バタフライエフェクト(ビッグバンの遺伝子)
バタフライエフェクトという言葉を聞いたことがあるでしょうか。
某NHKの番組名にもなっていますが、蝶の羽ばたきのような小さな動きでも世界に影響を与えて、最終的に大きな出来事に繋がることがある、といった意味合いです。
私が小学校の頃に恐れていた核兵器のボタンのイメージがこれでした。もし、息を吐いたらボタンを押してしまうのではないか。つまり、ボタンを押すか押さないかという瞬間に自分の呼吸が影響を与えてしまうのではないかと恐れ、同時に息を吐かない事でもボタンを押す方向に影響を与えるかもしれないと思ってしまい、少しでも影響を与えない様に布団の中でゆっくりと空気を動かさないように息をしたことがあります。
ただ生きているだけで世界に何らかの影響を与え、でも、死んだら死んだで死ななかった未来と違う未来に影響を与えてしまう。
思えば、私の考える「遺伝子」の考え方の原点はここにあったのではないかと思います。
遺伝子とは未来を創るための設計図であり、過去から今に残った遺伝子という設計図によって今が形作られ、私の身体も私の考えもそのへんに転がっている石ころも過去によって作られ未来に運ばれている途中の形だと言えます。
例えば、そこに転がっている石がそこではない場所に移動していたら、私は生まれていなかったかもしれない。どんな小さな出来事でも未来に何らかの影響を与えることに疑いの余地はない。もちろん、影響が小さすぎて結果に影響がなかったかもしれない。
たいていの影響の範囲は狭く、影響を受けた変化が小さいなら外側に広がる範囲も小さく、時間的または空間的距離に比例してゼロに近づいていくと考えている。
そういう意味で、私が息をすれば核兵器のボタンが押されると考えたことは、小学生らしい飛躍だったと思う。それでも「押す」「押さない」の選択の境界線を越えるか超えないかを決定するのに0でない影響がないとも断言できない。
インターネットの時代になって、私の吐く息とは桁違いの影響を個人が持つようになった。ネットでは物理距離はほとんど関係ない。日本は言語の壁が高いけれども、それも翻訳技術の進化でより広い範囲に影響を与えるようになった。
例えば私の書いている文章をあなたが読む。ネットが無ければ永遠に無かったことが実現している。それこそバタフライ程度のエフェクトであっても私の文化遺伝子である文章が伝わることは遺伝子が根源的に持っている目的の達成。
この文章を開いて読む人がいる時点で未来が少し変わる。
蝶の羽ばたきほどもないかもしれない文化遺伝子でも世界に広がっていく。
無意味なことなど何もない。