閑話 フィーナの門出
いつもとかわらない朝の光が、薬棚の瓶を照らしていた。ヌルのおかげで取り戻した平和だった。フィーナは、庭で薬草を干しながら、静かにため息をついた。空気が重い。ヌルが村を出てから、三日が経っていた。彼女が去った朝、フィーナは遠くからその背中を見送った。声はかけなかった。かけられなかった。ヌルの歩き方は、静かで、強くて、どこか寂しかった。
「……ありがとう」
その言葉だけが、風に溶けて残った。
ヌルが魔物を倒してくれた夜、村は静かだった。翌朝、子どもたちは外に出て、笑っていた。大人たちは畑を見て、安堵の息をついていた。けれど、誰もヌルの名前を呼ばなかった。誰も、彼女に礼を言わなかった。フィーナだけが、彼女の手を握った。それだけだった。
「助かったね」
「やっと静かになった」
「やっぱり、外の人はすごいね」
「魔法が使えるから自分たちとは違う」
「魔法さえあれば」
村人たちは、そう言って笑っていた。けれど、その笑いは、どこか冷たかった。まるで、ヌルが「道具」だったかのように。魔物のことを知らない彼らは、魔物と戦うことがどれほど大変か知らない。幼い少女が一人で戦うことではないのだ。しかし、私もヌルに押し付けてしまったから人のことは言えない。
広場を通りかかったとき、フィーナは耳を疑った。子どもたちが、ヌルの話をしていた。
「ねえ、あの人、目が赤かったよね」
「髪も白くて、魔物みたいだった」
「ちょっと怖かったよね」
フィーナは足を止めた。子どもたちは、彼女に気づいて黙った。けれど、誰も謝らなかった。
「……ヌルさんは、あなたたちを守ってくれたのよ」
そう言っても、子どもたちは首をかしげるだけだった。その無邪気さが、フィーナには痛かった。
その日の午後、フィーナは村の商人の店を訪ねた。木の棚に干し肉や薬草が並び、奥には年配の商人が座っていた。
「ヌルさん、魔石を持ってきたでしょう?」
「ええ。でも、ここじゃ買えないって言ったよ」
商人は肩をすくめた。
「この村じゃ、価値がわからないからね。王都なら別だけど」
フィーナは、しばらく黙っていた。そして、ぽつりと呟いた。
「……この村って、何も受け取れないのね」
商人は目を細めた。
「どういう意味だい?」
「命を守ってもらっても、感謝しない。力を見せても、怖がるだけ。
優しさを渡しても、気づかない」
商人は黙っていた。フィーナは、静かに続けた。
「私、村を出ようと思うの」
商人は驚いた顔をした。
「フィーナ、君がいなくなったら、この村は……」
「薬草は残していきます。調合の記録も、棚に置いておきます」
「でも、私はもう、ここにいたくない」
フィーナの声は、静かだった。けれど、揺るがなかった。
商人は、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。荷車を出そう。町まで送るよ」
朝が来た。フィーナは荷物をまとめた。薬草の包み。調合の記録。それらを布に包み、肩にかけた。村の小屋を出ると、風が吹いた。けれど、誰も見送らなかった。誰も、彼女の名前を呼ばなかった。
「……まあ、そんなものよね」
フィーナはそう言って、荷車に乗った。商人が手綱を握り、ゆっくりと村を離れていく。
畑が遠ざかり、井戸が小さくなり、広場が見えなくなる。フィーナは、振り返らなかった。
道の先に、町の屋根が見えた。人の声が聞こえる。風が吹いている。フィーナは、荷車から降りた。
「ここからは、自分で歩きます」
商人は頷いた。
「気をつけて。君の薬は、きっと誰かの命を救う」
フィーナは微笑んだ。
「ありがとう。そうなるといいですね」
彼女は歩き出した。ヌルが歩いたように。静かに、強く、そして少しだけ寂しく。




