第1話-1 京浜大震災後、東京都渋谷区のはずれ
この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
なお、災害やホラー要素、陰鬱な要素を一部含みます。
ふつうの終わり。
もう俺の知らない世界が始まっている。
まだ始まったばかりの時代には、漆黒の闇が広がっていた。
夜明け前が一番暗いって俺は知っているから。
だから闇の中でも、絶対に光を見失わない。
そうか。
俺はまだ生きているのか。
ここ、暗くて自分の状態が分からない。
数時間ぶりに、重い目を開いた気がする。
溜まった疲れからか、この場所の酸素が薄いからか、意識がぼんやりしていた。
それとも穴に落ちた時、頭でも打ったのだろうか。
でも分かった。直感で、だ。
すでに冷静さを失っていたので、たまにくる直感だけが俺の頼りだった。
俺、ふつうの日常生活には戻れないんだ。
あぁ、こんな狭い場所で、俺は体育座りのような恰好のまま、小さく震えて死ぬのか。
俺には過去につらいことがあった。ようやく今、ふつうを手に入れたばかりだった。
でも結局、神様が創る未来には敵わなかった。
土垢で汚れた右手の中に、首飾りの十字架を大事に収めた。
「母さん、親父、ユウナ……、俺の人生はもうたくさんだよ」
ここに来るまで、たくさん吐いた、泣いた、怒った、悲しんだ。
吐血する人たち。黒い血の臭い。断片的な記憶を思い出す。
負の感情が少しずつ増えた結果、感情が枯渇してきたし、何より消化器官が何も食べ物を受け入れてくれない。
水もほとんど飲んでいないけど、乾いているのは心の方だ。
そういえば、ポケットに乾いたクッキーが入っている。それ、何日前に他人からもらったものだっけ。
スマートフォンの電源はすでに消失している。気が狂ってSOSをし過ぎた。
確か……今日は頭での計算上、和中5年6月27日。
京浜大震災後、ここは東京の渋谷区のはずれ。
地割れに落ちて死を待つ俺は、神経衰弱の果て『ふつう』でない人になっていた。
どれくらい時間が経ったのか。
こつんと頭に何かが当たった感じ。石ころが頭上から落ちてきたのだ。
淡く光る左手が、遠く頭上に見える。
彼の手は宙をかき回して、見えない俺の手を探していた。
神様、俺を見捨てないでくれたのか!
ぼんやりとしていた俺の意識に生気が戻ってくる。
「おおい、そこに誰かいるのか?」
英語なまりの日本語がはっきり聞こえた。
たぶん、アメリカ軍の救援部隊だろうか。
俺はここから出られるぞ!
嬉しさの余り、元気が脱線した。
いいや、今はそうじゃない。雑念を消して、集中しよう。
ガチガチに強張った身体に、再び力を入れた。
俺は目を見開き、神様に感謝しつつ、声を振り絞って叫んだ。
「ここです! ここにいます!」
光る左手から淡く照らされたロープを掴み、俺は人生最悪の落とし穴から脱出した。
腐った泥土のような臭いに、地上に出た俺は膝を追ったまま咽る。
生活排水と腐敗した物の臭いが複雑に混ざり、災害時特有のえぐい空気になっていた。
ギイギイと音が鳴り、軋む電柱からロープを回収しつつ、軍人の彼は嬉しそうに話す。
もう送電をしていない。ただの柱は傾きながらも立っていた。
そうだった。ここは震災後の誰もいない街。
地割れや建物の倒壊に注意しながら進んできたんだった。
俺も訳の分からない不安と戦いながら歩いて、しまいには地割れに落ちた。
我ながら、なんと情けない。
視点を目の前の彼に戻す。
大都会・東京で人に会わないので、彼も大げさに明るく話すのだ。
これが今の状況で、正気を保つための手段だ。
「よーし、お疲れさん。お、ずいぶん大柄な兄ちゃんだな」
「……ありがとうございます。ここが、東京ですか?」
「あぁ、たぶん東京のどこかだろうな。えーと、地図地図。うーんと計算上は、2週間前に、水没した渋谷のはずれだ」
「そうですか。渋谷のはずれ。俺の目は、間違っていなかったんですね」
一旦、彼も警戒を解いたらしい。それか環境的に、手元が見えにくいのかもしれない。
帽子の上にゴーグルを外した、若干の幼さが残る薄い青色の瞳の軍人さんは、大きなポケットをゴソゴソと探して旅行地図を取り出した。
当然ながら、今、現代の通信機器は壊滅状態なのだろう。
非常時通話は回線が殺到して、完全に停止していると思う。
人間の心理なのかもしれないけど、SOSを送り続けていた時の俺も生死の前では、通信の停止なんて信じられなかった。
でも、現実に文明崩壊が起きているんだ。
震災のせいで、こんなレトロな紙地図が頼りの世の中に逆戻りしていた。