37.救世主
アルセーヌ視点
悪魔の雨が止み、アンゼリカ様が発見した精霊具のおかげで、エクラタン王国にも平穏が戻りつつあります。精霊具に関しては、まだいくつか懸念がありますが、ひとまずは安心してもよいでしょう。
ですが、私には気になることが一つ。
「果たして旦那様は、あのことを奥様にお伝えになったのでしょうか……」
マティス騎士団の件が解決した今、奥様を苛むものは何もありません。そんな状況だからこそ、何としてでも面と向かってお話するべきだと思うのですが、恐らくまだ伝えていないでしょう。ナイトレイ伯爵家に長年仕えている身ですからね、そのくらい手に取るように分かります。
このアルセーヌ、一肌脱ぐ時かもしれんばい。
襟を正しながら、自らの出番を悟っている時でした。
「おかあさま! たいへんなの!」
ネージュ様が血相を変え、私へと駆け寄ってきました。奥様とともに、庭園を散策していらしたはずでしたが。それにララもお傍についていたはずです。
「ネージュ様、奥様がどうなさったのですか?」
「ララがララじゃなかったの!」
「ララ、ではない……?」
「ララじゃないララに、おかあさまつれていかれちゃったの!」
奥様の身に何かが起こったのは確かなようです。
使用人たちと手分けをして庭園を捜索しますが、奥様とララはどこにもおりません。しかも、門番や屋敷の周りを巡回しているはずの兵士たちの姿もない。嫌な予感が脳裏を過ぎります。よりによって旦那様が不在の時に、このような事態が起こるとは。
「おや?」
ふと視線を落とすと、何かが私の脚にしがみついています。
尻尾の短いネズミたちです。毛並みが整っていますし、飼育されていたものが集団で脱走したのでしょうか? 何かを必死に訴えかけているようにも見えますが。
「アルセーヌ殿、我々はどうすればよろしいでしょうか?」
使用人の一人が不安そうに尋ねてきました。
旦那様がお帰りになるのは四日後。まずはこのことを早急にお知らせしなければ。
「皆さんは、引き続き奥様とララの捜索にあたってください。あなたは、このネズミたちの保護をよろしくお願いします」
近くにいたメイドにネズミを託し、私はネージュ様の目の前に膝をつきました。
「ネージュ様は、私の傍から離れないようになさってください」
「おかあさまは……?」
「ご安心ください。すぐに見付かりますよ」
私は嘘をつきました。奥様は、ララに扮した何者かによって誘拐された可能性があります。
「いや……いやぁっ。おかあさまがいないの、いやぁっ!」
ネージュ様は幼いながらに聡い方です。何が起こったのか、感じ取ってしまったのでしょう。目に大粒の涙を溜めながら、首を横に振っておられます。
「ネージュ様、大丈夫です。きっと奥様はご無事ですよ」
「ひっ、ぐす……ほんと?」
「はい。必ずやお救いいたします」
今はそう答えるしかありませんでした。こんな時ララがいてくれたら、と思ってしまいます。彼女ならば、他にもっとお言葉をかけてあげられたでしょう。
私の根拠のない慰めに、ネージュ様の瞳から涙が零れ落ちました。
「たすけて、おにいさま!」
ネージュ様がそう叫んだ直後、その場に突風が吹き荒れました。
今のはいったい。目を覆っていた腕を下ろし、私は愕然としました。
「ネージュ様……!」
たった今まで目の前にいたネージュ様が、忽然と消えてしまわれたのですから。
「キャアァァァッ!?」
バランスを崩したシャルロッテが、真横にスライドするように転がっていき、隅に積まれていた木箱に頭を強打した。ゴンッてすごい音がしたけど、大丈夫!?
「ちょっとぉ……運転が荒いわよ!」
大丈夫だった。頭を抑えながら、外にいる御者に向かって文句を言っている。蝶よ花よと育てられたくせに、意外とタフな姉である。
けれど馬車の揺れは収まるどころか、激しさを増していく。やめろ、私は三半規管が弱くて……おえっぷ。
「チュー! チュウ、チュチュッ!」
私の肩に移動していたハムちゃんが、甲高く鳴いた。そうだわ、グロッキー状態になっている場合じゃない。今が脱出のチャンスですわよ!
「逃がさないわよ、アンゼリカァ!」
しかしここで、シャルロッテ復活!
「ひぃぃぃっ! しぶとい上にしつこ……っ」
私の声を遮るように、バキバキッと板が砕ける音がした。「え?」と視線を落としたと同時に、木が床を突き破って生えてきた。……木?
唖然とする間にも次々と木が生え、シャルロッテの姿が見えなくなっていく。馬車も動きを止めた。
「ちょ……何よこれ!?」
姉の怒号が聞こえてくるけど、無視だ無視。さあ、この隙に逃げねば!
「よいしょ……どっこいしょ……ハムちゃん、しっかり私に掴まってるのよ」
「チュウ!」
木々の隙間を抜けながら荷台を降りて、周囲を見回してみる。この場所は、以前落ち込んだ私を元気付けようと、ララが連れてきてくれた草原、よね?
辺り一面、めっちゃ木がいっぱい生えてる。もしかして、これを避けるために、あんなに荒い運転をしていたのかしら。
誰かが助けにきてくれたのかも。そしてその救世主らしき人物が、こちらへゆっくりと歩み寄ってくる。
「……えっ?」
私は瞬きをするのも忘れて、その姿に見入っていた。
風に靡く艷やかな黒髪。
こちらを鋭く睨みつける琥珀色の双眸。
雪のように白い肌。
私はその人物のことをよく知っている。
「ネージュ……」
マジラブの攻略キャラの一人で、私の可愛い娘。マイ・エンジェル。
だけどそこにいるのは、十五歳前後に成長したネージュだった。
ネージュは右手を前に突き出した。その手のひらが緑色に光り、前方に巨大な木のドリルのような物体が現れる。え。あの、ネージュさん。どうして、そんな物騒なものを出したの?
「消えろ」
ネージュの言葉に呼応するように、こちらへ向かってドリルが発射された。
「ギャーッ!! ちょっと待ってネー……」
「ガハッ」
それは私の頭上を通り過ぎ、金槌を握り締めて背後から私に襲いかかろうとしていたシャルロッテへ直撃した。そしてその勢いのまま、馬車の荷台へと突っ込んでいく。