第十三話 Canary Rage ③
いつの日かの、世界史の授業を思い出す。
アドルフ・ヒトラーは民衆の不満の原因をユダヤ人に転嫁してホロコーストを開始した。ドイツという『一国』を支配するためだけに『大勢』の命を残虐な方法で奪ったのだ。ヨシフ・スターリンは自身の権力を確固たるものするため何百万という人間を粛清した。これら二例の虐殺で失われた命の正確な数は、演算AIが発達した22世紀になっても確定していない。政治的テロルの深奥は、未だ闇の中に身を潜めている。
そうだ。『狂っている人間』というのは彼らのことを指す言葉だ。人の命を平気で奪う奴らのことを指し示すのだ。
乗せられるな。僕は狂ってなんかいない。正常な範囲の世界で生き、異常でイカれた世界を正す存在だ。確かに、レセプターという常識では考えられない立場に置かれてはいるけれど、僕の心はクリアーなままだ。
そうだ。そうだ。間違いない。僕は、ちょっと変わった常人だ。それ以上でもそれ以下でもない、ただの〝嘱託捜査官〟なのだ。
「篠田さん、もうお終いにしよう。僕はこれ以上、君との戦闘を望まない。あと数分もすれば、どのみちここも包囲される。君はもう終わりだ。周りの囚人が巻きこまれる前に、僕は君と、和平条約を結びたい」
両手を挙げて不戦の意思を示した僕は、白い靄を漂わせながら一歩、また一歩と篠田との距離を詰める。
「一体化を、解いてくれ」
「………」
「もうこれ以上、人の命を奪わないでくれ」
「………」
おのずと呼吸が荒くなる。モナドロジーに由来するはずの『憤怒』の炎が、この空間に充満する酸素を取り込んでいるかのような錯覚に陥る。
僕は、ゆっくりゆっくり篠田に近づく。彼女までの距離があと十歩、というところで篠田はやっと口を開いた。
「誰も助けてくれなかった。見て見ぬ振りして、誰一人」
僕は立ち止まる。『憤怒』の炎が、ゆらりと靡く。
「ずっと心を殺してきたよ。『悪いのは私なんだ』。『あの男を親に持った私が悪いんだ』って」
「………」
「でもね、フンヌに出会って気づいたの。おかしいことに気づいたの。〝私〟はなにもしていない。いじめられた原因は全部〝周り〟のせい。そのことに、やっと気づいたの」
「………」僕は、前進を再開する。
「私はどうすればよかったの? 誰にも頼れないまま、虐げられていればよかったの? それとも大嫌いな警察に駆け込んで、助けて下さいって言えばよかったの? ねえ教えて、島崎くん……」
私は、どうすればよかったのかな。
『憤怒』のレセプターは、膝から地面に崩れ落ちた。それと同時にモナドとの一体化が解除され、篠田カナは学生服の少女に回帰した。
僕もキョゼとの一体化を解き、篠田のもとに駆けつける。体から飛び出したキョゼは、一瞬の内に逃げた『憤怒』を追いかけるため、廊下の奥へと消えていった。
僕はしゃがみこんで篠田との目線を合わせる。脱力しきった彼女の両腕を持ち上げ、ポケットから取り出した冷たい手錠をその細い手首に取り付ける。
「篠田カナさん、あなたを放火殺人の容疑で逮捕します」
同じ年の少女が手錠をかけられているその姿に胸を痛めつつ、僕はようやくすべてが終わったのだと浅はかにも確信してしまった。
そうだ。それはあまりにも唐突で、あまりにも一瞬の出来事だった。
◇◇◇◇◇
手錠がはまった自分の手首を見て、我ながらひどいものだとカナは思った。
(でもまあ——)
そういう星のもとに生まれてきた篠田カナという生物には、案外お似合いの幕引きなのかもしれない。きっとこうなることが物の道理だったのだ。抗う術のない自然の摂理だったのだ。カナはそう思うことにした。
(諦めよう、諦めよう、諦めよう。私という人間を、諦めよう)
これが自分の運命なのだ。何もできない。何も為せない。誰からも求められないし、誰かに頼ることも許されない。
(それが私。それが私という人間の「規格」……)
世の中にはいろいろな人間がいることをカナは知っている。金持ちな人間、そうではない人間。力の強い人間、そうではない人間。頭のいい人間、そうではない人間………。それぞれに相応な「規格」を、人間は生まれながらに習得している。後天的、なんてありえない。結局生まれた時の環境で、人の「規格」は決定づけられるのだ。
(「規格外」が、私の「規格」……)
父親は死刑囚。母親は宗教の高額献金者。親戚はいない。友人もいない。クラスメートはいじめの加害者。担任はいじめの傍観者……。いったい、どうしろというのだ。どうすれば、こんなことにならなかったのだろうか。
(考えても無駄。私はもう、れっきとした「大量殺人犯」——)
そうだ。無駄だ。八人もの命を奪った人間に、未来はない。例え未成年だとしても、その罪が許される日は来ない。世間から後ろ指を指されて生きていかなければならない。
(ああ、なんでこんなことしちゃったかな)
遅すぎる後悔なのは理解していた。その罪を償う方法がないことも理解していた。
やがて、カナの心中に一つの疑問が生まれた。
「大量殺人犯」である自分が生きる意味は、果たしてこの世にあるのだろうか。
(ああ、それは——)
意を決したカナは、地面に崩れ落ちた体勢のまま、同じ目線のショウを見つめる。
「ねえ島崎くん——。あなたのこと、呪ってあげる」
体内に残っているモナドロジーの温もりを、カナは下顎部に集中させる。唇の端をわずかに吊り上げて妖艶な笑みを浮かべると、天井を仰ぎ——、
突き出した舌を強い力で噛み切った。
◇◇◇◇◇
約五百メートルの道のりを休むことなく全速力で駆け抜けた草彅は、拘置所の入り口付近に停車している、なじみ深い車両に近寄った。
「先輩」
「おお、ナギちゃん。ちょうどよかった。たった今ショウ君が篠田のもとに向かった。早く追いかけよう」
運転席に座る夏廻は自身の装備を確認していたらしい。万一篠田カナと戦闘になった場合を考えての行動だ。そこに異論をはさむ余地はない。草彅は首を縦に振り、夏廻とともにT拘置所の内部へ進入する。
「大熊さんから色々聞いたよ、ナギちゃんのこと。篠田ツカサを捕まえたのは彼なんだって?」
「そーですよ。ついでに言うと私が警官に憧れた一因でもある。あの人は犯人逮捕を伝えるためにわざわざ私の家まで来てくれたんだ。ああ、家ってのは親戚の家。その時、大熊さんは私を優しく抱きしめてくれた。辛かったな、よく頑張ったなって声をかけてくれた。あの人は……、私の恩人なんですわ」
「そうだったのか。じゃあなおさら頑張んないとな」
そんな会話をしながら二人はB棟の階段を駆け上がる。三階の廊下に出てすぐ見えたのは、突き当りの小窓から射す夕日に照らされた、島崎ショウの後ろ姿だった。
ショウは地べたに正座をしていた。急カーブさせた爪先でバランスを取り、自分の前に倒れている何かを、ただ見つめ続けていた。
「何があった!」
草彅は問うも、ショウは答えない。近づくにつれ、ショウの前に転がるものの正体が明らかになる。
それは、目を見開き、真っ青な顔をした篠田カナだった。
草彅はショウの隣にかがみこみ、その肩を優しく叩いた。その上で何があった、ともう一度問い直す。ショウは視線を逸らすことなく、訥々と事態の変遷を語りはじめた。
「篠田さんは、舌を、噛みました。天井を見たまま、強い力で、噛み切りました。そして、飲み込みました。切れた舌がのどに詰まって、苦しみ出しました。余りにも一瞬のことだったので、脳が理解を拒みました。吐き出させようとしたころには、彼女はもう——」
篠田は口から大量の血を流していた。それと一緒に、窒息が原因とみられる小さな泡も吹いていた。草彅は手錠のかかった篠田の腕を取る。ひどく、冷たい。脈に手を当ててみても、血の流れは確認できない。
篠田カナは、死んでいた。
「先輩、急いで係長に連絡を。ショウ、『憤怒』が見当たらない。どこに行った」
「キョゼが、追いかけて行って……」
ショウは筋力のこもっていない腕をのろのろと上げ、廊下の向こうを指差した。草彅は、連絡をし終えた夏廻とアイコンタクトを取り、『憤怒』の後を追うよう頼む。夏廻はすぐさま理解すると、ショウが指し示した方向へ走っていった。
「何が、いけなかったのでしょうか」
生気を失った声で、ショウが言った。その左目から、ぽつんと一つの雫が落ちるのを、草彅は見逃さなかった。
「僕は何か、間違いを犯したのでしょうか。何か、してはいけないことをしてしまったのでしょうか。ミスが、落ち度が、あったのでしょうか。だから彼女は、死んでしまったのでしょうか。僕の戦いは——、けっきょく無意味だったのでしょうか」
草彅は、なにも言わなかった。いや、なにも言えなかった。
その代わりに、ショウの体を優しく抱きしめ、辛かったな、よく頑張ったな、と何度も何度も声を掛けてあげた。
ショウは泣いた。泣き叫んだ。激流のごとく流れる涙を、草彅はただ、胸で受けることしかできなかった。




