やがて何も聞こえなくなる。けれどミトラは走り続けた。悪食狼から逃れても、まだ。
まだ。
「…………」
ミトラの毛をぎゅっと握りしめた。
太陽が投げかける鮮烈な赤橙色の光。人気のない、壊れた街を最後に照らす。
一人きりの夕暮れはやけに染みて、嫌いだった。