プロローグ ~鴉丸ソラヒコ~
彼、鴉丸ソラヒコの日常に必要なのは、普通の学生が持っているようなタブレットや筆記用具ではない。社会人が持っているようなPCや通勤カバンでもなく、彼に必要なのはさび付いた自転車と、22世紀の技術が詰め込まれた特殊なリュックサックだった。
「いってきます」
まだ目が覚めていない同居人、いや、同居する生物に声をかけ、ボロアパートの部屋を出る。遮光性と内部の安定性に優れた、真っ黒で四角いそれを背負い自転車にまたがる。
傍からみれば彼は学生。十代半ばの活発少年。けれど明朝五時という時間帯とゆったりとした私服を召した様を見れば、たちまちその身分は崩れ去る。どうしようもない不良少年として世間の評価が下される。
事実、ソラヒコは反社会的な行為を繰り返す少年だった。とある場所からとある場所へ『荷物』を届ける、運び屋のような仕事を生業としており、学校に通ったことは今までで一度もなかった。
非合法な場所で、非合法の物品を売り、非合法な報酬を得る。それはもう不良の枠に収まるものではなく、まごうことなく犯罪・非行……。だがしかし、彼は法を破らなくては生きていけなかった。彼の父が遺した莫大な借金を返すには、こうして身を汚さずにはいられなかったのだ。
「リュックOK、チャリンコのブレーキOK、スマホOK、ナビもOK」
サドルに取り付けたスマホの液晶画面には、赤色の線で目的地までのルートが示されている。
ルート、ルート……。防犯カメラに映らない、特殊なルート……。
「さあ、今日もお仕事頑張るぞっと」
ほの暗いライトが灯る。明け方の道路を照らす。軋むペダルの音と目覚めたカラスの鳴き声が被さる。
キコキコ、カアカア、キコキコ、カアカア。
不吉なリズムを唱えながら、聞きながら、自転車は目的地に向かう。
キコキコ、カアカア、キコキコ、カアカア。
急勾配の坂道を上り、雑木林の一本道を進む。澄み切った深緑の空気がソラヒコの肺に蓄積される。それを燃料にして、自転車はさらに奥へ奥へとタイヤを進める。
やがて見えてくる、立方体の建物。比喩でも誇張でもない、ほんとうの立方体……。周囲の樹木に溶け込んだ、萌葱色の構造物……。その建物、名を『綿貫研究所』という。
「やっと来たか、運び屋」
何の捻りもない、ただの四角形をした無機質な入り口に、所長の綿貫モトキは立っていた。綿貫はソラヒコの返事を待たずに、三十代にもかかわらずぐにゃりと曲がった背を向けると、ずかずかと建物の中へ入っていく。ソラヒコは急いで入り口の前に自転車を停め、綿貫の後を小走りで追いかけていく。
「再出荷分、ですよね」
「ああそうだ。笠羽のヤツ、近いうちにドンパチやるから多めに寄越せとほざいている。私がアレを作るのにどれだけの時間と労力をかけているのか、ヤツは知っているのだろうか」
「さあ。知らないからそんな無理な要求ができるんじゃないですか」
「まあそうだろう。だがね、運び屋。私は私の研究成果が大量生産・大量消費される現実がこの上なく不快だ。一般社会だろうが裏社会だろうが、戦中だろうが戦後だろうが、結局のところこの世は物質主義で資本主義。人民は豊かな内面を持つことを忘れてしまっている。ライプニッツでいうところの『モナド』をいつの間にか消失してしまったのだよ。本来なくなる物ではないというのに、まったく嘆かわしい」
モナド、という単語にソラヒコはドキリとした。しかしながら文脈からして、その固有名詞は〝あの生物〟を指すものではないことは明らかだった。ソラヒコは作り笑いを浮かべて話の軌道をすこしだけ逸らす。
「でも綿貫さんだってじゅうぶん資本主義な人じゃないですか」
「ほう、なぜそう思う」
綿貫は歩みを止め、顎に乗っかかった無精ひげをジョリジョリと撫でる。
「だってお金が欲しくなかったら、物を大量に作ろうとはしないでしょ? 頼まれても、私はしたくない、とか職人さんみたいなこと言って断れるはずです」
「ふむ。学がない割には、なかなか痛い点を突いてくるな。だがな、運び屋。お前はよく知らないだけだ」
「え? 何を」
綿貫は猫背を向けたまま、分厚い眼鏡をくいッと押して元の位置に戻す。そして仰角四十五度くらいで天井を見上げると——、
「笠羽という男の恐ろしさを、だよ」
重みのある声色でそう言い、白衣の研究者はふたたび歩き始めた。
「リュックサックの調整は万全かね」
「ええ、もちろん。反発率は八割六分にしてあります」
「それでいい。今回は四ケース分、運んでもらう。リュックサックの容積ギリギリの範囲だ。かなりの重さになるだろうがそこは我慢してほしい」
名前も使用目的すらも分からない実験器具に囲まれた一室で、ソラヒコは背負っていたリュックサックを下ろす。チャックを開き、内部を露出させる。ぷっくり膨らんだナイロン生地の内部に、綿貫は近くの実験用冷蔵庫から取り出したプラスチックのケースを詰め込んでいく。
一つ、二つ、三つ、四つ……。これで全部。縦に積んだケースとケースの間には敷板のようなものを挟んで、ケース同士が干渉しないようにされている。綿貫はリュックサックの中を上から覗いたり斜めから覗いたりして何らかの確認を済ませると、右の肩紐に備わっているつまみをキュッと一思いに捻った。
キューンという空気の音とともに、内部のナイロン生地がゆるやかに収縮する。膨らんで、膨らんで、パンのように膨らんで、積まれたケースたちは優しいナイロンに包まれた。
「よし、これで問題ないはずだ。——いや『はず』ではない。『問題ない』のだ。後は頼んだぞ、運び屋」
私は寝る。ぶっきらぼうに言葉を吐くと、綿貫はせかせかと部屋を出、どこかの薄闇に消えてしまった。ソラヒコもリュックサックを背負い直すと、来た道を戻って研究所を去る。
ナビを設定。また現れる赤いルート。場所はとある場所にある大きな倉庫。笠羽キョウジとその仲間たちが住まう闇の巣窟……。
ソラヒコはケースの中身が何であるかを知らない。形状も、色も、効能さえも、何も、知らない。知らされていない。ただ、この世界にとって良くないものだということは理解していた。
ケースの中の何かを、笠羽キョウジは使用している。もしくはどこかに売りさばいている。自分がこのケースを笠羽に渡すことで、日本の暗闇はより一層濃くなってしまう。
「でも、しょうがないんだ」
そうだ、しょうがないのだ。生きていくには、父親の借金を返さなければならない。借金を返すためには、働かなければならない。働くには戸籍がいる。けれどソラヒコはそんな大層なものをもっていない。彼は不義の子、不自由の子。鴉丸ソラヒコという少年は齢十五にして天涯孤独の身だったのだ。
だから、しょうがない。裏社会に身を置くしかない。この荷物が原因で人が死のうが傷つこうが、自分が生きるために必要な犠牲なのだ。生活のための、尊い生贄なのだ。——そう思わないと、やっていけなかった。
「さ、出発出発」
朝日が昇りつつある。暗闇はだんだんと面積を失い、正義の日光がこの世界を包みつつある。けれど光が強くなればなるほど、造られる影はその色彩をより濃いものにする。
少年の胸中に生まれた影は、知らないうちにその勢力を増していた。少年の体を癌のように蝕みつつあった。
「しょうがない、しょうがないんだよ……」
無垢を装う少年は、こうして犯罪に手を染める。自分の影を知覚せぬまま、社会の闇に飲み込まれてゆくのだった。




