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吸血姫Nullが人間に堕ちるまで 〜第二部制作中〜  作者: 早乙女姫織


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ミデン編 第一話   残された足音、消えた背中

やや話がかぶります。ミデン視点です。

王都の朝は、いつもと同じように始まった。

鐘の音が遠くで響き、商人たちが店を開き、荷車が石畳を軋ませながら通りを行き交う。

けれど、ミデンの耳には、そのざわめきが妙に遠く感じられた。

彼は、〈月影の宿〉の裏庭へと足を運んでいた。

昨日までなら、そこには必ずヌルがいた。

鎌を背に、剣を磨き、あるいは魔力の流れを確かめるように静かに立っていた。

その姿を見つけるだけで、ミデンは安心できた。自分がまだ未熟でも、彼女が隣にいる限り、剣を振るう意味を見失わずにいられた。


だが、その朝。

裏庭には、誰もいなかった。


石畳の上には、昨日の稽古で残った足跡がかすかに残っていた。

剣を振り下ろしたときに踏み込んだ跡。受け流したときに滑った跡。

それらは確かにヌルがそこにいた証だった。

けれど、今はただ冷たい朝露に濡れているだけで、彼女の影はどこにもなかった。

「……ヌルさん?」

呼びかけても、返事はない。

風が草を揺らす音だけが、空しく響いた。

ミデンは、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。


昨日まで当たり前だった存在が、突然消えてしまった。

それは、剣を振るうときに背中を支えてくれる影がなくなったような感覚だった。

「……どこへ行ったんだ」

呟きは、誰にも届かない。


彼は短剣を抜き、構えてみた。

だが、刃を振るう音は、あまりにも軽く、頼りなかった。

ヌルが受け止めてくれるはずの衝撃も、返してくれるはずの火花も、そこにはなかった。

剣を振るうたびに、孤独が深まっていく。

「一人でやる」ということが、これほど重いものだとは思わなかった。


昼前、ミデンは〈蒼銀の環〉商会へ足を運んだ。

ヌルがいない理由を知りたかった。

もしかしたら、彼女は素材の取引に来ているのかもしれない。

そう思って、商会の扉を押した。

帳簿をめくっていたレイヴが顔を上げた。

その目は、すでに答えを知っているようだった。


「……来ると思っていたよ」

「ヌルさん、ここに来てませんか?」

レイヴは、静かに首を振った。

「昨日の朝、素材の取引を最後に、出ていった」

「……え?」

「君と狩りに出た翌日だ。心核と牙を売って、何も言わずに」

ミデンは、言葉を失った。

「……そんな、何も……僕には何も言ってくれなかった」

「彼女は、そういう人だ。記録されない者。痕跡だけを残して、風のように去る」

レイヴの声は淡々としていた。


だが、その言葉は、ミデンの胸に鋭く突き刺さった。

「でも、僕は……まだ、追いついてないのに」

レイヴは帳簿を閉じた。

「それでも、君は“見ていた”だろう。彼女の背中を」

ミデンは、拳を握った。

「……見ていました。でも、まだ遠いです」

「なら、歩き続けるしかない。彼女が残した痕跡を、自分の剣に刻むんだ」

商会を出ると、街のざわめきが再び耳に戻ってきた。


だが、それはどこか現実感を欠いていた。

人々の声も、荷車の音も、すべてが遠くに感じられた。

ミデンは、宿へ戻った。


裏庭に立ち、再び短剣を構えた。

ヌルがいた場所を見つめながら、剣を振るった。

「……あなたがいなくても、僕はやります」

刃が空気を裂く。

だが、魔力は不安定で、揺れていた。

「違う。こんなんじゃ、届かない」


彼は、何度も構え直した。

振る。

受ける。

跳ぶ。

斬る。

ヌルがいたときのように。

彼女の視線を思い出しながら。


夕暮れ。

ミデンは、石畳に座り込んでいた。

汗が滴り、呼吸は荒い。

だが、剣を握る手は離さなかった。

「……強くならなきゃ。そうすれば、また会える」

その言葉は、祈りのようだった。

彼は、空を見上げた。

茜色に染まった空の向こうに、ヌルの背中を思い描いた。

「待っててください。必ず、追いつきます」

風が、静かに吹き抜けた。

それは、遠くで旅を続ける誰かの気配を運んでくるようだった。


夜が訪れた。

〈月影の宿〉の部屋に戻ったミデンは、机に向かっていた。

蝋燭の灯りが揺れ、紙の上に影を落とす。

彼は、震える手で文字を刻んでいた。


『ヌルさんがいなくなった。

でも、僕はまだここにいる。

あなたに追いつくために、ここに残る。』


書き終えた瞬間、胸の奥に重さが広がった。

言葉にすることで、現実がより鮮明になる。

ヌルはもう、この宿にはいない。

その背中は、遠くへ消えてしまった。

「……でも、僕は止まらない」

呟きは、蝋燭の炎に吸い込まれるように消えた。


翌朝。

まだ陽が昇りきらぬ時間に、ミデンは裏庭へ出た。

冷たい空気が肺に刺さる。

短剣を抜き、構える。

「……あなたが見ていなくても」

斬撃。

空気が震える。

魔力が刃に乗る。

だが、揺れていた。

「違う。もっと……もっと強く」

彼は、何度も振った。

腕が痺れ、足が震えても、止めなかった。

ヌルがいたときのように、視線を思い出しながら。

彼女の冷静な声が、耳の奥で響く。


『遅い。全身で振れ』

『呼吸に合わせろ』

『怖さを忘れるな』


その記憶が、彼を支えていた。

昼になると、ミデンは市場へ出た。

人々の声が飛び交い、荷車が行き交う。

だが、彼の耳には遠く感じられた。

ヌルが隣にいないだけで、世界が薄く見える。


果物屋の前で立ち止まる。

赤い実が並んでいた。

ヌルが最後に買った果物を思い出す。

「……鉄貨三枚」

商人に言われ、ミデンは硬貨を渡した。

果物を手に取り、噛んだ。

甘さが広がる。

だが、それは寂しさをさらに際立たせる味だった。


夜。

再び裏庭に立つ。

月明かりが石畳を照らす。

ミデンは、短剣を構えた。

「……強くなれば、また会える」

斬撃。

刃が空を裂く。

魔力が震える。

彼は、何度も振った。

汗が滴り、呼吸が荒くなっても、止めなかった。

「あなたに追いつくために……」

その言葉は、祈りのようだった。


彼は、空を見上げた。

星が瞬いていた。

その光は、遠くで旅を続ける誰かに届いているようだった。


やがて、鐘の音が遠くで響いた。

王都の騎士団が、試験の準備を始めている合図だった。

ミデンは、短剣を収めた。

胸の奥に、決意が宿った。

「……僕は、一人で強くなる」

その言葉は、孤独の中で生まれた誓いだった。

ヌルの背中を追うために。

彼女が残した足音を、自分の剣に刻むために。

裏庭の静けさの中で、ミデンは立ち尽くしていた。

消えた背中を思い描きながら。

そして、自分の足音を刻み始めていた。

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