第1話-2 京浜大震災後、東京都渋谷区のはずれ
非日常状態な俺は、軍人の彼の答えで完全に安心したわけではない。
不安と驚きと少しの希望が混じっている。宙ぶらりんな気持ちだ。
発狂せずにいられたのは、俺は自衛軍の予備役で、今は看護学生の身だからかもしれない。
この頼りないアイデンティティが俺を生かしていた。
それでも日本にいる一般の人より技能や知識があるだけで、アメリカの軍人ほど俺は非常事態に慣れていない。
俺の口は辛うじて動くけど、まともでないことを話している気がする。
立ち上がろうとすると、膝が笑っていた。長時間、慣れない被災地を歩いたからだ。
今更、恐怖に震える手で十字架の首飾りを俺は付け直す。
こんなに考えた末に、俺も正気でないと思う。
あまりにも俺の知る世界と耳に入ってくる情報が不一致で、いつまでも不安が消えないからだ。
灰色の粉塵で視界が悪い。太陽の光が埃で届かない。
それでも、なんとか俺の目が慣れたのか、異常な世界は少し見えてきた。
崩れて傾いた建物、むき出しの金属、真っ黒になった放置車両、見えるだけでもたくさんの道路の地割れ、あれほどの大震災後だからか他人の気配はない。
やはり……ここが、東京なのか。
焦点の合わない灰色の瞳で、死の臭いが漂う街の廃墟を俺は眺めていた。
「兄ちゃん、名前なんていうの? あぁ、警戒しないで。今後、呼ぶとき困るじゃんか」
「東雲一稀です。予備役で看護学生です」
「俺はキール・トッシュ特務曹長。琉球基地から来た」
唐突に、軍人さんが俺に声をかける。
俺は一瞬、飼い主を失った犬のような目で彼を見た。正直に怯えがあった。
彼からすると、ただの挨拶のようだった。それ以上も以下もない。
それに俺は気づくと、少し警戒を解いて口を開いた。
「琉球県からですか? ありがとうございます!」
「うーん、違う。琉球国からだ。未来では、京浜大震災は起こるべくして起きた歴史なんだ」
はい? 未来から来ただって!?
やはり俺は、穴に落ちて頭を打ったのだろうか。キールという軍人は、琉球県でなく琉球国出身と話す。
未来では、日本から琉球が独立せざるを得ないことになったのか?
彼は帽子からゴーグルを下ろしながら、何でもないかのように話した。
「うーんと、どこから説明しようか。その前に、ちょっと化け物がお出ましだ。駆除してから説明するから、そこから動かず待ってろ」
遠目では軍人たちが、俺たちに向かって助けに来てくれるように見えた。
でも、黒く崩れ落ちた異形なのだ。
例えるなら、ゾンビが3体ほど這いずっている。
もはや人間でない何かが俺たちに迫っていた。
どうする? 逃げるか? 奴らと戦うには倒すための情報がない。
すると、キールは武器を構えて、淡々と話した。
「あー、かわいそうに。発症しちまった怪物だな。コアを破壊して楽にしてやるよ!」
目の前にすると気味が悪い。
這いずるゾンビのような軍人の亡骸たち。
俺は黒い血の記憶を思い出して、早まる心臓の鼓動で息がつまりそうだった。
京浜大震災の被災地では、未知の感染症が流行っていた。
心臓を赤く結晶化したコアを残して、身体が手足から黒く溶けていく。
人間でない異形の者になってしまう恐怖の感染症だ。
「……」
未来軍人のキールは武器のワイヤーナイフで、クリーチャーのドロドロした手足をまず切り落とした。
亡者たちを殺すことに感情はないようだ。
接近してコアと呼んだ赤い塊を叩ききった。それを3体分。
処理には、俺の感覚で15分もかかっていない。
「キールさん、殺すしかなかったのでしょうか」
「そうだ。未来でも、ああなった奴を救う術はない。救おうとすると、自分が感染者になってしまう。恐らく……看護学生なら、お前はそれをたくさん見てきただろう」
「消えゆく命の前に、俺らは無力なんですか!」
高崎の被災者救護センターでのことだった。
俺より先に仙台の看護大から救護へ入っていた同級生たちは、黒い血を吐き、黒い涙を流して、みんな死んでしまった。
それに隔離部屋では、黒く溶けた人型の何かがあった。
通りかかった衛生兵が、処理に困るとぼやいていた。
増え続ける感染者の亡骸は、そんな扱いだった。
自衛軍から出向してきた叔父さんが、俺を叱咤激励しても、一度、壊れた心はなかなか動かなかった。
そうだった。俺は感染したらどうなるか知っていた。
ただ今は、思い出したくなかったんだ。
あれ……、なんだっけ。
叔父さんがあの後、何か言っていたはず。
それで、俺は東京に来たんだっけ。