プロローグ
「そろそろ限界かもしれないわね……」
窓から差し込む柔らかな日差しが、アンティーク調の調度品を照らしていた。
その一角に設えられたカウンターの隅で、小さな唸りをあげている女性がいる。
このカフェ、ルミエールの店主である御影セレン。
彼女が意気揚々とこのカフェをオープンしてから、今日でおよそ三ヶ月が経過しようとしていた。
自ら遠方まで足を運んで調達した様々な調度品や装飾の数々。こだわりの食器や、寝る間も惜しんで考え抜いたメニュー。
店を利用してくれる皆の憩いの場所になればと様々な趣向を凝らしてきた。しかし……
――まったくお客様が来ないのである。
「……どうしてこうなってしまったのかしら」
無慈悲にマイナスを表す数字に頭を抱え、うなだれるセレン。
しかし、「どうして」と悩みながらも、思い当たる節がないわけではなかった。本人は考えないようにしていたが……
――頑張りすぎてしまったのだ。
大通りから離れた位置にあるこのカフェは人通りも多くなく、集客が命の飲食店を営むには微妙な立地だ。
けれど、そのおかげで建物と場所にかける費用は想定よりかなり安く済ませることができた。
それを良いことに、店内の装飾や調度品の買い付けにふんだんに資金を回し、彼女は自分好みの店を完成させることができたのだ。
しかし、これが失敗であった。
今となってはセレンにも、理由が何となく分かっていた。
古くに土地開発が終了したこの土地は、新しいものよりも慣れ親しんだものを好む人が多く暮らしている。
そんな土地に「新しいカフェ」くらいならまだしも、外観から内装までこだわり抜かれた「本格派カフェ」となると話は別だ。
皆、オープン当初はその目新しさに気にはなるものの、窓から覗くその雰囲気に「自分には敷居が高い」と思い込んでしまう。
そして、それに拍車をかけているのが店主である御影セレン本人であった。
一見すると異国の人に見間違う銀髪と整った顔立ち。フリル仕立てのブラウスやコルセットスカートといった、クラシカルで上品さのある装いが更に人を遠ざけていた。
そうして今日もまた、店の扉は開くこともないまま営業時間の終了を告げる鐘の音が、柱の上で虚しく響いた。
「はぁ……」
無意識に息が漏れる。
「やっぱりあれが良くなかったのかしら……」
今日は珍しく、窓の外に何度か人の姿が見えた時間があった。しかし、あまりにも期待して凝視しすぎてしまった自分を心の中で思い返し、自責の念に駆られていた。
頭をよぎるのは良くないことばかり。そんなことを考えてしまう自分を自覚するたび、自分のことが嫌になりそうだった。
「いけない、切り替えなくっちゃ。今日は今日。明日はきっと誰か来てくださる! ……はず」
そう思うことが日課になりつつあった。セレンは自分で自分を慰めながら、店の片付けを始める。
片付けといっても、使っていない店内ですることなんてほとんどなく、表に出した看板を室内に運んで鍵をかけるだけ。
慣れた動きでそのルーティンを実行するだけの毎日だった。
「今日もお疲れ様でございました。偉いぞ、私。って、あれ……?」
セレンが店の扉のすぐ側の看板に手をかけ、自虐のような独り言を口にしたとき、その影になにか黒いものがあるのが目に入った。
丸い塊のようなその黒い物体は、よく見るとふわふわとした毛に覆われ、震えるように蹲っていた。
「猫ちゃん?」
間違いない。小さな猫。具合が悪いのかほとんど動かず、小さく丸まっていた。
セレンは急いでその猫を抱きかかえた。その体は冷たく、今にも消えてしまいそうな儚さを感じさせた。
「大変……!」
看板を片付けることも忘れ、店をそのままに街中へと駆け出した。
◇
「軽い栄養失調と脱水症状ですね。点滴しましたので、後はお家で様子を見てあげてください」
「……ありがとうございます」
初めて入る動物病院は、なんだかちょっと緊張した。
きょろきょろと周りに視線を奪われるセレンの膝の上で、小さな猫が小さく欠伸をした。
「あなたは気楽なものね……」
さっきまで凍えそうに震えていた小さな体から、ほんのりと体温が伝わってくる。
それがやけに温かく、じんわりと身体の奥まで伝わってくるような感覚。その心地よさに、自然と身体から力が抜けていった。
「御影さーん」
間延びした声が待合いに響き、しばらくしてセレンは自分が呼ばれていることに気づいた。
「あっ、はーい」
自らもつられて間延びした返事をしながら、受付まで猫を抱えたままゆっくりと進んだ。
「初診料と診察と点滴で八千円ですね」
高い! 口には出さなかったが、セレンは驚きのあまり財布を出す手が震えていた。なけなしの一万円札を財布から取り出す。
店のことを考えると一万円は大金だ。思わず涙が出そうになる。
ほどなくして、お釣りの二千円が手渡され、それを大事に財布にしまった。
「猫ちゃん、名前どうします?」
「名前? 今、必要なのでしょうか?」
「そうですね……、一応カルテに記入しないといけないので」
まったく思いもしていなかった問いに、頭が上手く働かない。ふと、腕の中の温もりに視線を落とした。そこには黒い毛並み。
「では……黒い子なので、『ノワール』でお願いいたします」
安直な考えだが、覚えやすくていいだろうと自分に言い聞かせた。
「ノワールちゃんですね」
可愛らしい丸文字でカルテに書かれる「御影ノワールちゃん」の文字。
あれ? もしかして、いつの間にか自分がこの子の飼い主になっているのでは?
そう理解したのは、店に帰ってきたあとのことだった。
すでに暗くなった店内に窓から月明かりが降り注ぎ、室内を明るく照らしている。
その明かりを頼りに、小さな寝息をたてる温もりをそっと近くの椅子の上に置いた。
そして、その隣に自らも腰を落とし、「ふう」と息を吐いたところで、感じないようにしていた疲れがどっと肩にのしかかった。セレンはその重さに抗うことができず、そのまま吸い込まれるように目の前の机に体を預けた。
やがて、一定のリズムで奏でられる呼吸が二つ重なり、夜のルミエールを優しく包んだ。
◇
ピピピピ……
どこかから規則的な機械音が聞こえる。
ピピピピ……
やがてその音はより鮮明になり、はっきり耳に届くようになっていき……
「いけない! 開店の準備しないと!」
急激に意識が現実に引き戻される。
椅子に座ったまま寝ていたことも忘れ、体勢を崩しそうになった。
倒れそうな椅子をなんとか支え、バタバタといつものルーティンをなぞらえていた。
その後、スムーズに準備は進み、なんとか開店までこぎつけた。きっと今日も、誰かが来ることはないのだろうけれど。
そんな気持ちを落ち着けるべく、お気に入りの紅茶を淹れていると何か頭の中で引っかかっているような違和感を覚えた。
なにか忘れているような……
ふわっと立ちのぼる湯気の奥、窓際に黒い影。
「猫ちゃん! 忘れてた!」
手にしていたティーポットを置き、窓際まで急いだ。机と椅子を掻きわけ辿り着くと、黒い毛の隙間から覗く黄色い目がこちらを見つめた。
昨日は無我夢中で気にならなかったが、猫なんてろくに撫でたことすらない。セレンは目の前の存在にどのように接していいのか分からなかった。
けれど一つだけ、彼女にもできることがあった。
「……ノワール」
――名前を呼ぶこと。
不思議と恥ずかしさが込み上げ、小さな声しか出なかった。けれど、目の前の存在は「待ってました」と言わんばかりに澄んだ声で「ニャー!」と鳴いた。
声に実体はなく、実際に手にすることはできない。そんなの当たり前のことだ。
けれど、セレンは何故だか無性にその澄んだ鳴き声を、自らの掌で包み込みたくなった。
そうして無意識に伸ばした指先に擦り寄る柔らかい毛先がくすぐったくて、思わず顔がほころんだ。
「ふふっ、可愛い」
柔らかな毛並みを堪能していると、ふと窓の外に人影が見えた。
昨日の失敗が頭をよぎり、できるだけ顔を上げないように注意して様子を伺うと、何やら話し声が聞こえてきた。
話の内容までは聞き取れないけれど、声の感じからすると若い女性二人といったところだろう。
もしかして、と思うと胸がざわついた。
しかし、その二人はその後すぐに窓の前から姿を消した。
「やっぱりね……期待しすぎちゃいけないのよ」
枯れた笑みがこぼれ、先ほど紅茶を淹れたばかりだったことを思い出した。
「ノワールもなにか食べるもの用意しなきゃね」
セレンが窓際から店の奥へゆっくりと歩き始めたとき。
――チリン。
鐘の音がセレンの背中に届いた。
その鐘の音は店の入り口が開いたことを示す合図。
セレンはその音が本当に思い描いた音であるのかを確認するため、ゆっくりと顔を入り口へと向けた。
するとそこには、若い女性が二人。
「もう開いてますか?」
「見て! やっぱり猫ちゃんがいる!」
思い思いの言葉を口にする二人の様子に戸惑いを隠せなかったが、待ちに待ったお客様。ちゃんとしなければと、心の中で自分に檄を飛ばす。
「大丈夫ですよ。こちらへどうぞ」
頭の中で何度もシミュレーションした通りに言葉が出て少し安心した。
メニューをテーブルに広げ、おすすめのメニューを軽く紹介し、後ろに下がって注文を待つ。
大丈夫、ちゃんとできている。
その後も一つ一つの動作を自分で確認しながらも、何とか食事の提供まで終わらせることができた。
「すいませーん」
ほっと一息ついていると声がかかり、お客様の座るテーブルへ急いだ。
「お待たせいたしました。いかがなさいましたか?」
「私たち、今日初めてこの辺に来たんですけど、こんなカフェがあるなんて初めて知りました」
「おしゃれだし、ご飯も美味しいし、最近できたんですか?」
「えぇ……つい三ヶ月ほど前に」
「そうなんですね! あっ、写真とか撮っても大丈夫ですか? もちろん、お姉さんは写らないようにするので!」
「えぇ……どうぞご自由に」
まさかこんな会話をするとは思わなかった。ちょっと無愛想だったかしら……。
やがて彼女たちはスマホを手に、店の中の写真を撮り始めた。
時々「可愛い」とか「綺麗」といった言葉が飛び交い、それを耳にするたびにちょっと誇らしい気持ちになる。
そんな二人の足元にいつの間にかノワールが近づいていた。
「こら、邪魔しちゃダメよ」
抱き抱えて離れようとすると、一人の女性がそれを制止した。
「大丈夫ですよ! 私たち猫ちゃん好きなんで!」
「この子は看板猫ちゃんですか?」
「いえ、まだそういうわけでは……」
「名前なんて言うんですか?」
「ノワール、と言います」
「ノワールちゃん! あんた可愛いねぇ」
写真を撮られ、撫で回されるノワール。なんだかその顔は満更でもなさそうだった。
「あっ、そろそろ行かなきゃ!」
「すいません、お会計お願いします」
「ありがとうございます。ではこちらへ」
二人をレジまで誘導し、お会計を済ませる。二人で千六百円。
店の経営を考えると足りない額だが、初めての収入に安堵していた。
「また来ますね!」
「ノワールちゃん、ばいばーい」
「ありがとうございました。またお越しください」
チリンと鐘が鳴り、扉が閉まる。
少しの間騒がしかった店内がしんと静まり返った。
けれどセレンの胸の内はうるさいほどに湧き上がっていた。
「ノワール! お客様が来てくれた! 嬉しい!」
ノワールを抱き抱え、その場でクルクルと回った。
この日はあの二人以外は誰も来なかったが、セレンは満足感でいっぱいのまま久々にぐっすりと眠った。
――次の日。
いつものように開店の準備のため、店の扉を開けたセレンは驚きを隠せなかった。
「何よ……これ……」
店の前にはおよそ十人が列をなしていた。
わけも分からぬまま全員を席に通し、営業を開始した。
今まで静かだった場所にこんなにも人がいる。かつて思い描いた空間がそこにあった。
しかし――喜んでばかりもいられなかった。
「……忙しすぎます!」
あれから同じような状況を数日こなしたセレンは疲れ果てていた。
こんなに一気に人が来ることは想定していなかったこともあって、人手が足りない。
そもそもどうして急にお客様がこんなに増えたのか。それは来店したお客様の会話から知ることができた。
最初にきたあの二人の女性。あの二人がこのお店のことをSNSに投稿し、それが思いのほか広まったらしい。
それはとても嬉しいことだが、ここまでの人数ともなるとどうしても対応が遅くなり、お叱りを受けることもしばしばあった。
そのせいで当初に比べると客足が落ち着いていき少しマシにはなったが、それでもまだ大変なことに変わりなかった。
頭を抱えるセレンのすぐそばでノワールがごろんと横になっていた。
「猫の手も借りたいとはこのことね……。さすがに人でも雇おうかしら」
しかし、今までの赤字を考えるとここで人件費がかかることは大きな痛手だった。
「もう少しだけ、もう少し頑張ればきっと楽になるわ……」
この日もまた、疲労から倒れるように横になり眠りについた。
◇
「……大変!」
目が覚めると既に開店時間を大きく上回り、日は高く昇っていた。
急いで用意を済ませ、住居として使用している二階から店舗である一階へと駆け降りる。
「どうしよう……みんな怒っているかもしれないわ……」
もし店の前にお客様が並んでいたら……
セレンは土下座でもする気持ちで一階に足を踏み入れた。
するとそこには既に何組かのお客様が席につき、食事を楽しんでいた。
「どういうこと……?」
何が起きているのか分からず、店内を見渡すとあちこち忙しなく動き回る人の姿があった。
セレンはその人物に近づき、その顔を覗き見た。
黄色い瞳と黒い長髪。女性らしい体つきの見慣れない人物がそこにはいた。
「お目覚めでしたかにゃ! お客様が並んでおられたのでお店は開けておきましたにゃ!」
「……にゃ?」
漫画やアニメの世界でしか見聞きしたことのないような語尾が気になった。
そういえば頭には猫の耳と、後ろには尻尾まである。コスプレにしてはやけに本格的ね……。
「あなた、誰?」
「ノワールにゃ!」
「そう……あなたノワールっていうのね。奇遇ね、うちにも同じ名前の猫がいるわ」
「まだ寝ぼけているにゃ? ボクがそのノワールにゃ!」
そう自信満々に告げる彼女の首元に、見覚えのあるものが見えた。
数日前にノワールに買ってあげた赤いリボン。それと同じものが目の前の女性の首についていた。
「嘘でしょ……」
これがセレンとノワールが、カフェ「ルミエール」で初めて? 出会った日のことである。
AIイラスト投稿アカウントにて作成、投稿した作品から着想を得て書きました。
とりあえず設定を物語にしたかっただけなので、続きを書くかどうかは今の時点では未定です。




