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ヒーロー 競走馬と見た夢  作者: 春原 恵志
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第七章 二〇〇三年一二月

第七章 二〇〇三年一二月

有馬記念の枠順発表から世間は異常な盛り上がりになっていた。

菊花賞を回避し、3歳馬ながら果敢に天皇賞に参戦し、見事勝利を収めたモヒートは、なんとその後の海外招待馬参加の国際G1ジャパンカップも勝利した。これで有馬記念も勝利するとテイエムオペラオー以来の秋古馬三冠馬になる。

そしてそれを阻止しようとするのが地方馬のアムロである。同じく3歳馬でありながら一見するとすべてが2流のアムロが、中央のエリートであるモヒートを打破できるのかが、世間の最大の関心事となっていた。

報道各紙も毎日王冠でのアムロの敗因が落鉄であると記載したこともあって、底知れない実力が今度こそ発揮できるのではないかという期待もあり、前日投票の単勝オッズではアムロは2番人気になっていた。

さらに御子柴のヒーロー誌の記事により、アムロの勝利がオーナーの息子である祐介の心臓移植を叶えることも報道されていた。祐介の元には続々と全国から励ましの便りが届いていた。


12月25日木曜日にアムロは中山競馬場に到着した。宇都宮からは若干だが東京競馬場に比べ中山競馬場の方が早く着く。そういった意味では今回は輸送も楽だった。

村井厩舎からは村井親子と御手洗騎手、そしてごんじいが帯同した。歩美は冬休みに入ったので一緒に来た。福原碧はレース当日に来る予定だ。もう装蹄作業は不要との事でそうなったが、何か起こればすぐに駆け付けることにはなっていた。

村井は前日の水曜日に、ごんじいにアムロが有馬記念で引退する旨を伝えていた。ごんじいは村井の結論に対し、何も言わずにうなずいていた。村井はごんじいは知っていたのかもしれないとも思った。ずっと馬を見てきたごんじいに気が付かない訳はないのかもしれない。

中山競馬場の厩舎馬房に入るが、アムロは相変わらず落ち着き払っていた。

初めての馬房になるので、普通、少しは緊張するものだが、この馬にはそういった仕草は全く見られない。歩美がつきっきりでアムロに話しかける。

「アムロ、今度のレースがお前の最後のレースなんだよ。もうこれで走ることは無いんだ」

アムロはだまってそれを聞いている。

「いいか、お前は絶対勝つんだ。そうして祐ちゃんの手術代を稼ぐ。それが使命だ」

歩美にしては難しい言葉を話す。どこかのアニメの影響だろうか。


村井厩舎の面々は中山競馬場近くのビジネスホテルに泊まっている。

その夜、ホテル近くのファミリーレストランで食事している。御手洗は減量があるので、サンドイッチのみだ。

御手洗は歩美のじゅーじゅーいうハンバーグをじっと見つめている。歩美はそんなことを全く気にせず、バクバク食っている。村井が話す。

「明日は中山競馬場のスクリーニングを兼ての調教だ。キャンターでいいからアムロにコースを下見させるんだ」

「わかった」

歩美が言う。「武、有馬記念は長い距離を走るんだ。馬場も外周りから内回りに替わるんだからな」

「わかってるよ。昔のビデオも何回も見たから、大丈夫だ」

「泣いても笑ってもこれが最後だ。有終の美を飾ってくれよ」村井が言う。

「ああ、とちぎ競馬の心意気を見せてやる」御手洗が吠える。

「言うねえ」ごんじいがうれしそうだ。ごんじいはとちぎ競馬一筋だ。40年以上も馬の世話をしている。やはりとちぎ競馬にはこの中の誰よりも愛着がある。

歩美が偉そうに話す。「それから、武、ジョッキールームに入ったら、中央の騎手と仲良くするんだぞ」

「大丈夫だよ。今までも仲良くさせてもらってる」

「特に武豊と仲良くすること」

「どうして?」

「武豊はリーディングジョッキーだぞ、なんか色々情報を持ってるはずだ」

「そうかな、うまいだけじゃないのか」

「同じ名前のよしみで色々、教えてもらうんだ」

「なんだ、同じ名前って?」

「ほら、武と武って同じ漢字じゃないか、それをネタに接近するんだ」

武があきれた顔をする。しかし、歩美に何か言っても仕方ないのでそのままうなずく。

御手洗も中山競馬場は初めてなので、すでにとちぎ競馬から交流レースで参加したことのある先輩ジョッキーに話は聞いた。それなりに情報はもらったが、たしかに中央のジョッキーにも話を聞いた方がいいだろう。あさって、ジョッキールームで会えたら聞いてみようと思う。


そして金曜日。朝からアムロの調教が始まる。馬房から出て中山競馬場の本馬場に入る。

この時期の中山競馬場の芝は相当、荒れている。所々、芝が剥げており状態もあまりよくはない。特に2003年当時は現在よりも芝の状況は悪かった。しかし、アムロはダートも走れる馬なので、落鉄の心配がなくなった今は荒れた馬場はむしろ好都合ともいえた。

御手洗がアムロにまたがってキャンターに向かおうとしている。歩美がアムロにコースの説明をする。まずは外回りを回りながら、内回りにコースが変わる。2周もするからあわてないようにと馬場を指さしながら話している。馬上の御手洗武が何もしないでいいように丁寧に説明している。なんとなく、アムロも理解しているようだ。

角馬場でウォーミングアップ後、馬場に入りいよいよ、試走だ。アムロはいきなり走り出さずに、馬場全体を見回している。そしてスタート位置までゆっくりと歩いていく。スタート位置は向こう正面だ。御手洗が合図すると、ゆっくりと走り出す。外回りコースからそのまま、最終コーナーを回ってゴール板を通過する。スタンドの目の前だ。

そしてコーナーを回り、今度は内回りコースに入る。足元の馬場を確認するかのようにしっかりと走っていく。御手洗は馬上で感心する。やっぱりアムロは頭がいい。歩美の話を理解しているようだ。3コーナーを過ぎて最終コーナーを抜けて再びゴール板を通過する。

そしてアムロは走りを止めた。スタンドを見上げている。

この馬には当日の歓声までも聞こえているのかもしれない。御手洗はそう感じた。

これで滞りなくスクリーニングが終了した。アムロは完調だ。


そして有馬記念当日は快晴となった。中山競馬場を吹き抜ける風は木枯らしに近い。

これがアムロのラストレースであることは村井親子、御手洗騎手とごんじい、それと御子柴しか知らない。御子柴はこの歴史に残るであろう馬の最後のレースを記録すべく、昼過ぎに中山競馬場に入った。

朝から大勢の観客が来場しているそうで、昨晩からの泊まり込み組もいたらしい。オグリキャップのラストランに匹敵する入場者数のようだ。確かに場内の人数が多い。至る所に人がいる。

報道用のタグを首から掛けて、場内を歩く。今日は専業のカメラマンが来ているので御子柴は取材活動に没頭できる。場内の取材を終えたら、アムロの馬房にも顔を出すことにする。


一方、阿部工業の2階材料倉庫、岸田は休日返上で在庫の確認作業を行っていた。

会社は金曜日が今年最後の出社日だった。ただ、阿部と岸田は昨日の土曜日に出社し棚卸をやっていた。そこで帳簿上の在庫数と実際の数量を確認した。一日がかりでおこなって一部、在庫数が合わないものがあり、夜も遅くなったことから岸田が本日、その再確認で休日出勤していた。阿部オーナーは有馬記念に参加するため、岸田のみの出社だった。

他の社員は冬休みに入り、既に帰郷もしくは旅行などに出かけている。岸田もこれが終われば家族と里帰りの予定だった。

棚卸で合わなかったところを確認している。在庫資料を見ながら現物確認をおこなう。成型用の樹脂材料も相当数の在庫があり、重量単位で管理している。さらに最近は金属加工も増えてきたのでそういった材料の確認も必要となっていた。

概ね再確認も終わり、そろそろ終了かと思った時に、アルミ材料の数量が合わない点が気になった。試料50×150×18の板材が1個無くなっている。しばらく探して気が付いた。A1050がA2017と置き換わっている。つまりは間違えて使用したことになる。

使用履歴を確認して岸田は青くなった。これはアムロの蹄鉄用じゃないか、間違えたのか。確か蹄鉄については材料指定で吟味したはずで間違えた場合はどんな影響があるのかわからない。

すぐに阿部に電話を入れる。「社長、今、どこですか?」

『おお、岸田くんか、今、中山競馬場に着いたところだ』

「大変です。材料の在庫を確認していたんですけど、アムロの蹄鉄を間違えて作った可能性が高いです」

『どういうことだ?』

「アムロの蹄鉄用にはアルミの1050を使ってましたよね、ところが最後の蹄鉄に使ったのはジュラルミン系の2017で加工したみたいなんです」

『えーと、ジュラルミン系だとより若干硬くなるはずだよね。それぐらいだったら大丈夫じゃないか…』

ここで阿部が以前、福原碧から言われたことを思い出す。JRAでは蹄鉄の重さに規定があった。たしか150g以下だったはずだ。

『岸田くん、アルミの比重でどっちが重かったかな?』

「比重ですか、ちょっと調べます」岸田が資料を確認する。

「社長、ほとんど変わりはないですが、2017のほうが微妙に重くなります。比重で2.8と2.7の差です」

阿部は蹄鉄の重量には気を付けていた。福原碧から限界近い重量指定があり、150gに近い重さで作業したはずだ。となるとその比重だと数グラムだが重くなる可能性がある。つまりは規定違反となる。

『ちょっとこっちでも動いてみるけど、岸田君のほうで1050で再加工しておいてくれないか?』

「それはいいですけど、今から加工しても間に合いますかね。そちらに持って行く時間も考慮すると急いでも3時に間に合うかってところですよ。それに熱処理は無理です」

『わかってる。ただ、このままだと失格になるかもしれない。なんとかしないと』

「わかりました。やるだけやってみます」

岸田がA1050の試料を持って、大至急1階の加工機にセットする。加工自体はプログラムしてあるので、1時間もかからない。あとはどうやって運ぶかだ。岸田は自家用車を持っていない。さらに困ったことに阿部工業に1台ある社用車は社長が中山競馬場までの交通手段で使っている。

加工機を使って自動で加工をしている合間に岸田は何人かの社員に当たってみる。やはりみんな不在だ。里帰りしてるよな。そうしたところ、一人に繋がった。

『はい、早川です』

「ああ、よかった。早川さんお願いがあるんだけど、中山競馬場まで蹄鉄を運んでほしいんだ」

『はい?』早川は話が飲み込めない。

「実はアムロの蹄鉄の材料を間違えて加工したようなんだ。今、再度、加工している、それを持って中山競馬場まで行ってくれないか?」

『私、車は持ってないですよ』

「ああ、そうか、実は僕も持ってないんだ」

八方ふさがりだ。タクシーにするか。年末なので市内も渋滞しているかもしれない、間に合うのか?

『自転車で良いですか?』

「ああ、そうか、早川さんの自転車、早かったものな、うん、是非、頼むよ。なんとか3時までに届けないとアムロは失格になる」

『失格ですか、わかりました。すぐ行きます』

早川も今回の有馬記念での勝利が阿部にとって死活問題であることは承知している。加工はすぐに終わり、その頃には早川も真っ赤な自転車と真っ赤なサイクリングウェアで到着した。

「早川さん悪い、これなんだけど、お願いする」

岸田が4個の蹄鉄を差し出す。熱処理はしていない、アルミ材無垢の品物だ。

「わかりました。今、電車を調べたら、新幹線を使って大宮経由で武蔵野線ルートが一番早いみたいです。それだと何とか2時までには着くと思います」

それだと車で行くよりも早くなる。さすが早川だ。

「そうか、頼むよ」

「わかりました」

早川は背中のリュックに蹄鉄を入れて走り出す。全速力だ。岸田がそれを見送る。頼む、早川。


中山競馬場には阿部オーナー夫妻と無理を押して祐介も来ていた。アムロの雄姿を見たいということで特別に医師の許可をもらっていた。ただし、医師からは無理は禁物と言われ、祐介は馬主席からの観戦のみが許可された。阿部は祐介と玲子をアムロの馬房に向かわせてから電話をかける。まずは福原碧だ。

「福原先生ですか?阿部です」

『阿部さん、どうしました?』

「すみません、アムロの蹄鉄の材料を間違えていました」

『え、どういうことですか?』

阿部が福原に経緯を説明する。

『わかりました。私も材料が変わっているのに気が付きませんでした』

「いえ、こちらのミスです。それで先生の方で装蹄作業はできますか?」

『大丈夫です。私ももうすぐ競馬場に着きます。今、大宮でこれから武蔵野線に乗るところですから、1時過ぎには着くはずです。すぐにアムロの馬房に向かいます』

「すみません。よろしくお願いします」


中山競馬場のアムロの馬房には村井親子とごんじいがいた。そこに祐介と玲子ママが到着する。玲子ママが村井に話す。

「村井さん、阿部から聞いたんですが大変なんです。アムロの蹄鉄を間違って作ったみたいです」

「どういうことですか?」

「材料を間違えてしまって、蹄鉄の重量がオーバーしているかもしれません」

「え、そうなんですか!」

「とーちゃん、大変だ!」

すぐに村井が予備の蹄鉄を持って、近くにいるJRAの職員に確認する。

「すみません、蹄鉄を間違えていたみたいなんですが、重量を確認できますでしょうか?」

若い男性職員が突然の話にびっくりして応対する。

「重量間違いですか、わかりました。計ってみましょう」

近くにある部屋に計りがあるそうで、村井と職員が部屋に入る。職員がはかりに蹄鉄を載せる。村井は祈るような気持ちだ。しかし、はかりに出ている数字は無情にも155gだった。

「確かにオーバーしてますね。装蹄しなおしてください」

村井はパニックになる。5gをどうやって減らせばいいのか、削る?かじる?わからない。そこに阿部オーナーが到着した。

「阿部さん、やはりオーバーしてます。5gですけど」

「5gか、くそー」

「どうします?」

「今、再加工したものを持ってこちらに向かっています。それを待つしかないです」

「この蹄鉄を加工できないですか?」

「いや、どうだろう、形状を含め、福原さんがベストな状態で寸法指定したものですから、削るにしてもどこを削ったらいいのか、それと加工するものがここにありますかね。」

「装蹄するための治具はあると思います」

「わかりました。福原さんに聞いてみましょう。今、こちらに向かっているそうです」

そこでJRA職員が最悪の話を始める。

「車で向かわれてるんでしょうか?」

「いえ、電車です」

「今、武蔵野線はポイント故障で止まっています。違う電車ならいいんですが」

福原は武蔵野線に乗ると言っていた。なんということだろう。ここにきて次から次に問題が発生する。


そんな騒動とは、うらはらにアムロの馬房では祐介が歩美に笑顔を向ける。

「歩美ちゃん、アムロに会いに来たよ」

「うん、アムロを見てよ。絶好調だよ」

飼い葉おけに顔を突っ込んでいたアムロが祐介に気が付いたようだ。顔を上げて祐介を見る。祐介がゆっくりとアムロに近づく。そしてアムロの顔を撫でる。アムロがうれしそうに頭を上下に揺する。まるで今日の走りを見ててねと言っているようだ。

「アムロ、がんばってね。僕の分も目一杯走るんだよ」

アムロはさらに頭を揺する。歩美が話す。

「祐ちゃん、アムロは頑張るって」

「アムロ…」


阿部は岸田から早川が蹄鉄を運んでいると連絡を受けていた。おそらくまだ新幹線だろう。その早川に電話する。

「早川さん、お疲れ様」

『今、大宮に着きました。なんか、武蔵野線止まってるみたいですね』

「私も今、聞いた。京成線で来れるかな?」

『はい、しかしタイミング悪いな。こんなことなら、上野まで乗ってればよかった』

「そうだね。また、新幹線に乗ってくれ」

『はい、駅員に最短コースを確認して行きます』

結局、待ち時間を考慮すると新幹線と在来線であまり変わりがないのでJR高崎線に乗る。そして上野駅について京成線に乗り換えた。

「えーと、中山競馬場ってどこの駅だ?」

駅員に聞くと東中山駅だそうだ。勧められた快速に乗る。早川はたまの休みに何やってるのかなといった気になる。電車は競馬新聞を広げている人々でごった返している。みんな有馬記念を見に行くんだろうな。これだけの人たちを魅了する競馬って何なのかな。早川は少し気になる。


一方、武蔵野線に乗っている福原碧は気が気でない。先ほどから電車が止まったままだ。どうもポイント故障で電車が止まったようで、福原がいるのは乗り換えが困難な三郷駅付近だ。その福原に電話が入る。阿部オーナーだ。

『福原さん、今どこですか?』

「三郷駅の手前で止まっています」

『そうですか、今、新しい蹄鉄を届けてもらっています。それを使うのがいいか、予備の蹄鉄を削るのがいいか、どちらがいいですか?」

「重量オーバーはどのくらいなんですか?」

『約5gです』

「5gか、微妙だな。わかりました。両方出来るように準備しておいて下さい。そちらについてから判断します」

『わかりました。それから最寄りの駅からタクシーで来られた方が早いかもしれないですよ』

「そうですね。動き出してものろのろ運転かもしれないので、三郷駅からタクシーで向かいます」

福原が時計を見る。すでに2時近くなっていた。本当なら昼過ぎには着いているはずなのに。


村井はJRAの職員に確認を取ったところ、やはり規則では蹄鉄の重量オーバーは違反だそうだ。失格までにはならないかもしれないが、5秒の追加ペナルティが課せられるそうだ。5秒はいかにアムロでも致命的なタイムロスになる。村井がアムロの馬房の前にいる全員に話をする。

「やはり、蹄鉄の重量違反は追加ペナルティがあるそうです。5秒加算だそうです」

それを聞いて阿部オーナーが天を仰ぐ。

「5秒ですか、きびしいな。でも早川さんがもうすぐ着くはずです。さきほど、東中山に着いたって連絡がありました」

「そうですか」

「村井さん、すまない、もっと注意しとけばよかったよ」

「仕方がないですよ。でも考えようによっては分かって良かったかもしれませんよ。気が付かないで走っていたらそれこそ、後から失格になったかもしれません」

阿部オーナーがうなだれる。

そこに真っ赤なトレーニングウェアーの早川が到着する。

「すごい、まっかっかだ」歩美が素直に感想を述べる。

「社長、持ってきましたよ。蹄鉄!」

阿部が早川から蹄鉄を受け取る。熱処理もなく無垢のアルミ色だ。

「うん、ありがとう、休みなのにすまないね」早川が笑いながら答える。

「ほんとですよ、でもなんか有馬記念って面白そうですね。みんな興奮してる」

「そうだね。年末の一大イベントだからな」阿部オーナーが引きつりながら笑う。

「あれ?福原さんは、まだなんですか?やっぱり武蔵野線ですか?」

「そうなんだ。彼女は電車に乗ったらしく、しばらく動かなかったらしい。三郷駅からタクシーで来てくれってお願いしたんだけど…」

「けっこう、道が混んでましたよ。武蔵野線が止まってる影響なのかな、ちょうど有馬記念を目指して車が集まってる感じですね」

「そうか、混んでるか」


そんな騒ぎが起こっているとは露知らず、御子柴は中山競馬場で取材を続けていた。今年の有馬はいつになく、盛り上がっており、入場者数も過去最高に近づいているようだ。これもアムロ対モヒートの世紀の決戦目当てなのかもしれない。


三郷駅からタクシーに乗った福原は車内でじりじりしていた。歳の頃は50歳後半で白髪まじりの運転手が話す。

「いやあ、混んでるな、競馬場だったら普通は40分ぐらいで着くんだけどね」

先ほどから少ししか動いていない。福原は時計を気にする。車の進み具合と比較して時計の方はどんどん進んでいく。

「競馬場に着くのは何時になりますか?」

「そうだね。これだと1時間以上かかるかもしれないね。ぎりぎり発走に間に合うかってところだな。馬券は買えないかもしれないよ。ははは」

運転手は笑顔だ。こちらの事情も知らないので無理はないかもしれない。

福原の携帯電話が鳴る。「はい、福原です」

『村井です。今どこですか?』

「今、三郷駅を出たところなんです。タクシー乗り場も混んでいて、その上、道も混んでいて動かないんです」

『え、それは困った。何時ぐらいになりそうですか?』

「今、運転手の方が言うには有馬記念の発走に間に合うぐらいじゃないかって…」

『わかりました。ぎりぎりまで待ちます』

「もし、私が行けないようでしたら、最悪、アムロの今の蹄鉄を削るしかないです。どのくらい影響が出るかはわかりません。その時はまた、こちらから指示します。少し待ってください」

『わかりました』電話を切る。


村井は時計を見る。今、14時を過ぎたところだ。パドックには15時から周回することになっている。再装蹄するにしても接着装蹄なので乾燥時間もいるし、タイムリミットは14時半といったところだろうか。あと30分しか残されていない。村井が話す。

「今、福原先生に電話で確認しました。最悪、今の蹄鉄を削る形にするそうです。その指示は先生から出されます。オーナー達は競馬場の方に行ってください。あとは我々がなんとかします」

阿部オーナーたちがうなずく。歩美が祐介に話す。

「アムロががんばったら、次は祐ちゃんが頑張る番だよ」

「うん、わかった」

「また、一緒に学校に行こうね」

「うん」

祐介は全国からの応援もあり、物事を前向きに考えられるようになっていた。以前の暗さは影を潜めている。

「村井さん、後はお任せします。もし、だめでも仕方がないものと諦めますので、全力を尽くしてください」

「わかりました。今までだって何回も苦労を乗り越えてきたんです。絶対、うまくいきますよ」村井が誇らしげに話す。

「そうですね。よろしくお願いします」阿部オーナー達と早川が馬主席に向かっていく。

後に残った村井厩舎の面々はただ、待つしかない。

「接着剤とか準備しとこう、福原先生が来たらすぐ作業できるようにしとかないと」

「パドックは何時からなの?」

「遅くとも3時には入ってくれって言われてる」

「そうか、ほんとにぎりぎりか…」アムロが歩美を見ている。

「アムロ、大丈夫だよ、今、みどりが来て蹄鉄を打ち直すからね。お前は走ることだけ、勝つことだけを考えればいいからね」アムロが理解したように首を振る。

しかし時間はどんどん経過していく。そこに御子柴が顔を出す。

「村井さん、取材に来ました。あれ、どうかされました?」

いつになく、厩舎の面々の表情が暗い。歩美が話す。

「ちとせ、蹄鉄を間違えてたんだよ」

「え、どういうこと?」

「はい、蹄鉄の材料を間違えて作ったみたいなんです。それで今、重量オーバーになってるんです」

「それなら、打ち換えればいいじゃないですか?」

「打ち換えるみどりがいないんだよ。電車が止まってるの」

「え、そうなの?今どうなってるの?」

「福原さんはタクシーでこっちに向かってるんですが、道が渋滞しているようで遅れてるんです」

「どうするんです?」

「最悪、蹄鉄を削るしかありません」

「誰が?」

「私でしょうか?」村井が自信無げに手を上げる。

「えー!」

村井が時計を見る。無情にもすでに14時半になっていた。

「もうだめだな。福原先生に電話しよう」

村井が電話をかける。しかし呼び出しはしているようだが、福原は出ない。

「とーちゃん、出ないのか」

「電波状況が悪いのかな、出ないな。どうする?」

「とーちゃん、アムロの蹄鉄を削れ」

「うん、やってみる」

村井が見よう見まねでアムロの脚を取ろうとするが、どうもうまくいかない。

「とーちゃん、全然違うぞ、装蹄師は反対側に立って脚を持つんだ」

「そうだったか、じゃあこんな感じか」

アムロの脚を持とうとするがアムロが嫌がる。なんか持ち方が変だ。

「もう、とーちゃんのへたくそ。私がやる」歩美がアムロの足を持とうとする。

「お前には無理だ。脚が届かないだろ」

「じゃあ、どうするんだよ。このままだと失格だぞ」

歩美は泣きそうだ。一同、途方に暮れる。御子柴が話す。

「ここに装蹄師の方はいないんですか?」

「あ、そうか、探してみるか」

村井が装蹄師を探そうとしたところで、歩美が何かに気づいた。「あっ」

歩美が指さした先に中山競馬場の厩舎が連なっている。そしてその端の方に何か人影が見える。その影が段々と大きくなっていく、福原先生ことあられちゃんが走って来ている。運動不足のせいなのか、息切れしているようだ。心なしか青ざめている。そしてなんとか福原碧が到着した。

「すいません、遅れました」

村井が安どの表情でへたり込む。歩美が話す。

「みどり、顔が青いぞ、大丈夫?」

「うん、ジェットコースターに乗って来た」

ジェットコースター?このひとディズニーランドに行ってたの?早速、福原はゼイゼイ言いながら蹄鉄を確認する。

「この新たに作った方で行きましょう、以前のものを削る場合、どこを削ればいいかが目検討になります。バランスもあるのでこっちで行きましょう」

さすがに学者だ。自分の計算通りにやりたいみたいだ。早速、装蹄作業に入る。アムロの蹄鉄を離型剤で外しながら、削蹄、そして接着剤を塗布していく、すばやく蹄鉄を付けてから釘打ちを始める。御子柴が質問する。

「福原先生、熱処理をしない蹄鉄だとどんなデメリットがありますか?」

「硬度が落ちるのでその分、へたりが早いです。でも衝撃度も若干、変わるのでアムロにとっては逆に走りやすいかもしれません」

「そうですか」

「それほど、大きな差は出ないと思います。計算上ですけど」

いつもの速度よりも福原の作業が早い。村井たちが見とれている。

「みどり、すごいな。とちぎの装蹄師の倍ぐらい早いよ」

「今日は急いでるの、でもちゃんと装蹄出来てるよ」


装蹄作業中、福原のジェットコースター話が始まった。先ほどのタクシーでの会話だ。じいちゃん運転手が話す。

「お客さん今、アムロがどうこう言ってなかった?競馬関係者なの?」

「はい、私、アムロの装蹄師なんです」本当は研究者だが説明が面倒なのでそう言うことにする。

「アムロってあのアムロだよね」

「そうです」

「装蹄師って何をする人?」

「蹄鉄ってわかります?あれを付けるんです。これからそれをやりに行くんです」

「え、そうなの、じゃあ、急がないと間に合わないんじゃないの?何時に着けばいいの?」

「遅くとも2時半には着きたいんです」

「えー時間ないじゃない、そうなの、早く言ってよ。やってみるか」

そういうとハンドルを回転させ、わき道にそれる。

「装蹄師か、なんか、そんなふうに見えないね。学校の先生みたいだね」

そっちが正解だ。さすがにこの辺の道は詳しいのか運転手はすいすい走っていく。ほとんど住宅街みたいな道を高速で走る。

「アムロ!ヒーローじゃないか、あの子供を助けるんだよね。祐介って言ったかな」

「そうです。私もチームアムロの一員です」

「そうか、じゃあ、もっと急がないと、スピード違反しちゃうか」

そういうとさらにガンガン走り出した。まるでジェットコースターだ。福原は青くなって冷や汗をかいてしまった。


アムロの装蹄が完了した。時間は3時になっていた。ものの20分で完了したことになる。恐ろしい速度だ。

「パドックで周回してる頃には硬化し終わってるはずです」

「福原先生、お疲れ様です」

「はい、じゃあアムロの最終確認をしますね」

福原碧が聴診器を使ってアムロの状態を確認する。さらには触診で足もとを診る。

「うん、大丈夫です。中山競馬場の芝はいい状態ではないですが、この蹄鉄で計算上は何の問題もないはずです」

「福原先生ありがとうございました」福原碧もにっこりと笑う。

「有馬記念の結果を持って論文を仕上げます。これは仕事ですのでおかまいなく」

「ああ、そうだ、みどり、じいちゃんは来ないの?」

「うん、もう福島に帰ったんだよ。今ごろはテレビで見てるよ」

「そうか」御子柴がアムロに話しかける。

「アムロ、今日はお客さんの入場者数が過去最高になるかもしれないって、お前緊張しないの?」

アムロは悠然としている。歩美が代わりに話す。「全然、緊張しません」

「そうか、さすがはアムロだね」

アムロは今日が最後だとわかっているんだろうか、聞いてみたい気もするが福原碧もいるので聞くわけにはいかない。


村井が馬主席にいる阿部オーナーに電話する。

「阿部さん、福原さん間に合いました」

『そうですか、それはよかった』

「はい、結局、新しく作った蹄鉄を付けました。性能として問題もないようです」

『そうか、それなら作った岸田君も喜ぶと思うよ』

「アムロは全力で走ります。そして勝ちます。期待してください」

『わかりました。あとは村井さんにお任せします』電話を切る。

阿部オーナーが伝わると信じてそこにいないアムロに語る。

「アムロ、ありがとうな。お前のおかげで俺の夢だった中央のG1レースに参加できたよ。それも有馬記念だぞ。あとな、お前のおかげですべてがいい方向に動き出したよ。仕事もそうだし、家族もみんな揃ったし、祐介も手術が受けられるよ」

祐介の手術日程は、まだ決まっていないが医師からは臓器が適合する確率はそれほど、低くないことを聞いていた。うまくいけば、来年早々にも渡米し移植手術が受けられるかもしれない。

そしていよいよ決戦の時間が迫ってくる。

阿部オーナーが家族と早川の元に行く。中山競馬場はあふれんばかりの観客である。

「おかあさん、すごいね。有馬記念ってこんなに人が来るんだね」

「そうね。お母さんもびっくりよ。ここまで人が入るのはオグリキャップのラストラン以来だって」

「すごい。僕たち幸せものだね」

「そうね」オーナー席に御子柴が入って来る。

「おじゃまします」阿部夫妻と祐介が振り返る。

「御子柴さん、どうも」

「今、アムロに会ってきました。蹄鉄の具合もいいようですよ。彼、全然緊張しないそうです。歩美の代弁ですけど」

「アムロは緊張しないさ。僕は緊張気味だけど…」祐介が言う。

「中山競馬場の入場者数を更新しそうな勢いだそうですよ」

「そうなんですか、ずいぶん、人が多いとは思ったんですが、みんな世紀の対決を楽しみに来てるんだろうな」

「はい、我々はアムロの優勝を見に来ましたけどね」

「そうなってくれればいいんですが」

「早川さんどう?競馬場初めてなんでしょ?」

早川は少し興奮気味にこの光景を見ていた。

「すごいですね。レースでみんなここまで盛り上がるのが信じられません」

「そう、でも馬が走ってるところを見たら、納得するかもしれないよ」

「そんなもんですか」

御子柴が玲子夫人に話しかける。

「今日の祝勝会は奥さまと祐介君は不参加ですか?」

「はい、私と祐介は車で病院に戻ります。主人だけの参加になります。申し訳ないですね」

「いえ、こちらこそ、関係者としてお呼びいただいてありがとうございます」

「何言ってるんですか、ここまで来れたのは御子柴さんのおかげですよ。感謝してもし足りないほどです」

「そういっていただけるだけで光栄です。ああ、有馬記念のパドックが始まりますね。私はパドックに顔を出します」

「御子柴さん、また、後で」

阿部オーナーと挨拶をすませ、パドックに向かう。

御子柴は今年から始まった不思議な縁を思う。3月にアムロを見てから、怒涛の様に色んな出来事が起きた。そして今年最後のレースだ。祝勝会の後の話がどういったものなのかが気にはなるが、報道としても今はレースに集中しないと、私は歴史の目撃者になる。


馬主席を後にして御子柴は中山競馬場のパドックに来る。そして周回するアムロを見ている。御子柴の隣には村井親子がいる。アムロはいつものアムロだ、変わりない。木曜日には中山競馬場をスクリーニングしたらしい。中山競馬場は東京と比べると周回も完全な円形ではない。楕円形である。競馬場には外回りと内回りコースの二つが存在し、交差している。そして有馬記念のコースは外回りコースをスタートし、いったんゴール板を通過し、内回りコースをさらにもう1周するトリッキーなコースである。最後の直線も短い割に坂がある。スタミナだけでもスピードだけでも走り切れないコースだ。

モヒートもこの秋、4戦目とは思えないほどの状態だった。馬体重の変化もほとんどない。毛艶もよく、元気いっぱいと言う感じだ。さすが藤枝厩舎というところか、完璧に仕上げてきた。オッズは2.6倍で、アムロが3.9倍の2番人気だ。御子柴が村井に話す。

「アムロは絶好調、完璧に仕上げましたね」

「はい、出来る限りの状態には持って行きました」

実際、アムロを最初の頃から見ている御子柴にはこの日のアムロが一番、美しく見えた。元々、筋肉質ではない、しなやかな馬体で大きくもない馬だが、内から感じられる闘志のようなものが見えるかのようだった。

馬番はアムロが一番でモヒートは大外12番となっていた。パドックではモヒートが最後尾だが、周回しているとモヒートの後にアムロが来るためにモヒートとアムロの馬体の違いがはっきりとわかる。モヒートは530㎏もある黒鹿毛の大柄な馬で筋肉質である。一方のアムロは440kgと小柄な青毛の馬である。馬体では完全に負けている。

ただし、見た印象では決して負けていない。アムロはその存在自体が美しい。サラブレッドの究極の姿を見るかのようだ。パドックの横断幕も圧倒的にアムロが多い。それも祐介を応援するものもある。みんなが期待しているのがわかる。


騎手に騎乗命令が出る。

御手洗が緊張の面持ちでアムロにまたがり、アムロの気合乗りが一層上がって来たのがわかる。パドックの観客からの声援が一段と大きくなる。

「御手洗さんいつもより緊張してますね」

「あ、そうだ、武、武豊に聞いたのかな」

「なんの話?」

「ジョッキールームで武豊から中山競馬場の情報をゲットするように言ったんだよ。武豊は詳しいでしょ」

「どうかな、武豊は関西の騎手だから、関東の騎手に聞いた方がよくないかな」

「え、そうなの、しまった。聞く相手を間違えた」村井が隣で笑っている。

「歩美、大丈夫だ。武もそんなことはわかっている。きっと関東の騎手に聞いてるよ」

「そうか、大丈夫か」


そして馬たちは地下馬道に消えていく。村井親子は御子柴と別れて調教師席に向かう。御子柴も取材のため馬場前方に向かう。いよいよアムロのラストランだ。


地下馬道を抜けて内馬場からアムロが本馬場に出てくる。ヒーローの登場にこの日一番の大歓声があがる。御手洗はいまだかつてこんな歓声を浴びたことがなかった。何と言う歓声だろう、まるで洪水のようだ。完全に舞い上がってしまった。アムロを引いているごんじいも驚いている。多分、自分の長い人生でここまでの歓声を浴びたことはない。

「すげえな。なんて人の数だよ」ごんじいが感想を述べる。ただ、舞い上がった御手洗の耳には何も聞こえなくなった。とにかく返し馬をしないと、村井から言われていたことを思い出す。

ごんじいが手綱を離す。村井からはなるべく観客の近くを走らせるようにとの話だった。アムロはここまでの多くの観客や雰囲気になれていない。周囲を確認させるためにもゆっくりと返し馬をするように言われていた。ただ、舞い上がった御手洗は何をどうしていいかわからない。あれ?どこに行くんだっけ?

するとアムロが勝手に観客席の方に歩いていく。観客ぎりぎりまでアムロは行き、ゆっくりとスタンドまでも見ている。その姿にひときわ、大きな歓声が上がる。しかし、御手洗の興奮とは裏腹にアムロはまったく動じていない。むしろ観客に自分の雄姿を鼓舞してるかのようだ。

「ああ、アムロ、お前はすごいやつだな」御手洗がつぶやく。

そして、アムロはおもむろに走り出す。御手洗の指示ではないアムロの感覚で勝手に返し馬をやりだした。右回りに外周コースをスタート地点まで走っていく。このアムロの動きで逆に御手洗が落ち着いてきた。大丈夫だ、アムロに任せればなんとかなる。


調教師席から村井親子がアムロを見つめる。なんという大歓声だろう。とちぎ競馬では聞いたこともない歓声だ。それこそ、うなりの様だ。アムロがスタート地点まで行ったのを確認して村井が話す。

「武も落ち着きを取り戻したみたいだな」

「うん、武が落馬さえしなければなんとかなる」

まさにそう思えるほどのアムロの落ち着き様だ。さすがに有馬記念ともなると調教師もピリピリしている。村井の所に藤枝調教師が顔を出した。

「こんにちは」

「こんちは」歩美が返す。

「お世話様です」村井は緊張気味だ。

「アムロ、いい状態に仕上がってるようだね」

「はい、今までで一番、いい状態になりました」

「そうか、じゃあ強敵だな」

「おじさん、アムロは勝つよ」歩美が自信たっぷりに言う。

「そうかい、モヒートは負けるか」藤枝調教師はにこにこしている。

「モヒートの騎手は武豊じゃないんだね」

「ああ、オリベイラが乗ってるんだよ」

「おりべいら?」

「フランスのリーディングジョッキーだよ。短期免許で乗りに来てるんだ」

「え、フランスのリーディングジョッキーなの、それは困ったな。アムロ唯一の欠点は騎手がポンコツなことなんだ」

「ポンコツ?」

「こら、歩美、武はポンコツじゃないぞ。藤枝さん御手洗騎手もとちぎじゃリーディング争いが出来るまでにはなってきたんですよ」

「わかりますよ。地方のジョッキーはみんなうまいです。いい勝負が出来そうですね」

「はい、ありがとうございます」

藤枝が自席に戻って行く。

他の調教師は誰も村井には話しかけない。中央競馬ではダービーと有馬記念は別格だと聞く。確かに一年の総決算ともいえるべき競馬の一大祭典だ。調教師もみんな緊張気味である。村井はこの場にいられることだけでも幸せを感じていた。とちぎ競馬の明日も見えないし、自分の将来も不安しかない。こういった夢の様な体験が出来るのもアムロのおかげだ。でも人間は夢を諦めたらそこで終わりだ。村井はまた自分の馬をここに連れて来たいと思った。再び、この歓声を味わうために。


待機所で周回している間にモヒートの騎手、オリベイラが御手洗武に話をする。彼はフランスのリーディングジョッキーで毎年この時期だけ短期免許で来日し、騎乗している。

「ヒーイズグレイトホース、凄い馬ね」

アムロを見ての感想のようだ。御手洗は英語は全く分からない。

「イエス!」とだけ答えてにっこりする。ああ、恥ずかしい、英語だけはもっと勉強しとけばよかった。


徐々に出走時間が迫って来る。いよいよ君が代国家斉唱が始まる。

「とーちゃん、すごいな。歌ってるのは国民的歌手だぞ。テレビで見たことある」

「ああ、すごいな」

村井は自身が馬に乗ってるかのような緊張を味わう。それと比較して騎乗している御手洗武はどれほどの緊張なのだろうか、おそらくこの真冬に汗がじわっとにじんでくるぐらいではないだろうか。

そしていよいよ発走時間が迫る。

「とーちゃん、緊張するね」

「ああ、こんなに緊張したのは結婚式以来だ」

村井は訳の分からないことを言っている。

スターターがスタート台に向かい、場内がさらに騒然となる。みんな各自が応援する馬に声援を送る。ひいき目かもしれないがアムロに対する声援が多い気がする。

馬主席では祐介が双眼鏡を使ってアムロを見ている。

「お母さん、スタートだ、アムロが走るよ」

「応援しないとね」

「うん、みんなもアムロを応援しているみたい」祐介の目が輝いている。

ついにスターターが旗を振る。ファンファーレが始まる。それが終わるとひときわ大きな地鳴りのような歓声があがる。そして枠入りだ。奇数枠から入ることになり、1番のアムロは最初に入る。ごんじいのリードで問題なくゲートに入る。

「アムロは落ち着いてるなあ、ごんじいのほうがあたふたしてる」

ごんじいがゲートに頭をぶつけながら、出ていく。

奇数枠が終了し、次に偶数枠が順調にゲートに入る。そしていよいよ最後の大外12番枠にモヒートが悠然と入った。

一瞬の静寂の後、ゲートが開く。アムロがいつものロケットスタートを決める。

福原碧は双眼鏡でスタートがうまくいったことを確認する。大丈夫だ。落鉄はない。アムロは地方競馬のゲートとも違う中央のゲートにものおじすることなく、ちゃんとスタートする。御手洗武はいつもながら、この馬の落ち着きに恐れ入る。そして御手洗は決めていた。今日はアムロのラストランだ、彼の好きに走らせよう、俺はただ方向を指示するだけだ。

いきなりのロケットスタートに他馬が面食らっている。ただ、この日の有馬記念はアムロの他に逃げ馬は不在でアムロが先行することは想定済だった。そして中央の各馬はアムロが芝の長距離レースに適性があるとは思っていないため、無理に追いかけることはしなかった。1周目のゴール前に走って来る。御手洗がアムロに話をする。

「まだだぞ、もう一周あるからな」

アムロが理解しているかはわからないが、どんどん走る。今日はアムロが最初で最後、目一杯走れるレースのはずだ。彼もそれを理解しているのかもしれない。歩美が色々、話をしていたからな。何か自分の集大成とでも言える走りを見せようとしているのかもしれない。ゴール前の坂を颯爽と走る。後続との差が徐々に広がっている。

2番手につけているのはモヒートだ。さすが名騎手のオリベイラだ。アムロが逃げ切るかもしれない可能性をつぶすためにこれ以上、引きはなされないぎりぎりの距離を保とうとしている。


ゴール前にいた御子柴はアムロの走りに感心する。これがアムロの本当の走りなんだ。実にのびやかになんの不具合もなく、気持ちよさそうに走っている。この馬は走るために生まれてきた。そうとしか思えない。

1000mの通過タイムは59秒を切る。タイムを見て場内がざわめく。このハイペースで逃げ切れるのか。1コーナーを回っていく。まだまだ、アムロの脚色は鈍らない。さすがにモヒートもこれ以上、ついていくことはしなかった。この速度で付いていくと自滅する。

向こう正面まで走ってアムロと後続の距離は広がる一方だ。すでに10馬身以上も広がっている。アムロは加速しているようだ。いよいよ3コーナーに入る。ここの段階で後続馬が焦りだす。いくらなんでもこの差はまずい。しかし、御手洗はアムロの走りに余裕があることがわかっていた。

「アムロ、お前、このコース理解しているのか…まさか、これからスパートするつもりなのか…」

そして最終コーナーに入る。中山競馬場の最後の直線は310mと短い。ここにきてアムロがギアをあげる。なんとこの馬はこの状態で加速していくのだ。後続が必死で追うが差はむしろ広がっていく。

「アムロ、お前はなんてやつだ」

すでに場内はアムロの勝利を確信していた。ただ、あまりの走りに言葉が出ない。

御子柴は先程から涙が止まらない。ああ、この馬は最強だ。こんな馬が存在するなんて。

そしてアムロはさらに加速する。早い、まるでたった今からスタートしたかのようだ。すでにここまで2200mを走った馬の走りではない。真っ黒なビロードの青毛の馬体から、光が見えた。その一筋の光が一直線に進んでいく。きれいだ。この馬は天馬に違いない、 

この世のものではない。

そして加速したままゴール板を通過する。電光掲示板に出た数字に観客が驚く、赤くレコードの文字が浮かぶ。タイムは2分27秒となっていた。もちろん有馬記念レコードだ。

後続は2着のモヒートが3秒遅れでゴールインした。アムロの大差勝ちである。

場内が騒然となっている。なんというレースだったのか、自分たちは歴史上のありえないレースを見てしまった。そういった感想かもしれない。

御手洗の脇にモヒートの騎手オリベイラが来た。

「グレイトホース、アンド、グッドジョッキー」これなら御手洗にもわかる。

「サンキュー」世界のジョッキーに褒められた。素直に嬉しい。

アムロがさらにもう一周のウイニングランをする。そして観客席の前を通過しようとした時だ。期せずして観客からコールが上がっていた。馬主席にいた祐介はアムロの驚愕の走りに我を忘れていた。アムロすごい。そして観客が何かコールしている。お母さんが涙を流している。

「お母さん、どうしたの?」

「祐介、聞こえない。この声」

「え、そうなの…」

祐介は信じられなかった。観客のコールはアムロでもなく、ましてや御手洗でもなく、自分の名前を呼んでいる、コールはゆ・う・す・けとなっていた。みんなが祐介を応援している声だ。御子柴も呆気に取られている。

いまだかつてこんなコールがあっただろうか、17万の観衆が祐介を応援している。心臓病を患っている少年への心からのエールだ。コールはやまない。阿部オーナーが馬主席から祐介を観客に見える位置に出す。祐介が手を振る。馬主席の祐介に向かって観客がさらに声援を送る。

「おとうさん、みんなが応援してくれてる」

「うん、よかったな。みんな祐介を応援してくれている」

ウイニングランをしながらアムロも満足げである。

「アムロ、お疲れさん」御手洗が声をかける。

地方馬初の中央芝G1優勝である。それも歴史的なレコードタイムでの達成だ。地下馬道から検量室に向かう。ごんじいがアムロの手綱を持っている。

「武、やったな」ごんじいが言う。

「うん、やったよ」

急に御手洗にこみ上げるものがあった。ごんじいとこんな経験が出来るなんて夢のようだ。検量室前には村井親子がいた。アムロから下馬する。そして村井と御手洗が抱き合う。二人とも泣いている。歩美も感激している。

「村井さんやったよ」

「うん、いい騎乗だった」御手洗がアムロの鞍を外して検量室に向かう。

「とーちゃん、よかったね」

「ああ、祐介コールも最高だったな。これですべての決着が付いた」


その後、村井と御手洗が記者連中の囲み取材を受ける。

「御手洗騎手、今日の走りは作戦どおりですか?」

「そうですね。馬の行く気に任せていきました」

「それにしても今日の走りはすごかったですね」

「はい、しかし、実際は今までがちゃんと走らせることが出来なかっただけで、今日、初めて本気で走ったというところなんです。すべてがうまく行きました」

記者たちが感嘆の声をあげる。今日の走りが本来の走りだったとは。

「今日が本当の実力発揮ということですね」

「そうです」報道陣が再びどよめく。

「前回の落鉄を受けて対策をおこなったと聞きましたが、どういったことをやりましたか?」

「はい、元々接着装蹄をやっていたんですけど、それだと落鉄の恐れがぬぐえないということで今回は釘も併用したんです。それで完璧になりました」

「なるほど」

「アムロの装蹄師は宇都宮大学の講師だと聞きました」

「はい、研究の一環として協力していただきました。福原碧先生です。皆さんご存じかどうかはわかりませんが、伝説の装蹄師、福原朗さんのお孫さんに当たる方です」

「ああ、なるほど、それはすごいな」福原を知っている記者が感心する。

「御手洗騎手、アムロの乗り心地はどうでしたか?」

「はい、今までもよかったんですが、今日は別格でした。何て言ったらいいのか、馬に乗ってる気がしなかったです」

「どういうことですか?」

「なんていうか、未来の乗り物っていうか、すいません、うまく言えません、とにかく最高の乗り心地でした」

「ここまで強いとなると今後は海外も視野に入るのではないですか?次はどこを使いますか?」

村井はこの質問が来るとは思っていた。

「馬の様子を見ながら決めていきます。元々、足元に不安がある馬ですので」

その後も記者たちの質問が続いた。


次にウイナーズサークルへ行く。祐介と玲子ママは病院へ帰って行ったので、阿部オーナーと早川女史、村井厩舎の関係者、そして御子柴と福原碧も収まって、アムロを前に記念写真を撮る。歩美がアムロの真ん前にいてピースサインをしている。


最後は表彰式だ。辺りは夕闇が迫って来ている。

阿部オーナーと村井、そして御手洗騎手がお立ち台に上がっている。プレゼンターの美人タレントから花束を贈られて、村井と御手洗は笑顔が引きつっている。

その様子を御子柴と歩美が見ている。

「男どもはだらしないな」

「そうね。でも良かったね」

「うん、これで祐ちゃんも手術できる」

インタビューアが勝利インタビューを始める。観客が残っており、スタンドに向けて話をしないとならない。まずは御手洗騎手だ。

「おめでとうございます。今日は作戦通りですか?」

「は、はい、そうです」御手洗の緊張ぶりが伝わってくる。

「最初から逃げるつもりだったんですか?」

「いえ、今日はただ、アムロにつかまっていただけです。彼が勝手に走ってくれました」

「この喜びをどなたに伝えたいですか?」

「はい、とちぎ競馬で頑張ってる仲間たちに伝えたいです。やったぞ!」

御手洗がガッツポーズをする。続いて村井へのインタビューだ。

「アムロは足もとの不安があったように聞いています。どのように対処されたのでしょうか?」

「はい、実は宇都宮大学の青嶋研究室の協力を受けて、アムロの治療を行いました。その成果が出ての結果になります。担当の福原碧先生のおかげです」

突然、碧の名前が出て、馬場で見ていた碧が慌てている。

「そうだったんですか?では今日のアムロは完調だったんですね」

「そうです。今日の走りが彼本来の走りです」

「来年はどこを使いますか?」

「それはまだわかりません。馬の調子を見てから発表します」

続いて阿部オーナーに質問がいく。

「オーナーおめでとうございます。最後の観客の歓声はいかがでしたか?」

「もう、感謝しかありませんよ。皆さんほんとにありがとうございました」

「祐介君も喜んでいたのではありませんか?」

「はい、そのとおりです。ありがとうございます」

「オーナーから何か一言ありますか?」

「ああ、はい、この場を借りてひとこと言わせてください。実は祐介の様に移植を待っている子供たちは全国にたくさんいます。しかし、心臓に関しては小児の移植は日本では認められていません。なんとか、認めて下さるように法律改正を皆様のお力添えでお願いしたいです。そして移植を待つ子供たちに希望を与えてください」

「わかりました。そうなればいいですね。今日はほんとにおめでとうございました」

中山競馬場の日は落ちて、場内は暮色から漆黒の夜を迎えつつあった。


祝勝会は船橋駅近くの居酒屋で行われた。16畳程度の和風の落ち着いた個室で阿部オーナー主催の宴席だった。参加者は関係者のみのささやかな宴会となった。阿部オーナー、急遽参加の早川皐、御子柴ちとせ、福原碧、村井厩舎は村井、ごんじい、御手洗である。

祐介と玲子ママ、歩美は宇都宮に戻っていた。

阿部オーナーの乾杯の音頭で宴席が始まる。

「今日は皆さま、お疲れ様でした。おかげで有馬記念優勝と言う最高の気分を味合わせてもらいました。これも皆様チームアムロの協力あっての賜物です。本当にありがとうございました。それでは乾杯」かんぱーい。みんな歓喜の表情だ。

御子柴はこのあとにあるだろう村井の告白が気になって仕方がない。しかし、この宴席も取材の一環ということでやたらと飲んだくれるわけにもいかない。ビールを注ぎながら、関係者と話をする。今まではあまり突っ込んだ話をしたことがなかった福原碧としばらく話をした。

「福原先生はケンタッキー大学ではどういった研究をなさってたんですか?」

「はい、ケンタッキー大では共同研究といったものではなかったんですよ。これからはそうなるかもわからないけど、まずは顔合わせ的な意味合いが強かったです。1年間だとそんなものですよ。ほんとに研究となると5年は行かないと」

「そうですか?具体的には何をしてたんですか?」

「むこうはサラブレッド研究の権化みたいな大学だから、現在の最先端のサラブレッド研究を教えてもらうってことかな」

「なるほど、具体的には?」

「今回のアムロの治療はそういった研究内容を使ったんですよ。再生医療とかは屈腱炎で効果があるといわれているし、あとは患部にグリコサミノグリカン、 ヒアルロン酸投与をするとかを適宜やりました。この結果は次の学会で発表する予定です」

「それで十分な効果が出たということですね」

「そうです。思ったより効果があったかもしれない。特にアムロには再生医療が効きました。ただ、これも馬によってどう効果が変わるかはこれからの研究次第かもしれない」

「そうか、なるほど、他には何か面白い事なかったですか?」

「ああ、ケンタッキー大の研究室にコンピューターに詳しい学生がいてね。研究テーマが競走馬の配合シュミレートだったんだけど、それがなかなか興味深くってね」福原が楽しそうに話す。彼女はやはり研究者なのだ。

「要はこの種牡馬と繁殖牝馬をどう掛け合わすといい馬が生まれるか、みたいなことですよね」

「そうなの、血統の羅列だけだと結果が伴わないんだけど、その学生は固有の因子に着目してそれを数値化してプログラミングしたのよ」

「なんか、難しそうですね」

「簡単に言うと、例えばサンデーサイレンスなんて血統表から見ると特になんの特色もない馬でしょ、それなのに種牡馬の成績は、ずば抜けてる。そういった実際のサンプルから、つまりは産駒データから繁殖牝馬のどういった因子に反応して、成果がでたのかを現実のデータを元にシュミレートしたのよ」

「へー、それはすごいな。それでどうだったんですか?」

「結論から言うと、ある程度は想定できたのよね。ただ、概ね50%程度の成果で、実用には耐えないという結果だった」

「へー」

「つまりは能力の高いサラブレッドは血統だけじゃないって話なのよ。ある程度は予想できるんだけど、今回のアムロのような突然変異的な馬もいるしね。やはり神のみぞ知るってことかな」

「面白いですね」

「そうね」

「福原さんはこれからもサラブレッドの研究を続けるんですか?」

「そのつもり、日本でやってる人は大学だと少ないのよね。面白い題材だと思ってる」

「是非、うちの雑誌でも書いてもらいたいですね」

「面白い記事は書けないわよ。御子柴さんこそいい記事書いてたじゃない。感心した」

「そういってもらえるとうれしいです」

 御子柴は大学の先生から褒めてもらえて普通にうれしかった。


続いて厩務員のごんじいこと権藤さんだ。ごんじいはもう真っ赤になっている。きょうの酒はうまそうだった。御子柴が酌をする。

「権藤さん、お疲れ様でした」

「どうも美人のお酌とは感激です」

「またまた、思ってもないくせに、アムロには苦労したでしょ?」

「まあね。でもこんなもんですよ。うちの厩舎にいる馬はみんな、多少は故障してるからね。馬はどれも可愛いんですよ。アムロだけじゃないです」

「そうですか」

「走らない馬も可愛いもんですよ。ただ、走らないと処分されちゃうから、なんとか走らせたいんだけどね。うまくいかないよ」

「アムロって権藤さんにとってはどういう馬だったんですか?」

「うん、彼は王様かな。持って生まれたものを持ってたよ。生まれついての王様」

「最初は走らなかったでしょ?」

「ああ、その話か、それは村井さんに聞いて下さい」あれ、ごんじいは何か気づいているのかな。そんな気がした。


阿部オーナーには色々な方がお酒を注ぎに来ていたので、宴会も半ば過ぎでようやく御子柴が近づくことが出来た。ビール瓶を持ちながら阿部オーナーに酌をする。

「お疲れ様です」阿部さんはほろ酔い加減で顔も赤くなっていた。

「御子柴さん、お世話になりました。ほんとにあなたには感謝しかありません」

相当、酔ってるのか若干、呂律も回っていない。

「今日は会社の方も来る予定じゃなかったんですか?」

「ああ、そうなんですよ。でも会社のメンバーも予算に気を使ったのか、休みに入ったんで田舎に帰りますなんて言うやつが多くて、ハハハ。急遽、蹄鉄を届けてくれた早川は参加してもらいました」

確かに飲み会の経費は社長持ちだから、厳しい阿部工業の事を思って従業員は不参加なのかもしれない。

「まあ、従業員向けには新年会をやります。会社内になるかもしれませんけどね」

「最近、会社の業績の方はどうなんでしょう」

いつもならこういう話の時は顔が暗くなるところが、今日は阿部さんの顔が輝く。

「それが、おかげさまで景気がいいんです。今期は大幅黒字になりそうなんです。今日、来てくれた早川さんの働きも大きいんですよ。彼女は凄いです」

御子柴が早川を見ると福原碧に何か熱心に聞いている。また、なにか商売のアイデアを引っ張ろうとしているのかもしれない。

「そうなんですか」

「はい、従業員に何年ぶりかでボーナスも渡せました。今まで苦労をさせたのでほんとによかったです」少し涙ぐまれている。

「あと、有馬記念の賞金もあります。これは申し訳ないけど、祐介の手術費用に全額当てさせてもらいます」

「もちろんです。よかったですね」

「皆さんのおかげです。今日の競馬場での応援には本当に感動しました」

「ええ、私も感激しました、素晴らしかったですね。ところで会社の景気がよくなったのには具体的に何かあったのでしょうか?」

「医療機器の仕事をやるようになったんです。今までの仕事先と違うのでどうなるかと思ったのですが、運よく取引することが出来ました。医療関連は不況に左右されにくい面もあります。うちとしては理想的な仕事が出来るようになりました」

「そうだったんですね」

「それと、やっぱり早川さんの活躍かな」

「精力的ですものね」

「そうです。ひょっとすると私よりも経営能力が高いのではないかとも思います。早川さんが新規事業計画やら経費削減やらを精力的にやってくれています。今は半導体関連の仕事もやりだしているんです」

「なるほど、半導体ですか」

「岸田君もとんだ掘り出し物だと驚いています。来年には幹部社員になってもらおうと思っています」

「それはすごいですね」阿部オーナーが遠くを見るような顔をして、

「私ももうすぐ50歳になります。人生って不思議なものだと思います。今年の初めの頃はいつ首を括ろうかなんて本気で考えていたんですよ」

酔ってるとはいえ、まさに衝撃の告白である。

「それが、アムロが走り出してから、すべてが変わりました。何かこれが偶然だとは思えないんですよ。御子柴さんとの出会い、福原朗さんと碧先生との出会い、そして今回の早川さん、すべてがいい方向に回っていきました」

「そうですね。あと、玲子さんも」

「はい、祐介がテレビで見つけてくれて、御子柴さん歩美ちゃんが必死で探してくれた。こちらの尻を叩いてくれました」

確かに今年一年だけの話なんだといまさらながら驚かされる。阿部オーナーの人生がこの一年で大きく変わった。アムロがきっかけとなって。

「あとは、祐介ががんばってくれることを期待します。来年早々に渡米します。早くドナーが見つかって手術できればいいんですが」

「そうですね」

「祐介が元気になって、彼が希望する医者になるころには移植手術が当たり前に出来る世の中になっていてほしいです」

「はい、私も同感です」

御子柴は一通り、インタビュー兼ビール注ぎを行った。そして阿部オーナーからの感謝の言葉でこの祝勝会はお開きとなった。


本日の祝勝会の参加者はオーナーから宿泊先を提供されており、各自、近くのホテルに戻って行った。残ったのは阿部オーナー、村井調教師、御子柴の3名となった。いよいよアムロ引退の理由がわかる。

数日前に村井が話したアムロの引退について、御子柴はその理由を自分なりに考えていた。

まず、村井が苦し紛れに話したアムロの故障については可能性が低い。福原碧の最新の治療によりアムロの屈腱炎は以前と異なり、完治している。それは今日の有馬記念の走りを見ても伺える。これだけのレースが出来る馬が故障している訳がない。

次に考えつくのはアムロの譲渡、もしくは種牡馬入りだが、オーナーの阿部氏がまったくこの引退の件を知らないと言うことならば、それはあり得ないこととなる。アムロは阿部オーナーの持ち物だからだ。

後は何らかの不正を行った点だろう、ドーピングなどの薬物使用でアムロの能力を著しく高めたのだろうか、しかし、これも検尿などで細かく検査もされており、まして村井にそんなことをできる素養がない。

それ以外の理由を検討をするも御子柴にはまったく思いつくこともなく、今日に至った。これから村井が話す内容がどういったことなのか、そういった意味でも非常に興味深い。


3人は、阿部オーナーがあらかじめ、予約済の静かなショットバーに席を移した。ピアノのBGMが鳴る割と広いアンティックな店内で、本物のピアノも置いてあることから早い時間には生演奏もあるようだ。今は夜も更けてきてBGMのみである。カウンター席とボックス席があり、ボックスシートに3人が座る。

バーテンダーに各自好きなお酒を注文する。オーナーは軽いつまみ類もオーダーした。お酒が来て、軽く乾杯した後、いよいよオーナーが本題に入る。

「本当なら楽しい二次会といったところなんですが、村井さん、何でしょう折言ったお話とは?」

村井が緊張気味に話す。宴会の後とは思えないほど顔色も青ざめている。

「はい、まず、オーナーに謝らないとなりません」

阿部が何事かといった顔をする。

「今日、勝ったばかりで申し訳ありませんが、アムロはこれで終わりにしたいんです。つまり引退させます」

御子柴は知っている話なので驚かなかったが、阿部はさすがにびっくりしている。

「どういうことですか?」

「すみません。自分は口下手なんで、単刀直入に話をしていきます」

村井が鞄から雑誌を差し出す。何かの競馬雑誌のようだ。

「すべてがここから始まりました」

村井は雑誌の中のあるページを広げて見せる。雑誌には小さく競走馬の写真が載っている。御子柴はそれを見て。

「アムロですね。あれ、でもこれは…名前が違う」

「この馬はアメリカのヴァケーションと言う馬です。この雑誌にあるように今年から日本で種牡馬として供用されています」

「え?」阿部と御子柴が怪訝な顔をする。

「この雑誌の記事によりますと、ヴァケーションはアメリカで3戦し、すべてを勝利しています。次走をブリーダーズカップジュヴェナイルに定めたところで屈腱炎を発症し、引退となりました。アメリカでは来年、つまり今年になりますか、ケンタッキーダービーの有力馬になっていました。そして、この馬ですが日本人オーナーが所有していました」

雑誌の記事を見ると確かにオーナー欄にサカグチとある。阿部が話す。

「ああ、坂口オーナーですか、何かとお騒がせな方でしたね。あれ、そういえば最近、事業を失敗されたんではなかったかな?」

「そうです。ヴァケーションも再起の道を探ったようですが、結局、その道も断たれ、故障で引退、なんとか種馬として売り先を探して、結局、日本の日高スタリオンステーションが購入しました。この雑誌はそのことを書いています。本来ならばアメリカに残すべき種牡馬なんでしょうが、3戦したレースも重賞ではありましたが、それほど格の高いものではなかったようです。坂口氏はなるべく高く売りたかったようで、アメリカでは話がまとまらず、日本の日高スタリオンとなりました。それでも相場からすると安かったようです。そんなこともあって日本ではそれほど話題にならなかったんです。馬産地の方でもそれほど期待があった種牡馬ではなかったようでした」

「なるほど」

「この写真を見つけたのは私で、その後、御手洗騎手に見せたら、やはり彼もびっくりしていました。何せ、アムロそっくりだからです。それも似ているレベルじゃない。双子のようです」

確かに雑誌の写真をみてもアムロとしか思えない。いや、そういうことか。村井がもう一枚の写真を見せる。

「そしてこれが本物のアムロです。村井厩舎に来た当時のものです」

御子柴は絶句する。同じ馬としか思えない。全体の格好や馬体、毛色、足のマーク、さらには顔の乱星マークまで生き写しだ。

「ご承知のようにアムロは祐介君が牧場で選んできた馬です。そして祐介君はその後、心臓病が悪化して入院してしまいました。祐介君にとってアムロは希望の星のはずでした。しかし、残念ながら本物のアムロは競走馬としては失格でした。3戦しましたがすべて着外、このまま走らせても勝利する可能性は低かった。そして、この写真を見たときにふと口走ってしまったんです。馬を取り換えられないかなと、最初は冗談だったんですが、そのうちに段々と本気になって、それを御手洗とあれこれ話しているうちに本当にやれそうな気がしてきました」

「祐介の手術代についても考えたんですか?」阿部が苦しげに話す。

「いえ、そこまでは考えていないです。だって屈腱炎で引退した馬ですよ。故障の状態もわからないし、僕としては1勝でもしてくれて、祐介君が喜んでくれればいいかなぐらいの考えでした。それと実物を見たわけでもないですし、ましてや馬を取り換えることなんてできるかどうかも分かりません」

「そうですか」

「どっちにしろ、本物のアムロはこのままではどうしようもないので、北海道で再調教するという名目で日高に連れて行きました。現地に行ったのは私と御手洗の二人です」

「そうして、日高スタリオンステーションでヴァケーションを見ました。実際、驚きました。すみませんが、神様が我々に恵んでくれたのではと勘違いするぐらい。まったく同じ馬でした。そして、牧場の様子を見たところ、セキュリティも甘く、日中に係の人間がいない時間も分かりました」

「そんなもんなんですか?」御子柴は驚く。

「そうです。一般に種牡馬は年齢もいってますから、割とおとなしい馬が多いこともあり、常に人が見ている必要もないようです」

「それで取り換えを行ったんですね」

「そうです。馬運車で運んでいったアムロとヴァケーションを取り換えました」


今現在、競走馬はマイクロチップの埋め込みが義務化されている。チップにより個体の判別が可能となっており、馬の取り違えなど起こらないようにはなっている。しかし2003年当時はまだ未実施だった。

御子柴が話す。「村井さん、これは犯罪ですね」

「そのとおりです。まったく言い逃れは出来ません」

「しかし、僕が責めることは出来ないな」阿部オーナーはうつむきながら話す。

「歩美ちゃんは知ってたんですか?」

「歩美はこのことを知りませんでした。ただ、厩舎に戻ってきたアムロを見て、アムロではないことにすぐに気が付きました。まあ、あの娘は本当に馬と話が出来るようです。歩美はアムロを戻すように話をしてくれました。確かにそのとおりだとも思ったんです。早く謝って元に戻せばよかったんですが、ちょうどそんな時に祐介君がヴァケーションに会いに来たんです。そうして自分の病気の話とか、お母さんがいないとかの悩みをヴァケーションに話したんです。ヴァケーションは頭のいい馬だからなんとなく理解したみたいで、歩美に走るって言ったそうなんです。祐介君のために走るって」

「そんなことあるんですか?」

「歩美の話です。都合の良い言い訳かもしれません。ただ、ヴァケーションの屈腱炎についてはそれほど重度のものではなかった。うちの厩舎でも同じように屈腱炎で苦しんでる馬が過去に何頭かいましたんで、そういった馬への対応などはわかっていました。それでなんとか走るところまでは持っていけた」

「そして今回の結果になったんですね」

「先ほども話したように1勝できればいい、という気持ちでした。屈腱炎の馬ですよ。幾分よくなったとはいえ、競争自体もできるかどうかと思ってました」

「それがそうではなかった」

「最初の未勝利戦で鳥肌が立ちました。この馬は桁が違う。それと走ってる姿が美しいんです」

「ああ、それは私も同感します」御子柴が言うと、阿部オーナーもうなずく。

「その走りをもっと見てみたいと思ってしまいました」

御子柴と阿部も納得してしまう。アムロにはそういったところが確かにある。

「まさかここまでの馬とは思っても見なかったです。おそらくアメリカで走っても相当の活躍をしたでしょう。血統的にもまったく問題がない良血です」

御子柴が雑誌のヴァケーションの血統表を確認する。

「父親がシアトルスルーですね。母親も良血馬ですね。これなら芝の適正もありそうです」

「シアトルスルーはアメリカの3冠馬です。日本でもタイキブリザードがシアトルスルー産駒です。芝も走る馬が多いです」

「それで合点がいきました。この馬なら走っておかしくない」

「そうです。それでここまで来てしまいました」

「引き返せないところまで来てしまったんですね」

「ヴァケーションが種牡馬としてもそこまでの評判が立っていなかったことも幸いでした。誰かが気付いても良かったと思うんですが」

「そうですね。しかし、まさかと思うでしょうね」

「虫のいい話をしますが、このまま活躍してくれれば、祐介君の手術費用もなんとかなるかもとも思いました」

「すみません」阿部が謝る。

「それで、目的も果たせたことから、ここでアムロは引退させたいんです」

しばらくみんなが沈黙する。各々、思うことがある。店内のピアノのBGMが静かな曲になった。閉店の合図なのかもしれない。御子柴が話す。

「村井さん、それでアムロをどうされますか?」

「元に戻します」

「また、取り換えるんですか?」

「そうです」

「公表はしないんですね」

「すいません、祐介君の手術費用を考えると公表はできないです」

「私も報道の端くれです。これは見逃せない、不正は許せません」

御子柴は言い放った。阿部と村井は無言になる。阿部にすれば祐介の手術費がなくなることとなる。その後、御子柴もしばらく考えをまとめようとする。そしてため息とともに話し出す。

「聞かなかったことにします」

「ああ、すいません」

ここが御子柴としての限界だった。間違ってはいるが、これを止めることはどうしてもできない。このことを公表しても誰も幸せにはならない。

「それでこの話は村井さんと御手洗さんしか知らない話なんですね」

「そうです。二人だけの秘密です。歩美は知ってしまっただけです」

阿部がおもむろに話す。

「私から何を言っても詭弁に聞こえるかもしれないが、アムロは天からの授かりものだったのかもしれない。私は今まで何をやってもうまくいかなかった。それがアムロと出会ったことですべてがうまくいくようになった。仕事も妻の事もそして祐介の事も御子柴さんには怒られるかもしれないが、村井君には感謝こそすれ、咎めるなんて事は出来ないよ。ほんとうにありがとう…」阿部は泣き崩れる。

アムロは天からの授かりもの。確かに御子柴にもそうとしか思えなかった。ここまでの馬が唐突に現れて、廃止寸前のとちぎ競馬を盛り上げ、心臓病で苦しむ子供を救った。これが、神の仕業でないはずがないのかもしれない。


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