80.母
次期国王の傍らに立つ黒き妃。
凍れる無慈悲な王太子妃。
それらの異名が決して良い意味で付けられたものではないことは、幼いラヴォントにも何となく理解できた。
分からないのは、何故自分の母がそのような呼ばれ方をするのかだ。
母は厳格ではあるが、決して不当に誰かを虐げるような人物ではない。そんな簡単なこと、誰もが知っているはずだと信じて疑っていなかった。
その考えが的外れだったと悟ったのは、世話係の侍女からある話を聞かされた時だった。
「貴族税?」
「はい。この国の貴族は、少しお金を持ちすぎていると以前から問題視されていました。そこで、リラ殿下は貴族が保有する資産に応じて税金を課し、その税収を貧しい人々の支援に充てる法案を提案されたのです」
「素晴らしい考えだな。流石は母上だ!」
ラヴォントが誇らしげな様子で顔を輝かせる。しかし現実は思っているよりも遥かに根深く、単純な話ではなかった。
侍女は煮え切らないような表情で、言葉を続けた。
「ナイトレイ伯爵家やプレアディス公爵家を筆頭に、賛成する貴族は多くいらっしゃいました。ですが、マティス伯爵家を始めとした反対派の声が大きくて、結局否決となってしまったのです」
「そんな……何故だ? 多くの民が救われるのかもしれないのだぞ」
「……殿下もそのうち、ご理解なさる時がくるかと思います」
侍女は問いに答えようとせず、曖昧な笑みを浮かべた。
けれど、ラヴォントはこの時点で何となく察してしまった。
一部の貴族にとって、民の命など紙切れ同然。自分たちの富を減らしてまで、貧民を救おうなどとは微塵も考えていないのだと。
そして、そんな彼らにとって母が為そうとしたことは、自分たちの財産を暴力的に奪い取る行為に他ならない。
だからこそ、母は悪意に満ちた異名を冠せられ、激しい敵意を向けられているのだ。
あまりにも理不尽過ぎると、ラヴォントは思わずにはいられなかった。
あの人はただ民のためを思い、公正を貫こうとしていただけなのに。
母も顔色一つ変えていなかったが、理想と現実の隔たりに深く心を痛めていたに違いない。
この頃から、母は少しずつ変わっていった。夫と我が子に過剰な愛を注ぐようになり、二人に近付く者を病的なほどの猜疑心をもって遠ざけるようになったのだ。
それ以外にも、些細な落ち度を見つけては使用人を厳しく罰するなど、尊大な態度が目立つようになった。
まるで別の誰かが母の体を乗っ取り、その人格を塗り替えてしまったかのように、ラヴォントには感じられた。
だけど父や祖父母は何も言わなかった。一部の貴族からの謂れなき攻撃や悪評が、彼女を壊してしまったのだと思ったのかもしれない。母を守り切れなかった自分たちに、咎める資格はないのだと、諦めにも似た思いがあったのかもしれない。
ラヴォントも、あるがままの母を受け入れようと決意していた。
「ラヴォント、起きなさい」
そんなある日の晩、微かな物音と緊張した母の囁きで目を覚ました。
「んぅ、ははうえぇ……?」
「すぐに身支度をして。この城を出るわ」
まるで、何かから逃れようとするような声音だったのを、ラヴォントはよく覚えている。




