30.看病
「ですが、それは適切な処置を行った場合です。十分な栄養と休息を摂らなければ、症状も悪化しますし、最悪死に至ります」
「……旦那様は!?」
指揮を執るってことは、この雨の中を出歩くかもしれないんじゃないの!?
「いえ……恐らく旦那様はご無事です」
アルセーヌは、ネージュへ視線を向けながら言った。
「どういうわけか、高位貴族など生まれつき魔法を扱える者は、雨爪病に罹りません。ネージュ様が罹患していないということは、旦那様も大丈夫でしょう」
「よ、よかっ……」
「よかった」と言いかけて、はたと気付く。
もしかして今、この国で雨爪病が蔓延しているんじゃ……
「……だけど、奥様や私は魔法なんて使えませんよ? どうして何ともないんでしょうか」
と、ララが不思議そうに首を傾げる。するとアルセーヌは、訝しげに眉を寄せた。
「私もそこが分かりません。確かに雨爪病も全ての者に重い症状が現れるわけではなく、若い者や体力のある者は軽症で済みます。ですが、まったくの無症状というのは……」
それはそれで何か怖いな。三人で考え込んでいると、背後からちょいちょいと脇腹をつつかれた。
振り返ると、フライパンの精霊具がふわふわと浮いている。何かを訴えるように、赤い光を点滅させていた。
「とかげさん!」
ネージュがフライパンに向かって叫ぶ。
「とかげさんが、わたしのおかげって」
精霊の言葉が聞こえるの? というより、私のおかげってもしかして……
「……あなたが私たちを守ってくださっていたの?」
私がそう問いかけると、フライパンは一際強く光を放った。うっそだろ、そんな機能まで付いてんの?
「なるほど。何故私たちまで精霊の加護を授かったのかは分かりませんが、感謝いたします」
アルセーヌはフライパンに深々と腰を折ると、ララのほうを向いた。
「ララ、現在この屋敷でまともに動けるのは、恐らく私たちだけです。他の者が快復するまで、二人で頑張りましょう」
「は……はい!」
ララが顔を強張らせながら、返事をする。
「……というわけでございます。奥様にも色々とご迷惑をおかけしてしまうと思いますが……」
「ちょっと待って! もう一人、動けるのがいるわよ!」
私は自分を指差しながら宣言した。
「私も働くわ!!」
アルセーヌは、「この屋敷でまともに動けるのは私たちだけ」とララに言っていたが、その少し大袈裟な言葉は正しかった。
寝込んでいない使用人たちの爪は、個人差があるものの、一様に黒く変色していた。微熱があるのに、自分まで倒れるわけにはいかないと、痩せ我慢していたメイドもいたくらいだ。
「後のことは私たちに任せて、ゆっくり休んでください」
「はい……それでは、お言葉に甘えて失礼します」
アルセーヌに優しく諭されて、メイドは自室へ戻って行った。
雨爪病には特効薬がないので、対処療法しかない。栄養のある食事が不可欠だ。
「ちょうどミルクもありますし、パン粥でも作りますか?」
「いえ。ミルクじゃなくて、野菜スープで作りましょう」
私はそう提案しながら、ララに人参を手渡した。
「ミルクは栄養があるけど、胃腸が悪い時は摂らないほうがいいらしいのよ」
症状を聞く限り、風邪というより胃腸炎に近いかもしれない。
そういう時は、繊維質の多い野菜は避けろと聞いたことがある。人参や大根がいいんだっけ。
軽症の人には、鶏のささみを加えてあげてもいいかも。
「奥様……やけに詳しいですね」
レシピをぶつぶつと呟いていると、ララが目を瞬いていた。
前世では、上京したての頃、ストレスでよく胃をぶっ壊していたからね。セルフケアをしていたのだ。
野菜スープの中にパンを入れて煮込んでいると、ネージュがとことこと厨房にやって来た。お腹が空いているのかな? と思いきや、
「ネジュも、はたらくわ!」
あらっ、私の物真似をしている。得意気な顔で自分を指差すネージュに、「ネージュ様は、遊んでいていいのですよ」とララが慌てて言う。
すると、ネージュは悲しそうに首を横に振った。
「おかあさまも、ララもいなくて、つまんないの……」
ああーっ、寂しい思いをさせちゃってごめんね……!
私が抱き上げて頭を撫でてあげると、ぐりぐりとほっぺを押し付けてきた。
「それじゃあ、ネージュもお手伝いしてくれる?」
「するーっ!」
元気なお返事だ。ネージュには、大役をお任せすることにした。
「ネージュはこれを持っててね」
「このふくろ、なぁに?」
小さな紙袋を手渡すと、ネージュがコテンと首を傾げる。
「その中にはお薬が入っているの。皆に一つずつ渡してね」
「うん! がんばるの!」
ネージュは、憂鬱な空気なんて吹き飛ばすような明るい笑顔で頷いた。
完成したパン粥と水をワゴンに載せて、使用人たちの部屋を回るのはララの仕事だ。その隣にはネージュがぴったりとついている。
「奥様は暫くお休みください」
「えっ、私も行こうと思ってたのに!」
「あとは、ネジュたちにまかせるの」
ネージュがむふんっと、誇らしげに言う。可愛い娘の勇姿が見たかったのにー!
まあいいわ。私は厨房で一人寂しく、夕飯のメニューでも考えよう。
うんうんと頭を悩ませているうちに、ララたちが帰ってきた。ネージュは「みんなよろこんでたの!」とやり切った顔をしているが、ララが何やら険しい表情で私に目配せしてくる。
「症状が重い方もいらっしゃって、パン粥も無理みたいです」
ネージュに聞こえないよう、小声で耳打ちをした。
「だったら、林檎のすりおろしはどうかしら?」
「それが食べ物自体を受け付けないらしいです。ずっと嘔吐と下痢が続いていて、水を飲んでもすぐに戻してしまうそうで」
脱水症状を起こしているのか。診療所に連れて行ってあげたいけど、御者もダウンしているし、街も雨爪病で大騒ぎになっているだろうし。
この世界にもスポドリとかがあればな……。
「……なければ作ればいいじゃない!」
塩と砂糖を水に加えて手早く掻き混ぜて、一口味見してみる。……マズいっ!!
もっと塩と砂糖の量を調整しよう。それから、風味付けでレモンの絞り汁も少し加えて完成! よし、今度は美味しい。
「ネージュとララもどうぞ」
「はーいっ」
「ありがとうございます!」
二人にも味見をしてもらう。
「おいしー!」
「えっ!? 何ですか、このしょっぱいけど、甘くて……いくらでも飲めてしまいます!」
好評なようでよかった。だけど、健康な時はあまり飲みすぎないでね。
「こちらは、何と言う飲み物なのですか?」
「スポドリもどき……じゃなくて、何だったかしら」
確か『けいこう何とか』って正式名称があったような。水分と一緒に、塩分や糖分も気軽に摂取出来る優れものなのだ。
「ララ、私のお部屋から水差しを持ってきてくれる? あれなら一度にたくさん作れそうだから」
「かしこまりました」
その間、ネージュに林檎を剥いてあげていると、ララが水差しを抱えて戻ってきた。
「お待たせしました、奥様!」
「……?」
あの水差し、蓋の部分に飾りなんてついてたかしら。青い宝石のようなものが埋め込まれていて、とってもお洒落だけど。