第八話 この世界は、私に似ていない
フィーナが持っていた薬草の包み。あれは、ヌルには作れないものだった。彼女は小屋を出て、フィーナの家を訪ねた。朝の光が、薬棚の瓶を照らしていた。フィーナは、庭で薬草を干していた。ヌルが近づくと、彼女は少し驚いた顔をした。けれど、すぐに微笑んだ。
「おはようございます。もう出発ですか?」
ヌルは首を振った。
「……薬の調合を、教えてほしい」
フィーナは目を見開いた。けれど、すぐに頷いた。
「もちろん。よかったら、手伝ってもらいながら覚えていきましょう」
ヌルは静かにうなずいた。それは、彼女にとって初めての「学びの申し出」だった。
フィーナは、棚から数種類の乾いた葉を取り出した。
「これはセリナ。傷を癒す力があります」
「こっちはミルクルート。熱を下げるのに使います」
「そして、これは……毒にも薬にもなるもの」
ヌルはその葉を見つめた。色は深い緑。香りはほのかに甘い。けれど、指先に触れると、少しだけ痺れるような感覚があった。
「毒にも、薬にも?」
フィーナは頷いた。
「量と組み合わせ次第です。命を救うことも、奪うこともできる」
ヌルはその言葉を、静かに胸に刻んだ。フィーナは、石臼に薬草を入れ、ゆっくりと潰していく。
「力を入れすぎると、成分が壊れてしまいます」
「優しく、でも確実に」
ヌルはその動きを真似た。指先に力を込めすぎないように。けれど、剣を振るうときとは違う感覚に、少し戸惑った。
「……難しい」
フィーナは笑った。
「でも、上手ですよ。魔法を使う人は、感覚が鋭いから」
ヌルは黙っていた。けれど、心の奥で少しだけ嬉しかった。午後になり、フィーナは棚の奥から黒い瓶を取り出した。
「これは、毒の調合に使う材料です」
「学びたいですか?」
ヌルは迷わず頷いた。
「……知っておきたい。使うかどうかは、別として」
フィーナは少しだけ目を伏せた。
「毒は、命を奪う力です。けれど、魔物に対しては、必要なこともあります」
ヌルは瓶の中身を見つめた。濃い液体が、光を吸い込むように揺れていた。
「毒を作るには、まず冷静であること」
「感情が混ざると、効き目が不安定になります」
ヌルはその言葉に、静かに頷いた。彼女は、感情をしまうことに慣れていた。
その夜、ヌルはフィーナの家の裏庭で、薬草を刻んでいた。風が吹き、葉が揺れる。フィーナが隣に座った。
「あなたは、どうして薬を学ぼうと思ったんですか?」
ヌルはしばらく黙っていた。そして、ぽつりと答えた。
「魔法は、壊すことが多い。剣も、そう」
「でも、薬は……守ることができる」
フィーナは静かに頷いた。
「それに、毒も知っておけば、守るために使えることもあります」
ヌルはその言葉に、少しだけ目を伏せた。
「……誰かを守るために、毒を使う。そんなことが、あるの?」
フィーナは微笑んだ。
「ありますよ。命を奪うためじゃなく、命を守るために使う毒もあるんです。」
「そう、教えてくれてありがとう。」
「村を守ってくれたお礼です。」
フィーナは古びた本を差し出した。薬について書かれた本だった。
「いろいろ実験して作った本なんです。ヌルさんならきっと役に立ててくれるかなって。こんなものしか渡せなくて申し訳ないんですけど。」
「ありがとう。まだ物騒だから気を付けて。」
そう言うとヌルは小屋に戻っていった。
その日の朝、ヌルは小屋の前に立ち、手にした布袋を見つめていた。中には、魔物から取り出した魔石がいくつか入っている。黒く、硬く、冷たい。けれど、確かな価値があるはずだった。
「……売れるはず」
彼女はそう呟き、お出かけすることにした。村の商人のもとへ向かった。昨日、魔物を倒したことで村人たちの態度は少しだけ和らいでいた。けれど、それは「感謝」ではなく「安堵」に近かった。
村の広場にある小さな店。木の棚に干し肉や薬草が並び、奥には年配の商人が座っていた。ヌルは布袋を差し出した。
「魔石です。売りたい」
商人は袋を開け、中身を確認した。黒い魔石を一つ手に取り、光にかざす。しばらく沈黙が続いた。
「……悪くはない。けど、ここじゃ買えないね」
ヌルは眉をひそめた。
「どうして?」
商人は肩をすくめた。
「この村じゃ、魔石を加工できる職人もいないし、買い取る商会もない。もっと大きな町じゃないと、価値がつかないよ」
ヌルは袋を引き戻した。
「じゃあ、持っていくしかないのね」
「そうだね。旅の途中で、王都か交易都市に寄るといい。そこなら、魔石の価値をわかる人がいる」
ヌルはうなずいた。けれど、胸の奥に小さな痛みが残った。彼女が命をかけて得たものは、ここでは「扱えないもの」だった。
広場を歩いていると、子どもたちの笑い声が聞こえた。ヌルが通りかかると、彼らは一瞬黙った。けれど、すぐにひそひそと話し始めた。
「ねえ、あの人、目が赤いよ」
「髪も白いし、なんか怖い」
「魔物みたいじゃない?」
ヌルは足を止めた。子どもたちは、彼女の視線に気づいて、少しだけ怯えた。けれど、誰も謝らなかった。誰も、彼女の名前を呼ばなかった。
「……そうね。魔物みたいかも」
彼女はそう言って、歩き出した。背中に、笑い声が残った。それは、魔物の唸り声よりも冷たかった。
その夜、ヌルは荷物をまとめた。魔術書、片手剣、魔石の袋。それらを布に包み、肩にかけた。村の小屋を出ると、風が吹いた。フィーナが、遠くから見ていた。けれど、声はかけなかった。ヌルも、振り返らなかった。
「……ありがとう」
その言葉は、風に溶けた。彼女は、静かに村を離れた。森の道を歩く。魔石の袋が、肩に食い込む。剣の重さが、腰に響く。魔術書が、背中を押す。
「……重い」
ヌルは立ち止まり、荷物を地面に置いた。それは、彼女が得た「力の証」だった。けれど、誰もそれを見ていない。誰も、それを欲しがらない。
「持っていくしかないのに」
彼女は呟いた。道中、ヌルは焚き火の前で魔術書を開いた。最後の章に、見慣れない印があった。
『収納魔法――空間の折りたたみと魔力の封印』
彼女は目を細めた。
「物を、しまう魔法……?」
詠唱は短かった。けれど、構造は複雑だった。空間を折りたたみ、魔力で封じ、物の形を記憶する。ヌルは地面に印を描き、魔石の袋を置いた。
「風よ、形を記憶して」
「土よ、空間を支えて」
「水よ、揺らぎを整えて」
「火よ、封印を灯して」
魔力が集まり、印が光る。袋が、ふっと消えた。彼女の手のひらに、小さな紋章が残った。
「……しまえた」
ヌルは目を見開いた。魔石の重さが、消えていた。剣も、魔術書も、順にしまっていく。それらは、彼女の魔力の中に「静かに存在する」ようになった。ヌルは焚き火の前で、手のひらの紋章を見つめた。それは、彼女が得た力の象徴だった。誰にも見られず、誰にも触れられず、ただ彼女の中にあるもの。収納魔法から魔石を取り出したり、しまったりしてみる。
「……便利。」
朝が来た。ヌルは荷物を持たず、剣も背負わず、ただ静かに歩いていた。けれど、彼女の中には、すべてがしまわれていた。魔石。剣。魔術書。そして、村での記憶。
「……まあまあ、悪くないかも」
彼女はそう言って、空を見上げた。それは、彼女の背を押すようだった。孤独は、力の代償だった。けれど、力は、孤独をしまう魔法にもなり得た。ヌルは歩き出した。誰にも頼らず、誰にも見送られず、ただ一人で。




