8. 第一部の締め
勇者は、称号を得たまま何も成し遂げていなかった。
魔王を討っていない。
戦果を挙げてもいない。
民を救ったという逸話も、まだ存在しない。
それでも、世界は一つ先に進んだことになっている。
王国の記録には「勇者就任」「初任務完了」という項目が並び、進行状況は順調と判断される。街道は安全で、被害は出ていない。目的は達成された。達成されたはずだ、と。
教会では、祈りの文言が微妙に変わる。
「勇者が選ばれた」から「勇者が歩み始めた」へ。
行動の内容ではなく、時制だけが更新される。
人々もまた、それを疑わない。
勇者が旅立ち、任務を受け、戻ってきた。
それだけで十分だった。英雄譚は、いつもそうして始まるものだと、誰もが知っている。
だが、その始まりにしては、あまりに何も起きていない。
剣は抜かれず、魔法は使われず、勝利の歌も生まれない。
残ったのは、書面と報告と、整理された記録だけだった。
それでも「勇者は動いた」と扱われる。
動いたことにされる。
そう扱うことで、世界は安心する。
勇者本人は、それを否定しない。
肯定もしない。
ただ、そのまま受け取っている。
読者だけが気づいている。
この時点で動いているのは、人ではない。
動き出したのは、言葉だ。
「勇者」という語が、世界の中を先に進み、
期待を生み、解釈を固定し、
次に起こるべき出来事の輪郭を、静かに描き始めている。
行動は、まだ追いついていない。
だが定義は、すでに効力を持っている。
何も起きなかったという事実が、
何かが始まった証拠として、正式に受理されたところで。
そしてここから先、
勇者が何をするかではなく、
勇者という言葉が、何を許さなくなっていくかが、
物語を進めていくことになる。
世界はまだ平穏で、
魔王も健在で、
誰も敗北していない。
ただ一つだけ、
以前と同じではいられなくなったものがある。
それは、
言葉の使われ方だった。




