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勇者は選ばれる存在ではない。 選ばれたことにされる存在である  作者: 南蛇井


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序章 まだ何も起きていない世界

世界は平衡状態にあった。


魔王は存在している。

それは疑いようのない事実であり、王国の記録にも、教会の教義にも、子ども向けの絵本にすら明記されている。しかし、魔王による侵攻は長らく行われていなかった。最後の大規模な衝突がいつであったかについては諸説あるが、少なくとも現在生きている人間の多くは、それを直接には知らない。


王国は軍備を整えていた。

城壁は修繕され、兵士は定期的に訓練を受け、武器庫の在庫も不足なく管理されている。だが演習は演習の域を出ず、戦果報告は年々簡素になっていった。戦い方は教えられても、戦う理由については誰も詳しく語らなかった。


教会は使命を説き続けていた。

説教壇から語られる言葉は、代々ほとんど変わらない。魔王は討たれねばならず、勇者は選ばれ、世界は救われる。信徒たちはうなずき、祈りを捧げるが、その祈りがいつ、どのような形で叶うのかを問う者はいなかった。問いは信仰を揺るがすものとされ、必要とされていなかった。


人々は「いつか起きる決戦」を前提に生活していた。

畑を耕し、子を育て、家を建て替えながら、どこかでその日を想定している。保存食は多めに作られ、武具は実用性より象徴として家に置かれる。宿屋の壁には古い戦勝譜が飾られているが、それが誰の戦いであったのかを正確に説明できる者は少ない。


子どもたちは勇者ごっこをする。

だが彼らが興味を示すのは勝敗ではなく役割だった。誰が勇者で、誰が魔王で、誰が兵士か。配役が決まれば満足し、物語の結末にはあまり関心を払わない。その遊び方は、大人たちの世界をよく映していた。


魔王領でも、同様の静けさが続いていた。

軍は存在し、将も揃っている。侵攻計画は常に準備段階にあり、しかし発令されることはない。魔王が命じないのか、命じる必要がないのか、その区別は曖昧なまま保たれていた。


この時代は、後から振り返れば、不思議なほど平穏であった。

――と、歴史編纂者は記している。


なぜ平穏であったのかを説明しようとして、彼は筆を止めている。敵が動かなかったからなのか、備えが十分だったからなのか、あるいは誰も始め方を知らなかったからなのか。どの説明も決定打にはならず、最終的に彼は「特筆すべき事件が起こらなかったため、記録が少ない」と書き添えるに留めている。


暦には、かつて「決戦予定年」と書き込まれた痕跡がある。

その年号は、何度も書き直され、薄くなり、今ではほとんど読めない。だが削除されることもなく、毎年の暦に控えめに残され続けている。


この頃、人々は皆、何かが始まるのを待っていた。

だが、何が終わりかけているのかには、誰も気づいていなかった。


勇者は、まだ現れていない。

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