32.不穏なトリガー
「あ、ばしゃさんがきたの!」
ネージュと二人で、廊下の窓から外を眺めていると、屋敷の前に一台の馬車が停まった。そこからシラーが降りてくる。その様子を見て、私たちも玄関に急ぐ。
精霊具を発見した後、アルセーヌはすぐに兵舎へ手紙を送った。……で、その翌朝にこうして戻ってくるって早すぎじゃない?
「おかえりなさいませ、旦那様」
外はまだ小雨が降っていて、シラーの髪やコートがしっとり濡れている。ふかふかのタオルを差し出そうとすると、ガシッと両手を掴まれた。そして真剣な表情で爪を凝視される。
雨爪病を心配しているのだろう。その次はネージュの爪を見る。
どちらの爪も変色していないことを確認すると、安心したように溜め息をついた。
「私たちなら大丈夫ですわよ。手紙にもそう書いてありましたわよね?」
「だが、万が一ということもあるだろう」
口を尖らせて反論するシラーの目の下は、真っ黒なクマが浮かんでいた。ろくに休息も摂れていないのだろう。
何となく想像は出来るけれど、一応聞いてみる。
「あちらの方はどうなっていますの?」
「控えめに言って地獄だね。いや、参った参った」
シラーは乾いた笑みを浮かべて答えた。目が死んでる……。
「で、屋敷の状況は?」
「それなら通常業務に戻ってますわよ」
「は? 殆どの使用人が罹患したんじゃないのか?」
「罹患しましたけど……今はもう全員ピンピンしてますわ」
ほら、と私は窓の外を指差す。庭園ではレインコートを着た庭師たちが仕事をしていた。
眉を寄せながら、シラーがその様子を見ている。
「……アルセーヌの手紙には、使用人の大半が雨爪病に罹り、屋敷全体が機能不全に陥っている。至急、屋敷に戻ってきて指示を仰ぎたいとあったぞ」
「何ですって?」
一番肝心なところが抜けている。……けど、書き忘れたってわけじゃないわよね?
「おかあさまがみんなのびょーき、なおしたの! すごいのよー!」
「ち、違うのよ、ネージュ。あれは精霊具のおかげよ」
「精霊具? あのフライパン、そんな力も秘めていたのか」
「それも違いますわ。使用人の方々を治したのは、水差しの方です」
私がそう告げると、シラーはタオルで自分の髪を拭きながら、「ん?」と首を捻った。確かに今の私の説明は不親切だったわ。コホンと咳払いをしてから、事実を告げる。
「実はもう一つ精霊具が見付かりましたの。この屋敷で使っていた水差しですわ」
「え」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、シラーがタオルを落としてしまう。それを見事キャッチし、えへんと胸を張るネージュはとっても可愛かった。
「申し訳ありませんでした、旦那様。情報漏洩を危惧して、精霊具の件は伏せさせていただきました」
アルセーヌはそう謝罪しながら深く腰を折った。まあ、シラーより先に騎士団の誰かに読まれるのはちょっとまずいかもしれないものね。
「しかし、こんなものが精霊具……」
シラーは困惑した表情で水差しを観察していた。
フライパンといい、めっちゃ地味だ。水を出せるのはものすごく便利だが、こんなので再び王城が大騒ぎになるのかと思うと、ちょっと申し訳ない。
「ですがこの精霊具は、凄まじい力を秘めております。……奥様」
「分かったわ。お願い、あのしょっぱくて甘い水を出して!」
アルセーヌに促され、空っぽの水差しにお願いする。すると青い宝石がぼんやりと光って、底からスポもどきが湧き始めた。
十秒もかからないうちに満タンになったそれを見て、シラーがあんぐりと口を開ける。
「これは……ダメだろう」
「ええ、ダメですな……」
シラーとアルセーヌが顔を見合わせて、ふうと溜め息を一つ。
やっぱりショボくて、陛下にご報告出来ない感じ!?
「で、でも、このお水を飲むと雨爪病が治りますの! 使用人の皆さんは、これを飲みましたのよ!」
私が握り拳を作って新人のすごさをアピールすると、シラーは側にあったグラスにスポもどきを注いで飲んだ。
「……これは塩と……砂糖かい?」
「それとレモン汁も加えていますわ。熱中症や脱水症状の時に飲むと、具合がよくなりますの。この水差しで作ったものには、雨爪病を治す追加効果もあるみたいですけど」
「…………」
「旦那様?」
「……もっとダメになった。下手をすれば、戦争が起こるぞ」
「せ、戦争っ!?」
物騒なワードにぎょっと目を見開く私に、眉間の皺を揉みほぐしながらシラーが恐ろしい事実を語っていく。
「今、エクラタン王国全域で、雨爪病が流行していてね。ナイトレイ領でも領民だけではなく、騎士団からも多数の感染者を出している。どこもかしこも、水害と疫病の二重苦に直面している状態だ。恐らく五十年前に流行した時よりも、被害が大きくなるだろう」
私はアルセーヌの話を思い出した。雨爪病は普通なら三日程度で治る。だが適切な処置を行わなければ、死に至るとも言っていた。
水害で大混乱が起きている今、適切な処置というのは出来ているのだろうか。このままだと治るものも治らないんじゃ……
「そんな状況下で、疫病の特効薬が突然見付かったんだ。しかもそれは精霊具で、飲み水を無尽蔵に生み出せる。……これが国内外に知れたら、あらゆる勢力がそれを奪いにかかるぞ」
「戦争の……引き金になる……?」
私のたどたどしい問いかけに、シラーは無言で頷いた。アルセーヌもその横で、硬い表情で黙り込んでいる。
そうか。この世界、少なくともエクラタン王国や近隣諸国は現代ほどインフラの設備が充実していない。いまだに水道が通っていない地域もあると聞く。
私が思っていた以上に、この水差しの価値は高いようだ。アルセーヌもこのことを危惧して、手紙に精霊具のことを書かなかったのだろう。
「はっきり言おう。現時点でその精霊具の存在を明かすのは、得策ではない」
「それはそうですけど……どうにかなりませんの?」
「どうにか、というのは?」
「多くの人が雨爪病で苦しんでいますのよね? それを治す水がここにあるのに、彼らを放っておくなんて私は嫌ですわ……」
今後のことを考えれば、シラーの考えが正しいのは分かっているけれど。
そのために今、病気を罹っている人を見捨てる選択はしたくないのだ。
私が自分の気持ちを告げると、シラーは溜め息を深くついた。呆れられたかもしれない。
「それは僕も同意見だ」
「だ、旦那様……!」
「民たちを見殺しにして、化けて出てこられたら嫌じゃないか」
ほんっっとに素直じゃない男だな!? こんな時ぐらい、「皆を助けたい」って正直になればいいのに。
「ですけど、何かいい方法はありますの?」
「その精霊具を王都へ持っていき、そこから兵を使ってエクラタン全領土へ水を輸送する。それしかないだろうな」
「それじゃあ、精霊具のことがもろバレですわよ!?」
「だったら、内緒にしていればいい」
シラーがさらりと言う。




