第二話 白き肌に宿る倦怠の影
ヌルは廊下を歩いていた。足音が、石の床に吸い込まれていく。
長い年月のあいだに、蝋燭はすっかり溶け落ち、壁の絵画は色褪せていた。
けれど、埃は積もっていなかった。風が、どこからか吹き抜けているのだ。
あるいは、彼女自身が無意識に掃除していたのかもしれない。覚えていない。
「……退屈」
それは、ため息のような呟きだった。何百年も生きてきて、何千回も繰り返した言葉。
けれど、今日のそれは、少しだけ重たかった。
「どれが何の鍵だっけ?」
鍵穴に差し込もうとしては合わない。何度も繰り返してようやくささった。
最初に入ったのは、かつての音楽室だった。グランドピアノの蓋は閉じられたまま、鍵盤には薄い布がかけられている。ヌルは布をめくり、指先で鍵盤をひとつ、押してみた。
ぽん、と乾いた音がした。それは音というより、記憶の破片だった。
彼女が随分と昔に弾いていた曲の始まりの音。ヌルは椅子に腰を下ろし、両手を鍵盤に置いた。指は覚えていた。旋律は忘れても、手の動きは覚えていた。けれど、音は出なかった。弦が切れているのか、音が死んでいるのか。もう一度、今度はゆっくり弾いてみた。
ぽん、と乾いた音がした。けれど、次の鍵は沈んだまま、音を返さなかった。
「……やっぱり、死んでる」
ヌルはため息をつく。彼女はピアノの側面に手をかけ、蓋を開ける。中には、複雑に絡み合った弦とハンマーの機構。その一部が、錆びていた。一本の弦が、途中で切れていた。
「……直せるかも」
ヌルは立ち上がり、部屋の隅にある古い工具箱を開けた。
かつて、調律師が使っていたもの。彼の顔も名前も思い出せない。けれど、手の動きは覚えていた。ピンを回し、弦を張り直す。切れた部分を外し、新しい弦を引き出す。指先に力を込め、慎重に巻きつけていく。金属の冷たさが、皮膚に染みる。けれど、それが心地よかった。
「音って、こんなに繊細だったっけ」
一本、また一本。音のない時間の中で、ヌルは黙々と作業を続けた。やがて、最後の弦を張り終えたとき、彼女の額には、うっすらと汗が滲んでいた。鍵盤に指を置く。深呼吸をひとつ。そして、そっと押す。
ぽん。
今度は、音が鳴った。柔らかく、けれど確かに響く音。それは、部屋の空気を震わせ、彼女の胸の奥に、波紋のように広がっていった。
ヌルは目を閉じた。音が、懐かしかった。誰かが、昔、ここで弾いていた。彼女のために。あるいは、自分のために。
「……また、弾いてみようかな」
その言葉は、誰にも聞かれなかった。けれど、ピアノは確かに応えた。
止まっていた音が、再び息を吹き返した。白と黒の境界でヌルの指が躍る。
ヌルはその中で、ゆっくりと旋律を探し始めた。楽しい。思いつくままに、好きなだけ弾いた。腕が疲れを訴え始めた頃、ヌルの演奏は終わった。
次に向かったのは、図書室だった。天井まで届く本棚。階段付きの書架。けれど、ほとんどの本は途中で読むのをやめたものばかりだった。
「結末を知っても、何も変わらないし」
ヌルはそう呟きながら、一冊の本を手に取った。表紙は革張りで、金の箔押しがかすかに残っている。開くと、途中まで折り目がついていた。そこから先は、真新しいままだ。
「……ここで飽きたのね、私」
本を閉じ、棚に戻す。何百冊、何千冊とある本の中で、最後まで読んだものは数えるほどしかない。ヌルは一冊ずつ、本を手に取る。表紙の革は乾き、ページの端は黄ばんでいる。けれど、指先に馴染む感触は、まだ生きていた。
「これは……途中で飽きたやつ」
「これは、結末が気に入らなかった」
「これは、誰かが読んでた気がする」
彼女は本を分類していく。読了済み、未読、途中放棄、記憶に残っているもの。棚の一角に、空白が生まれていく。その空白が、なぜか心地よかった。物語は、終わりがあるから美しい。
けれど、彼女には終わりがない。だから、どんな物語も、途中で意味を失ってしまう。
本棚の隅に、ひときわ地味な背表紙があった。革でもなく、金文字でもない。
ただの布張りで、色褪せた灰色。ヌルはそれを手に取った。軽い。小さい。何の期待も抱かせない。
『初歩から学ぶ魔術基礎』
表紙には、素っ気ない文字が並んでいた。
挿絵もなく、装飾もない。けれど、ヌルはなぜかページをめくった。
「……こんなの、昔は見向きもしなかったのに」
魔法陣の描き方。詠唱の基本。触媒の種類。
けれど今、その力は眠っている。そして、退屈はまだ終わらない。
ヌルは椅子に腰を下ろし、読み進めた。意外にも、文章はわかりやすかった。
「魔法とは、世界との対話である」
その一文に、彼女は少しだけ眉を動かした。
「対話、ね……」
紙の擦れる音が部屋に響いていた。ひさしぶりに本を読んだが、面白くて夢中になってしまった。
彼女は世界と話したことがない。命令するか、沈黙するか。
けれど、魔法は「問いかける」ものらしい。
それが、少しだけ面白かった。ヌルはその文字をなぞった。
彼女は本を閉じ、そっと胸に抱えた。それは、決意ではなかった。まだ、ただの暇つぶし。けれど、彼女の中に「覚えてみようかな」という声が生まれていた。
「まあまあ、悪くないかも」
あとでこれらの魔法を練習しよう。魔法に関する本以外の整理整頓を進める。本は一部を除いて綺麗に並べられた。
図書室を出て、階段を下がる。二階の廊下は、窓が多く、光がよく入る。壁には肖像画が並んでいた。かつての主たち。あるいは、ヌルがかつて関わった誰かたち。図書室で見つけた本を片手に、ヌルは中庭へ向かった。




