第十話 血の記憶、刃の感触
王都へ向かう道は、静かだった。風が草を揺らし、空には雲が流れていた。ヌルは、収納魔法にしまった荷を背に、ただ一人で歩いていた。剣は腰に。魔術書は魔力の中に。
王都――そこには、魔石を買い取る商会がある。フィーナからもらった薬の知識を活かせる場所もある。けれど、ヌルにとってそれは「目的」ではなく「通過点」だった。彼女は、ただ歩いていた。風が吹くたびに、マントが揺れた。
峠を越えた先に、崖があった。その下には、霧が立ち込める谷。
ヌルは、風の流れに違和感を覚えた。魔物の気配。それは、歪んでいて、底知れなさがあった。
次の瞬間、地面が震えた。岩の裂け目から、黒い影が跳び出す。
四足の獣。けれど、目は人のように赤く光っていた。ヌルは剣を抜いた。風が背を押し、火が刃を包み、土が足元を支え、水が呼吸を整える。魔物が吠え、爪を振るう。ヌルは跳び、斬る。
けれど――
「……っ!」
剣が、折れた。刃が砕け、柄だけが彼女の手に残った。魔物の爪が、彼女の肩をかすめる。血が滲む。痛みが、意識を研ぎ澄ませる。ヌルは魔法で距離を取り、崖の縁へと逃げた。けれど、魔物は追ってくる。彼女は、跳んだ。風魔法で落下を制御し、霧の谷へと降りていく。谷の底は、静かだった。霧が濃く、音が吸い込まれていく。けれど、魔物の気配は、まだ残っていた。ヌルは、折れた剣を見つめた。
それは、彼女が長く使ってきた武器だった。魔法と剣術を融合させた、彼女の刃だった。
「……終わったのね」
その言葉は、霧に溶けた。けれど、戦いは、まだ終わっていなかった。
谷の奥に、古い石室があった。崩れかけた扉。苔に覆われた壁。けれど、魔力の気配が濃く漂っていた。ヌルは、石室の中へと入った。空気が重い。けれど、どこか懐かしい。奥に、台座があった。そこには、黒い武器が置かれていた。長い柄。湾曲した刃。それは、死神の鎌のようだった。ヌルは、手を伸ばした。指先が触れた瞬間、魔力が走る。風が渦を巻き、火が灯り、土が震え、水が揺れる。
「……これは、応えている」
彼女は鎌を手に取った。重さは、剣とは違った。けれど、魔力の流れは、彼女の意志に沿っていた。
石室を出ると、魔物が待っていた。吠え、跳びかかってくる。ヌルは鎌を構えた。風がヌルの体を押し、火が刃を包み、土が足元を支え、水が呼吸を整える。彼女は跳び、鎌を振るう。刃が弧を描き、空気を裂く。魔物の胴が、深く斬られる。その軌道は、剣よりも広く、深く、重かった。
「……刈る、という感覚」
それは、斬るのではなく、刈る。
命を、流れを、運命を――まとめて断ち切るような感覚だった。魔物が吠える。けれど、ヌルは跳び、鎌を振るう。風が軌道を補正し、火が刃を焼き、土が着地を支え、水が視界を澄ませる。
「――月下の刈り取り」
鎌が、魔物の首を断つ。黒い体液が飛び散り、魔物は崩れた。ヌルは、鎌を見つめた。それは、彼女の魔力に応える武器だった。けれど、剣とは違う。剣は、問いかける武器だった。鎌は、答えを出す武器だった。
「……私は、変わったのかもしれない」
彼女は、収納魔法に鎌をしまった。紋章が、静かに光る。その中に、剣の記憶も、鎌の感触も、すべてがしまわれていた。谷を抜けると、空が広がっていた。遠くに、王都の塔が見える。ヌルは、歩き出した。剣を失い、鎌を得て。問いかけを終え、答えを携えて。ヌルは歩き出した。




