第七話 孤独は力の代償
夜の森に、焚き火の音が小さく響いていた。ヌルは剣を膝に置き、炎の揺らぎを見つめていた。その刃には、乾いた血がこびりついている。魔物のものか、自分のものか、もうわからなかった。風が吹くたびに、マントの裾が揺れる。けれど、彼女の周囲には誰もいない。この旅が始まってから、何日が経ったのかも、もう数えていなかった。
「……静かね」
その声は、焚き火に吸い込まれていった。返事はない。けれど、ヌルはそれに慣れていた。
魔法を覚えたとき、ヌルは「世界との対話」を知った。風は問いかけに応え、火は灯り、土は形を貸し、水は揺らぎを教えてくれた。それは、孤独な彼女にとって初めての「返事」だった。けれど、魔法が上達するにつれて、彼女は言葉を使わなくなった。
無詠唱。意志だけで魔法を発動できるようになったとき、彼女は気づいた。もう、世界に言葉をかける必要がないのだと。それは、進化だった。けれど、同時に「対話の終わり」でもあった。魔法は、彼女の中で完結するようになった。世界と繋がる必要がなくなった。それは、強さだった。けれど、どこかで、寂しさを感じていた。
ヌルは強くなっていた。魔物との戦いは、もはや恐怖ではなかった。剣を振り、魔法を放ち、敵を倒す。そのすべてが、彼女の中で快感に変わっていた。
「もっと、速く」
「もっと、鋭く」
「もっと、強く」
その思いが、彼女を突き動かしていた。けれど、誰もその姿を見ていなかった。誰も、彼女の強さを知らなかった。それでも、ヌルは戦い続けた。なぜなら、それしか知らなかったから。それしか、できなかったから。魔石がどんどん積みあがっていく。いい加減に邪魔になってきた。どこか村に行って魔石を売りたい。風魔法で人のいる気配を探す。ここから数十時間歩いた場所に人がいる気配がする。村に向けて歩き始めた。
森を抜けた先に、小さな村があった。ヌルは木陰からその様子を見ていた。人々が薪を割り、水を汲み、子どもが走り回っている。そのすべてが、彼女にとって「初めて見る風景」だった。彼女は、誰にも見られないように、そっと近づいた。けれど、風が彼女のマントを揺らし、枝が音を立てた。一人の女性が振り返った。目が合った。ヌルは動けなかった。女性も、しばらく動かなかった。けれど、やがてゆっくりと歩み寄ってきた。
「……旅の方ですか?」
その声は、柔らかかった。ヌルはうなずいた。言葉が出なかった。
「よかったら、水を飲んでいきませんか」
ヌルは、初めて人間に迎えられた。それは、魔物との戦いよりも、ずっと緊張する瞬間だった。
「私はフィーナ。この村の薬師です。」
フィーナに案内され、ヌルは村の井戸のそばに座った。子どもたちが遠巻きに見ていた。
大人たちは、警戒しながらも、フィーナの隣にいるヌルを見て少しだけ安心したようだった。
「あなた、魔法が使えるんですね」
フィーナはそう言って、ヌルの手を見つめた。ヌルは、そっと火の魔法を灯した。指先に、赤い光が揺れる。フィーナは目を見開いた。
「……すごい。こんなに安定してるなんて」
ヌルは何も言わなかった。けれど、フィーナは続けた。
「実は、お願いがあるんです」
フィーナは、村の外れにある森を指さした。
「最近、あの森から魔物が出るようになって……」
「家畜が襲われたり、畑が荒らされたり。夜になると、子どもたちが泣くんです」
ヌルは目を細めた。風の流れが、森の方から冷たく吹いていた。気配がある。
それは、彼女が何度も感じてきた「歪み」だった。
「村には、戦える人がいません。兵士も、魔法使いも」
「だから、お願いです。あなたの力で、村を守ってくれませんか」
フィーナの声は、震えていた。けれど、瞳はまっすぐだった。
ヌルは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……わかった。やってみる」
その言葉に、フィーナは目を潤ませた。
「ありがとうございます……本当に」
ヌルは村の外れにある小屋を借りた。剣を磨き、魔法陣を描き、風の流れを読む。
魔物は、夜に動く。彼女はそれを知っていた。フィーナが、薬草の包みを持ってきた。
「傷に効くものです。使ってください」
ヌルは受け取り、うなずいた。
「ありがとう」
それは、久しぶりに口にした言葉だった。フィーナは微笑んだ。
「あなた、優しいんですね」
ヌルは答えなかった。けれど、心の奥で何かが揺れた。
夜が来た。森から、唸り声が響いた。ヌルは剣を抜き、魔法を展開する。風が背を押し、火が灯り、土が足元を支え、水が視界を澄ませる。魔物が現れた。黒い毛並み。鋭い爪。赤い瞳。それは、村を狙っていた。ヌルは跳び、斬り、焼き、貫いた。魔物は吠え、暴れ、けれど、彼女の力には届かなかった。最後の一撃。剣が魔物の心臓を貫く。魔物は崩れ、静かになった。
朝が来た。村は静かだった。けれど、子どもたちが外に出て、笑っていた。大人たちが畑を見て、安堵の息をついていた。フィーナがヌルのもとに駆け寄った。
「本当に、ありがとうございました」
ヌルはうなずいた。
「……もう、大丈夫」
フィーナは、そっとヌルの手を握った。
「あなたが来てくれて、よかった」
ヌルは、何も答えなかった。




