50.「黒」との遭遇
「何だ、母上か。お化けが出たかと思ったではないか」
突然の母親の登場にも、まったく動じないラヴォント。
「驚かせてごめんなさい、私も本を読みにきたの。だってあなたがいなくて、暇なんですもの」
そう言いながら、リラは本の表紙をラヴォントに見せた。黒地のカバーに赤いフォントで、『実録! エクラタン犯罪史』と書かれている。その下には、ナイフを振りかざしながら高笑いをしている男の絵があった。
「それで? あの若い女はどなた?」
ソファーから立ち上がりながら、リラは再び質問した。口元は笑っているが、目が笑っていない。ちゃんと空気を読んで適当に誤魔化してくれるわよね? 信じてるわよ、王子様……!
「うむ! あの女性はナイ……」
やめてーっ!
「か、彼女は私の妻でございますっ!」
私の絶体絶命の危機を救ったのは、司書の一人だった。
「あら、そうなの? で、そこの女は?」
リラの声音が若干刺々しくなった。
そこの女、とはネージュのことだ。この修羅場の中でも、気持ちよさそうに眠っている。
「わ、私の娘ですわ。遊び疲れて寝てしまいましたの」
素直に答えながら、私はラヴォントの腕の中からネージュを回収した。
リラはじっとネージュを凝視し続けている。ちょっと待って、まさかこんな小さな子まで嫉妬の対象なの? 四歳児ですよ?
「まあいいでしょう。その子に関しては、詮索しないであげる」
それでいいんですよ。本当に何もないんだから。
「だけどあなた……自分の娘を利用して、この子に近付こうとしてない?」
なんちゅう勘繰りをしてくるんだ、この悪女は。
「いい加減にしないか。アン……ゴホン、夫人に失礼ではないか。彼女には愛する夫がいるのだぞ」
流石に状況を理解し始めたのか、ラヴォントは私の名前を伏せつつ抗議した。
しかしリラも負けじと言い返す。
「油断してはダメよ、ラヴォント。こんな女と図書館デートだなんて……人気のないところに連れ込まれて、襲われたらどうするの?」
その問いに、ラヴォントは首を傾げた。
「襲う? この者は、私の命を狙ってなどいないぞ」
「ああ……やっぱり何も分かっていないのね。お母様はあなたが心配だわ」
リラは憂い顔で溜め息をついた。まあ、心配する気持ちは分かるんだけどね。
あの手この手を使って、王室に入り込もうとする人間はごまんといる。
だからリラが猜疑心の塊になってしまうのも、無理はないのだ。貴族の世界でも、そういった話はよく聞くし。
「あなたを狙う女は山の数…いえ、星の数だけいるのよ。最近は特にあの女が要注意だわ」
「あの女?」
「ナイトレイ伯爵夫人よ」
「アンゼリカ夫人!?」
ラヴォントが反射的にこちらを見てきたので、私は素早く視線を逸らした。
「あの女には気を付けなさい。あなたやレグリス様を狙って登城してきたんだから」
狙ってない狙ってない。
「そ、そうだったのか!?」
頼むからこっち見ないで!
「リラ殿下。ナイトレイ伯爵夫人は、清廉潔白な女性とお聞きしております。そのようなご心配は無用かと……」
リラの護衛兵が見兼ねて口を挟んだ。清廉潔白? 誰のことを言っているのか、ちょっと分かりませんね。
「そんなの分からないじゃない。だってあの悪食伯爵の妻よ? 地位しか取り柄のない男なんて、さっさと切り捨てるに決まっているわ」
本で口元を隠しながら、くすくすと笑うリラ。
彼女の言葉に、私はふつふつと怒りが込み上げてくるのを感じていた。私はともかく、シラーまで悪く言われる筋合いはないんだが!?
「お言葉ですが」
リラを真っ直ぐ見据えながら、私は口を開いた。
「ナイトレイ伯爵は確かにちょっと意地悪なところがありますし、ツンデレなところもありますけど。とっても優しくてかっこよくて、最高の旦那様ですわ。たとえ殿下であっても、あの人を愚弄することは許しません。……と、伯爵夫人なら仰ると思いますわ」
私は申し訳程度に、言葉を付け足した。顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。
変な言いがかりをつけられていたのもあって、つい感情的になってしまった……っ!
しかし、リラに激怒しているのは私だけではない。
「チュゥゥゥッ!!」
ララは私の肩から飛び降りると、リラに向かって激しく鳴き始めた。全身の毛が逆立っている。
「チュウ! チュウ、チュウゥゥッ!」
「ララ!! ステイステイ!!」
そのままリラに飛びかかっていこうとするので、私は慌ててララを呼び止めた。流石に噛み付くのはアウトだから!
「可愛いらしいネズミさんね。あなたのペット?」
「えっ? は、はい」
不快感を露にするどころか、リラは少し屈みながらララをじっと見詰めていた。予想外の反応に、ララがちょっと引いちゃってる。
「殿下、そろそろ城に戻られたほうがよろしいかと……」
自分の護衛兵に声をかけられ、リラは壁の時計に目を向けた。
「あら、もうこんな時間。お茶会が始まってしまうわ。それじゃあラヴォント、後でね」
護衛兵たちを引き連れて、リラが部屋から去っていく。
途端、室内の張り詰めていた空気が和らいだ。脱力して、その場にへたり込む者もいる。
「まったく、母上には困ったものだ。私や父が女性と接していると、あのように機嫌を損ねてしまう。何故だろうか?」
ラヴォントは腕を組みながら、訝しそうに首を傾げた。この王子様、もしや相当なニブチンさんなのでは? メテオールはあんなにマセていたというのに……あ、くしゃみ出そう。
「ふぁっ……くしょんっ!」
その瞬間、白い煙が私の体を包み込んだ。真っ白な視界の中、「へぶしょいっ!」とラヴォントがくしゃみをするのが聞こえた。
そして煙が晴れると、そこにはちびっ子サイズのラヴォントが立っていた。鏡の効果が切れたようだ。司書から借りた手鏡を覗き込むと、私も元の姿に戻っていた。
あと少し早く効果が切れていたら、リラに素性がバレていたかもしれない。ギ、ギリギリセーフ……!
「むにゃ……」
ネージュもお目覚めの時間だ。小さく欠伸をしながら、目を擦っている。
「おはよう、ネージュ」
「……あっ、おかあさまくろくないの!」
私を見るなり、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせる。
「ネジュね、いつものおかあさまがいちばんすきーっ!」
地上に舞い降りた天使だ。頭の上に、天使の輪が見える。疲れた体に、ネージュの可愛さが染み渡るわ……っ!




