54.幽霊
「おかあさまーっ!」
「アンゼリカ、私たちが分かるか?」
「全然起きないから心配したのだぞ!」
泣きじゃくるネージュ、険しい表情のカトリーヌ、眉を八の字にしたラヴォントが私の顔を覗き込んでくる。何だろう、やけに体が重く感じる。
「いったい何がありましたの……?」
「鏡の精霊具が暴走したんだ」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、硬い表情をしたシラーが私を見下ろしていた。
「おお、そなたも目覚めたか」
宰相と近衛兵に支えられながら、陛下が歩み寄ってくる。
「恐らくラヴォントが無理矢理起こしたせいじゃな。闇の魔力に当てられて、危うく全員命を落とすところじゃった」
「す、すまぬ」
陛下にチラリと視線を向けられ、ラヴォントはしょんぼりと項垂れた。そんな絶体絶命のピンチになっていたとは……
「じゃが、そなたと盟友のおかげで助かった。礼を言うぞ、ナイトレイ伯爵夫人」
「は、はい?」
「……君、何も覚えていないのか?」
シラーが怪訝そうに問いかけてくる。ふと自分の右手に視線を落とすと、いつの間にかフライパンを握り締めていた。
「火の精霊具を使って、鏡から溢れ出した魔力そのものを焼き尽くしたんだ」
「魔力を……?」
まったく記憶にございません。朦朧とする意識の中で、この子の気配を感じたのは覚えているけれど。私はフライパンをまじまじと見詰めた。力を消耗しすぎてしまったのか、いつもよりも核の光が弱々しい。暫く休ませてあげなくちゃ。
……って、ちょっと待った!
「ラ、ララは!?」
私の肩の上にも、ネージュの頭の上にもいない。まさか闇の魔力もろとも焼き払った……?
フライパンも同じことを思ったのか、ぽたぽたと水滴を滴らせている。
「奥様!」
背後から懐かしい声が私を呼んだ。
この声は、まさか。弾かれたように振り返り、私は小さく息を呑んだ。
「……ララ?」
そこには、メイド服に身を包んだララが立っていた。
「はい、奥様! さっきの鏡の魔力で、元の姿に戻れたみたいなんです!」
ララは嬉しそうに声を弾ませた。その目尻には光るものが浮かんでいる。
戻った。ララが人間に戻った!
「ララーーっ!」「奥様ーーっ!」
私たちは大きく手を広げ、お互いへと駆け寄っていった。が、突如謎の白い煙がララを包み込む。
「……はい?」
程なくして煙は晴れたが、目の前にいたはずのララがいなくなっていた。何これ、イリュージョン?
「……チュ?」
そして足元から聞こえた小さな鳴き声。恐る恐る視線を落とすと、一匹のハムちゃんが呆然と立ち尽くしていた。何で?
「ララ、ネズミさんにもどっちゃったの!」
しん、と静まり返った玉座の間に、ネージュの無邪気な声が響き渡る。
「だ、旦那様? これは……」
私は現実を受け止めきれずにいた。
「……恐らく後遺症の一種だ」
何故そこで医学用語が出てくる。
「長期間変化魔法が解かれずにいると、魂にまで大きな影響を及ぼすことがあるそうだ。それにより、魂に引っ張られて肉体が変質してしまうらしい」
そんな話聞いてないっすよ、シラーさん。
「……おい愚弟。何故黙っていた」
青筋を立てながら、カトリーヌがシラーに詰め寄る。
「話したところで、どうしようもないだろう。それに、一時的なものだと魔導書にも書かれていた」
どうしようもないって、それはまあ、そうなんですけどね。せめて心の準備をさせて欲しかった。
「旦那様、ララのこの様子を見てもそんなことが言えますの!?」
「す、すまなかった」
ララは私の手のひらの上で、時が止まったかのように固まっていた。ツンツンと頭をつついても、微動だにしない。その姿を見て、シラーは小さな声で謝った。
「じ、事情はよく分からぬが、もう一度こやつの力を借りてみてはどうだろうか?」
気まずい空気が流れる中、ラヴォントは夢幻の鏡を私たちに見せた。
あ、真っ黒だった鏡の表面が元に戻ってる。それと、フレームの部分が金と銀が混ざり合ったようなデザインに変わっていて、ゴージャス度がアップ!
取っ手に埋め込まれている核も、数字の8を横に回転させたような形に変化していた。右側で白い核が、左側で黒い核がキラリと輝いている。
「精霊具が変質したのか……?」
シラーがぼそりと呟く。今、鏡の中で精霊たちはどうなっているのか、ネージュに聞いてもらいましょうか。
「えっとね、もくもくさんがぶわーってしちゃうから、ふわふわさんがくっついて、ぎゅーって!」
ネージュは両手を大きく広げたかと思うと、体を丸めながらその場にしゃがみ込んだ。お遊戯大会を見ているようで可愛い。何を伝えようとしているのか、よく分からないけれど。
「再び精霊具の暴走が起こらないように、ふわふわさんとやらが闇の精霊と一体化して魔力を押さえている。……そういうことではないのか?」
カトリーヌがネージュの言葉を翻訳する。流石は一児の母、幼児語の理解度が高い。
「恐らくふわふわさんとは、光の精霊のことじゃ。光と闇は表裏一体。闇の魔力に対抗出来るし、同調することも可能じゃろう」
陛下は鏡を覗き込みながら言った。その言葉に、私は目を瞬かせた。
「光の精霊?」
「うむ。変化魔法とは厳密には、光魔法の一種なのじゃ。人間には目視出来ぬ光の膜で対象を覆い、外見を変化させるのじゃよ。しかし光魔法を使える者すべてが、変化魔法を使えるわけでもない。非常に高等な技術を要する魔法なのじゃ」
それじゃあ、それをホイホイ使いこなしているシャルロッテってすごいのね。
「その代わり、反動も大きいがのぅ……」
陛下が小声で何かを呟いたけれど、よく聞こえなかった。
「それに今の闇の精霊には、ほとんど魔力は残っていないはずじゃ。フライパン同様、暫し休息が必要じゃろう」
うーん、ララには申し訳ないけど、やっぱり後遺症が消えるのを待つしかないようだ。
「変化の力も当分の間、使わんほうがいいじゃろ。よいな、ラヴォント」
「しかし鏡で姿を変えなくては、図書館に入れません」
困ったような表情のラヴォントに、陛下はやれやれと首を横に振る。
「自分の手で変装すればいいだけの話じゃろ。あまり精霊具の力に頼るでないぞ」
「は、はい!」
祖父にたしなめられ、ラヴォントはピンと背筋を正した。何かとフライパンに頼りがちな私にとっても、耳の痛い話だ。うう、猛省。
「君は常に正しいことのために、精霊具の力を使っていると思うが」
私の心を見透かしたようにシラーが言う。彼なりに、私をフォローしているつもりなのだ。
「……ふふっ」
「何で笑ってるんだ」
「いえ。……それと、先ほどはありがとうございました」
「何の話だ?」
私の言葉にシラーは怪訝そうに眉を顰めた。
「真っ暗闇の中で、私たちを守ってくださっていたでしょう? そのおかげで、不安だった気持ちが少しだけ楽になりましたの」
もしあそこで正気を取り戻していなければ、フライパンの気配にも気付けなかったと思う。
「……別に礼を言われるようなことじゃない」
シラーはそう言って、ぷいっと顔を逸らした。おっ、照れてる照れてる。
「でんかっ。ふわふわさんともくもくさん、しんじゃうの?」
「安心せよ。暫く宝物庫で眠り続けるだけだ」
「ほーもつこ?」
ネージュはこてんと首を傾げた。
「国宝や精霊具が保管されている部屋だ」
「せーれーさんたちのおうちなの!」
「ちょっと違う気が……まあいいか。ネージュ嬢よ、別れの前に挨拶をするといい」
「はーい!」
「うむ。いい返事だ」
ラヴォントはネージュへと顔を寄せ、一緒に映り込むように鏡を傾けた。
そしてその直後、
「うわぁぁぁっ!?」
悲鳴を上げながら、鏡を勢いよく放り投げてしまった。
「で、殿下ーっ!?」
近衛兵たちの絶叫が響き渡る。しかし床に落下する寸前で、鏡はぴたりと宙で止まった。というより、ふわふわと浮いている。
「…………ギリギリだったな」
シラーは右手を前に出しながら、深く溜め息をついた。咄嗟に風魔法を使って、鏡の危機を救ったのだろう。はー、まだ心臓がバクバクいってる……
「何をしとるんじゃ、バカ孫!」
流石に陛下がキレた。不注意で精霊具を壊しましたとか、洒落にならないもんね。
「申し訳ありません、お祖父様……!」
「まったく……いったい何があったのじゃ」
「か、鏡を覗き込んだら、ネージュ嬢の背後に幽霊が映っていたのです!」
「幽霊とな?」
顔を引き攣らせながら叫ぶラヴォントに、室内は再び騒然とする。
「それって、ネージュに幽霊が取り憑いているってことですの!?」
愛しの娘の一大事に、私は顔面蒼白だ。
「わ、私にも分からぬ。だが、ネージュ嬢によく似ていたような……」
「……ネージュに似ている?」
ラヴォントの言葉に、真っ先に思い浮かんだのは成長したネージュの姿。
全員の視線が、ネージュに集まる。当の本人は、「みんな、どうしたの?」と不思議そうな表情で私たちを見回している
「だ、だが、私の見間違いだったのかもしれんな。うむ、多分そうであろう! そうに決まっている!!」
自分に言い聞かせるように、ラヴォントが強調して言う。お化けが苦手なのね……
「……チュウ?」
我に返ったララが、何やらひくひくと鼻を動かしている。
そういえばさっきから変な匂いがする。香水の芳香とも、金属臭とも違う独特の匂いだ。ちょっと渋みがあるというか……
「そういえば殿下、先ほど精霊具にかけていた液体は何ですか?」
「あれは父上が開発した秘薬だ」
カトリーヌの問いに答えながら、ラヴォントは空の小瓶を取り出した。
「蒸した豆や食塩、小麦を混ぜ合わせ、そこに精霊の素を加えて作ったものらしい」
「せ、精霊の素?」
馴染みのない言葉に私は思わず聞き返した。『せいれいの素』と書かれた粉末パックが脳裏に浮かぶ。
「ワインやヨーグルトなどの発酵食品に多く含まれている物質だ。料理をする君なら、知っていると思っていたが」
シラーは少し意外そうな口調で言った。ところがどっこい、初めて知りました。要するに乳酸菌や酵母菌みたいなものかしら。だとすると、レグリス殿下の作った秘薬というのは……!
空の小瓶に熱視線を送っていると、ラヴォントと目が合った。
「何だ、アンゼリカ夫人。そんなに興味があるなら、父上の研究室に行ってみるか?」
「えっ!?」
その提案に驚いたのは私だけではなかった。「殿下、流石にそれは……」と宰相が難色を示している。
そりゃそうよ。貴族であっても、王太子の研究室になんておいそれとは入れないもの。
「宰相の言う通りじゃ。あやつの珍妙な発明品を見られるなど、王家の恥じゃぞ」
心配するところ、そこなの!?
「悪いことは言わん、アンゼリカ。時間の無駄になるからやめておけ」
カトリーヌまでもが、真顔で忠告してくる。
「な、なんてことを言うのだ! 父上だって、五十回に一度くらいはまともな発明をするぞ!」
ラヴォントさん、それあんまりフォローになってない!
「…………」
そして私の肩を叩き、無言で首を振るシラー。みんなからの評判が最悪すぎて、私の脳内に「辞退」の二文字が浮かんだ。
しかしここでラヴォント選手、まさかの禁じ手に打って出る。
「ネ、ネージュ嬢! そなたは父上の研究に興味はないか?」
「けんきゅー?」
「うむ! わけの分からん発明品がたくさんあって楽しいぞ!」
「ほんと? みたいみたーいっ!」
「……とのことだぞ、アンゼリカ夫人!」
それはちょっとズルくない!?




