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勇者は選ばれる存在ではない。 選ばれたことにされる存在である  作者: 南蛇井


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3.魔王軍報告の停滞

魔王軍・戦略記録塔は、黒曜石の柱に囲まれた静かな建造物だった。

戦場から最も遠く、命令からも最も近い場所。


ここでは血の匂いではなく、紙と墨の匂いが支配している。


侵攻計画書は、毎日更新されていた。

部隊編成、補給線、進軍予定路――

書式は完璧で、改訂履歴も途切れない。


だが、そのどれにも実行日が書き込まれない。


発動条件の欄は、常に空白だった。


人間側の混乱を示す報告が、上がってこない。

内乱、暴動、指揮系統の崩壊――

侵攻を正当化する兆候が、どこにも見当たらない。


にもかかわらず、抵抗が強まったという情報もない。


前線から届く文書は、妙に穏やかだった。


――人間領、警戒態勢を確認。

――迎撃準備の兆候なし。

――住民避難の動き、未確認。


記録官は、筆を止める。


「敵戦力低下」とは書けない。

観測されていない。


「好機到来」とも断言できない。

兆候が存在しない。


だが、「危険増大」と記す理由もない。


障害は、どこにもない。

同時に、進行の根拠も、どこにもない。


戦略会議の議事録には、曖昧な言葉が増えていく。


「様子見」

「引き続き観測」

「時機尚早」


誰も反対しない。

誰も賛成もしない。


計画は前に進まないが、否定もされない。


記録官は、矛盾を抱えたまま、仮結論文を書き上げる。


侵攻準備は継続中。

情勢は安定している。


それは、進展があることを示さない文だった。

だが、後退も示していない。


報告書は塔の上層へと送られ、

魔王の玉座に届く前に、何度も複写される。


誰も虚偽を記していない。

ただ、決断に必要な条件が、世界から提示されていないだけだった。


後年、歴史編纂者はこの文書群を、こう評した。


魔王軍は侵攻を諦めていなかった。

だが、侵攻を始める理由もまた、

どこにも存在しなかった。


こうして、

王国は安定し、

教会は継続し、

魔王軍は準備を続けた。


三者の報告は、ただ一文だけで一致していた。


――情勢は安定している。


その安定が、

誰にとって、

何を意味しているのかを、

書ける者はいなかった。

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