53.闇の精霊具
「なんと……夢幻の鏡に、もう一体精霊が宿っておるとな?」
驚いたように目を見張る陛下。壁際に控えていた宰相や近衛兵たちも、信じられないといった表情でざわついている。
玉座の間が騒然とする中、ネージュは「はいっ」と大きく頷いた。
「ふわふわさんともくもくさんは、なかよしなのっ!」
「おお、そうかそうか」
陛下、デレッデレですわね。しかしここで、宰相が苦言を呈する。
「へ、陛下。幼児の話を信用なさるのですか?」
「幼児の話だからこそ信じるのじゃ。幼い子供は大人よりも感受性が強く、精霊の存在を感知出来る者が多い。それに……」
陛下はいったん言葉を止め、視線を天井へと向けた。
「以前、レグリスの奴が『鏡から二人分の寝息が聞こえる』と言っておった。あやつは色んな意味でバカじゃが、妙に勘の鋭い男だからのぅ」
「レグリス殿下が……左様でございますか」
その名前を聞いて、私は一瞬ドキリとした。
レグリス国王。
ラヴォントの実父であり、エクラタン王国史上最悪の暴君だ。
全ては王国の繁栄と、王家の存続のため。
そのためなら自分の息子を洗脳し、反乱分子を始末させたり、妻のリラを生贄にして恐ろしい魔物を召喚したりと、やりたい放題の悪役だった。
最期は正気を取り戻したラヴォントに討たれ、その生涯を閉じる。他のルートでも、国王は大体悲惨な末路を迎えていた。
色んな意味でバカって、この頃から既に暴君の片鱗を見せ始めているとか? もうリラ王太子妃だけでお腹いっぱいなんだけど。
「お祖父様! 話は聞かせてもらいました!」
玉座の間の扉が勢いよく開かれ、肩に鞄を提げたラヴォントが入ってくる。真剣な表情のシラーとカトリーヌが、その後に続く。
「む? 何の用じゃ? お前には鏡を貸してくれと頼んだだけじゃが」
「夢幻の鏡の現在の所有者は私です。ですから、この場に立ち会う権利があります!」
「そんなこと言って、勉強をサボりたいだけじゃろ」
流石おじいちゃん、よく分かっている。
「……で、鏡はちゃんと持ってきたんじゃろうな?」
「この通りでございます」
ラヴォントはノリノリで鞄の中から鏡を取り出した。取っ手に巻かれていた布が外され、白い核がキラリと光った。
「チュ……」
空飛ぶフライパンの中で、ララが緊張気味に鳴く。
「ネージュ、お願い」
「うんっ」
ネージュは真剣な顔で頷き、鏡に向かって話しかけた。
「あのね、ふわふわさん。もくもくさんにあいたいの!」
暫しの沈黙が流れる。ネージュが少し困った表情で私のほうを振り返った。
「もくもくさん、まぶしいのいやって……」
「そういえば魔導書には、『光が閉ざされし時』と書いてございました。陛下」
「うむ。……直ちに、室内の窓に暗幕を垂らすのじゃ」
陛下はシラーと目配せをした後、兵士たちへ命じた。程なくして、玉座の間が薄闇に包まれる。思ったよりも暗くて、周りがよく見えない。私はネージュを抱き上げると、スス……ッとシラーの傍に避難した。
「この程度の灯りなら、問題ないだろう」
カトリーヌが手のひらに火の玉を出して、周囲をぼんやりと照らす。その傍らでは、ラヴォントが「おおっ、明るい!」とはしゃいでいる。
「これでどうかのぅ」
「もくもくさーんっ」
ネージュが再び呼びかける。しかし鏡に変化は見られない。
「ど、どう?」
「もくもくさん、あといちねんって……」
あと一年って何? まさか「あと一年寝かせてくれ」って意味じゃないでしょうね!?
「ふわふわさんも、おねんねするって!」
寝るなーっ!!
「まあ精霊は気まぐれじゃからなぁ……」
どこか遠い目をしながら、陛下がぼそりと呟く。うちの精霊具は滅茶苦茶働き者ですわよ。
「……ん?」
その働き者は私たちに近付いてきたかと思うと、ネージュの頭の上にララをそっと下ろした。そして静かに離れていく。
私は見逃さなかった。その鉄の体が小刻みに震えているのを。
キレてる。おねんねコンビの体たらくぶりに、誰よりもキレてる!
ゴオッと音を立てながら、フライパンは全身に赤い炎を纏わせた。室内に凄まじい熱風が吹き荒れ、近衛兵たちから悲鳴が上がる。
「ありゃ完全に怒りで我を忘れとるのぅ。城内の者たちを避難させよ!」
玉座から立ち上がりながら、陛下は鋭く叫んだ。えらいこっちゃ……!
「アンゼリカ。君はネージュとララを連れて早く逃げるんだ」
「旦那様は!?」
「あれを止めないわけにはいかないだろう」
シラーは面倒臭そうな顔をしながら、フライパンを指差した。ですよね。このままじゃ、お城が燃えてしまう。
「殿下!」
カトリーヌが叫び声を上げる。見ると、ラヴォントが鏡を握り締めたまま、もう片手で鞄の中をまさぐっていた。
「早くこの場から離れましょう。今すぐ精霊具を手放してください!」
「その前に、この寝坊助どもを叩き起こすのが先だ!」
ラヴォントが鞄から透明な小瓶を取り出す。その中には、黒っぽい液体が入っていた。
「貴様ら、とっとと目を覚ませ馬鹿者ぉ!!」
そう叫びながら、謎の液体を鏡にぶちまける。あれはいったい……まさか毒薬!?
途端、鏡はラヴォントの手を離れ、天井まで飛び上がった。そして空中でぐるぐると横回転したり、床の上を這いずり回ったりと、奇行に走り出す。
明らかに苦しんでいる。その様子にドン引きしているのか、フライパンの炎が次第に小さくなっていく。
「もくもくさん、おきたの!」
「え、ほんと!?」
鏡に視線を戻せば、黄金のフレームが銀細工に変化し、鏡面も真っ黒に染まっていた。取っ手の白い核も、黒色に塗り潰されようとしている。
ラヴォントの荒療治が功を奏したのだろう。
そして次の瞬間、鏡の中から無数の黒い渦が飛び出した。視界が暗闇に飲まれて、何も見えなくなる。
ううん、それだけじゃない。音も匂いも奪われて、まるで何もない世界に放り込まれたような、底なしの恐怖に襲われる。
ネージュとララを守らなくちゃ……だけど怖くて怖くて、身が竦んで動けない。
頭の中まで真っ黒に塗り潰されていく。
あれ? 私、誰を守ろうとしていたんだっけ。
思い出さなくてもいいかな。このまま──
「……え?」
誰かが、私たちを守るように覆い被さった。その体の温かさに、ほんの少しだけ恐怖心が和らぐ。
「だんな……さま……?」
ううん、この人だけじゃない。薄ぼんやりしていた意識が、少しずつはっきりしていく。どうして私、あんなに怖がっていたんだろ。
じっと目を凝らすと、闇の中で赤い光が点滅しているのが見えた。右手を伸ばし、その光を握り締めるとほんのり温かい。
ん? 段々熱くなっていくような……ちょっと待って、アチャチャチャ!!
「……はっ!」
そこで私は飛び起きた。




