「幼馴染は妹みたいな存在」と言う夫へ。では、なぜ私がその妹の子供を預かって、二人のデートを見送っているのでしょうか?
「ちょっと出かけてくるわー」
日曜日の昼下がり。
夫の健太が、玄関からひょいと顔を出して言った。
その隣には、白いブラウスにデニムを合わせた若い女が立っている。
夫の幼馴染、梨沙だ。
そして私の足元には、三歳の男の子が一人。
梨沙の息子、悠斗くん。
「……は?」
私が聞き返したときには、すでに玄関のドアが閉まっていた。
カチャリ。
鍵のかかる音がした。
いや、ちょっと待て。
待て待て待て。
私は今、何を頼まれた?
何も頼まれていない。
「ちょっと出かけてくる」と言われただけだ。
では、なぜ私の足元に三歳児がいる?
「おばちゃん、おなかすいた」
悠斗くんが私のズボンを引っ張った。
「……そうね。おなかすいたね」
私はしゃがんで、男の子と目を合わせた。
子供に罪はない。
ないのだが。
――こいつら、マジで頭おかしいんじゃないのか。
私は天井を仰いだ。
***
私の名前は佐伯真帆。三十八歳。
職業はデイトレーダー。
株式市場が開いている時間帯は自宅の仕事部屋にこもり、モニター四台を相手に売買を繰り返している。
相場がいい年も悪い年もあるが、ここ数年の年間利益はおおむね一千万円前後。
もちろん税金も払っている。
生活は堅実だ。
今住んでいる三LDKのマンションも、結婚前に私が購入したものだった。
住宅ローンは完済済み。
夫の健太は会社員で、年収は五百万円ほど。
結婚して五年になる。
子供はいない。
私たちは共働きで、生活費はそれぞれ一定額を共通口座に入れている。
家事は分担制。
……だったはずなのだが。
一か月ほど前から、我が家の生活は妙な方向へ転がり始めた。
原因は、健太の幼馴染である梨沙だ。
三十四歳。
最近離婚したらしく、三歳の息子を連れて頻繁に遊びに来るようになった。
最初は気の毒だと思った。
小さな子供を抱えての離婚は大変だろう。
健太も言っていた。
「梨沙は昔から妹みたいな存在なんだ。今は大変な時期だから、少し助けてやりたい」
私は頷いた。
困っている人を助けること自体は、悪いことではない。
ところが、だ。
その「助ける」の中身が、どうにもおかしい。
最初はお茶を飲みに来るだけだった。
次は夕食を食べて帰った。
その次は、健太と梨沙が近所のコンビニへ行くあいだ、私が悠斗くんを見ることになった。
「五分だけお願い」
そう言われて、二十分。
次は一時間。
そして現在。
何の相談もなく、子供を置いて二人で出かけるようになったのである。
私は無料の託児所か。
いや、託児所なら事前予約が必要だし、料金も発生する。
私の扱いは託児所以下ではないか。
***
その日、健太と梨沙が帰ってきたのは午後六時を過ぎてからだった。
四時間以上。
四時間以上である。
悠斗くんには冷蔵庫にあった食材で昼食を作り、おやつを食べさせ、トイレに付き添い、眠くなったのでソファに寝かせた。
私は自分の仕事の資料を読むつもりだったが、当然そんな時間はなかった。
玄関が開いた。
「ただいまー!」
健太の明るい声。
「真帆さん、悠斗がお世話になりましたぁ!」
梨沙の甘ったるい声。
私はリビングから二人を見た。
そして、固まった。
白地に紺のボーダー。
夫と梨沙が、まったく同じ柄のTシャツを着ていた。
おそろい。
ペアルック。
しかも、二人とも紙袋を提げている。
「……は?」
口から出たのは、それだけだった。
健太が笑った。
「これ、いいだろ? ショッピングモールで安かったんだよ」
梨沙も嬉しそうにくるりと回った。
「偶然、二人とも気に入っちゃって! 健ちゃんと昔から趣味が合うんですよねぇ」
健ちゃん。
私は結婚して五年、夫を健ちゃんと呼んだことはない。
いや、そこではない。
問題はそこではないのだ。
「……二人で買い物に行ってたの?」
「うん」
「悠斗くんを置いて?」
「真帆がいるから大丈夫だと思って」
「私に聞いた?」
健太がきょとんとした。
「え?」
「子供を四時間以上預かってほしいって、私に頼んだ?」
「いや、でも家にいたじゃん」
出た。
家にいたじゃん。
私は心の中で盛大に拍手した。
素晴らしい。
この男の頭の中では、自宅にいる人間は全員暇らしい。
デイトレーダーは市場が閉まれば無職。
フリーランスは会社に出勤しなければ休日。
家にいる女は、他人の子供を預かるために存在している。
そういう世界観なのだろう。
「健太。私はあなたたちのベビーシッターじゃない」
「そんな言い方するなよ」
梨沙が慌てて口を挟んだ。
「ごめんなさい、真帆さん。でも私、離婚してから本当に大変で……。健ちゃんが息抜きしたほうがいいって言ってくれて」
「息抜きは結構よ」
私は答えた。
「でも、あなたの息子さんを誰が見るかは、先に決めるべきでしょう?」
梨沙は唇を尖らせた。
「真帆さんって、なんか冷たいですね」
冷たい。
そうか。
四時間以上、三歳児の世話をしていた私は冷たいのか。
私は深く息を吸った。
頭の中で何かが弾けた。
パルプンテ。
ドラクエの呪文である。
何が起こるかわからない。
まさに今の私の脳内だった。
***
月曜日の朝。
午前八時四十五分。
私はいつものように仕事部屋のモニターを立ち上げていた。
取引開始前の気配値を確認する。
為替。
先物。
前日の米国市場。
今日の売買候補。
集中力を高めていたところで、インターホンが鳴った。
画面に映っていたのは梨沙だった。
その隣には悠斗くん。
嫌な予感がした。
「おはようございます、真帆さーん!」
「……おはようございます」
「ちょっと健ちゃんとスポーツクラブに行ってくるので、悠斗お願いしまーす!」
私は時計を見た。
八時四十七分。
日本の株式市場が開く十三分前。
「無理です」
「え?」
「仕事です。預かれません」
梨沙は不思議そうに首を傾げた。
「でも、真帆さんってお家でパソコン見てるだけですよね?」
私は一瞬、言葉を失った。
「……仕事ですよ」
「でも、ちょっとくらい大丈夫じゃないですか? 悠斗、おとなしいし」
おとなしい。
昨日は私がトイレに行っているあいだに、ティッシュペーパーを一箱引っ張り出していたが。
子供なんだから、そんなこともある。
だからこそ、目を離せないのだ。
「預かりません」
私ははっきり告げた。
「健太にも伝えてください。今後、私の了承なしに悠斗くんを連れてきても、対応できません」
梨沙の笑顔が消えた。
「……そんなに嫌なんですか?」
「子供が嫌なんじゃありません」
私は答えた。
「私の時間を、勝手に使っていいと思われるのが嫌なんです」
通話を切った。
その直後、スマートフォンが鳴った。
健太からだった。
『梨沙が泣いてるんだけど』
私は画面を見つめた。
『だから?』
すぐに返信が来た。
『少し預かるくらい、いいだろ。困ってる人を助けようって気持ちはないのか?』
私は返事を打った。
『あなたが助ければいいでしょう』
そして通知を切った。
午前九時。
株式市場が開いた。
私の仕事が始まった。
***
その日の夜、健太は不機嫌そうに帰ってきた。
「真帆、お前さあ」
「何?」
「梨沙にあんな言い方することないだろ」
「どんな言い方?」
「預かれません、って冷たく断ったんだって?」
「事実よ」
「たった二時間くらいだぞ?」
「私の仕事中に?」
「だから、お前の仕事ってパソコン見てるだけじゃん」
私は夫を見た。
五年間、一緒に暮らしてきた男。
私の仕事について、これほど理解していなかったのか。
「健太。私が一年にどれくらい稼いでいるか知ってる?」
「一千万くらいだろ」
「そのお金は、どうやって稼いでいると思う?」
「株を売ったり買ったりしてるんだろ」
「そうよ。その売買を判断するために、毎日準備しているの」
「でも、ずっと画面見てるだけじゃん」
私は小さく笑った。
「あなたの仕事だって、椅子に座ってパソコンを見ている時間が長いでしょう?」
「それは違うだろ!」
「何が違うの?」
健太は答えなかった。
私は続けた。
「もう一つ聞くわね」
「……何だよ」
「梨沙さんとおそろいの服を買って、二人でスポーツクラブに通って。あなたたちは、どういう関係なの?」
「はあ!?」
健太が大袈裟に声を上げた。
「何、嫉妬してんの?」
「質問に答えて」
「梨沙は妹みたいな存在だって言ってるだろ!」
「妹みたいな存在」
私は頷いた。
「では、あなたの妹の子供を、なぜ私が育児することになっているの?」
「育児ってほどじゃないだろ!」
「四時間以上預かったわ」
「たった一回じゃん!」
「先週も、その前も預かったわ」
「細かいな!」
私は立ち上がった。
「そうね。私は細かいの」
「……」
「だから、これからは全部、きちんと確認することにするわ」
「何を?」
「あなたとの結婚生活を」
健太が眉をひそめた。
私は静かに告げた。
「もう、続ける意味があるのかわからなくなったから」
***
翌日、私は弁護士事務所へ相談の予約を入れた。
何をどうしたらいいのか。
誰に相談すればいいのか。
ずっと頭の中でぐるぐるしていた疑問に、ようやく答えが見つかった。
自分だけで考えていても、相手の非常識さに振り回されるばかりだ。
ならば、第三者の力を借りればいい。
相談の日、私はこれまでの出来事を時系列にまとめて持参した。
梨沙が訪ねてきた日。
子供を預けられた時間。
夫とのメッセージ。
仕事を妨げられそうになったこと。
そして、マンションの登記事項証明書。
弁護士は資料に目を通し、静かに頷いた。
「まず、ご自宅は結婚前に購入された、あなた名義のマンションですね」
「はい」
「原則として、婚姻前から所有している財産は特有財産です。ただし、住宅ローンの返済や維持費を婚姻中にどう負担してきたかなど、確認すべき点はあります」
「ローンは結婚前に完済しています」
「それなら、その資料も保管しておいてください」
私は頷いた。
「それから、夫と梨沙さんが浮気しているのかどうかは、正直わかりません」
「はい」
「ただ、もう信頼できないんです」
弁護士は私の顔を見た。
「不貞行為が証明できるかどうかと、あなたが婚姻関係を続けたいかどうかは、分けて考えてよい問題です」
その言葉に、私は少しだけ肩の力が抜けた。
「……そうなんですね」
「離婚については、まず話し合いによる合意を目指す方法があります。合意できなければ、調停などの手続きを検討することになります」
「はい」
「それから、子供を預かることについてですが、あなたが当然に引き受けなければならない義務はありません。今後は明確に断ってください」
私は思わず笑った。
「もう断りました」
「それでよいと思います」
私は深く頭を下げた。
帰り道、胸の奥が少し軽くなっていた。
私はずっと、変なことが起きていると思っていた。
でも、何が変なのかをうまく説明できなかった。
夫は私を嫉妬深いと言う。
梨沙は冷たいと言う。
子供がいるのだから助けて当然だと言う。
けれど、違う。
問題は、私が嫉妬しているかどうかではない。
子供が好きか嫌いかでもない。
私の同意もなく、私の時間と労力を勝手に使っていること。
それが問題だったのだ。
***
その週の土曜日。
私は健太に話があると伝えた。
ダイニングテーブルに向かい合って座る。
健太は面倒くさそうに腕を組んだ。
「何だよ、改まって」
「離婚したいの」
「……は?」
「離婚してほしい」
健太はしばらく私を見つめたあと、鼻で笑った。
「梨沙のことで? お前、マジで嫉妬してたんだな」
「違うわ」
「じゃあ何だよ」
「私を大切にしてくれないから」
健太の笑顔が消えた。
「……は?」
「私の仕事を軽く見る。私に相談もなく、他人の子供を預ける。嫌だと言えば冷たいと責める」
私は一つずつ数えた。
「そして、私が困っていることより、梨沙さんが泣いていることのほうが大切なのよね」
「梨沙は離婚したばっかりで大変なんだよ!」
「だから、あなたが支えればいいわ」
「支えてるだろ!」
「そうね」
私は頷いた。
「あなたは梨沙さんを支えている。でも、そのために私を使っているの」
健太は口を開きかけたが、言葉が出なかった。
私は書類を差し出した。
「これは離婚の話し合いについて、私の希望をまとめたものよ。今後は必要に応じて弁護士さんにも入ってもらうつもり」
「……お前、本気なのか?」
「ええ」
「ちょっと待てよ。離婚って、そんな簡単に……」
「簡単じゃないわ」
私は答えた。
「だから、ずっと考えていたの」
健太は書類を見下ろした。
そして、ふと思い出したように言った。
「……じゃあ、このマンションはどうなるんだ?」
私は思わず瞬きをした。
「マンション?」
「そうだよ。離婚したら財産分与とかあるだろ?」
「ああ」
私は静かに頷いた。
「このマンションは、私が結婚前に買って、結婚前にローンも完済したものよ」
「だから?」
「私の特有財産として扱われるのが基本だわ。詳しいことは資料をもとに整理するけれど、半分あなたのものになるわけではないの」
健太の顔が固まった。
「……え?」
「結婚するときに話したでしょう?」
「いや、でも……五年も一緒に住んでたんだぞ?」
「そうね」
「俺にも権利くらい……」
「権利があると思うなら、弁護士さんを通して主張して」
私は穏やかに答えた。
「きちんと確認しましょう」
健太は黙り込んだ。
しばらくして、小さな声で言った。
「……俺、どこに住めばいいんだよ」
私は首を傾げた。
「梨沙さんに相談したら?」
「は?」
「妹みたいに大切な存在なんでしょう?」
「いや、そういう話じゃ……」
「お互いに助け合えばいいじゃない」
健太の口が、ぽかんと開いた。
私は微笑んだ。
「今まで、あなたが一生懸命支えてきたんですもの。きっと今度は、梨沙さんがあなたを助けてくれるわ」
***
それから一か月。
健太は最初、離婚を拒んでいた。
「やり直せるだろ」
「俺が悪かった」
「もう子供は預けないから」
何度もそう言った。
けれど、私の気持ちは変わらなかった。
私が嫌だったのは、子供を預けられたことだけではない。
私を、都合よく使っても構わない人間だと思っていたことだ。
その考えが一度の謝罪で変わるとは、どうしても思えなかった。
話し合いは何度か続いた。
やがて健太も、私の決意が変わらないことを理解したらしい。
私たちは離婚に合意し、必要な手続きを終えた。
健太は自分の荷物をまとめ、マンションを出て行った。
梨沙については、その後どうなったのか知らない。
健太と交際を始めたのか。
幼馴染のままなのか。
スポーツクラブに通い続けているのか。
私には、もう関係のないことだった。
ただ一つ、後日、共通の知人から聞いた話がある。
健太が梨沙に引っ越しの相談をしたところ、彼女は困った顔でこう言ったらしい。
「えー、うち狭いし。悠斗もいるから無理だよ」
……なるほど。
妹みたいな存在とは、そういうものなのか。
私は思わず笑ってしまった。
***
月曜日の朝。
午前八時四十五分。
私はいつものように仕事部屋のモニターを立ち上げた。
為替を確認する。
先物を確認する。
前日の米国市場を確認する。
今日の売買候補を整理する。
誰もインターホンを鳴らさない。
誰も子供を置いていかない。
誰も「家にいるんだから暇だろ」と言わない。
静かな朝だった。
午前九時。
株式市場が開く。
私はマウスに手を添え、画面を見つめた。
今日の相場は、少し荒れそうだ。
けれど、それでいい。
予測できないことが起きるのは、相場ではいつものこと。
大切なのは、自分で判断し、自分で責任を取ることだ。
私はようやく、自分の人生も同じなのだと気づいた。
誰かの機嫌を取るために、時間を差し出す必要はない。
誰かの都合を、自分の義務にする必要もない。
窓の向こうには、秋の青空が広がっていた。
私はコーヒーを一口飲み、ふっと笑った。
「……さて、仕事しましょうか」
その瞬間、スマートフォンに通知が届いた。
健太からだった。
『梨沙と付き合ってるって誤解してるなら、もう一度説明するけど――』
私は通知を横に払った。
説明は、もういらない。
妹でも、幼馴染でも、恋人でも。
好きなように呼べばいい。
ただし。
その人の子供を預かるのは、私の仕事ではありません。
私はスマートフォンを伏せ、取引画面に向き直った。
午前九時一分。
今日最初の注文を出した。
約定を知らせる小さな音が、静かな部屋に響いた。
私の時間が、ようやく私の手に戻ってきた。
――完――




