第三話 雨あめrain
篠田カナの見たそれは、夢と呼ぶにはあまりにも現実的で、回想と呼ぶにはあまりにも夢幻的な代物だった。
映し出されたのは、建物と建物の隙間が作り出した裏路地。しとしとと降る雨が路上に放置された黒いゴミ袋に集積している。周囲にこびりつく薄汚い臭気は、その場に佇んでいるカナの気分を悪くさせた。
なんで私はここにいるんだっけ? 傘も持たず全身に水滴を浴びながら、なにをしようとしていたんだっけ? 映像の中のカナの感情は、俯瞰視点で映像を見ている実際のカナにフィードバックしている。そんなこと、考えなくても分かっているのに……。
「あ、いた」
蠢いた。確かにナニカが蠢いた。向こうに見える路地の突き当りで、ナニカが、確かに……。俯瞰した視点が、映像に映る自分の視線と同期する。
「待って!」カナは走り出した。
そうだ。そうなのだ。私はあの子を追いかけていたのだ。雨宿りのために入ろうとしたコンビニ。その裏手のゴミ置き場であの子はゴミ箱をひっくり返していた。こちらが気づいたのと同時にあちらもこちらに気が付いて逃げ出した。雨に濡れながら走って、走って、追いかけて、今に至る。
「待ってよ!」
得体の知れないナニカは応じない。直径30センチメートルほどの丸みを帯びた赤い体をポヨンポヨヨンと弾ませながら向こうへ、向こうへ……。
カナは声を上げる。「あなた、お腹空いてるんでしょ⁉」
赤い球体は、跳ねるのをやめて静止した。
「だから、ゴミ箱を漁ってたんだよね」
「…………」
「あの、これ、よかったら……」
カナは通学カバンから未開封のサンドイッチを取り出す。購買のシールが貼られたラップをすばやく剥がし、間に挟まったトマトとレタスを球体に見せつけた。
「お昼、食べられなかったんだ。食欲もないし……。だからあなたに、あげる」
球体は黙っている。猫のような三角の耳をピンと立て、つぶらな瞳でじっとこちらを見つめている。そして……。
「ぼくたちモナドは、消化器官を持っていない。食べても、吐くだけ」
「え、あ。そう、なんだ」
「でも」
「でも?」
「その形、すごく興味がある。なんて名前なの、それ」
カナは若干戸惑いながら、これはね、サンドイッチ。
「パンとパンの間に、具を挟んだ食べ物。簡単に作れるし、簡単に買える。嫌いな人は、たぶんいない。そういう、魔法の食べ物」
「……へぇ」
そう言ったかと思うと、球体は弾みをつけてピョンとカナのほうに飛んできた。十メートル近い距離を跳躍した球体は拳一つが入るくらい口を大きく開け、サンドイッチを持ったカナの右手にかぶりついた。
サンドイッチは長い舌に巻き取られ、球体の体内に入ってゆく。食物を捕食した球体はすぐさまカナの右手から離れ、濡れた地面にすとんと着地した。
「うん、なかなかうまいね。感動的だ。でも消化はできない。だから吐く。後ろを向いてて」
カナは急いで背後を振り返ったが、三角の猫耳から黄色い液体が出る瞬間を目の端で捉えてしまった。
急いで記憶から抹消し、カナは球体に背を向けたまま問いを投げる。
「なんで、ゴミ箱を漁ってたの」
「どういう意味?」
「だって消化器官がないってことは、あなたみたいなモナド(?)は物を食べる必要がないんでしょ。じゃあなんで、ゴミ箱なんか……」
「あなたは」
「えっ」頭上から男性の声がした。カナは急いで声の方向に顔を向ける。
「あなたは、結論を出すのが早いですね」
錆だらけのトタン屋根の上。浅黒い肌をした男が黒い傘を持って中腰になり、切れ味のある視線でこちらを見下ろしている。
「いやいや、失敬。そこのモナドをたまたま見かけたので後をつけたら面白そうなことになってましたので。つい盗み聞きをしてしまいました、はい」
「だれ、ですか」
「ふーむ。それを答えるのはちょっと難しいですね。企業秘密というものだ。だからここは〝回収屋〟で通させてもらいたい。いいですね。いいはずだ。あなたならきっと了承してくださるはず。そうですね?」
自称〝回収屋〟の言葉の圧にカナはたじろいでしまい、続く言葉を発せなかった。
深緑のハンチング帽にカッターシャツとサスペンダーというレトロな服装をしたその男は、水しぶきを立てることなくふわりと地面に降りてくる。
「で、話を戻しますが、あなたは結論を出すのが早かった」
「それはどういう……」
「あなたはゴミ箱を漁る球体を見た。そしてその球体はこの世界に存在しえない未知の生物だった。『未知の生物』・『ゴミ箱を漁る』。この二つの変則的事実はあなたの脳に誤った情報を与えた」
そう、それはつまり。
「あの生き物は食べ物を探している。だからゴミ箱を漁っている。それ以外に説明がつかない。事実と結論をつなぐ『論理』がいくつも欠落した結果、こういった誤解が生まれてしまった」
「はあ」
カナは回収屋の説教をなんとか飲み込む。
「つまり私は、早とちりをした、と」
「その通り。そこのモナドは別に食べ物がほしかったからゴミ箱を漁ってたんじゃない。隠れる場所がほしかったからゴミ箱を漁ってたんだ。――今回のケースのように、物事を理解するさい、『論理』が抜け落ちてしまうと、そこには大きな誤謬が生まれてしまう。あるはずのものもなくなってしまうし、逆になかったはずのものが不思議と存在してしまうかもしれない」
『論理』こそが世界を救い、『論理』こそ人が持つべき〝最小限〟……。覚えておきましょう――
「――万物には『論理』があるんです」
回収屋は、そう熱く語った。
カナはふと疑問に思った。「じゃあ、回収屋さん」
回収屋は返事をする代わりに、笑ったまま首をゆっくり斜めに傾げる。
「万物に『論理』があるなら――」
カナはモナドの近くに行き、その丸い体に優しく触れた。
「この子がゴミ箱に隠れようとしたのにも、きちんとした『論理』があるの?」
灰色の天空に、一筋の閃光が走った。風雨がもたらす悲しいリズムは、空を裂く轟音にかき消された。
轟音が鳴るのと回収屋が喋るのはほとんど同じタイミングだった。回収屋が放った言葉も、もちろん轟音に殺害された。
けれどカナは、回収屋の口元をよく見ていた。
論理とか、非論理とか、そんなことは今この瞬間どうでもよくて、カナはただ、自分が見ていたものに絶対の信頼を置いていた。
回収屋の口はこう開いていた。――〝知りたいですか?〟
「はい……。私は……」
再び雷が炸裂した。〝知りたい〟と続いたカナの返事も、回収屋に届くことはなかった。
それでも回収屋はうんうんと何度も頷いていた。意思が伝わった証拠だった。
「死すべきものには論理ある死を。まずは、あなたのこと、教えてもらえませんか?」
回収屋は、ニヒルな笑みを浮かべて言った。今度のセリフは、なににも邪魔されずに聞き取れた。
あの雨の日の出会いで最も重要な会話が終わったせいか、視線は徐々に俯瞰した視点へと移ろい、夢幻的な自分と現実的な自分の二つに乖離していった。
回想をそのまま夢にしたかのような不思議な体験。それを終えたカナが次に目にしたのは、回収屋がカナの横たわるベッドの傍らでポットを沸かしている光景だった。




