第五話 誰も見送らぬ門出
ヌルは部屋に戻り、荷物をまとめた。といっても、持っていくものは少ない。魔術書、手入れした片手剣、それらを布に包み、肩にかけた。
「……重くはないけど、軽くもない。」
彼女はそう呟いた。
ヌルは城の中を歩いた。音楽室。図書室。中庭。地下倉庫。彼女が魔法を覚えた場所。剣を振った場所。土の動物を並べた場所。音楽室では、ピアノの蓋をそっと開けた。
城の正門は、重い鉄でできていた。錆びていたが、まだ動いた。ヌルは両手で押した。軋む音が、静寂を破った。扉の向こうには、森が広がっていた。木々は揺れ、道は細く、空は高かった。彼女は一歩、外へ踏み出した。足元の感触が違った。石ではなく、土だった。それは、彼女が魔法で触れてきたもの。けれど、今は「世界そのもの」として、彼女の足を支えていた。風が吹いた。髪が揺れ、マントが翻った。門出の朝。ヌルは中庭に立ち、土の動物たちの前にしゃがみ込んだ。
ラビちゃん、にゃん太郎、ぴよちゃん――
彼女の手で形づくられた、小さな命のような存在たち。朝露に濡れた彼らの表面が、やわらかく光っていた。
「……ちょっと、出かけてくるね」
ヌルはそう言って、ラビちゃんの頭をそっと撫でた。長い耳が、風に揺れる。まるで、うなずいているようだった。
「お城のこと、お願いね。誰か来たら、ちゃんと見てて」
にゃん太郎の丸い顔を覗き込む。その黒い石の瞳が、じっと彼女を見つめ返していた。
「にゃん太郎は、夜の見回り担当。ラビちゃんは、鍵の管理。ぴよちゃんは……空からの監視ね」
ぴよちゃんは、いつものように高い石の上にちょこんと座っていた。羽の先が、朝の風にふるふると震えている。ヌルはその羽を指先で整えながら、微笑んだ。
「飛べなくても、空を見ていられるなら、それでいいって言ったけど……やっぱり、ちょっとだけ飛べるようにしておこうか」
彼女はそっと詠唱を唱え、小さな風の魔法をぴよちゃんの足元に宿らせた。それは、ほんのわずかな浮力。けれど、風が吹けば、ぴよちゃんの身体がふわりと揺れるようになった。
「これで、見晴らしがよくなるね」
ヌルは立ち上がり、三体の動物たちを見渡した。彼女の手で生まれた、静かな仲間たち。
言葉は交わせない。けれど、確かに通じ合っていた。
「帰ってくるまで、ここを守ってて。……お願いね」
風が吹いた。ラビちゃんの耳が揺れ、にゃん太郎の尻尾がそっと動いたように見えた。
ぴよちゃんは、空を見上げていた。ヌルは背を向け、歩き出した。けれど、数歩進んでから、もう一度振り返る。
「……行ってきます」
その声は、風に乗って中庭に残った。土の動物たちは、静かにそこにいた。まるで、ずっとそこにいてくれると約束してくれているように。城は、もう彼女の背中にあった。
森を抜けると、丘があった。彼女はそこに登り、空を見上げた。雲は流れ、太陽は高く、風は背を押していた。ヌルは詠唱を唱えた。
「風よ、支えて」
「土よ、離れて」
「重力よ、ほどけ」
身体が、ふわりと浮いた。彼女は両腕を広げ、空に舞った。それは、旅の始まりだった。彼女は空を飛びながら、地上を見下ろした。森、川、村、道。すべてが、彼女の知らない世界だった。けれど、怖くはなかった。その思いが、彼女の魔法を支えていた。
ヌルは空を飛びながら、ふと考えた。「門出」とは、何を意味するのか。それは、過去を捨てることではない。それは、過去を背負って、未来へ向かうこと。だからこそ、彼女は強くなろうと思った。胸を張って生きるために。
丘を降りて森に再び足を踏み入れた。森は静かだった。木々は高く、葉は密に重なり、昼なのに薄暗い。ヌルは枝を避けながら、ゆっくりと進んでいた。
旅に出て三日目。川を渡り、今はこの森を抜けようとしていた。風の流れが変わった。空気が重くなる。鳥の声が消え、葉のざわめきが止まる。ヌルは立ち止まった。気配がある。風魔法で周囲を探る。草の揺れ、枝の震え、地面の振動――それらが、彼女の皮膚に触れるように伝わってくる。
「……そこ」
彼女は手を伸ばす。風が集まり、一本の枝を弾き飛ばす。その瞬間、茂みの奥から何かが飛び出した。黒い毛並み。鋭い爪。赤い瞳。四足の獣――魔物だった。牙は長く、唸り声は低く、地面を削るように走る。ヌルは跳んだ。土魔法で足場を盛り上げ、空中へ。火の魔法で指先に灯をともす。それを矢のように放つ。魔物は避けた。速い。けれど、ヌルの目はそれを捉えていた。
「土よ、支えとなれ」
彼女は地面に印を刻み、魔物の足元を崩す。土が沈み、魔物の体勢が乱れる。その隙に、ヌルは片手剣を抜いた。剣は重い。けれど、彼女の腕はそれを支えられるようになっていた。
魔物が跳びかかる。ヌルは剣を振る。風の魔法で軌道を補正し、火の魔法で刃を熱する。金属が肉を裂く音。魔物が吠える。けれど、まだ倒れない。ヌルは後退し、呼吸を整える。魔物は傷を負いながらも、執拗に追ってくる。その瞳には、理性がなかった。ただ、飢えと怒りだけが宿っていた。
「……対話は、できないか」
彼女はそう呟いた。魔法とは、世界との対話。けれど、この魔物は、世界の歪みだった。ヌルは両手を広げ、詠唱を唱える。
「風よ、支えて」
「火よ、灯れ」
「土よ、形を貸して」
「水よ、揺らぎを整えて」
四つの魔法が、彼女の周囲に集まる。風が渦を巻き、火が灯り、土が盛り上がり、水が空気を震わせる。それは、彼女の「今までのすべて」だった。魔物が跳ぶ。ヌルは剣を構える。風が剣を押し、火が刃を包み、土が足を支え、水が彼女の心を整える。
一閃。
魔物の動きが止まる。赤い瞳が揺れ、牙が震え、身体が崩れる。ヌルは剣を下ろした。魔物は、もう動かなかった。彼女は膝をつき、深く息を吐いた。身体が痛む。けれど、それが心地よかった。
「……まあまあ、悪くないかも」
彼女はそう言って、空を見上げた。森の上には、雲が流れていた。風が吹き、葉が揺れる世界が、少しだけ応えてくれた気がした。ヌルは立ち上がり、魔物の亡骸に目を向けた。その姿は、どこか哀しかった。誰かに忘れられ、誰にも見られず、ただ飢えと怒りだけを抱えていた存在。
「殺すのって楽しい」
魔石だけ取り出すと、彼女は土魔法で、魔物の身体を覆った。森の風が、彼女の髪を揺らした。ヌルは剣を収め、歩き出す。その背中は、少しだけ強くなっていた。




