第二十話 夜明け前の別れ
王都北区、〈蒼銀の環〉商会。午後の光が応接室の銀装飾を柔らかく照らしていた。
ヌルは、机の前に立っていた。
手のひらには、収納魔法の紋章が淡く光っている。
その隣には、ミデンがいた。
短剣を腰に、革のベストのまま。
彼は、少し緊張した面持ちで立っていた。
「……これが、昨日の狩りで得た素材です」
ヌルは、魔力を展開した。
空間が揺れ、素材が机の上に現れる。
黒い鱗。鋭い牙。魔物の心核。
それらは、ミデンが初めて命を止めた証でもあった。
査定官レイヴは、眼鏡を押し上げながら素材を見つめていた。
「……これは、君が?」
ミデンは、うなずいた。
「はい。ヌルさんの付き添いのもと、初めての狩りでした」
レイヴは、素材をひとつひとつ鑑定していく。
「ミデンは金貨七枚」
「ミデンは休暇をもらう条件に、魔物討伐の仕方の報告書の提出を求めている。別室で書いてきなさい。」
「はい。先に失礼します。」
ミデンの退出を確認したレイヴは、ヌルの素材に手を伸ばす。
「魔力の残留が安定している。刃の通りも良い」
「これは、記録に残せる素材だ」
ヌルは、静かに言った。
「売るのは、心核と牙だけ。鱗は保存する」
「了解しました。金貨六十枚の査定です」
ヌルは、うなずいた。
「それでいい」
レイヴは、金貨の詰まった小箱を差し出した。
ヌルは、手のひらをかざし、魔力で吸収する。
空間が揺れ、金貨が収納される。
その動きが終わると、ヌルは静かに言った。
「……これが、最後の取引になる」
レイヴは、目を細めた。
「……出ていくのか」
「風の向くほうへ。魔力の揺れるほうへ」
レイヴは、帳簿を閉じた。
「君の素材は、記録に残す。君の魔力は、記録されないけれど」
「それでいい。私は、痕跡だけ残せれば」
「それでも、誰かが見ていたなら、それは“記録”になる」
ヌルは、少しだけ目を伏せた。
「……うるさくしないなら、また来る」
レイヴは、笑った。
「それ、来るってことでいいんだな」
商会を出ると、石畳の通りが広がっていた。荷物をまとめるために宿に行く。
王都北区、〈月影の宿〉。
夜明け前の部屋には、まだ灯りが届いていなかった。
ヌルは、荷をまとめていた。
鎌、片手剣、薬草の包み、魔具の部品。
それらを収納魔法にしまい、最後に手のひらを見つめる。
魔力の紋章が、淡く光っていた。
それは、彼女が「ここにいた」証でもあり、「ここを去る」準備でもあった。
窓の外には、薄明かりが滲んでいた。
空気は冷たく、静かだった。
王都南区、市場の端。
朝の準備を始めたばかりの果物屋が、木箱を並べていた。
ヌルは、赤い実をひとつ手に取った。
「鉄貨三枚」
商人は、眠そうな声で言った。
ヌルは、鉄貨を三枚取り出し、手渡した。
その動きは、無駄がなく、静かだった。
「……旅の途中で食べるには、甘すぎるかもな」
商人の言葉に、ヌルは答えなかった。
ただ、果物を収納魔法にしまい、静かに歩き出した。
宿の玄関には、無愛想なおじさんがいた。
いつも通り、帳簿をめくりながら、客の出入りを記録していた。
ヌルが近づくと、彼はちらりと目を上げた。
「……出るのか」
ヌルは、うなずいた。
「部屋、鍵は机の上に」
「確認した。荷物は?」
「全部、しまった」
おじさんは、帳簿に何かを書き込んだ。
「滞在記録、空欄のままだ。いいか?」
「それでいい。私は、記録されない者」
おじさんは、少しだけ眉を動かした。
「……そういう奴、たまにいる」
ヌルは、玄関の扉に手をかけた。
そのとき、おじさんが言った。
「果物、持ったか?」
ヌルは、振り返らずに答えた。
「持った」
「なら、途中で腐らせるな。もったいない」
ヌルは、扉を開けた。
「……うるさくしないなら、また来る」
おじさんは、何も言わなかった。
王都北門。
衛兵が交代の準備をしていた。
ヌルは、門の前で立ち止まった。
空が、白み始めていた。
背には鎌。腰には剣。
手のひらには、魔力の紋章。石畳を越え、土の道へ。
風が、果物の香りを運んでくる。
ヌルは、歩いていた。
彼女の背中には、王都で過ごした日々の痕跡が宿っていた。
素材の重さ。魔力の揺れ。
そして、誰かとの言葉少ななやりとり。
それらすべてが、彼女の“今”を形づくっていた。




