妻が俺の三千万円の成功報酬で大学生インターンにマイバッハを買った。その後、法廷に立った妻は泣くことすらできなかった
妻の神谷美咲が経営する会社に、二十二歳の大学生インターンが入ってきた。
三浦悠斗。大学四年生で、卒業を控えた長期インターンだった。入ってまだ一か月も経たないうちに、美咲は「プロジェクト用の社用車」という名目で、彼にメルセデス・マイバッハを与えた。
その一方で、俺が半年かけてチームを率い、澄浜市最大級の複合商業施設案件を受注したことで支給されるはずだった三千万円の成功報酬は、一円も振り込まれていなかった。
美咲に確認すると、返ってきたのはあっさりした答えだった。
「今、会社の資金繰りがちょっと厳しいの」
「あなたの報酬は少し待って。ゲートスクエアの入金があればすぐ払うから」
そして、当然のように続けた。
「私たち、もう何年夫婦やってると思ってるの? そこまできっちり分けなくてもいいでしょう?」
その日の午後、経理に立ち寄った俺は、一枚の支払申請書を見つけた。
金額は三千万円。
メルセデス・マイバッハの購入費用。
使用者は三浦悠斗。
承認者は神谷美咲。
俺はその書類を持って社長室へ向かった。
悠斗は美咲のデスクの脇に立ち、楽しそうに話していた。俺が書類を置くと、先に笑ったのは悠斗だった。
「佐伯さん、まさか社用車一台で怒ってるんですか?」
「そんなに気にすることです?」
俺は美咲を見た。
彼女は眉を寄せただけだった。
「直人、細かいことで騒がないで」
その瞬間、言い争う気がなくなった。
八年間、俺はこの会社で数え切れないほどの後始末をしてきた。
なら、一度くらい見てみてもいい。
俺が手を離したあと、美咲と彼女が選んだ新しい責任者だけで、この会社がどこまでやれるのか。
1
自分のオフィスへ戻ると、俺は澄浜ゲートスクエアの資料整理を始めた。
この案件は、澄浜市でもここ数年で最大規模の再開発プロジェクトだった。資材調達、原価管理、工程、物流、開業準備までを短期間で連動させる必要があり、神谷都市企画が受注できた理由の一つには、俺が長年開発してきたプロジェクト管理システムがあった。
そのシステムの原型は、俺が神谷都市企画に入る前から作っていたものだ。
創業当初、美咲と俺は技術使用に関する契約も交わしていた。会社には正式に許諾したバージョンの利用権があるが、基幹フレームワークそのものの権利は俺に残っている。
会社へ正式に引き渡した設計データ、契約書、工程表、議事録、仕入先情報はすべて整理し直し、サーバーへ保存した。
ただし、まだライセンス契約を結んでいない最終統合モジュールについては、そこで作業を止めた。
もともとは最終検収の一週間前までに、追加契約を済ませて本番環境へ実装する予定だった。
だが、その必要はもうない。
俺は個人用の開発環境を閉じ、暗号化した自分のストレージを持って会社を出た。
今後の作業は、新しい責任者が考えればいい。
この半月、俺はほとんど家に帰っていなかった。
会社で二時間ほど仮眠を取る日もあれば、現場近くのビジネスホテルに泊まる日もあった。
その夜、家に着いたのは十一時近くだった。
玄関を開けた瞬間、足が止まった。
電動歯ブラシ、髭剃り、仕事の本、衣類、書斎に置いてあった私物まで、三つの段ボール箱にまとめて押し込まれている。
リビングからはゲームの音が聞こえていた。
ソファには悠斗が寝転んでいた。
着ているのは、二か月前の出張で買ったまま、一度も袖を通していない濃紺のガウンだった。
悠斗は俺を見ると、ゲーム画面からほとんど目を離さずに言った。
「佐伯さん、今日は帰ってくるんですね」
俺の服についた埃を見て、床へ視線を落とす。
「さっき掃除したばっかりなんで、靴汚れてるなら気をつけてもらえます?」
俺が何か言う前に、寝室のドアが開いた。
部屋着姿の美咲が出てくる。
悠斗がここにいることを説明するより先に、彼女は言った。
「直人、帰ってくるなら連絡してよ」
「自分の家に帰るのに、連絡が必要なのか?」
美咲の顔がわずかに強張る。
「またそういう言い方する」
「悠斗は最近、ゲートスクエアの仕事で遅くなることが多いの。終電を逃す日もあるから、しばらく客室を使わせてるだけ」
「夜に確認したいことがあっても、そのほうが便利でしょう?」
俺は玄関の段ボールを指した。
「じゃあ、これは?」
美咲は少し黙った。
「私がまとめた」
「最近のあなた、ずっと苛立ってるでしょう。少し距離を置いたほうがいいと思ったの」
俺は美咲と悠斗を交互に見た。
「俺を外に出して、こいつを入れるのが距離を置くってことか?」
悠斗がようやくゲームのコントローラーを置いた。
「佐伯さん、考えすぎじゃないですか?」
「俺は客室に泊まってるだけですよ」
「会社からも近いし、毎晩深夜にタクシーで帰れっていうのも効率悪いじゃないですか」
俺は悠斗を無視した。
「この家の頭金、大半を出したのは俺だ」
「住宅ローンもずっと俺が負担してきた」
美咲の表情が冷たくなる。
「でも登記名義は私よ」
「昔、自分で言ったじゃない。会社を始める私に、安心できる場所を持たせたいって」
「私名義の家なんだから、誰を一時的に泊めるかくらい私が決める」
悠斗が小さく笑った。
「佐伯さんが昔会社に貢献したことは知ってますけど、それで何でも佐伯さんの許可が必要になるわけじゃないですよね」
そこまで聞いて、俺の中で何かが静かに切れた。
床に落ちていた服を拾い、段ボールへ戻す。
美咲は俺が反論しなくなったのを見て、少しだけ声を和らげた。
「数日ホテルに泊まって」
「落ち着いたら、また話しましょう」
俺は箱を抱えた。
「わかった」
玄関を出る前に振り返る。
「この家のことは、これから自分でやってくれ」
「会社も同じだ」
美咲は意味がわからないという顔をしていた。
俺はそのままドアを閉めた。
2
その夜は澄浜駅近くのビジネスホテルに泊まった。
翌朝、いつも通り出社する。
フロアへ入った瞬間から、空気がおかしかった。
普段なら挨拶してくる社員たちが目を逸らし、俺が通り過ぎると小声で何か話している。
ほどなく秘書が来た。
「佐伯執行役員、神谷社長がお呼びです」
俺は社長室へ向かった。
昨日とは違い、美咲の態度は妙に穏やかだった。
テーブルには、俺がいつも飲んでいるブラックコーヒーまで置かれている。
「座って」
俺は立ったままだった。
「昨日は少し言いすぎたわ」
「でも、あなたもかなり感情的になってたでしょう。お互いに冷静になる時間が必要だったの」
「八年も一緒にいるのに、本気であなたを切り捨てるわけないじゃない」
「それで?」
美咲はため息をついた。
「直人、最近ちょっと細かすぎるのよ」
「悠斗はまだ二十二歳よ。大学も卒業前で、実際の大型案件に関わるのだってこれが初めて」
「あなたはこの業界で何年もやってきたんだから、若い人に少しくらいチャンスを与えてあげてもいいでしょう?」
そのとき、社長室のドアが開いた。
悠斗が車のキーを指先で弄びながら入ってくる。
「美咲さん」
「昨日、あの車ちょっと走らせてみたんですけど、すごかったです」
そして当たり前のように美咲のデスクの横へ立った。
「ただ、今の席が狭すぎるんですよね」
「ゲートスクエアの図面を広げたら、他に何も置けなくて。打ち合わせのたびに会議室を取るのも面倒ですし」
美咲はほとんど迷わなかった。
「直人」
「今日中に、あなたの部屋を悠斗に空けて」
俺は彼女を見た。
「プロジェクトも渡すのか?」
「今日付で、ゲートスクエアの責任者から外れてもらう」
美咲は机の上の通知書をこちらへ滑らせた。
「当面は他の案件の技術支援に回って。執行役員としての扱いについても、今後見直すわ」
ようやくわかった。
昨日思いついたことではない。
俺が現場に張りついていた半月の間に、すでに決めていたのだ。
「わかった」
午前十時、全体会議が始まった。
美咲が前に立ち、悠斗は最前列に座っていた。
「本日付で、澄浜ゲートスクエアのプロジェクト責任者を三浦悠斗に変更します」
まばらな拍手が起きる。
美咲はそのまま続けた。
「会社が次の段階へ進む以上、過去の実績だけに頼り続けるわけにはいきません」
「若い人材に能力があるなら、積極的に機会を与えるべきです」
彼女の視線が俺に向く。
「個人的な感情や立場への執着で、会社の成長を妨げることは認めません」
会議室の視線が一斉にこちらへ集まった。
悠斗は笑いを堪えている。
美咲は、俺が何か言い返すのを待っているようだった。
俺は立ち上がった。
「責任者の変更は了解しました。必要な引き継ぎは規定通り行います」
悠斗を見る。
「オフィスも空けてある。サーバー上の資料と権限一覧、引き継ぎリストも今日中に送る」
悠斗は少し驚いたようだった。
「今後、俺はゲートスクエアには関わらない」
「頑張ってくれ」
それだけ言って会議室を出た。
3
ゲートスクエアの最終検収を翌日に控えた夜、美咲は澄浜市内のホテルで関係者向けのパーティーを開いた。
まだ検収すら終わっていないのに、社員や協力会社、投資関係者まで呼んでいる。
名目はプロジェクト懇親会だったが、実質的には前祝いだった。
俺にも出席するよう連絡が来た。
前半のプロジェクト責任者だった俺が来なければ、外部から余計な勘繰りをされるかららしい。
夜七時。
俺の席は会場の出口に近い場所だった。
中央のテーブルでは、美咲が赤いドレス姿で取引先と談笑している。
悠斗は白いスーツで、ずっと彼女のそばにいた。
宴も半ばを過ぎたころ、照明が落ちた。
悠斗が大きな花束を抱えて美咲の前へ進み、ブランド物のジュエリーケースを取り出した。
「美咲さん」
「この数か月、ずっと俺を信じてくれて、ありがとうございます」
美咲は驚いた顔をした。
けれど、すぐに笑った。
悠斗が彼女の手を取り、薬指に指輪をはめる。
会場には拍手が起きた。
同時に、何人かが俺を見た。
俺は席を立たなかった。
やがて美咲がマイクを取った。
「せっかく皆さんがいるので、私からも一つお話しさせてください」
彼女は俺を見た。
「直人とは八年間、一緒に歩いてきました」
「会社を立ち上げたばかりのころ、たくさん助けてもらったことも忘れていません」
「でも、感謝と愛情は同じではありません」
ざわめきが広がる。
美咲は悠斗の手を握った。
「最近になって初めて、自分を一番に考えてもらうことが、こんなに嬉しいんだと気づきました」
「もう自分に嘘をつきたくありません」
そして再び俺を見る。
「直人、私たちはここまでにしましょう」
「大人として、私生活の問題をこれ以上会社へ持ち込まないでほしい」
俺は目の前の水を一口飲んだ。
何も言わなかった。
パーティーが終わるころ、美咲と悠斗が俺のテーブルへ来た。
三部の書類を置く。
一つはストックオプション放棄合意書。
二つ目は、ゲートスクエアの責任者変更および業務引継確認書。
三つ目は、俺が個人資金から立て替えていた六百万円分の仕入代金について、会社への請求を放棄するという内容だった。
「仕事の関係も、きれいに終わらせましょう」
「これに署名すれば、もうお互い何も残らない」
悠斗も口を挟む。
「佐伯さん、会社も新しい体制になるんです」
「辞めるなら、昔のものにしがみつかないほうがいいんじゃないですか?」
俺は返事をせず、二枚目の書類を確認した。
署名時点をもって、ゲートスクエアに関する管理権限、要員配置、システム検収、納品判断、以後の業務上の責任は三浦悠斗へ移る。
俺は美咲を見る。
「これも、お前の意思か?」
「そうよ」
「もう責任者じゃないんだから、あとで利益が出たときだけ功績を主張されても困るの」
「わかった」
俺はペンを取り、署名した。
美咲の肩から力が抜ける。
悠斗も笑っていた。
俺は自分の控えを鞄へ入れた。
「これで手続きは終わりだ」
「今後、ゲートスクエアのことは三浦責任者に聞いてくれ」
悠斗は軽く肩をすくめた。
「もちろんです」
彼は本気で信じていた。
自分が引き継いだのは九割以上完成していて、あとは成果だけ受け取ればいいプロジェクトなのだと。
翌朝、俺は人事へ退職届を提出した。
会社の端末、社員証、貸与品もすべて返却した。
美咲から引き止める連絡はなかった。
その日のうちに、俺と神谷都市企画との雇用関係は正式に終了した。
4
翌日の午前十時。
澄浜ゲートスクエアの最終検収が始まった。
美咲と悠斗は予定より二十分も早く現地へ着いていた。
広報担当まで同行させ、検収後の写真撮影まで準備していたらしい。
だが会議室に入った瞬間、空気の違いに気づいた。
澄浜アーバン開発株式会社の開発本部長を中心に、技術責任者、法務部長、施設運営担当者が並んでいる。
テーブルの上に置かれていたのは、検収不合格の報告書だった。
開発本部長が一枚目を美咲の前へ押し出す。
「神谷社長」
「資材管理システムと現場在庫の連携が、なぜまだ完了していないのでしょうか」
美咲が悠斗を見る。
悠斗は慌ててノートパソコンを開いた。
「昨日確認したときは正常でした」
技術責任者が画面をこちらへ向ける。
「正常だったのはデモ環境です」
「本番環境には最終デプロイ用のモジュールが入っていません」
「インターフェース権限も不完全です。資材予測と原価管理についても、最終連携試験が終わっていません」
悠斗の顔色が変わった。
サーバー内を確認する。
図面、原価資料、議事録、取引先情報はすべて揃っている。
だが、本人が当然あると思っていた最終システムだけがない。
「直人が使ってたパソコンは?」
美咲の声にも焦りが混じる。
「あなたが移った部屋にあったでしょう」
「見ました」
悠斗は首を振った。
「会社の資料しか入ってません」
「でも前に、佐伯さんが完成版を動かしてるのは見たことがあります」
開発本部長が口を開いた。
「佐伯さんからは昨日、正式な引継資料が提出されています」
「神谷都市企画へ引き渡されたデータは、すべて一覧化されています」
「一方、佐伯さん個人が権利を保有し、まだライセンス契約を締結していない基幹システムについては、会社資産には含まれていません」
美咲が悠斗を睨んだ。
「あなた、できるって言ったわよね?」
「システムが全部揃ってると思って――」
「思ってた?」
美咲の声が高くなる。
「引き継ぐ前に、技術的には難しくないって言ったのはあなたでしょう?」
「でも最終モジュールがなかったら、誰だって無理ですよ!」
開発本部長が冷たい目を向けた。
「三浦さん」
「それが必要だと理解していたのであれば、責任者を引き受ける前に確認すべきではありませんでしたか?」
悠斗は黙り込んだ。
美咲はすぐに俺へ電話をかけた。
二度続けて呼び出したが、出ない。
会社の固定電話からかけても同じだった。
開発本部長はそれ以上待たなかった。
「本日の検収は中止します」
「現状では、契約期日までの正式引き渡しは不可能と判断します」
「最終支払金の支払いも保留します」
「開業延期によるテナント側の損失、追加費用等については、今後すべて法務を通して協議します」
「待ってください。必ず何とかします」
美咲が食い下がる。
開発本部長は資料を閉じた。
「以後の連絡は法務部を通してください」
「本日は以上です」
昼ごろ、俺は澄浜駅近くのカフェにいた。
スマートフォンには二十件以上の着信が残っていた。
美咲、悠斗、会社。
すべて通知を切った。
コーヒーを半分ほど飲んだところで、美咲が店へ飛び込んできた。
「直人」
「一緒に戻って」
昨夜、壇上で俺との関係を終わらせた女とは思えないほど、顔に余裕がなかった。
「ゲートスクエアが検収を通らなかったの」
「あなたのシステムが完成してない」
「戻って残りを仕上げてくれたら、役職だってすぐ戻す」
「役職?」
俺は鞄から昨日の引継確認書を出した。
「自分で俺に署名させただろ」
「ゲートスクエアはもう三浦悠斗の案件だ」
美咲は自分の署名を見つめた。
「あれは社内の担当変更でしょう。会社が困ってるのに放っておいていい理由にはならない」
「もう退職した人間に、何をしろって言うんだ?」
そのとき、悠斗も店へ入ってきた。
俺を見るなり、テーブルまで来る。
「佐伯直人、わざとシステムを隠したんだろ」
「会社に損害を出すためなら、警察に相談しますよ」
「すればいい」
悠斗が言葉を詰まらせる。
「会社へ正式に引き渡したものは、全部記録が残ってる」
「会社が使っていたバージョンも、ライセンス内容もな」
「足りないのは、まだ契約すらしていない俺個人の技術だ」
「でも必要だってわかってたでしょう!」
「責任者はお前だろ?」
店内の何人かがこちらを見ていた。
悠斗は何も言い返せなかった。
美咲が俺の手首をつかむ。
「直人」
「私たち八年も一緒にやってきたでしょう」
「本当に、このまま会社が潰れるのを見てるつもり?」
俺はその手を外した。
「八年間、問題が起きるたびに俺が処理してきた」
「今はもう新しい責任者がいる」
「一度くらい、自分でやらせればいい」
そのとき美咲のスマートフォンが鳴った。
会社の秘書だった。
「社長、澄浜アーバン開発の法務部長が来ています」
「契約停止に関する正式通知を持ってきています。それと、プロジェクト会計の一部に不審な支出があるので、原本をすべて保全するよう求められています」
美咲の顔から血の気が引いた。
「不審な支出?」
「社用車の購入費や、一部の資材代金について確認したいそうです」
美咲はゆっくり悠斗を見た。
悠斗は視線を逸らした。
5
ゲートスクエアの件から三週間も経たないうちに、神谷都市企画の資金繰りは急速に悪化した。
予定していた最終支払金は止まり、取引銀行は与信枠を再審査した。
資材会社や協力会社からも、未払い代金の請求が次々と届いた。
美咲は他の案件の入金を回してしのごうとしたが、それにも限界があった。
ある午後、俺は自分の口座と各種自動引き落としの整理のため銀行へ行った。
融資相談ブースの近くで、美咲を見つけた。
テーブルには自宅の資料と会社の決算書が広げられている。
追加融資を申し込んでいるらしい。
銀行担当者は丁寧だったが、答えは変わらなかった。
「神谷様、現在の御社の資金状況では、新たな融資は難しいと判断しております」
「また、このご自宅は創業時の融資で担保設定がされており、神谷様ご自身の代表者保証も残っています」
「一部債権について仮差押えの申立ても確認されていますので、追加担保として扱うことはできません」
「でも住宅ローン自体はずっと払ってます」
担当者が画面を確認する。
「直近分はまだ入金されていません」
美咲の顔が変わった。
その瞬間、俺と目が合った。
「直人」
早足で近づいてくる。
「今月の住宅ローン、どうして振り込んでないの?」
「どうして俺が払うんだ?」
「今まではずっとあなたが――」
「今まではな」
俺は彼女を見る。
「あの日、自分で言っただろ」
「登記名義は神谷美咲だから、誰を住ませるかも自分で決めるって」
「なら、支払いも自分でやればいい」
少し離れたところにいた悠斗の表情が変わった。
「美咲さん」
「会社、現金どれくらい残ってるんですか?」
「今だけよ。ゲートスクエアが解決すれば――」
「もう法務同士の話になってますよね?」
「支払い止められて、仕入先からも請求来てるのに、本当に金あるんですか?」
美咲が悠斗を睨む。
「悠斗」
「あの車を買ったのは誰?」
「ゲートスクエアを任せたのは誰?」
「今になって最初に聞くことが、私にいくら残ってるかってこと?」
悠斗の顔も険しくなる。
「車は美咲さんが勝手に承認したんでしょう」
「プロジェクトだって、俺にやれって言ったのはそっちじゃないですか」
「俺が無理やり頼んだわけじゃない」
悠斗はそのまま銀行を出ていった。
美咲も追いかける。
銀行の外では、数社の協力会社担当者と弁護士が待っていた。
美咲自身が朝、「午後には追加融資の結果が出るから、そのあと支払いについて話す」と伝えていたのだ。
一人の担当者が未払い一覧を差し出す。
「神谷社長」
「こちらはもう二度、期限を延ばしています」
「今日中に具体的な支払計画を提示してください」
別の会社の弁護士も書類を出した。
「回答がなければ、明日以降、正式に法的手続へ入ります」
誰も怒鳴らなかった。
だからこそ、美咲の顔は余計に強張っていた。
俺はその横を通り過ぎた。
6
翌日の午後、澄浜アーバン開発の開発本部長から直接連絡があった。
本社へ行くと、すでに業務委託契約書が用意されていた。
「佐伯さん」
「この二日で外部のシステム会社を三社入れました」
「現状から四日以内に本番稼働まで持っていくのは、ほぼ不可能だという結論です」
彼は契約書をこちらへ押した。
「そこで、あなたに直接お願いしたい」
緊急システム復旧およびプロジェクト統括業務。
報酬は五千万円。
「施工チームは?」
「残る意思のあるメンバーは、あなたの判断で再編してください」
「未払いになっている取引先は?」
「ゲートスクエア側で専用口座を用意します」
「復旧に必要な合理的費用は、こちらから直接支払います」
「神谷都市企画は?」
開発本部長は少しだけ間を置いた。
「当面、プロジェクト管理から外します」
俺はペンを取った。
「引き受けます」
現場へ戻ると、以前から一緒に仕事をしていたエンジニアや設計担当者の多くが参加を申し出てくれた。
支払い方法が変わったことで、資材会社も供給を再開した。
俺が権利を持つシステムの正式ライセンス契約も、澄浜アーバン開発と新たに結んだ。
三日間、現場からほとんど離れなかった。
初日に本番環境の再構築を進め、翌日は各システムとの連携試験を行う。三日目には遅れていた資材搬入と施工工程まで整理し、ようやく開業可能な状態が見えてきた。
開業前日の夜。
澄浜市には激しい雨が降っていた。
俺が現場で最終データを確認していると、警備責任者が走ってきた。
「佐伯さん」
「入口に、あなたに会いたいという女性が来ています」
「誰です?」
「神谷美咲さんと名乗っています」
現場の外へ出る。
フェンスの向こうに、美咲がいた。
全身ずぶ濡れだった。
額には擦り傷があり、頬も少し腫れている。
俺を見るなり、フェンスに手をかけた。
「直人」
「助けて」
俺は中から彼女を見た。
「何があった?」
前夜、美咲は悠斗が会社の実印、印鑑証明書、車検証、法人口座のワンタイムパストークンを持ち出そうとしていることに気づいたらしい。
ゲートスクエアの支払業務を任せるため、美咲は以前から悠斗に法人ネットバンクの一部操作権限を与えていた。
二人は玄関で激しく言い争いになった。
美咲が止めようとすると、悠斗は彼女を突き飛ばし、そのままマイバッハで走り去った。
翌朝、会社へ行った美咲は、予備口座から千二百万円が送金されていることに気づいた。
社用車も消えていた。
悠斗は譲渡証明書や委任状を偽造し、中古車業者へ安値で売却していた。
「逃げたの」
「電話もつながらないし、部屋にもいない」
「会社にはもう、本当にお金が残ってない」
美咲はフェンス越しに俺を見る。
「直人、私が間違ってた」
「戻ってきて」
「会社だってあなたに渡す」
「家のことも、全部やり直すから」
「もう一度、最初からやり直そう」
俺は少し黙った。
「三浦悠斗は?」
美咲の顔が歪む。
「もうあいつの話はしないで」
「私、人を見る目がなかったの」
「美咲」
彼女が顔を上げる。
「俺の成功報酬を止めて、あいつの車を承認したのはお前だ」
「ゲートスクエアを任せたのも、お前が決めた」
「俺を会社から外したときだって、迷ってなかった」
「今さら、人を見る目がなかったって言っても、それで全部なくなるわけじゃない」
美咲の顔から血の気が引いた。
俺は現場へ戻ろうとした。
「明日、ゲートスクエアは予定通り開業する」
「今の責任者は俺だ」
「直人!」
後ろから声が飛んでくる。
俺は止まらなかった。
「神谷都市企画のことは、自分で何とかしてくれ」
同じころ、警察は悠斗による会社資金の持ち出しと社用車の不正処分について捜査を始めていた。
それとは別に、澄浜アーバン開発の監査で見つかった不自然な支出も調べられていく。
マイバッハの購入だけではなかった。
過去二年間、美咲は悠斗との私的な飲食や宿泊、一部の高額品購入を接待費やプロジェクト経費として会社に負担させていた。
実態のない業務委託費も複数見つかった。
美咲はそれまで、会社が動いている限り「経営判断」で説明できると思っていた。
だが、通帳と伝票は彼女の都合に合わせて話を変えてはくれなかった。
7
ゲートスクエアの開業当日。
雨は上がっていた。
朝から施設の入口には列ができ、報道関係者やテナント、地元商工会の関係者も集まった。
開発本部長は取材を受けたあと、俺たちのチームを紹介した。
「今回、変更後のスケジュールで開業まで持ってこられたのは、佐伯さんのチームによるシステム復旧と再統括が大きかったです」
取材が終わるころ、銀行から通知が来た。
五千万円の業務委託料が振り込まれていた。
一方、警察は神谷都市企画の口座履歴、会計書類、関係者の供述をもとに証拠を積み上げていた。
美咲は任意の事情聴取への出頭を何度か先延ばしにし、会社資料の一部を処分しようとした形跡も見つかった。
証拠隠滅や逃亡のおそれがあるとして、裁判所から逮捕状が出た。
美咲が逮捕されたのは、会社を出ようとしていたところだった。
ゲートスクエア近くの道路に警察車両が停まったとき、俺は遠くから彼女を見た。
美咲もこちらに気づいた。
しばらく目が合った。
そのとき、隣にいたスタッフが次の工程について質問してきた。
俺はそのまま仕事の話へ戻った。
三浦悠斗は半月近く姿をくらませていた。
複数の口座へ資金を移そうとしたあと、国際線で国外へ出ようとしたところを空港で確保された。
売却した車の代金と、会社から持ち出した金の大半はすでに使われていた。
残った資産は差し押さえられた。
神谷都市企画はその年を越えられなかった。
会社は破産手続に入り、複数の取引先が債権届出を行った。
美咲は創業期の借入について代表者保証を負っていたため、個人資産も無関係では済まなかった。
自宅も最終的に競売手続へ入った。
弁護士からの連絡で知ったが、見に行くことはなかった。
刑事事件の審理には時間がかかった。
澄浜地方裁判所で公判が開かれた日、俺は一度だけ傍聴した。
美咲と悠斗は被告人席にいた。
マイバッハに乗り、高級スーツで会社へ来ていた悠斗は、以前とは別人のように痩せていた。
美咲にも、社内で何もかも自分の思い通りになると信じていたころの鋭さはない。
先に責任を押しつけ始めたのは悠斗だった。
「車の購入を承認したのは神谷社長です」
「当時の俺は大学生のインターンでした」
「会社の資金をどう使うか決める権限なんてありません」
美咲がすぐに反論した。
「最後の千二百万円を勝手に送金したのはあなたでしょう!」
「車を売るための書類を偽造したのもあなたよ!」
「ゲートスクエアだって、絶対にできるって言ったじゃない!」
「それは美咲さんが、佐伯さんなんかもう必要ないって言い続けてたからでしょう!」
「佐伯さんを追い出したのは俺じゃない!」
二人の声が大きくなる。
裁判長が静かに制止した。
「質問された事項に答えてください」
法廷が静まる。
俺は後ろの席に座っていた。
以前、二人が会社で並んでいた姿を思い出した。
悠斗が何か言えば、美咲がそれを肯定する。
あのころは、ずいぶん息の合った二人に見えた。
今はもう、互いに相手のほうが重い責任を負えばいいとしか思っていない。
その後、判決が言い渡された。
美咲については、会社資金の私的流用を繰り返した業務上横領や特別背任などが認定され、拘禁刑八年。
悠斗は会社資金の横領、有印私文書偽造・同行使、会社所有車両の不正処分などにより、拘禁刑五年となった。
判決を知ったのは、仕事の会議が終わったあとだった。
スマートフォンのニュースを一度だけ開く。
それきりだった。
8
三年後。
俺が立ち上げた佐伯建築技術株式会社は、最初の七人から大きく成長していた。
今ではオフィスビルの一フロアを丸ごと使っている。
建築設計だけではない。
プロジェクトマネジメント、原価管理、サプライチェーンシステム、技術ライセンスまでが主力事業になった。
ゲートスクエアのあと、取引先は少しずつ増えていった。
あのプロジェクトをきっかけに俺を知った会社もあれば、三年前の騒動など何も知らず、純粋に実績だけを見て依頼してくる企業もある。
俺には、そのほうが心地よかった。
今の会社では、技術の権利も責任範囲も報酬も、最初にすべて契約へ書く。
夫婦だから。
一緒に会社を作ったから。
そんな曖昧な理由で境界線を消すことは、もうしない。
その日の午後、藤田社長が長期契約の締結に来ていた。
神谷都市企画と取引していたころ、未払いに巻き込まれた資材会社の一人だ。
その後、別の現場で何度か一緒になり、今では主要な協力会社の一つになっている。
署名を終えると、藤田社長は笑った。
「佐伯社長」
「三年前は、まさかこんなふうになるとは思いませんでしたよ」
俺は契約書を返した。
「もう昔の話です」
藤田社長も、それ以上は触れなかった。
そのとき秘書が入ってきた。
「社長、お手紙が届いています」
差出人を見た。
澄浜女子刑務所。
封を開ける。
美咲からだった。
文章は短かった。
一度だけ会いたい。
これが最後のお願いだと書いてある。
その日の午後は、澄浜郊外の新しい現場へ行く予定だった。
刑務所は途中にある。
少し考えたあと、秘書に面会手続を確認してもらった。
9
午後三時。
澄浜女子刑務所へ着いた。
受付と所定の確認を終え、面会室へ案内される。
しばらく待っていると、美咲が入ってきた。
三年ぶりに見る彼女は、ずいぶん痩せていた。
髪は簡素に整えられ、頬も以前よりこけている。
けれど、一番変わったのは目だった。
昔の美咲は、何を話すときも、最後には自分の望んだ形に落ち着くと信じていた。
今、その確信はどこにもなかった。
美咲は席につき、受話器を取った。
「直人……」
俺が反応しないでいると、彼女は言い直した。
「佐伯さん」
声は小さかった。
「来てくれて、ありがとう」
「この三年間、いろいろ考えたの」
「何を?」
美咲は視線を落とす。
「昔は、会社をここまで大きくしたのは自分だと思ってた」
「営業を取ってきたのも、決めるのも私だったから、誰がいなくなっても会社は動くって本気で思ってた」
顔を上げる。
「あなたがいなくなって初めて気づいた」
「難しいことが見えなかったんじゃなくて、ずっとあなたが先に処理してくれてたんだって」
「その話をするために呼んだのか?」
美咲は首を振った。
「仮釈放の審理では、出たあとの生活環境も見られるって言われたの」
「両親には、もう身元引受人にはなれないって断られた」
声が震え始める。
「佐伯さん」
「あなたに、身元引受人になってほしい」
俺はしばらく彼女を見た。
「どうして?」
美咲は戸惑った。
「え?」
「どうして、俺が引き受けると思った?」
彼女は口を開きかけ、長い間黙った。
最後に出てきたのは、その言葉だった。
「だって……私たち、八年も一緒にいたでしょう」
思わず笑ってしまった。
八年。
三年前、美咲はその八年について、感謝はしているが愛ではないと言った。
今度は同じ八年を理由に、俺へ助けを求めている。
「三浦悠斗は?」
美咲の表情が変わる。
「あいつの話はしないで」
声に初めて強い憎しみが混じった。
「あいつに騙されなかったら、私はこんなところにいなかった」
俺は鞄から一通の手紙を取り出した。
「これは二か月前、あいつの弁護士から届いた」
美咲が目を見開く。
「何て?」
「当時は若かった。会社の重要な判断は全部お前がしていた」
「ゲートスクエア以前は、本格的な経営に関与していなかったことを俺から説明してほしいそうだ」
美咲の顔が険しくなる。
「何それ……」
「会社の金を持って逃げたのはあいつなのに」
「車の書類だって偽造した」
「今になって全部私のせいにするつもり?」
俺は彼女を見る。
「さっき、お前も同じことを言ってたぞ」
美咲が黙る。
「悠斗に騙されなかったら、自分はここにいなかったって」
彼女の顔から表情が消えた。
「二人とも、あまり変わってない」
「うまくいってるときは、自分の力だと思う」
「失敗したら、誰に騙されたかを探す」
俺は過去の出来事を一つ一つ並べるつもりはなかった。
「悠斗を会社に入れたのも、権限を与えたのも、お前だ」
「車もプロジェクトも、最終的に承認したのはお前だった」
「俺を外すと決めたときも、お前は自分で選んだ」
美咲は目を伏せた。
長い間、何も言わなかった。
俺は席を立った。
美咲が慌てて顔を上げる。
「直人」
今度は訂正しなかった。
「本当に、駄目なの?」
俺は最後に彼女を見た。
「仮釈放のことは、担当者と弁護士に相談してくれ」
「俺は身元引受人にはならない」
「もう手紙も送らなくていい」
受話器を置く。
そのまま面会室を出た。
扉の手前で一度だけ振り返った。
美咲はまだ椅子に座っていた。
職員が近づき、面会終了を告げる。
俺はそれ以上見なかった。
10
刑務所を出ると、午後の日差しが眩しかった。
車に乗り、シートベルトを締めたところでスマートフォンが鳴った。
澄浜アーバン開発の開発本部長からだった。
「佐伯社長」
「ゲートスクエア二期の最終案、承認が出ました」
「今夜、何社か集まって食事をするんですが、時間ありますか?」
予定を確認する。
午後の現場を見終われば、十分間に合う。
「行けます」
「店の場所、送ってください」
電話を切った。
ナビが新しいルートを表示する。
三年前。
段ボール箱を抱えて家を出たとき、美咲は俺に、自分の立場をよく考えろと言った。
あの言葉について、俺はあとになって何度か考えた。
ただ、出した答えは彼女が望んだものとはまるで違った。
今の俺には、自分の会社がある。
一緒に働く仲間もいる。
新しい取引先は、俺が誰の夫だったかなんて知らない。
昔、誰の尻拭いをしていたかも知らない。
彼らが知っているのは、佐伯直人という一人の人間だけだ。
車を走らせる。
ナビが次の交差点を案内した。
俺はその通りにハンドルを切った。
これからどこへ行くかは、
もう誰かに決めてもらう必要はない。




