第九話 月下の一撃
夜の森は、静かだった。風が止み、木々は息を潜め、空には雲ひとつない。満月が、冷たい光を地上に注いでいた。その光の中に、ヌルの影があった。彼女は、剣を背に、静かに立っていた。収納魔法の紋章が、淡く光っている。その中には、魔石、薬草、毒がしまわれていた。
「……来る」
風が、わずかに揺れた。気配が、森の奥から滲み出す。それは、今までの魔物とは違う。重く、深く、古い。まるで、森そのものが怒っているようだった。
数日前、ヌルは小さな村に立ち寄った。そこは、以前の村よりもさらに小さく、地図にも載っていないような場所だった。けれど、そこにも人がいた。火を焚き、畑を耕し、子どもが笑っていた。村の長老が、彼女に頭を下げた。
「森の奥に、古い魔物が棲みついたのです」
「村の守り神だったものが、何かに呑まれたようで……」
「どうか、助けていただけませんか」
ヌルは、うなずいた。それは、彼女にとって「戦いの理由」だった。誰かのために剣を振るう。それは、まだ慣れない感覚だった。けれど、嫌ではなかった。
魔物は、姿を現した。それは、かつて獣だったもの。けれど、今は異形。骨がねじれ、毛皮が裂け、目が赤く光っていた。ヌルは剣を抜いた。風が背を押し、火が刃を包み、土が足元を支え、水が呼吸を整える。魔物が吠えた。その声は、森を震わせた。ヌルは跳んだ。風魔法で軌道を補正し、火魔法で牽制の火球を放つ。魔物はそれを避け、爪を振るう。土が盛り上がり、彼女を守る。水が視界を澄ませ、動きを読む。
「……速い」
けれど、彼女の身体は、それに応えていた。魔法と剣が一体となり、彼女の中で流れていた。
戦いは、長引いた。魔物は、再生する。斬っても、焼いても、すぐに肉が盛り上がる。それは、呪いのようだった。ヌルは距離を取り、呼吸を整えた。月が、彼女を照らしていた。その光は、冷たく、けれど確かだった。
「……一撃で、終わらせる」
彼女は、収納魔法から小瓶を取り出した。フィーナからもらった毒。
「命を守るための毒」
それを、剣に塗る。魔法を集中させる。風、火、土、水――すべてを、剣に込める。魔力が、刃に集まり、月光と共鳴する。魔物が吠え、突進してくる。
ヌルは、跳ぶ。風が背を押し、火が軌道を焼き、土が足を支え、水が心を整える。
「――月下の一撃」
剣が、魔物の胸を貫いた。毒が流れ込み、魔法が爆ぜる。魔物が吠え、震え、崩れた。森が、静かになった。風が戻り、葉が揺れた。ヌルは剣を下ろし、膝をついた。
肩で息をしながら、空を見上げた。月が、そこにあった。変わらず、ただ静かに、彼女を照らしていた。
「……終わった」
その言葉は、夜に溶けた。けれど、風がそっと吹いた。まるで、答えるように。
朝が来た。ヌルが村に戻ると、子どもたちが駆け寄ってきた。
「ありがとう!」
「魔物、いなくなったよ!」
「お姉ちゃん、すごい!」
ヌルは、少しだけ戸惑った。けれど、微笑んだ。
「……うん」
村の長老が、深く頭を下げた。
「あなた様のおかげで村が救われました」
「どうか、宴の準備をするので、それまでゆっくり休んでいてください。」
「……ありがとう」
その言葉は、久しぶりに自然に出た。マントが揺れた。
夕暮れが近づくと、広場に火が灯された。焚き火の周囲に、木の椅子と布の敷物。果実酒の香りが漂い、焼いた肉の音が響く。ヌルは、少し離れた場所に座っていた。けれど、村長が隣に来て、そっと言った。
「ここ、空いてますよ」
彼女は、焚き火のそばに移動した。火の揺らぎが、彼女の瞳に映った。村人たちは、少しずつ彼女に話しかけ始めた。
「魔物、すごかったですね」
「あなたがいなかったら、村は……」
「本当に、ありがとう」
ヌルは、言葉を返すのが難しかった。けれど、うなずくだけで、皆はそれを受け取ってくれた。
宴の途中、子どもたちがヌルの前にやってきた。手には、小さな花の冠。白い花と、薄紫の蔓が編まれていた。
「これ、ヌルさんに」
「ありがとうの気持ちです」
ヌルは、冠を受け取った。指先に、花の柔らかさが触れた。それは、剣の柄とは違う感触だった。
「……ありがとう」
その言葉は、少しだけ震えていた。けれど、子どもたちは笑っていた。それは、魔物の唸り声よりも、ずっと温かかった。
宴は続いた。歌が歌われ、踊りが始まり、果実酒が回る。ヌルは、焚き火のそばで静かに座っていた。彼女の中には、奇妙な感覚があった。居心地の悪さ。けれど、それは「拒絶」ではなかった。むしろ、「慣れていないだけ」だった。誰かと笑うこと。誰かに感謝されること。誰かと同じ火を囲むこと。それは、彼女が長く遠ざけてきたものだった。けれど、今は少しだけ、受け取ってみようと思った。
夜が深くなると、焚き火が静かに揺れた。村人たちは、少しずつ家に戻っていく。
村長が、ヌルの隣に座った。
「どうでしたか? 宴は」
ヌルは、少しだけ考えてから答えた。
「……悪くなかった」
村長は笑った。
「それなら、よかった」
ヌルは、手のひらに残った花冠を見つめた。それは、誰かが彼女に渡した「気持ち」だった。魔石よりも、剣よりも、柔らかくて、壊れやすいもの。けれど、今は――それをしまわずに、持っていこうと思った。
翌朝、ヌルは荷物をまとめた。収納魔法に、剣と魔術書をしまう。けれど、花冠はしまわなかった。それは、マントの内側にそっと包んだ。村を出るとき、みんなが見送ってくれた。
「また、来てくださいね」
「宴は、いつでも開けますから」
ヌルは、うなずいた。
「……そのうち」
風が吹いた。それは、彼女の背を押すようだった。ヌルは歩き出した。誰にも頼らず、けれど、誰かの気持ちを胸に抱いて。ヌルは村を離れた。剣を背負い、収納魔法にすべてをしまい、静かに歩き出す。月下の一撃。それは、ただの技ではなかった。それは、誰かのために振るった、初めての「意志」だった。孤独は、力の代償だった。けれど、力は、誰かを守るために使える。そのことを、彼女は少しだけ信じてみようと思った。




