52.黒狐
三人で話し込んでいるうちに、すっかり日が暮れてしまっていた。早く戻らないと、ネージュが寂しがっているかもしれない。魔導書はシラーに任せることにして、私は部屋を出た。
夜の城内は薄暗くて静かで、ちょっと不気味だ。足早に廊下を進んでいく。
「……ん?」
何やら騒がしい物音が聞こえてくる。慌ただしく駆け回る足音や、人の怒鳴り声だ。「捕まえろ」と聞こえた気がして、心臓が跳ね上がった。
ま、まさかシャルロッテが……!?
いったんシラーのところに引き返す? ううん、ネージュを一人にするわけには……!
結論が出せないまま、曲がり角に差しかかる。その向こう側から、黒い影が私の胸の中に飛び込んできた。
「コンッ!」「キャッ!」
その場に尻もちをついてしまう。いてて、二十代で腰痛持ちとか勘弁して欲しい。……というか、今「コンッ」って聞こえたような。
恐る恐る視線を落とすと、真っ黒な毛並みの子狐がプルプルと震えながら、両前脚で額を押さえていた。痛そう……じゃなくて、何で城の中に狐が?
「こっちに逃げたぞ!」
「逃がすな! 捕まえろ!」
兵士たちの怒鳴り声と、重量感のある足音がこちらへ近付いてくる。子狐の小さな体がビクッと跳ね上がった。
「もしかして……あなた、追われてるの?」
私の言葉に子狐は小さく頷いた。人間の言葉が分かるのだろう。
ああもう、ほんとはダメだって分かってるけど……!
「早くこの中に入って」
ドレスの裾をつまみながら、私は声をひそめて言った。迷っているのか、子狐が困ったような表情でキョロキョロと周囲を見回している。
「早く!」
強い口調で促すと、黒狐はササッとドレスの中へと潜り込んだ。直後、曲がり角から兵士たちが姿を現した。その手には槍ではなく、捕獲用の網が握られていた。
「! 大丈夫ですか!?」
「え、ええ。ちょっと驚いてしまっただけですわ」
私は笑顔を取り繕いながら、立ち上がった。子狐が右脚にひしとしがみついてきて、ちょっとくすぐったい。
「それより、何か事件でもありましたの? 先ほどから騒がしいですけれど」
「ああ……黒い狐がこっちに来ませんでしたか?」
「さっきの子かしら。向こうに行きましたわ」
私は元来た方角を指差した。「ありがとうございます」と感謝されて、少し良心が痛む。
「あいつ、夜になるとたまに城内をうろついてるんですよ。まったく、どこから迷い込んでくるんだか」
「おい! モタモタしてると、また逃げられるぞ!」
「そうだな。では失礼します」
兵士たちが走り去っていく。彼らの後ろ姿が見えなくなったところで、私は猛ダッシュで部屋に戻った。
「おかあさま、おかえりなの!」
笑顔で私を出迎えるネージュ。お絵かきをしていたのか、クレヨンを握り締めている。
しかし何故か部屋の中が明るい。誰かが明かりを点けてくれたのだろうか。
「チュー」
「んっ? ララさん!?」
うちの侍女がフライパンの中に入って、部屋の奥へと飛んでいく。フライパンの核が赤く光り、ボッと音を立てながらキャンドルに火が灯った。
……精霊具をすっかり使いこなしてる。いや、乗りこなしてるというべきか。
「あっ! きつねさんだ!」
私のドレスの下から出てきた子狐を見て、ネージュが声を上げた。
「しっ! 兵士さんに見付かっちゃうから、静かにね」
私が人差し指を口元に当てて言うと、ネージュも「しーっ」と同じポーズを取る。
「コン……」
子狐は目をぱちくりさせながら、室内をキョロキョロと見回していた。
「大丈夫よ。怖くな……」
私がしゃがみ込んで話しかけようとすると、子狐はぴゃっと後ろに飛び退いた。そしてベッドの上へと避難しようするが、跳躍力が足りず、ガンッとサイドフレームの部分に顔面を強打していた。
「きつねさん、だいじょーぶ!?」
ネージュが痛みで悶絶する子狐へと駆け寄る。
何というか、どん臭さ。ララのほうがよっぽど俊敏に動けると思う。それに毛並みもとっても艶やかで、野生動物特有の獣臭さも感じられない。
この子、もしかして誰かのペットじゃないの?
「……とりあえず、ほとぼりが冷めるまで私の部屋に隠れていたほうがいいわ」
コクンと頷く子狐。少しリラックスしてきたのか、ネージュに体を撫でられて気持ちよさそうに目を細めている。
廊下ではまだ兵士たちがこの子を探し回っているだろうし、安全に逃がす方法はないものか。
頬に手を添えながら、子狐をじっと凝視する。私の視線に気付いた子狐が、こちらへとことこと近付いてきた。心を開いてくれた……?
「助けてくれて、ありがとう」
「えっ」
しゃ、しゃ、喋ったっっ!! いやでも、フライパンや水差しが精霊具になるような世界だもの。動物が人語を話せるくらい普通かもしれない。……普通なの?
「それと……さっきはごめんなさい」
あまりの衝撃で絶句している私に向かって、子狐はペコリと頭を下げた。
「さっきって……廊下で私とぶつかったことを気にしてるの? あんなの何とも──」
「さようなら!」
そう言い残し、子狐は窓辺へと駆け出した。そして勢いよくジャンプをして、窓から飛び降りようとする。
この後の展開が何となく想像がつく。
「きゃふんっ」
またしても跳躍力が足りず、壁に激突した。やっぱりダメだったか……
「痛い……」
「きつねさんっ」
ぐすぐすと鼻を鳴らし、ネージュに慰められている。
「チュ?」
ララがフライパンに乗ったまま子狐へと近付く。すると子狐は「あれ?」と首を傾げた。
「さっきのネズミさん? ということは……」
「さっき?」
「う、ううん、何でもない!」
私が聞き返すと、子狐は大きくかぶりを振った。この子、いつからお城の中にいたのかしら。
「あれ? この子の匂い……」
ララに鼻先を近付けて、すんすんと匂いを嗅いでいる。あっ、そういえば狐って小動物を食べるんじゃなかった?
「逃げてララーッ!」
「ぼ、ぼくは神獣だから、お肉は食べないもん!」
神獣!? そのどん臭さで!?
「それより、この子人間でしょ? どうしてネズミになってるの?」
「チュー! チュチュウッ!」
何て言ってるか分かんないけど、事情を説明している模様。
「そっか。変化魔法で姿を変えられちゃったんだ」
「ええ。闇の精霊具があれば、元に戻せるらしいんだけど……」
「えっと……その精霊具、もしかしたら壊れちゃってるかも」
「ええぇーっ!?」
子狐の言葉に私はぎょっと目を見開いた。
「今から三百年くらい前に、彼の気配が消えちゃって……」
子狐がぼそぼそと語る。そ、そんな……せっかく苦労して魔導書を見付けたのに……!
「あ、あとは他の精霊が入り込んで、別の精霊具に姿が変わっているとか」
真っ白に燃え尽きかけている私に、子狐は慌てて言い足した。
「……別の精霊具に?」
「うん。波長の合う精霊同士で、同じ精霊具に宿ることがあるんだ」
ルームシェアみたいなものかしら。
「はちょーってなぁに?」
「性格が似てたり、気持ちが通じ合っていたり……似た者同士ってことだよ」
「ふわふわさんともくもくさんみたいなの!」
……ん? ふわふわさんって、『夢幻の鏡』に宿っている精霊よね。そういえばあの子、仕事をサボってぐーすか眠っていたような。
「ネージュ……もくもくさんって誰?」
「まっくろなくもさん! ふわふさんとおねんねしてたの」
……闇の精霊具、見付けたかもしれない。
◆◇◆◇◆
翌朝目を覚ますと、ネージュはいつものように私にぴったりとくっついて眠っていた。その枕元では、ララがフライパンの中でスピスピと寝息を立てている。ほんのり暖かくて気持ちいいらしい。
「ん? あの子は?」
子狐の姿が見当たらない。
室内を見回すと、何故か窓が開けっぱなしになっていた。カーテンがぱたぱたと風になびいている。そして窓辺にぽつんと置かれた椅子。
すさまじく嫌な予感がする。 私は慌てて窓辺へと駆け寄った。
窓から身を乗り出して下を確認してみたが、血痕らしきものは残されていなかった。
奇跡的に着地に成功したのかしら。頼むからそうであって欲しい。子狐の生存を祈りながら、私は椅子を片付けた。




