34.一石二鳥(シャルロッテ視点)
雨が降り始めてもう何日目かしら?
最初は雨で全部洗い流されてしまえばいいと思っていた。けれど、次第に不安を抱くようになっていった。
だって、マティス邸の使用人たちが相次いで倒れたのよ。爪が真っ黒に変色して、高熱を出して寝込んでしまった。
誰かが「悪魔の雨だ」って話してた。その雨を浴びると、変な病気に罹るんだって。魔法が使える高位貴族は、発症しないみたい。
じゃあ私は?
安静にしていれば治るらしいけど、それまでずっと苦しい思いをしないといけないんでしょ? そんなのごめんだわ!
怖くて部屋に引きこもり続けた。だけど最悪な生活だった。
侍女が運んでくる食事は、貧相なメニューばかり。焼き上がってから日にちが経って硬くなったパンと、具がろくに入っていないスープ。こんなのレイオンじゃなくても腹を立てるわ。
「ちょっと! いい加減普通の食事を持ってきなさいよ!」
「も、申し訳ありません。ですが料理人たちもまだ満足に動ける状態ではなく、こちらで精一杯なのです……」
まだ熱があるのか、侍女の顔色は悪い。
ああもう、タイミングが悪いのよ!
バカレイオンが起こした事件のせいで、多くの使用人が屋敷から去ってしまった。残っていた連中にまで逃げられないように、給料を上げたらしいけど……まさか、そいつらが使い物にならなくなるとは思わなかった。
食事はまずいし、屋敷全体が埃っぽい。ドレスの着付けや化粧もしてくれなくなった。
病気も怖いけど、もう我慢ならないわ。私はマティス伯爵に直談判することにした。どんな手を使ってでも、新しい使用人を雇わせるの。
「いい加減にしろよ! こんな生活もうウンザリだ! 肉食わせろよ肉!」
広間では、レイオンがスープ皿を床に叩き付けていた。食べることに誰よりも執着していたものね。ああ、見苦しい。
久しぶりに見た婚約者は、髪はボサボサ、口の周りも無精髭で覆われていた。ずっと同じ服を着続けているのか、ツンとした異臭を漂わせている。
「わがまま言わないでちょうだい。使用人たちが動けなくなっているのは、あなたも分かっているでしょう?」
「そうだぞ。苦しいのはお前だけじゃないんだ。辛抱しなさい」
「うるっせぇな! だったら新しい使用人を雇えばいいだろ!」
伯爵夫妻がたしなめようとしても、この有り様。本当に顔だけの男ね。せめてアンゼリカを焼き殺してくれればよかったのに、それも失敗してたし。あんな奴と同じことを考えていた自分が恥ずかしくなってきた。
「ちっ……何見てんだよ、シャルロッテ!」
私に気付いたレイオンが、口撃の矛先をこちらに向けてきた。面倒臭いわね。ほとぼりが冷めるまで、部屋に込もってようかしら。
「うちが滅茶苦茶になったのは、お前のせいでもあるんだからな! 責任を取れよ!」
「はぁっ!?」
どうしてそうなるのよ。するとマティス伯爵も、とんでもないことを言い出した。
「シャルロッテ嬢。君が我が家の財産で購入したドレスやアクセサリー類は、全て売却してもらう」
「どういうことですの!?」
「我が家はナイトレイ伯爵夫人への慰謝料だけではなく、王族からの支援金の返済も命じられているのだ」
「し、支援金?」
どうしてそんなものも返さないといけないの?
「あれは、軍属の雇用を促進する目的で支給されたものだ。だがレイオンはそれにも手をつけていたらしく、殆ど残っていなかった」
「嘘……」
私が睨みつけると、レイオンが気まずそうに顔を背けた。何やってんのよ、この馬鹿。
「そして、その大半が君の買い物代で消えていったそうだ」
「でも私は何も知らなくて……!」
「それでもあなたの散財ぶりは、以前から目に余るものがあったわ」
夫妻から冷ややかな眼差しを向けられる。好きなものを好きなだけ買って何が悪いのよ。貴族の女は、美しく着飾るのが当たり前でしょう?
「急にそんなことを仰られても困りますわ。少し考えさせてください」
「逃げんなクソ女!」
「キャアッ!」
部屋に逃げ込もうとしたところで、レイオンに後ろから羽交い締めにされる。その隙に、伯爵夫妻が私の部屋からドレスやアクセサリーを持ち出していく。わ、私のコレクションが……っ!
代わりに押し付けられたのは、伯爵夫人のお下がり。年寄り臭いデザインで私には全然似合わない。
だけど、いい報せも舞い込んできたわ。例の病気の特効薬が完成して、無料で支給されることになったの!
おかげで使用人は全員快復し、ようやくまともな食事にありつけると思っていた矢先だった。
マティス伯爵領で、大規模な反乱が起こったのは。
反乱の原因はいくつもあった。
各地で水害が多発していたのに、マティス伯爵は救援要請の多くを無視した。
騎士団を動かすのは、それだけで費用がかかる。避難所の開設なんてもってのほか。だから、市街地周辺にだけ派遣していた。
そして、雨爪病の特効薬。
マティス伯爵はそれを領民に与えず、騎士団で独占するつもりだった。それがバレてしまったみたい。
「わ、我が騎士団はエクラタン王国にとって守護の要だ。いざという時、動けなくなっては困るだろう。それに雨爪病は不治の病というわけではない」
マティス伯爵の弁解は通用しなかった。
川の氾濫で帰る家を失った領民たちは、最悪な環境の中で病気に罹り、次々と死んでいったの。
それに横領の件も、マティス伯爵家への信用を大きく失墜させた。
「横領事件の首謀者がレイオン団長だっただと? ふざけるな!」
「騎士団はどうして私たちを助けてくれないの? 領民を守るのが騎士団の仕事じゃないの!?」
「伯爵家も騎士団もいらねぇ! 奴らを追い出せ!!」
不満が爆発した領民によって、伯爵邸は焼き討ちに遭った。
騎士団の兵舎にも、農具を持った領民が押し寄せた。その兵舎にいた兵士は、常時の半数ほど。残りは王都に逃げ込んだり、領民側に寝返ったりしていた。薄情者ばっかりだわ。
「はぁっ、はぁっ……!」
そして私は、燃え盛る伯爵邸から何とか脱出した。
マティス伯爵夫妻は? レイオンは? クロードは?
あんな奴ら、どうだっていいわ。だって私を置いて、先に逃げ出したのよ。
人気のない森を延々と走り続ける。素足は傷だらけで、領民に石をぶつけられた頭からは血が流れていた。
早く王都へ逃げなくちゃ。ボロボロになった私を見れば、きっと助けてくれるはず。
ああもう、どうしてこんなことになったのよ。アンゼリカからレイオンを奪って、薔薇色の人生を送るはずだったのに!
行き場のない怒りが、胸の中でぐるぐると渦を巻く。ぎりっと奥歯を噛み締める。
「……っ!」
前方に黒フードを被った怪しい奴が、私を待ち構えていた。先回りされた? 絶望感と恐怖で足が竦みそうになる。
「怖がらないでください。私はあなたの敵ではございません」
穏やかな声でそう告げられ、我に返る。
「あ、あんた……領民じゃないの?」
「はい。実はあなたに折り入ってお願いしたいことがございまして」
何かしら、こいつの声。聞いているだけですごく心地よくなってきて、恐怖が薄れていく。
「ある者を私の下へ連れてきて欲しいのです」
「は、はぁ? 私は今それどころじゃないの! 見れば分かるでしょ!?」
「ええ。ですが、王都に逃げ込んだところで、あなたに手を差し伸べる者は誰もいないと思いますがね」
「そ、そんなことないわよ! きっと誰かは……っ」
「あなたの素性を知ったら、どうでしょうか?」
「………………」
そう指摘され、何も言い返せなかった。レイオンの婚約者ってだけで、私まで新聞に悪く書かれていた。「犯罪者を育てた覚えはない」と両親から絶縁状が送られてきたから、実家も頼れない。
でもだったら、どうしろって言うのよ!
「私の頼みを引き受けてくださるのなら、命はお救いいたします」
「だから私は……」
「ナイトレイ伯爵夫人、アンゼリカ様です」
「えっ?」
忌々しいその名前を耳にして、思考が止まる。男が両腕を広げ、悠然と語り始める。
「彼女の存在は、マティス伯爵家崩壊のきっかけを作りました。しかも雨爪病がきっかけで、ナイトレイ伯爵領で反乱が発生するというシナリオも潰されてしまった。残りの三人でも儀式を行うことは可能ですが……今後のためにも、アンゼリカ様には早めに表舞台から消えてもらわなければなりません」
何を話しているのか、よく分からない。そもそも理解させるつもりなんてないのかも。
だけどこいつに協力すれば命が助かって、アンゼリカを苦しめることも出来る。それだけははっきり分かる。ふふ、一石二鳥じゃない。
「どうです? あなたにとっても、悪い話ではないと思いますが」
「……いいわ。詳しく聞かせないよ」
何だかワクワクしてきたわ!