↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

「幼馴染は妹みたいな存在」と言う夫へ。では、なぜ私がその妹の子供を預かって、二人のデートを見送っているのでしょうか?

掲載日:2026/10/15

「ちょっと出かけてくるわー」


日曜日の昼下がり。


夫の健太が、玄関からひょいと顔を出して言った。


その隣には、白いブラウスにデニムを合わせた若い女が立っている。


夫の幼馴染、梨沙だ。


そして私の足元には、三歳の男の子が一人。


梨沙の息子、悠斗くん。


「……は?」


私が聞き返したときには、すでに玄関のドアが閉まっていた。


カチャリ。


鍵のかかる音がした。


いや、ちょっと待て。


待て待て待て。


私は今、何を頼まれた?


何も頼まれていない。


「ちょっと出かけてくる」と言われただけだ。


では、なぜ私の足元に三歳児がいる?


「おばちゃん、おなかすいた」


悠斗くんが私のズボンを引っ張った。


「……そうね。おなかすいたね」


私はしゃがんで、男の子と目を合わせた。


子供に罪はない。


ないのだが。


――こいつら、マジで頭おかしいんじゃないのか。


私は天井を仰いだ。


***


私の名前は佐伯真帆。三十八歳。


職業はデイトレーダー。


株式市場が開いている時間帯は自宅の仕事部屋にこもり、モニター四台を相手に売買を繰り返している。


相場がいい年も悪い年もあるが、ここ数年の年間利益はおおむね一千万円前後。


もちろん税金も払っている。


生活は堅実だ。


今住んでいる三LDKのマンションも、結婚前に私が購入したものだった。


住宅ローンは完済済み。


夫の健太は会社員で、年収は五百万円ほど。


結婚して五年になる。


子供はいない。


私たちは共働きで、生活費はそれぞれ一定額を共通口座に入れている。


家事は分担制。


……だったはずなのだが。


一か月ほど前から、我が家の生活は妙な方向へ転がり始めた。


原因は、健太の幼馴染である梨沙だ。


三十四歳。


最近離婚したらしく、三歳の息子を連れて頻繁に遊びに来るようになった。


最初は気の毒だと思った。


小さな子供を抱えての離婚は大変だろう。


健太も言っていた。


「梨沙は昔から妹みたいな存在なんだ。今は大変な時期だから、少し助けてやりたい」


私は頷いた。


困っている人を助けること自体は、悪いことではない。


ところが、だ。


その「助ける」の中身が、どうにもおかしい。


最初はお茶を飲みに来るだけだった。


次は夕食を食べて帰った。


その次は、健太と梨沙が近所のコンビニへ行くあいだ、私が悠斗くんを見ることになった。


「五分だけお願い」


そう言われて、二十分。


次は一時間。


そして現在。


何の相談もなく、子供を置いて二人で出かけるようになったのである。


私は無料の託児所か。


いや、託児所なら事前予約が必要だし、料金も発生する。


私の扱いは託児所以下ではないか。


***


その日、健太と梨沙が帰ってきたのは午後六時を過ぎてからだった。


四時間以上。


四時間以上である。


悠斗くんには冷蔵庫にあった食材で昼食を作り、おやつを食べさせ、トイレに付き添い、眠くなったのでソファに寝かせた。


私は自分の仕事の資料を読むつもりだったが、当然そんな時間はなかった。


玄関が開いた。


「ただいまー!」


健太の明るい声。


「真帆さん、悠斗がお世話になりましたぁ!」


梨沙の甘ったるい声。


私はリビングから二人を見た。


そして、固まった。


白地に紺のボーダー。


夫と梨沙が、まったく同じ柄のTシャツを着ていた。


おそろい。


ペアルック。


しかも、二人とも紙袋を提げている。


「……は?」


口から出たのは、それだけだった。


健太が笑った。


「これ、いいだろ? ショッピングモールで安かったんだよ」


梨沙も嬉しそうにくるりと回った。


「偶然、二人とも気に入っちゃって! 健ちゃんと昔から趣味が合うんですよねぇ」


健ちゃん。


私は結婚して五年、夫を健ちゃんと呼んだことはない。


いや、そこではない。


問題はそこではないのだ。


「……二人で買い物に行ってたの?」


「うん」


「悠斗くんを置いて?」


「真帆がいるから大丈夫だと思って」


「私に聞いた?」


健太がきょとんとした。


「え?」


「子供を四時間以上預かってほしいって、私に頼んだ?」


「いや、でも家にいたじゃん」


出た。


家にいたじゃん。


私は心の中で盛大に拍手した。


素晴らしい。


この男の頭の中では、自宅にいる人間は全員暇らしい。


デイトレーダーは市場が閉まれば無職。


フリーランスは会社に出勤しなければ休日。


家にいる女は、他人の子供を預かるために存在している。


そういう世界観なのだろう。


「健太。私はあなたたちのベビーシッターじゃない」


「そんな言い方するなよ」


梨沙が慌てて口を挟んだ。


「ごめんなさい、真帆さん。でも私、離婚してから本当に大変で……。健ちゃんが息抜きしたほうがいいって言ってくれて」


「息抜きは結構よ」


私は答えた。


「でも、あなたの息子さんを誰が見るかは、先に決めるべきでしょう?」


梨沙は唇を尖らせた。


「真帆さんって、なんか冷たいですね」


冷たい。


そうか。


四時間以上、三歳児の世話をしていた私は冷たいのか。


私は深く息を吸った。


頭の中で何かが弾けた。


パルプンテ。


ドラクエの呪文である。


何が起こるかわからない。


まさに今の私の脳内だった。


***


月曜日の朝。


午前八時四十五分。


私はいつものように仕事部屋のモニターを立ち上げていた。


取引開始前の気配値を確認する。


為替。


先物。


前日の米国市場。


今日の売買候補。


集中力を高めていたところで、インターホンが鳴った。


画面に映っていたのは梨沙だった。


その隣には悠斗くん。


嫌な予感がした。


「おはようございます、真帆さーん!」


「……おはようございます」


「ちょっと健ちゃんとスポーツクラブに行ってくるので、悠斗お願いしまーす!」


私は時計を見た。


八時四十七分。


日本の株式市場が開く十三分前。


「無理です」


「え?」


「仕事です。預かれません」


梨沙は不思議そうに首を傾げた。


「でも、真帆さんってお家でパソコン見てるだけですよね?」


私は一瞬、言葉を失った。


「……仕事ですよ」


「でも、ちょっとくらい大丈夫じゃないですか? 悠斗、おとなしいし」


おとなしい。


昨日は私がトイレに行っているあいだに、ティッシュペーパーを一箱引っ張り出していたが。


子供なんだから、そんなこともある。


だからこそ、目を離せないのだ。


「預かりません」


私ははっきり告げた。


「健太にも伝えてください。今後、私の了承なしに悠斗くんを連れてきても、対応できません」


梨沙の笑顔が消えた。


「……そんなに嫌なんですか?」


「子供が嫌なんじゃありません」


私は答えた。


「私の時間を、勝手に使っていいと思われるのが嫌なんです」


通話を切った。


その直後、スマートフォンが鳴った。


健太からだった。


『梨沙が泣いてるんだけど』


私は画面を見つめた。


『だから?』


すぐに返信が来た。


『少し預かるくらい、いいだろ。困ってる人を助けようって気持ちはないのか?』


私は返事を打った。


『あなたが助ければいいでしょう』


そして通知を切った。


午前九時。


株式市場が開いた。


私の仕事が始まった。


***


その日の夜、健太は不機嫌そうに帰ってきた。


「真帆、お前さあ」


「何?」


「梨沙にあんな言い方することないだろ」


「どんな言い方?」


「預かれません、って冷たく断ったんだって?」


「事実よ」


「たった二時間くらいだぞ?」


「私の仕事中に?」


「だから、お前の仕事ってパソコン見てるだけじゃん」


私は夫を見た。


五年間、一緒に暮らしてきた男。


私の仕事について、これほど理解していなかったのか。


「健太。私が一年にどれくらい稼いでいるか知ってる?」


「一千万くらいだろ」


「そのお金は、どうやって稼いでいると思う?」


「株を売ったり買ったりしてるんだろ」


「そうよ。その売買を判断するために、毎日準備しているの」


「でも、ずっと画面見てるだけじゃん」


私は小さく笑った。


「あなたの仕事だって、椅子に座ってパソコンを見ている時間が長いでしょう?」


「それは違うだろ!」


「何が違うの?」


健太は答えなかった。


私は続けた。


「もう一つ聞くわね」


「……何だよ」


「梨沙さんとおそろいの服を買って、二人でスポーツクラブに通って。あなたたちは、どういう関係なの?」


「はあ!?」


健太が大袈裟に声を上げた。


「何、嫉妬してんの?」


「質問に答えて」


「梨沙は妹みたいな存在だって言ってるだろ!」


「妹みたいな存在」


私は頷いた。


「では、あなたの妹の子供を、なぜ私が育児することになっているの?」


「育児ってほどじゃないだろ!」


「四時間以上預かったわ」


「たった一回じゃん!」


「先週も、その前も預かったわ」


「細かいな!」


私は立ち上がった。


「そうね。私は細かいの」


「……」


「だから、これからは全部、きちんと確認することにするわ」


「何を?」


「あなたとの結婚生活を」


健太が眉をひそめた。


私は静かに告げた。


「もう、続ける意味があるのかわからなくなったから」


***


翌日、私は弁護士事務所へ相談の予約を入れた。


何をどうしたらいいのか。


誰に相談すればいいのか。


ずっと頭の中でぐるぐるしていた疑問に、ようやく答えが見つかった。


自分だけで考えていても、相手の非常識さに振り回されるばかりだ。


ならば、第三者の力を借りればいい。


相談の日、私はこれまでの出来事を時系列にまとめて持参した。


梨沙が訪ねてきた日。


子供を預けられた時間。


夫とのメッセージ。


仕事を妨げられそうになったこと。


そして、マンションの登記事項証明書。


弁護士は資料に目を通し、静かに頷いた。


「まず、ご自宅は結婚前に購入された、あなた名義のマンションですね」


「はい」


「原則として、婚姻前から所有している財産は特有財産です。ただし、住宅ローンの返済や維持費を婚姻中にどう負担してきたかなど、確認すべき点はあります」


「ローンは結婚前に完済しています」


「それなら、その資料も保管しておいてください」


私は頷いた。


「それから、夫と梨沙さんが浮気しているのかどうかは、正直わかりません」


「はい」


「ただ、もう信頼できないんです」


弁護士は私の顔を見た。


「不貞行為が証明できるかどうかと、あなたが婚姻関係を続けたいかどうかは、分けて考えてよい問題です」


その言葉に、私は少しだけ肩の力が抜けた。


「……そうなんですね」


「離婚については、まず話し合いによる合意を目指す方法があります。合意できなければ、調停などの手続きを検討することになります」


「はい」


「それから、子供を預かることについてですが、あなたが当然に引き受けなければならない義務はありません。今後は明確に断ってください」


私は思わず笑った。


「もう断りました」


「それでよいと思います」


私は深く頭を下げた。


帰り道、胸の奥が少し軽くなっていた。


私はずっと、変なことが起きていると思っていた。


でも、何が変なのかをうまく説明できなかった。


夫は私を嫉妬深いと言う。


梨沙は冷たいと言う。


子供がいるのだから助けて当然だと言う。


けれど、違う。


問題は、私が嫉妬しているかどうかではない。


子供が好きか嫌いかでもない。


私の同意もなく、私の時間と労力を勝手に使っていること。


それが問題だったのだ。


***


その週の土曜日。


私は健太に話があると伝えた。


ダイニングテーブルに向かい合って座る。


健太は面倒くさそうに腕を組んだ。


「何だよ、改まって」


「離婚したいの」


「……は?」


「離婚してほしい」


健太はしばらく私を見つめたあと、鼻で笑った。


「梨沙のことで? お前、マジで嫉妬してたんだな」


「違うわ」


「じゃあ何だよ」


「私を大切にしてくれないから」


健太の笑顔が消えた。


「……は?」


「私の仕事を軽く見る。私に相談もなく、他人の子供を預ける。嫌だと言えば冷たいと責める」


私は一つずつ数えた。


「そして、私が困っていることより、梨沙さんが泣いていることのほうが大切なのよね」


「梨沙は離婚したばっかりで大変なんだよ!」


「だから、あなたが支えればいいわ」


「支えてるだろ!」


「そうね」


私は頷いた。


「あなたは梨沙さんを支えている。でも、そのために私を使っているの」


健太は口を開きかけたが、言葉が出なかった。


私は書類を差し出した。


「これは離婚の話し合いについて、私の希望をまとめたものよ。今後は必要に応じて弁護士さんにも入ってもらうつもり」


「……お前、本気なのか?」


「ええ」


「ちょっと待てよ。離婚って、そんな簡単に……」


「簡単じゃないわ」


私は答えた。


「だから、ずっと考えていたの」


健太は書類を見下ろした。


そして、ふと思い出したように言った。


「……じゃあ、このマンションはどうなるんだ?」


私は思わず瞬きをした。


「マンション?」


「そうだよ。離婚したら財産分与とかあるだろ?」


「ああ」


私は静かに頷いた。


「このマンションは、私が結婚前に買って、結婚前にローンも完済したものよ」


「だから?」


「私の特有財産として扱われるのが基本だわ。詳しいことは資料をもとに整理するけれど、半分あなたのものになるわけではないの」


健太の顔が固まった。


「……え?」


「結婚するときに話したでしょう?」


「いや、でも……五年も一緒に住んでたんだぞ?」


「そうね」


「俺にも権利くらい……」


「権利があると思うなら、弁護士さんを通して主張して」


私は穏やかに答えた。


「きちんと確認しましょう」


健太は黙り込んだ。


しばらくして、小さな声で言った。


「……俺、どこに住めばいいんだよ」


私は首を傾げた。


「梨沙さんに相談したら?」


「は?」


「妹みたいに大切な存在なんでしょう?」


「いや、そういう話じゃ……」


「お互いに助け合えばいいじゃない」


健太の口が、ぽかんと開いた。


私は微笑んだ。


「今まで、あなたが一生懸命支えてきたんですもの。きっと今度は、梨沙さんがあなたを助けてくれるわ」


***


それから一か月。


健太は最初、離婚を拒んでいた。


「やり直せるだろ」


「俺が悪かった」


「もう子供は預けないから」


何度もそう言った。


けれど、私の気持ちは変わらなかった。


私が嫌だったのは、子供を預けられたことだけではない。


私を、都合よく使っても構わない人間だと思っていたことだ。


その考えが一度の謝罪で変わるとは、どうしても思えなかった。


話し合いは何度か続いた。


やがて健太も、私の決意が変わらないことを理解したらしい。


私たちは離婚に合意し、必要な手続きを終えた。


健太は自分の荷物をまとめ、マンションを出て行った。


梨沙については、その後どうなったのか知らない。


健太と交際を始めたのか。


幼馴染のままなのか。


スポーツクラブに通い続けているのか。


私には、もう関係のないことだった。


ただ一つ、後日、共通の知人から聞いた話がある。


健太が梨沙に引っ越しの相談をしたところ、彼女は困った顔でこう言ったらしい。


「えー、うち狭いし。悠斗もいるから無理だよ」


……なるほど。


妹みたいな存在とは、そういうものなのか。


私は思わず笑ってしまった。


***


月曜日の朝。


午前八時四十五分。


私はいつものように仕事部屋のモニターを立ち上げた。


為替を確認する。


先物を確認する。


前日の米国市場を確認する。


今日の売買候補を整理する。


誰もインターホンを鳴らさない。


誰も子供を置いていかない。


誰も「家にいるんだから暇だろ」と言わない。


静かな朝だった。


午前九時。


株式市場が開く。


私はマウスに手を添え、画面を見つめた。


今日の相場は、少し荒れそうだ。


けれど、それでいい。


予測できないことが起きるのは、相場ではいつものこと。


大切なのは、自分で判断し、自分で責任を取ることだ。


私はようやく、自分の人生も同じなのだと気づいた。


誰かの機嫌を取るために、時間を差し出す必要はない。


誰かの都合を、自分の義務にする必要もない。


窓の向こうには、秋の青空が広がっていた。


私はコーヒーを一口飲み、ふっと笑った。


「……さて、仕事しましょうか」


その瞬間、スマートフォンに通知が届いた。


健太からだった。


『梨沙と付き合ってるって誤解してるなら、もう一度説明するけど――』


私は通知を横に払った。


説明は、もういらない。


妹でも、幼馴染でも、恋人でも。


好きなように呼べばいい。


ただし。


その人の子供を預かるのは、私の仕事ではありません。


私はスマートフォンを伏せ、取引画面に向き直った。


午前九時一分。


今日最初の注文を出した。


約定を知らせる小さな音が、静かな部屋に響いた。


私の時間が、ようやく私の手に戻ってきた。


――完――



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
面白かったです。 いつもの王宮物も良いけど、現代の方が僕は読み安いかな。 健太はアホだが梨沙は図々しい。 でも、こういう人、いそうだな(笑) 主人公が投資で儲けているのも面白かった
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。