第六章 二〇〇三年十一月~十二月
第六章 二〇〇三年十一月~十二月
1
祐介が入院している大学病院の小児科診察室。部屋自体は4畳半ぐらいの大きさだ。
ここで阿部夫婦が担当医師岡本信夫から話を聞いている。医師の前のモニターにはレントゲン画像があり、それを見ながら岡本が説明している。
「祐介君の拡張型心筋症ですが、残念ながら経過はよくありません。左心室の収縮する能力がさらに低下していて、肥大が進んでいます。これは本人の身体の成長にも関係していることです」
阿部夫妻は心配そうに話を聞いている。
「現在は投薬治療で心臓への負担を減らす処置を続けています」
「唯一の方法は心臓移植というお話でしたよね」
「そうなります。今はドナーを待っている状況でしたよね」
「はい、そうです」
「現在、手術費用についてはどういった状況ですか?」
「まだ、潤沢にあるとは言えないです」
「そうですか、出来れば、早めに渡米して現地の病院でドナーを待つといった形が取れればいいんですが」
「はい。わかります」
「幸い、祐介君の移植に関しては適合するドナーが見つかる可能性は高いと思っています」
夫婦が共に顔を上げる。希望の持てる話だ。
「なので、早めの渡米で体制を取っておくことが一番いい選択だと思います」
「先生、それと手術後の予後なんですが、現在はどういった状況なんでしょうか?」
「はい、これも患者によるところも大きいですが、おおよそ10年間で9割近い方が生活を続けておられます。我々も予後についてはさらに伸ばす努力を続けています」
「そうですか、それは期待出来るお話ですね」
「はい、阿部さんも希望を持ってください。移植の準備が整うのであれば私に話をしてください。また、その時に別途、詳細を説明します」
「わかりました」
夫婦二人で祐介の病室に向かう。阿部が話す。
「かあさん、費用は俺が何とかする。会社も徐々に上向いてきている。最悪、借金でもなんでもして捻出するさ、心配ない。来年早々には渡米できるようにしよう」
「祐介は何も悪いことしていないのに、私がもっと強い子に産んであげられたらよかった」
玲子が涙を見せる。阿部が肩を抱きながら、
「かあさん、そういう風に自分を責めちゃだめだ。それは俺だって思うことさ、でもね、これは仕方のないことだよ。自分たちが出来ることをやろうよ。僕たちは祐介を元気にするんだ。幸い移植手術ができれば予後の生存率は高いって話だったろ」
玲子がうなずく。
病室の祐介は寝ていた。二人にとっては天使の様な寝顔である。二人でこの息子の幸せだけを祈る。
2
村井厩舎ではアムロの調教を続けていた。福原先生によれば屈腱炎という病気は疲労の蓄積が原因であるとの話で、あまり調教を積み過ぎるとよくないと言われていた。それでも調教師としては出来る限り負荷をかけたくなる。有馬記念は2500mの長丁場だ。それこそ、アムロは青葉賞以上の2400mまでしか走ったことがない。ましてや中山競馬場も初めてになる。不安材料だらけだ。
前回の落鉄以降、その対応策のために福原先生は研究室にこもりきりになった。
アムロの馬房の前で歩美と村井が話をしている。
「みどりは今日も来ないのかな?」
「ああ、なんか、いい対応策が出てこないそうだ。落鉄を防ぐ方法がないんだと」
「あれだけ算数が出来ても無理なのか。歩美も勉強止めようかな」
「はあ?そういう問題じゃないだろ。大体、歩美は勉強してないだろ、もっと勉強しなさい」
「アムロ、お前も勉強しなさい」歩美が苦し紛れにアムロに振る。アムロはきょとんとしている。村井が歩美に聞く。
「アムロの足はどうなんだ。なんか言ってるか?」
「うん、痛くはないみたいだよ」
「アムロの走法と接着装蹄が合わないのかな。アムロはパワーがありすぎるんだ。ただ、有馬記念は落鉄したら勝てないぞ。祐介の手術費用を稼ぐためには絶対、優勝しかない」
「アムロ、優勝しかないってよ」
アムロは飼い葉おけに顔を突っ込んで知らんふりをしているようだ。
「そうだ、とーちゃん、私がみどりの所に行っていいかな?」
「福原先生の研究室にか?どうかな、行きたいのか?」
「うん、ちょっと大学ってところにも興味があるし、みどりを励ましたい」
「そうか、わかった。歩美が宇都宮大学に入るための予行演習も兼て行くか」
「あん?私は競馬学校だよ」村井はにやりと笑いながら、「まあ、いいさ、選択肢は色々あったほうがいい」
歩美は怪訝そうな顔をしている。村井は歩美が大学に興味を持ってもらい、あわよくば国立大学に入って、歩美には将来苦労させたくない親心なのだが、そんなものは歩美には通じない。
村井が福原に電話を入れ、大学の見学を申しいれると許可してくれた。
早速、翌日の午後に歩美と村井が宇都宮大学に行く。受付でサインをしてから車を駐車場に止める。宇都宮大学は樹木も多く、キャンパスも広々としている。また、歴史のある建物や新しく近代的な建造物が共存しており、そういった建物をみるだけでも行く価値がある場所だ。
歩美と村井が研究室に向かって歩いていく。
「とーちゃん、大学って公園みたいだな。あ、学生がテニスして遊んでるぞ」
「遊んでるって…単なる息抜きだろ。ずっと勉強してても疲れるだけだからな」
「それはそうだな。勉強は疲れるからな」
「あん?歩美は疲れるほど勉強してないぞ」
歩美は聞こえないふりをしている。そうこうして、福原の研究室がある建物に来る。農学部生物生産科学科は3階建ての白い研究室だ。
「ここがみどりの研究室か。なかなか立派だな」
「歩美、失礼のないようにな」
「大丈夫だよ」そう言いながらとんとんと階段を走って登っていく。
「おい、そんなに急ぐな」
村井が後を追いかける。歩美は一気に3階まで駆け上り、フロアーを探している。
「とーちゃん、どこだ?」息切れしながら村井が追いかけてきて、
「歩美、行き過ぎだ。2階だよ、2階」
「そうなのか」
「2階の青嶋研究室」
2階に戻り、二人で青嶋研究室に顔を出す。ゼイゼイ言いながら村井が声を掛ける。
「失礼します」
歩美と村井を見た。女子学生がびっくりする。「あらあ、かわいい学生さんだ」
「すいません、福原先生とアポイントを取ってます。村井と申します」
「はい、碧先生ですね。少しお待ちください」女子学生が奥に引っこむ。
「とーちゃん、私が学生に見えるのか?ここの学生は馬鹿なのか?」
「冗談言ったんだろ、どう見ても小学生にしか見えんぞ」
「そうだよな。とーちゃんもかわいい学生には見えないしな」
先ほどの女子学生が戻って来る。
「碧ちゃん、いえ、先生が部屋まで来てくださいとのことです。どうぞ、お入りください」
なるほど、研究室内では碧ちゃんと呼ばれているのか、わからんでもないな。あられちゃんみたいだし、学生とうまくやってる感じだ。案内されて、奥の福原の部屋に入る。福原は自分の部屋を持っているようだ。そこにはクリーンベンチもあり、アムロの治療で培養もやったように化学器具が所狭しと置いてある。歩美がそう言った機器を興味深そうに見ている。
「歩美、触ったらだめだからな。こわすなよ」
「うん、触らないよ。なんかばい菌がついてそうだ」
福原は自分の机にかじりついて何か計算していた。歩美が駆け寄って話す。
「みどり、元気?」
「ああ、大丈夫だよ。生きてる」
なるほど、生きてるか、福原碧は悩んでいるようで、表情が暗い。
「お忙しいのにすみません。歩美が研究室を見たいというのでおじゃましました。ああ、これ差し入れです。みなさんで食べてください」村井がお饅頭の菓子折りを差し出す。
「ああ、ありがとうございます」それを見た歩美のお腹がぎゅーっと鳴った。
「あらら、歩美、お腹が減ったの?」福原が声をかける。
「へへへ、ちょっと」
「じゃあ、見学がてら大学の食堂でも行く?」
「うん、行きたい」歩美の顔が輝く。
「村井さんも行きますか?」
「いや、僕は減量中なんでこちらで待たせてもらいます」
村井は調教師ながら馬にも乗るのであまり太りすぎると支障が出る。それもあったが福原の沈んだ顔を見て、息抜きが必要に思え、歩美と二人の方がいいと思った。
「じゃあ、歩美、行くか」二人で研究室から食堂まで歩く。
「みどり、アムロの蹄鉄はどんな感じなの?」
「うん、うまくいかない。色々対策を考えて計算してみるんだけど落鉄を防ぐまではいかない」
「そっか、じゃあ、釘に戻せば?」
「それだと、アムロには向かないんだ。蹄の状態に不安が残るんだよ」
「そうなんだ。だったら伝説の装蹄師に頼んだら?」
「え、じいちゃんは引退したからダメだよ」
「そうか、どっかにいないのかな。もっとすごい伝説の装蹄師は」
すると歩美が何かに気づく。「あれ、馬のにおいがする」
「うん、向こうに馬場があるんだよ。うちの大学は馬術部があるんだ」
「へー、大学ってすごいんだね」
「全部の大学にあるわけじゃないんだよ。うちは特別かもしれない。あとで行って見る?」
「うん」
歩美は馬好きだ。馬がいる所ならどこに行っても馬と戯れる。二人は学内の学生食堂に入る。こちらは新しい建物で食堂はちょっとしたカフェテリアのようだった。
「みどり、すごいな。大学はこんな食堂もあるのか」
「最近、新しくなったんだ」
食堂に入ると当日の昼食メニューがホワイトボードに書いてあり、どれも安い。
「みどり、食事が安いな。近所の定食屋の半額だぞ!」
「ふふ、学校が補助してくれてるんだよ。でも昼ご飯は終了してるから、売店にいくよ」
「そうなんだ。残念だな」歩美はよだれを垂らさんばかりである。
「歩美はお昼ご飯食べたんだろ?」
「学校で給食を食べたけど、お腹が減るんだ。育ち盛りなのかな」
「なるほど、そういう時期なのか」
学食内の脇に売店がある。歩美は売店内を物色して、結局アイスクリームを買ってもらった。みどりは大学から支給されたI?カードで支払う。
「へー、すごいね。大学のカードがあるんだ」
「給料天引きってわかるかな。カードで購入して後で給料から引かれるんだ」
「そうなんだ。食べ過ぎると給料が少なくなるね」
「はは、そこまでは食べないけど、そういうことだね」
歩美がアイスクリームをほうばりながら話す。
「みどりは子供の頃は何になりたかったの?」
「そうだな。歩美の歳の頃はじいちゃんと馬を診てたから、装蹄師になりたかったかな」
「やっぱり馬が好きだったんだね」
「そう、じいちゃんの所によく故障した馬が来てたよ。獣医さんが見放したような馬をじいちゃんの装蹄で治したりしてたな。そういった評判がたって、色んなところから馬を診てくれって依頼が来てたんだ」
「さすが伝説の装蹄師」
「うん、中央で活躍していた馬で、屈腱炎になって安楽死処分も検討された馬が来てね。じいちゃんは絶対治せるって言って、その馬を預かって色々調べてたよ。馬の歩様を見てその馬に最適な装蹄を見極めるんだ。じいちゃんは昔からとにかく勉強してたな。馬の骨格、筋肉だとか、それと装蹄方法、蹄鉄、なんでもどん欲に調べてた」
「へー、すごいね。よくわからないけど」
「ちょっと難しかったかな。私が研究を続けているのはじいちゃんの影響だな。物事を理論的に考える所は似ている。まあ、私も子供の頃は見様見真似で馬に接してたんだ。中学生の頃には装蹄もやるようになった。装蹄はじいちゃんに教えてもらったんだ」
「馬に乗ったりもしたの?」
「乗ったよ。でも歩美みたいに騎手は目指さなかったな。元々、運動神経がなくって、馬を研究することのほうが面白かった。それもじいちゃんの影響かな。外国に比べると日本でサラブレッドの研究をやってる人は少ないんだ」
「へー、こんなに競馬が盛んなのにね」
「そうだね。そうそう、歩美は知ってるかな、サラブレッドって人間が作り出した動物なんだよ」
「え、作り出したって?」
「元々、アラブの馬を品種改良して早く走ることだけを考えて作り出したんだ。アラブってわかる?」
「アラブってディズニーの映画に出てくるアラビアンナイトみたいなやつ?」
福原は笑いながら、「そうそう、そんな感じだよ。今の中東って場所だよね。アラビア半島ってあるんだけど、そこにいる馬の種類がアラブなんだ」
「アラブね」
「そのアラブにイギリスにいた馬をかけ合わせて人工的に作ったんだよ」
「それはびっくり。イギリス人が作ったんだ」歩美は素直に驚いている。
「うん、イギリスの貴族の遊びと言うか、実験というか、そういうことだったんだ。そしてそのルーツをたどると3頭の馬に行きつく」
「どういうこと?」
「今いる馬たちの親、父親をね。それをずっと先祖までたどって行くと3頭の馬しかいないんだ」
「え、今の馬の先祖って3頭しかいないの?びっくり」
「そうそう、それは18世紀っていうから今から300年ぐらい前の話だな」
「300年前か、想像つかないな」
「日本だと江戸時代だから、ちょんまげを結ってる時代だな」
「あ、水戸黄門だ」
「ふふ、それでね、それから現代まで走る能力のある馬のみを残しているんだよ。種牡馬っているだろ、良く走った馬は子供を作れる。そうして優秀な馬のみを繋いでいったわけだから、結果として競争能力が集約されてきたことになる。あ、難しいかな」
「その話は歩美も聞いたことがあるよ。走る馬の子供だから走るんだよね。走らない馬の子供は残らない」
「そういうことだね。それを300年続けてきて今のサラブレッドになってるんだ」
「そうか、そういわれるとすごいことをやり続けてるんだね」
「そういうこと、だから今もこれからもサラブレッドは実験中なんだ。アムロも走る馬だから子供を残していかないとならない」
「ふーん、でも人間はそうじゃないね」
「ははは、そうだね。人間がそういう風になったらなんか恐ろしいな。いろんな人がいて社会を作ってるんだからね」
「とーちゃんも人に言えない学校を出ているのに子供がいる」
「ははは、村井さんは優秀だよ。いい調教師だし、なんといっても歩美という素晴らしい子供を育ててるだろ」
「へへへ」歩美は嬉しそうだ。歩美も村井が最高なのはよくわかっているようだ。
「そうか。でもサラブレッドはこれからも実験を続けていくんだね」
「そういうこと。歩美、馬場に行って見るか?」
「うん、行く」
アイスクリームが歩美の顔について、汚れているのを福原がハンカチで拭いてやる。
「馬になめられるぞ」
「へへ、大丈夫だよ」
食堂から馬場に向かう。大学構内を出て公道を経て、少し離れたところに馬場はあった。競技用の馬場なので柵などの障害物があり、馬はジャンプして障害を越える練習をしている。
「すごいね。柵を飛び越えてる」
「元は競走馬だった馬が多いんだ。跳躍に適した馬を障害用に調教してる」
「へー」
そこへ馬に乗った学生らしき男の子が近づいてくる。
「碧ちゃん、隠し子ですか?」馬上から福原をからかっている。
「何言ってるの。知り合いの子供」歩美が不思議そうな顔をして福原に聞く。
「みどり、隠し子って何?」
「歩美が私の子供じゃないかってこと」
「そんなわけないじゃん。全然似てないよ」男の子は笑いながら、離れていく。
「そうだ。みどりは結婚しないのか?」
「相手がいないからな」
「そうか、それは仕方ないな。好きな人はいないの?」
「今はいないかな。歩美は?」
「それは秘密だな」
「お、そこは言わないんだな。乙女だな」
「乙女って何?」
「かわいらしい女性ってこと」
「そうだな」歩美は偉そうにする。
一通り、馬場を見てから、研究室に戻る。村井は部屋の中で居眠りをしていた。
「とーちゃん、帰ったよ」
歩美が大声を出して村井を脅かし、びっくりして飛び起きる。歩美のいたずらだ。
「ああ、お帰り」
「面白かったよ。大学って楽しいところだな」
「そうか、それはよかった。ああ、あんまり長居しても先生に悪いからそろそろ帰るか?」
「うん」
村井が福原に向かい、話す。
「福原先生、何か我々が手伝えることがあれば遠慮なくおっしゃってください」
「わかりました」
「みどり、今日はありがとうね」
「こっちもなんかリフレッシュできたよ。歩美、ありがとうね」
研究室を出て、村井と歩美が駐車場まで来る。
「歩美は目的を果たせたのか?」
「うん、みどりの様子を見に来たから、用は済んだ」
「そうか、それならよかった。大学って面白そうだろ」
「そうだね。騎手学校に落ちたら考えてもいいかな」
「でもここは国立だから、勉強しないと入れないぞ」
「国立って?」
「国が作った学校ってこと」
「国が作った学校に入れないのか?なんかおかしくないか」
「いや、人数の制限があるから、バカじゃあ入れないんだ」
「なるほど、サラブレッドと一緒か、バカは残れない」
「ん?何の話だ」
残念ながら、アムロの装蹄についてはその後も打開策が見つからなかった。このままだと落鉄の恐れを残したままで有馬記念に出走することになる。
3
阿部工業の2階事務所には阿部、岸田、それと事務員の麻田麻衣子、そして経理担当新人の早川皐がいる。
阿部が10月までの収支報告書を確認している。上期4月から9月で大幅黒字を達成しており、さらにこの10月にはもっと経常利益が増えてきている。
阿部が早川を呼ぶ。
「早川さん、ちょっといいかな」早川は何かデスクワークの真っ最中だ。
「あ、はい、ちょっとお待ちください」
早川はとにかく仕事の集中力が半端ない、おそらくこの能力で3人分の仕事をこなしている。以前、在籍していた岡部も経理の仕事は出来た方だが、この女史はそれをはるかに凌駕している。どうしてこんな人が埋もれていたのかと思うほどである。
「何ですか?」その早川が来る。
「うん、年末に社員にボーナスを支給したいんだよ。上期分の利益から出来る範囲で従業員に還元したいんだけど、どのくらい出せるかな?」
「そうですね、でしたら従業員への支給は全利益の30%でどうでしょうか?」
「それぐらいか、もう少し出したい気持ちもあるけど」
「いや,現状はそのくらいが限界ですよ、借入金の返済分もあるし今後の不確定要素が多すぎます。まあ、下期分についてはもっと出せるでしょうから、状業員には次回のボーナスに期待してといったところでしょうか?」
「わかった。じゃあ、私の方で社員の査定と金額を設定するので支給手続きについてはよろしく頼む」
「査定の結果と金額を決定されたら、今後は査定のみで私の方で計算できるようにしますよ」
「うん、そうしてくれると助かる」
「わかりました」
今の話を聞いていた岸田と麻田もうれしそうだ。久々に従業員にボーナスを支給できる。ここ5年間はみんなに苦労掛けた。そんな中でも残ってくれた社員には何としても報いたい、阿部の切実な思いだった。
4
一方、阿部工業の景気のいい話とは打って変わって、景気の悪いとちぎ競馬の話である。
11月末になり、とちぎ競馬の事務局長が厩舎関係者に話があるということで、各厩舎代表者と騎手に声がかかった。村井厩舎からは村井と御手洗が参加することになった。
報告会はとちぎ競馬場の会議室で行われた。会議場は学校の教室ぐらいの大きさで、教室で言うと教壇がある上座部分に長机が置かれている。事務局がここで話をするようだ。
とちぎ競馬の関係者50名程度はその机の前に立っている。
御手洗が不安げに村井に話す。
「なんの話ですかね?」
「さあな、年末だから、臨時ボーナスなんて話だったらいいんだけどな」
「アムロ景気でそうなればいいですね」
そんなわけはないが、御手洗武はそう聞いてうれしそうだ。
事務局の橋本ら数名が会議場に入ってくる。いつものように橋本がマイクを使って話し出す。ただ、表情が険しく、いい話ではない模様だ。
「皆様、本日はお忙しい中、お集まりいただきましてありがとうございます」
いつになく、神妙な口火を切る。
「とちぎ競馬組合事務局から報告事項があり、急遽、集まっていただきました。それでは早速、事務局長から話をしていただきます」
長机の真ん中に座っている事務局長にマイクが渡される。事務局長は県側の代表になる地方公務員で県庁では部長クラスになる。50歳は越えている小太りの男性である。
顔つきが険しく、これから話す内容がけっしていいものではないことが伺える。
「事務局長の高橋です。現在、年末の競馬開催に向けて慌ただしい毎日を送られる中、お集まりいただき、ありがとうございます。皆様の貴重な時間を無駄に使うわけにもまいりませんので、早速、本題に入らせていただきます。誠に残念ながら、昨日、群馬県議会において、高崎競馬場の廃止が決定されました」
一同がどよめく。村井も急な話にびっくりする。
「村井さん知ってましたか?」
「いや、初耳だ」
「群馬県議会では以前から廃止についての議論がなされておりましたが、昨日の県議会での賛成多数をもって決定事項となりました。廃止の日程は2004年、来年の開催を持って終了となります」
とちぎはどうなるんだ、の声が上がる。橋本がそれを制する。
「すみませんが、事務局長の話が終わってから、質問は受け付けます」
冷や汗をかいている事務局長が話を続ける。
「2004年の開催スケジュールは基本的には今年と同じ体系になりますが。2005年についてはとちぎ競馬のみの開催となり、新たにレース日程を考慮します。先ほど、皆さまから声が上がりましたが、とちぎ競馬の廃止についてはこれからの議論次第となります。報告は以上になります」
とちぎ競馬の関係者から怒声まじりに挙手が続く。橋本が順番に差していく。とちぎの古参の調教師から質問が出る。
「とちぎでも県議会で廃止論が出ていると聞く。この先、どうしていくんだ?」
事務局長が返答する。
「集客を増やす努力を続けていくしかありません。やはり黒字化できないとそういった廃止論が出てきます」
「だから、収益をどうやって増やしていくのかを聞いてるんだよ。具体的な話はないのか?」
「今も家族連れを増やすようにイベントをやったりもしています」
「そんなんじゃ増えないだろ!」
事務局長はしどろもどろだ。他の調教師から意見が出る。
「もっと色んな馬券を増やしたらどうなんだ。三連単とか5連単とか、全レースを全て的中なんて馬券もやればいいだろ」
「そういった意見もありますが、あんまり射幸心をあおるようなものについては否定的な意見が多いです」
「そんなこと言ってる状況じゃないだろ、こっちは生活がかかってるんだぞ」
続いて他の調教師が質問する。
「もしも仮に廃止になった場合は、俺たちの後の仕事はどうなるんだ」
「仮定の話なので、ここではお答えできかねます」
「おいおい、政治家の答弁じゃ困るんだよ。さっきから言ってるようにこっちは生活が掛かってるんだ」
調教師連中が気色ばむ。村井も同じ気持ちだ。競馬以外の仕事をすることができるのか不安だらけだ。ましてや高齢の調教師やスタッフ連中がいまさら何か他の仕事が出来る当てもない。
事務局の橋本がフォローする。
「仮定の話になりますが、他場への転厩や仕事を斡旋するなどは、おこなうべきかとは思っています。ただ、これは決定事項ではありません」
一同の怒りが事務局に向かう。常日頃から思っていた不満が爆発している。
「以前から競馬場を改修しないと人が増えないって言ってたんだよ。どうしてそういうことをやらないんだ」
「改修をするための予算が降りません。先ほどから申し上げてるようにまずは黒字化が先になります」
「だから、黒字化のための改修だろうが」
「中央の馬券発売はどうなんだ。それで客を集められないのか?」
「それもシステム改修にお金がかかります」
「何、言ってるんだよ。さっきからそればっかりじゃねえか!」
以降も色んな意見が出されたが、事務局からは通り一遍の返答しか出てこなかった。怒り疲れて、会合は終了した。不満だらけだが調教師連中は会議室を後にするしかない。村井と御手洗も、とぼとぼと厩舎に戻る。厩舎ではみんなが待っていた。みんなといってもごんじい、近藤、歩美だけだが。
村井が報告会の話をする。やはりその話かといった反応しかない。近藤が話す。彼は村井と同年代だ。
「とちぎ競馬がなくなって他に行くとしても、中央にはいけないだろう、そうなると地方だろ、だけど、他も似たような状況だからな、仕事なんかないよ。どうするかな、長距離トラックでも運転するかな」
歩美が質問する。
「とーちゃんはどうするんだ?」
「どうかな、できればこの仕事を続けたいけど、他に拾い手があるかどうか?他場に行くにも試験があるからな」
「やっぱり勉強しないとだめか」
村井は歩美だけには同じ思いをしてほしくない。自分自身に話をするように真剣な顔で話す。
「そうだぞ、歩美、これからは何をするにも頭が必要だ。とちぎ競馬を盛り上げようにも頭が悪いやつらばっかりだと、何にもできない。俺はそれを痛感したよ。結局、何にもできない。今更だけどとーちゃんも勉強するよ」
「俺も勉強するかな」御手洗が話す。それに対して村井が話す。
「そうだぞ、武は頑張れば中央のジョッキーになれるんじゃないか、まだ20代だし、これからの成績次第だろ」
「それよりも中央競馬の騎手試験が難しいらしいよ。俺は無理かもな」
「確かにそれはそうかもしれない」歩美がフォローにならないことをいう。
「歩美、フォローしろ」村井が叱る。
いずれにしろ、とちぎ競馬の未来は暗い。アムロが走っても第二第三のアムロが出ないと存続は出来ないだろう。そしてそんなことはまずありえない。
5
週末になり、歩美は祐介のお見舞いに大学病院に行く。
祐介は元気がない。歩美が見る限り日に日に顔色も悪くなっている気がした。祐介のベッドの脇に歩美が座る。玲子ママは歩美のためにジュースを買いに行った。祐介がポツンと話始める。
「人間、死んだらどうなるのかな…」歩美は言葉が出ない。
「歩美、天国ってあるのかな?」
「祐ちゃん、大丈夫だよ。手術すれば元気になるよ」
「この前、先生から話を聞いたんだ。移植手術は手術の日にちが決まるまでに時間がかかるんだって、死んだ人の心臓をもらわないとならないだろ、そんなに死ぬ人もいないし、心臓をあげてもいいって言う人もたくさんいない。それにさ、人が死ぬのを待ってるのって何か嫌な気がする」
「…」
「僕が死んだら、僕の身体は病気の人にあげてほしいな」
「祐ちゃん、死ぬことを考えたらだめだよ」歩美は半泣きだ。
「そうなんだけど、このままだといつかは死んじゃうよ」祐介が顔を布団にうずめる。
「歩美が死なせないよ。アムロが勝ってくれるよ」
「うん、アムロはいいな。キラキラしてて、僕、死んだら馬に生まれ変わりたい」
「死ぬこと考えないで!」ついに歩美は泣き出した。
玲子ママがジュースを持って戻って来た。歩美の様子に驚く。
「歩美ちゃんどうしたの?」
「何でもない…」
玲子ママがジュースを差し出す。歩美が受け取る。
病室の窓からみえる外の景色は冬の様相で、雪でも振り出しそうな天気になっている。
「アムロは勝ってくれるかな」祐介が話す。
「アムロは勝つよ。祐ちゃんと約束したでしょ」
「そうだね」
歩美がジュースを飲む。泣いたせいか一気のみだ。すぐになくなって大きな音がする。
「歩美ちゃんすごいね。一気飲みだ」
「へへ」歩美に笑顔が戻る。玲子ママが歩美に話す。
「学校はどうなの?楽しい」
「普通かな。そうそう学校で思い出したけど、この前、みどりの大学に行ったんだ」
「宇都宮大学だったよね」
「そう、大学って面白いところだね。食堂は安いし、カードがあってお金を払わなくてもよくて、なんか給料から引かれるんだって、それと馬もいるんだよ」
「そうなの、すごいね」
「テニスコートもあるし、なんか楽しそうなところだった」
「歩美ちゃんは大学に行くの?」
「それなんだけど、考え中かな。騎手になるのが一番の夢なんだけど、騎手学校に入るのが大変みたいなんだ。そこに落ちたら大学に行こうと思ったんだけど、大学も入るのが難しいんだって、バカは入れないらしい」
「歩美ちゃん、勉強すればいいじゃない、私は歩美ちゃんは頭が良いと思うよ」
「そうかな、でも勉強はあんまり好きじゃないな」
「わかるけど、色んな知識を身に付けるって素晴らしいことだと思うよ」
「そうかな。祐ちゃんはどう思う」
「うん、僕もそう思う。僕はもしも病気が治ったら、医者になりたい」
玲子ママが祐介のそんな話を初めて聞いたのかびっくりしたような顔をする。歩美が話す。
「祐ちゃんならなれるよ」
「医者になって病気の人を救うんだ」
「なれるよ。絶対!祐ちゃんは頭がいいんだから」
「そうかな、でもそうなったらいいな」
歩美は思う。祐ちゃんみたいな頭のいい子はサラブレッドじゃないけど、この世の中に残らないとまずい。人類の未来にかかわる。
歩美は厩舎に戻って病院の出来事を村井に話す。
「そうか、祐介は弱気になってるな」
「歩美はどうすればいいの?」
「うん、難しいな。元気づけるしかないけど、こればっかりはどうしようもないかもしれない。本人次第だからな」
「とにかく、アムロに勝って貰うしかないよ。祐ちゃんは医者になりたいんだって、初めて聞いたよ」
「そうか、祐介ならいい先生になりそうだな」
「でもさ、全国に祐ちゃんと同じように病気で苦しんでる子供がいるんだよね」
「そうだ」
「そういうことを考えるとなんかつらいよ」
「うん」
村井も返答に困る。実際、世の中には何とも出来ないことが満載だ。とちぎ競馬もいつまで存続できるか不透明だし、個人の力では如何ともしがたいことであふれている。
歩美にはそういう思いをしてほしくない。ただ、村井の学力では歩美の疑問に旨く答えることが出来ない。村井がひねり出すように話をする。
「とーちゃん、あんまり頭が良くないから、かっこいいことが言えないんだけどさ、人間でも馬でもその時々を頑張るしかないと思うんだ。そうやって頑張ってると何かいいことが起きる気がするよ。神様がいるのかはわからないけど、がんばることを止めたらそれで終わりだ。とにかく頑張り続けていくんだ」
「そうか、それしかないのか。じゃあ歩美も出来ることを頑張るよ」
「うん、とーちゃんもがんばるからさ」
有馬記念まですでに1カ月を切っている。
そして12月に入り、JRAから有馬記念のファン投票の結果が発表になった。
ファンのみんなの応援もあり、アムロはモヒートに続いて2番人気で出走が叶った。地方馬としての出走条件もクリアーしていることから、JRAから出走の可否について問い合わせがあった。もちろん、出走する旨を連絡した。
アムロの馬房前で歩美が話をしている。アムロは飼い葉を食べている。
「アムロ、有馬記念に出られるよ。ファンのみんなが応援してくれたよ。いよいよ、お前の最後のレースだよ。がんばろうな」
飼い葉桶から顔を上げてアムロが歩美の言葉にうなずく、有馬記念でアムロは引退する。それを知っているのは村井親子と御手洗武のみである。
6
数日後、歩美が祐介のお見舞いに行く。先日の祐介の落ち込みぶりを見て、なんとか元気づけようと彼が気に入りそうな本を買おうと宇都宮駅前の書店に立ち寄る。
さて、どんな本がいいのかな、と思って書店内をウロウロする。子供向けの本が置いてある所で探してみると、魔法使いの学校生活を書いた人気の本が山積みになっていた。これ、多分、祐ちゃんが好きな本だ。前に言ってたしな。シリーズになっていてこの最新刊はまだ、持ってないはずだ。これにしよう。そうしてよくよく見ると上下巻になっていて金額が歩美には無理だ。これはだめだ。予算オーバーだ。どうしよう。
そこに店員の女性が歩いてきた。歩美が話しかける。
「すみません。友達に本をプレゼントしたいんですけど、いい本は無いですか?」
「友達はあなたと同じ歳くらいの子なのかな?」
「そうです。ほんとはこの本にしたかったんだけど、予算オーバーなので…」
「ああ、これ上下巻だから、ちょっとお金が厳しいかな。あなたは10歳ぐらい?」
「そうなの、その子も10歳」
「じゃあ、この本はどうかな」
その女性が出してきたのはミハエルエンデのモモと言う本だった。
「この本もファンタジーで読みやすいと思いますよ」歩美が値段を見ると問題ない。
「じゃあ、これにします。プレゼントにしたいので」
「じゃあ、リボンを付けましょうね」
「はい、ありがとう」
レジに連れて行ってもらい、本はカバーと包装紙に包まれて、ブルーのリボン付きにしてもらった。祐ちゃんは青色が好きだ。祐ちゃん喜んでくれるかな。電車に乗って、病院に向かう。
いつものように病室に入る。祐介のベッドの周りが妙に華やかだ。なにか色んなものがある。驚いた歩美があいさつもしないで祐介のベッドに近づく。
「祐ちゃん、なにこれ?」
「ああ、歩美すごいでしょ」玲子ママもうれしそうだ。
「これ、みんなが贈ってくれたんだ」
ベッドの周りには千羽鶴やら、ぬいぐるみ、アムロの絵、手作りのアムロ人形もある。それらが所狭しと飾ってある。病室とは思えないほどだ。
「どういうこと?」
「あのね。先月号のヒーローの記事を見て、全国の方々からお見舞いの品が届いたのよ。出版社に届いたものを御子柴さんが送ってくれたの」玲子ママが話す。
「あとね、いっぱいお手紙も貰ったよ。アムロだけじゃなくて、僕もがんばれっていうのもあったし、あとね、同じように病気に苦しんでる子供からも手紙が来た」
「そうなんだ」
「うん、みんなが応援してくれてるんだ。僕、がんばらないとって思った。お返事も書いたんだ」祐介が久しぶりに生き生きと話をする。
「そうか、よかったね」歩美は持って来たものをどうしようかと思う。
祐介は近くの人形を手に取って歩美に見せる。
「歩美ちゃん、これアムロ人形だよ。手作りみたいだけど、ほんとによく出来てる」
確かにアムロがかわいく人形になっている。顔の乱星マークも書いてある。
「うん、かわいい」
玲子ママが歩美が後ろ手に隠して持って来たものに気が付いて話す。
「歩美ちゃん、祐介にプレゼント?」
「ああ、うん、これ本なんだけど」
歩美が買って来た本を出す。祐介がそれを見て、
「わあ、きれいな包装だね。開けていい?」
祐介がリボンをほどいて、包装紙もきれいに取る。そして本を見て、
「歩美ちゃんありがとう、これ読みたかったんだ」
歩美が持って来たモモを祐介はうれしそうに見る。歩美が照れ臭そうに話す。
「なんか、これだけ良いものがあると恥ずかしいよ」
「ううん、僕は歩美ちゃんが来てくれてほんとに感謝してるよ。僕の一番の贈り物は歩美ちゃんと言う友達がいたことなんだよ」
「…」歩美が絶句する。玲子ママも歩美に話す。
「そうよ。歩美ちゃんがいてくれてどれだけ祐介が元気づけられてるか、私からも感謝するわ、本当にいつもありがとうね」
歩美はどうしていいかわからない。でも色んな事が報われたような気がした。
「私は祐ちゃんに会いたいから来てるだけだよ」
「ほんとにありがとう、歩美ちゃん」玲子ママが言う。
祐介はうれしそうに笑っている。こんな笑顔を見るのは久しぶりな気がする。祐介が話す。
「アムロはどうしてるかな。まだ、いい蹄鉄がみつからないのかな」
「うん、みどりが悩んでる。あんなに算数が出来るのに答えが出ないんだ」
「そうなんだ。難しい問題なんだね」
「そうみたい」
「もし、いい蹄鉄がなかったらどうなるんだろ」
「どうだろう、でもアムロがちゃんと走れないことになるから、勝てないかもしれない」
「それは困ったね」
「そうなんだよ」
本当にアムロはちゃんと走れるようになるのだろうか、みどりはいい案を考えつくのか、アムロが優勝し、そして祐ちゃんの手術が可能になるのか、悩みは尽きない。
「あ、そうだ。歩美ちゃん、この前、おとうさんの会社に新しく入った人がお見舞いに来てくれてさ。その人、なんか歩美ちゃんに似てるんだよ」
「そうなの?なんて人?」
「早川さんって言う女の人。歳は御子柴さんぐらいなのかな」
「へー、そうなんだ。ちとせぐらいか」
「歩美ちゃんも元気いっぱいだけど、その早川さんもものすごく元気な人でさ。僕、歩美ちゃんが大人になったらああいう人になるのかもって思ったんだ」
「そうなの?」どういう意味だろう、歩美は考える。玲子ママが話す。
「私は歩美ちゃんは大人になったらもっと美人さんになると思うわよ。お母さんもきれいだったからね」
「そうかな」
なんか歩美はうれしくなる。自分が大人になることがまだ良くわからない。歩美が大人になったらどうなるのかな。玲子ママの言うようにかーちゃんみたいな美人になれるのかな、そしてちゃんと騎手になってるのかな。
7
歩美は学校から帰って来る。いつものようにランドセルを自室に放り投げてから、馬房に顔を出す。するとアムロの馬房の前に見かけない人がいる。そばには村井もいる。
「ただいま!」
「歩美、お帰り、この人、阿部オーナーの会社の人で早川さん」
「早川皐です。歩美ちゃんこんにちは」
「こんちは」
なるほど、この人が祐ちゃんが言ってた人か、歩美に似てる?自分じゃわからないな。
ただ、顔は日に焼けて真っ黒で健康を絵に描いたような女性だ。何か体操着を着ていて、それが真っ赤だ。
「早川さんは9月に阿部さんの会社に入ったばかりなんだ。今日は蹄鉄を見に来たんだって」
「うちの会社で蹄鉄を作ってるって聞いて、どんなものなのか、実際に馬に付いてるのを確認したかったの」
「初めて見るの?」
「うん、初めて、競走馬を見るのも初めてだよ。馬って大きいんだね。びっくりした」
「でもアムロは小さい方なんだ」
「へー、そうなの」早川はアムロを確認するように見る。そんな早川に歩美は質問する。
「早川さん、この前、祐ちゃんのお見舞いに行ったんでしょ?」
「ああ、聞いたの、この前、行って来ました。奥様にも挨拶したかったんで、祐介君、早く元気になると良いね」
「ほんとにそう思うよ。そのためにアムロに勝ってもらわないと」それに対して早川が不思議そうな顔をする。
「アムロが勝つと祐介君の病気が治るの?」
「そうだよ。有馬記念に勝って賞金をもらえば手術できるんだよ」
「え、そんなことあるの、だって手術に一億円はかかるって聞いたよ」
「有馬記念の賞金は、あれ?いくらだっけ?」
「一億8千万円だよ」村井が答える。
「うそ!そんなに出るんですか?」早川が目を丸くする。村井が補足する。
「ええ、そうです。馬主はその8割もらえるんです」
「な、なんと、知らなかった。競馬ってそんなに儲かるんですか」
早川の顔つきが変わっている。
「賞金で言えば、ジャパンカップはもっと多いですよ。えーと確か2億5千万円だったかな」
「に、二億ってありえない。たかがレースで」
「そうなんですよね。だから競馬にハマる人が出てくるんです」
「ちょっと待ってくださいよ。このアムロがそういったレースをどんどん勝ったら、それだけで年間数億円ってことですか?」早川は口から泡が出そうなほど、驚いている。
「ですね。10億円とか稼いじゃうかもしれません。実際、一番稼いだ馬はテイエムオペラオーっていう馬なんですが、20億円近く稼いだと思いますよ」
早川は腰を抜かさんばかりだ。
「それじゃあ、競馬はビジネスになるじゃないですか!」
「そうですけど、そんなに走る馬にはめったに巡り合えません。それこそ、宝くじに当たるより低い確率かもしれませんよ」
「そうなんですか、じゃあ阿部さんはよっぽど強運だったんですね」
「そういうことです」
早速、早川は今聞いたことをメモしている。それを見た歩美が不思議そうに話す。
「何を書いてるの?」
「競馬について少し勉強しようと思って、今の話をメモしてるの。ビジネスチャンスがないかどうか検討しないと」
「ビジネスチャンス?」
「お仕事を広げるってことかな。それでもらえるお金を多くするってこと」
「金儲け?」
「まあ、そういうことかな」
「早川さんも算数得意なの?」
「算数?小学校の時はそろばん塾に通ってたよ。だから算数は得意だったかな」
「すごいな」
「歩美、早川さんは経理担当だから、数字は得意なんだ。頭も凄く良いんだって」
「いえいえ、至って普通です」
「普通で算数が得意なのか、じゃあ、歩美は普通以下かもしれない」村井があきれながら言う。
「そうだぞ、歩美は算数もっと勉強しないとだめだぞ」
「でもなんか、算数ってやる気が起きないんだよな」それを聞いた早川が、
「そうかな、算数って答えがちゃんと出るでしょ、それが正解だったら気持ちいいじゃない、そう思うとやる気でない?」
「出ないな、正解までいかないし」
「だめだ、こりゃ」村井があきれる。歩美は困るが、二人して笑っている。
「早川さん参考になりましたか?」
「そうですね。蹄鉄もけっこうな値段になるし、利益率がいいんですよ。今の話を聞いて納得しました。競馬ビジネスはお金になりそうです。少し検討します」
歩美は思う。この人が歩美に似てるかな、とても似てるとは思えない。歩美は祐介が何を見てそう思ったのか気になった。村井が話す。
「早川さんはここまで自転車で来たんだって」
「へー、自転車?」
「そうなの、厩舎の前に置いてあるのよ。見る?」
「うん、見せて」
「じゃあ、村井さん、私はこのまま会社に戻りますので、どうも色々ありがとうございました」
「はい、こちらこそ」
早川と歩美が厩舎前に行く。確かにそこに真っ赤な自転車が置いてあった。歩美が良く見るママチャリではない、なんかタイヤが細いし、自転車もひょろひょろしている。
「この自転車、面白いね」
「これはロードレーサーって言う自転車なの、私、サイクリングが趣味なんだ。会社に行くのも遊びに行くのもこれで出かけてる」
「そうなんだ。スピードが出るの?」
「うん、出るよ。ままちゃりの倍は出るかな。大体、時速30㎞ぐらいで走ってるのよ」
「ひえーすごいね」
「馬には負けるけどね」
「それで体操着来てるんだ」
早川は自転車用のウエアを着ているが、子供には体操着に見える。
「そうなの。会社に行くのもこの格好なんだ。仕事中は着替えるけどね」
「へー、かっこいいな」
「じゃあ、私は会社に戻るね。歩美ちゃん、またね」
「うん、また」
早川は背中にリュックサックを背負って、ウエアからサングラスを取り出し、ヘルメットをかぶる。
「わお、かっこいい」
「じゃあね」
真っ赤なロードレーサーが颯爽と走っていく。確かに早い。なるほど、祐ちゃんが歩美に似てると思ったのはこういうところか、と歩美は勝手に解釈していた。
8
アムロの朝の調教が終了する。今まで調教で落鉄が起きたことはないが、相変わらず福原碧は落鉄対策に悩んでいた。接着強度を上げるためには接着剤を変更する必要があるが市販の接着剤では限界がある。そもそも蹄鉄用の接着剤は米国製の専用のもので、配合を変えるようなオーダーメイドは事実上、困難である。削蹄や接着工程での蹄の処理は色々試してみたが、そもそも福原が計算上、最適な条件で接着しているわけで、これ以上強度を上げることはできなかった。完全に袋小路に陥ってしまった。
歩美が学校から帰って来た。いつものように馬房に顔を出す。馬の状態を確認するのが自分の仕事である。一頭ずつ確認し、最後にアムロの所に来る。アムロはいつものように飼い葉おけに顔を突っ込んでいる。
「アムロ、調子はいいのかな?」
言いながら歩美がアムロをなでる。アムロは気持ちよさそうにしている。
「みどりも困ってるみたいだよ。アムロはどうなの?いいアイデアないのか?」
食べるのをやめて、顔を上げたアムロがきょとんとしている。
「アムロにも無理かあ、困ったな」唐突に歩美の後ろから声が聞こえる。
「うん、いい馬だな」
歩美が振り返る。なんか得体の知れないじいさんがいる。ごま塩頭で痩せていて、何か不思議なオーラみたいなものを感じる。しかし最近、厩舎周りに知らない人が増えてきたな。
「おじさん、だれ?」
「みどりのじいさんだよ」
「みどりのじいさん…あっ伝説の装蹄師か!」歩美の話ににこにこ笑う。
「いや、引退した装蹄師だな」
「その装蹄師がどうしたの?」そこに御子柴が現れた。村井も一緒だ。
「ちとせ!」歩美が叫ぶ。久々に御子柴が来た。
「福原さんに来てもらったよ」
歩美の話を聞いた御子柴が福原朗さんに電話をしてくれたそうだ。碧が悩んでいる話もしたところ、力になれるかはわからないが、見るだけは見ようということで福島から来てもらった。
福原朗はアムロの身体を触ったり、蹄や脚部の細かい筋肉を確認してから、歩様を見たいということで歩かせてみたりもした。それを1時間ぐらいかけてから話し始める。
「接着装蹄ってやつだな。面白いな。確かにこいつの蹄は釘を打つのに向いてない。打てるところが少ないし、薄すぎるな。この蹄鉄もぴったりとあってるな。これは専用に作ったんだろ、至れり尽くせりだな」
「見ただけでわかるんですか?」御子柴が話す。
「大体ね。碧にしちゃあ上出来じゃないかな」
「それで、今は落鉄するので困ってるんです」
「ふーん、接着装蹄ってやつはやったことがないが、落鉄は装蹄師のミスだよ。明日、調教やるんだろ?」
「はい、やります」
「今はどんな調教やってるんだ?」
「15ー15を基本に週に一回は強めに追い切ります」村井が答える。
「今のところ、足元に不安はなさそうだな。明日は目一杯追ってくれないかな」
「はい、やってみます」
「多分、こいつはレースじゃないと本気で走らないと思う。そのぐらい頭のいい馬だろ。本気で走る時はフォームも変わるんだろうよ」
馬を見ただけでそこまでわかるとは、さすがに伝説の装蹄師だ。
「じゃあ、アムロにレースみたいに走ってもらうよ」歩美が言う。
「お嬢ちゃんがお願いすると走ってくれるのかい?」福原がにこにこしながら話す。
「うん、大丈夫だよ」
「福原さんこの娘はアムロと会話ができるんです」御子柴が話す。
「え、本当かい。ほんとだったらそれはすごいな」
「ほんとだよ、明日の調教は目一杯走れってアムロに言っとく」
そこに福原の孫の碧が走って来る。「じいちゃん!」
「おお、碧か」
「じいちゃん、来るなら来るって連絡ちょうだいよ」
碧はよっぽど急いできたのか荒い呼吸でゼイゼイしている。
「ああ、何かバタバタして出てきたんで、お前も忙しいだろうからって連絡し忘れた」
「まったくもう。さっき御子柴さんから連絡もらってびっくりしたよ」
「お前の仕事ぶりを見に来たんだ。学者さんの割にはちゃんとした仕事してるじゃねえか」
「うん、でもうまくいかない」
福原碧が子供に戻ったようにしょげかえっている。
「まあ、仕方ないな。この馬は規格外だ。おれも長いこと、馬を見てきたが、ここまでの馬は初めてだ」
「そうなんですか?」御子柴が驚いて聞く。
「ああ、見た感じは普通なんだが、中身が別格だ。筋肉の質が違ってる」
「どう違うんですか?」
「柔らかい。ゴムまりみたいに収縮するから瞬発力が桁違いになる。それでいて筋肉量がはんぱない」
「じいちゃん、見ただけでわかったの?」福原碧が驚く。
「見ただけじゃわからないよ。触って歩かせてみてね。しかし、こんな馬がいるのかね」
「そうなのよ。データ的にも規格外で、どうやっても接着装蹄だと落鉄してしまうの」
「そうか、まあ、明日、走りを見てみるよ。お嬢ちゃんに頼んで目一杯走ってもらう」
「じいちゃんが見てくれるの?」
「もう、眼も耳もガタが来てるから、どこまでできるかわからんが、この馬が走ってくれないと子供が助からないんだろ」
「ああ、その話も聞いたんだ」
「うん、それを聞いたら来ないわけにはいかないだろ」
「じいちゃん、力を貸して」
福原朗は碧の家に泊まるということで、そのまま碧と帰っていった。
馬房に御子柴と村井親子が残る。
「ちとせが伝説のおじさん、頼んでくれたんだ」
「うん、福原朗さんが見てくれたら何かわかるかもって思ったんだ」
「ありがとね」
「御子柴さんありがとうございます」村井も礼を言う。
歩美がアムロを撫でながら話をする。
「アムロ、明日はレースのつもりで目一杯走ってね。伝説の装蹄師が走りを見たいんだって」アムロはわかったようだ。頭を上下に振ってこたえる。
「私も見たいな」
「ちとせも見ればいいじゃん」
「朝早いんですよね」
「はい、3時から始めます」
「3時か、ずいぶん早いんですね。いつもは眠りにつく時間だな。つらいな…」
「うちに泊まれば?」歩美がそうしてほしいオーラ全開で言う。
「無理だよ、それは」
「私の部屋で寝ればいいじゃん」
「えー、どうしようかな」
「ああ、御子柴さんさえよければどうぞ」村井も進める。
「ちとせ、そうしようよ」
「じゃあ、そうするか」
「わーい」御子柴はすっかり歩美のお気に入りになっていた。
村井がいつものように夕食を作っている。ただ、気もそぞろになっている。歩美と御子柴が二人でお風呂に入っているのだ。風呂場から歩美の叫び声が聞こえる。まったく歩美ははしゃぎまくって困ったものだ。こっちの気も知らないで。そういえば、歩美の母親が亡くなって、かれこれ5年にもなる。やはりあの子にも母親が必要なのだ。それはわかっている。しかし、こんな男やもめのところに来てくれるような女性がいない。ましてやいつ失業するかもわからない身の上だ。御子柴がうちの嫁にとか妄想してしまう、ありえないな。
「お風呂いただきました」
御子柴がお風呂から出てきた。村井は新聞を手元に置いて見てはいないが見たふりをして顔をあげずに返事をする。
「はい、お粗末様でした」
「お風呂を新しくしたんですか?」
村井は顔をあげるが、御子柴の火照った顔を見ると素早く下を向く。
「ああ、そうなんですよ。ちょっと前まで五右衛門風呂だったんです」
「何ですか?五右衛門風呂って?」
「ああ、釜の形をしていて薪をくべて温めるんです。昔はそういったお風呂があったんです。この建物も古いんで風呂とトイレをようやく新しくしたんですよ」
「へー、そうなんですか」歩美がタオルで髪を拭きながら近くに来る。
「ちとせは五右衛門風呂を知らないのか。釜の所を触ると熱いんだよ。ぼーっとしていると触って熱くて目が覚めるんだ」
「そんなに熱いんなら、お風呂の底なんか大変じゃないの?」
「釜の底に木の板を置くの、そこにうまく乗っかってお風呂に入るんだよ」
「なんか、面白そうね」
「そうだ、トイレもちょっと前までぼっとん式だったんだ」
「ぼっとん式って?」村井が恥ずかしそうに補足する。
「ああ、便器があって穴があいてるだけのトイレです。水も流さないんですよ」
「はいはい、昔、田舎にあったかな。どこだったか、見た覚えはあります」
「確か1年前だったよ。ようやく、風呂とトイレが新しくなったんだ。とーちゃん、お腹空いた」
「じゃあ、飯にするか」
厩舎の2階が村井親子の居住スペースになっており、その中央部が居間になっている。そこで夕食を取る。8畳の畳の部屋で台所が隣にある。昭和の家族部屋のような趣である。
ちゃぶ台があってそこに食事をならべる。
「すいません、男の手料理であんまりうまくもないと思います」
「ああ、生姜焼きですね。おいしそうだ」
「とーちゃんの得意料理だ。たまに歩美も手伝うんだよ」
「村井さんはキャベツの千切りもできるんですね。これからは歩美も料理しないとね」
「うん、そのつもりだよ。ちとせは料理できるの?」
「恥ずかしながら全然出来ないのよ。いつもコンビニ弁当か、近所の弁当屋さん、あとは行きつけの食堂ね」
「あ、知ってる。歩美といったところだ」
「そうそう、歩美はカレーライスを食べたんだよね」
「うん、おいしかった。でもさ、ちとせ、女は料理ぐらいできないとだめらしいぞ」
「そんなことないよ。これからは男女平等なんだから男が料理してもいい時代だよ」
「え、そうなんだ。とーちゃん間違ってるぞ」
「いや、歩美も料理が出来た方がいいかなと思っただけだよ」村井はしどろもどろだ。
「じゃあ、食べましょう」
早速、食事にする。まるで一家団欒の様相だ。村井と御子柴は瓶ビールを飲みながら、食事をする。
「この生姜焼き、おいしいです。村井さん料理が上手ですね。キャベツの千切りもおいしいです」
「はい、ありがとうございます」
「とーちゃんほめられたな」しばらく食事の歓談が続く、そこで御子柴が話を振った。
「村井さん、仕事の話になりますけど、いいですか?」
「なんでしょうか?」
「先日、中央競馬の藤枝調教師に話を聞いたんですが、アムロには特別な調教をしたんですか?」
「いえ、うちの厩舎にいる他の馬と同じですよ」
「そうですか、あれだけ走るので特別な調教をしたのかと思いまして」
「ああ、そういう意味ですか、我々のような地方競馬は施設も器具も中央に比べると劣っています。そういった部分では勝てないんですけど、馬にかける時間は長いと思いますよ。個々の馬に合わせてじっくりと調教しています」
「そうなんですか」
「はい、アムロもそうですが、他にも故障している馬を預けてもらうことも多いんです。中央競馬で活躍できなくて、地方に転厩してくる馬もいます。そういった馬には故障持ちもいて、なんとか走らせないと仕事にならない。個別に色々、対応します」
「なるほど、そういう苦労もあるんですね。アムロはそうやって走るようになった」
「もちろん、アムロは元々の能力が桁違いです。私もここまでの馬を見たことが無いです。こういったらおかしいかもしれませんが、中央にもここまでの馬はいないかもしれません」
「それはすごい」
「ええ」
「あと、藤枝さんが言っていたのは、馬はレースで走りたくないっておっしゃってました。そうなんですね」
「そうですよ。みんな走るのはいいんですが、レースはしたくないでしょう、苦しいですからね。その上、ムチでたたかれ、手綱をしごかれ大変です」
「でもアムロはそうじゃないんでしょう、歩美」
「そうだよ。アムロはレースを嫌がってないよ」
「祐介君のためなんだよね」
「そう、祐ちゃんのために走ってるんだ。だから、苦しいかもしれないけど、嫌がってはいないよ」
「すごい馬だね」村井親子が二人ともうなづく。御子柴が話を変える。
「ところでアムロの来年の計画はどうなるんでしょう?今までも話がなかったので気になってるんですが」この質問で村井と歩美が顔を見合わせる。
「ああ、御子柴さん、これはまだ話してないんですが、非公開情報としてください」
「え、はい、わかりました」
「アムロは有馬記念で引退します」
「え、どうしてですか?屈腱炎も治ってこれからじゃないですか」
「理由については聞かないで下さい。とにかく今年いっぱい走らせて引退させます」
「オーナーは了解しているんですか?」
「いえ、オーナーは知りません」
村井は何を言っているんだろう、突然の話に御子柴は面食らっている。
「すいません。その話では納得できません。理由を教えてください」
村井は返答に困る。しまった。つい調子に乗って御子柴に話をしてしまったといった顔だ。
「とーちゃん、ちとせには教えたら」
村井は黙る。しばらくそのまま沈黙が続く。苦し紛れに村井が話す。
「やはり、アムロの脚元が心配なんです。これ以上は走らせない方が良いと思っています」
「でも、福原碧先生も屈腱炎の心配はいらないって話でしたよね」
村井が再び黙る。歩美も不安げな顔をしている。ついに村井が観念したように話し出す。
「わかりました。御子柴さんも有馬記念後の祝勝会には参加されますよね」
「ええ、阿部オーナーからお誘いがありました」
「実はその後にオーナーと二人で2次会というかご苦労さん会をやります。阿部オーナーにはその時にアムロの引退の話をするつもりでした。御子柴さんも是非、そちらに出てください。私からオーナーには話をしておきます。そこで話をします」
「祝勝会の後ですね。わかりました。そこまで待ちます」
何か村井は覚悟を決めたようだった。
その後、御子柴も手伝って3人で夕餉の片づけを始める。歩美は家族がそろったような感じで喜んでいた。
その夜、御子柴は歩美の部屋で隣同士の布団に入っている。
御子柴が歩美に話をする。
「藤枝調教師の話だと馬はレースで走ることを嫌がってるんだよね」
「そうだよ。うちにいる馬もほとんどが嫌がってる」
「苦しい思いをして走るんだから、嫌なんだろうね。でもアムロのレースでの走りを見ているとそんな風には思えないんだな、アムロって走ることが楽しそうだよね」
「うん、アムロは特別なんだ。祐ちゃんとの約束もあるけど、走ることが楽しいんだって」
「やっぱり、そんな気がした。アムロは本当に特別なんだ」
「アムロは走るために生まれてきたような馬なの、だから走らないとアムロが生きてる意味がない」
「そうか、わかるな。アムロは走るために生まれてきたか…」
歩美が戸惑いながら御子柴の顔色をうかがっている。
「ちとせ?」
「何?」
「ちとせの布団に入っても良い?」
「こっちに来る?いいよ」
歩美がちとせの布団に入って来る。歩美がちとせに抱きついてくる。ちとせは歩美をそのまま抱きしめる。この娘は母親の愛情に飢えているんだな、今日、私は母親代わりか。
隣の部屋で村井は眠れない。御子柴がいることもあるが、御子柴にアムロの引退の話をしないといけない。出来れば、関係者だけの秘密にしたかった。この話は墓場まで持って行くべき話だ。思わず引退の話をしてしまったが、そういったことを含めて、めぐりあわせ、運命、そういったことなのかもしれない。
9
翌朝、御子柴は階下の物音で目覚めた。一応、携帯でめざましをかけていたが、その前に起きた。村井が朝の調教準備をしている。御子柴が階段を下りてきた。村井から声を掛ける。
「おはようございます」
「はい、おはようございます。歩美はまだ寝てますよ」
「あいつは調教には不参加なんですよ。学校があるので授業中に居眠りされると困ります。ただ、今日は起きてくるかなとも思ったんですが」
「朝の調教は村井さんと御手洗さんですか?」
「ええ、あとは近藤です。三人でやってます。御手洗達はもう馬房にいると思いますよ。行きますか?」
「はい、行きます」
外はまだ、暗い。吐く息も白く凍るような早朝だ。毎日、こんな時間から調教をやっているのか。馬房には御手洗がいて、馬を引いている。
「おはようございます」挨拶をかわす。
「御子柴さん、調教は5頭やるんですが、2頭づつ、順番に競馬場まで連れて行きます。アムロは最後にやります」
「そうですか」
村井と御手洗が2頭を連れていく。あまり車が通ることは少ないが公道を通過するのでそれなりに注意が必要のようだ。車との接触事故もゼロではない、また、競走馬が逃げ出すようなこともまれに起こる。細心の注意が必要だ。
競馬場にはすでに福原達もいた。碧が話す。
「おはようございます。御子柴さんも来られたのですね」
「ええ、実は昨日、村井厩舎の方に泊まらせていただきました」
「そうですか。朝早いですもんね」
競馬場は夜間用の照明で明るくなっていた。ほかの厩舎の馬たちも調教していた。馬の吐く息が白く煙る。村井厩舎の馬たちも順番に調教を始める。一頭30分ぐらいのローテーションで調教を続けていく。村井厩舎4頭の調教が終わり、いよいよ最後にアムロの調教が始まる。
村井がアムロを連れてくる。その前の4頭とは明らかにオーラが違う。王者の風格といったものが身についているようだ。村井の隣に歩美が付いてきた。
「ちとせ、おはよう」眠そうに眼をこすりながら歩いてくる。
「歩美、大丈夫なの、学校あるんでしょ?」
「うん、でも今日は見ておきたいんだ」
御手洗がアムロに騎乗しようとする。村井が声をかける。
「武、まずキャンターをやって、こなれて来たところで15ー15を1周やってから、もう1周を目一杯走らせてくれ」
「レースを意識して走らせるんですよね」
「そうだ。単走だからどこまで走るか分からないが、目一杯追ってくれ」
「わかりました」
「アムロがんばれ!最後は目一杯走るんだからね」歩美が声をかける。
アムロが馬場に入る。他の調教師もアムロの調教を見守っている。調教師連中も今日、アムロが目一杯の追切をかけることを聞いているようだ。競馬場全体に張り詰めたような空気が流れる。福原朗、碧も馬場のアムロを見つめる。
アムロが走り出す。やはり他の馬とは走りが違う。村井がストップウォッチで計測している。一周1200mのダートコースをゆっくりと単走していく。まずは慣らしでキャンターである。20分ぐらいキャンターをこなす。アムロの走りを初めて見た朗氏がうなる。
「こいつはすごいな。こんな馬は見たことない」
朗氏は唖然としている。今までも過去の名馬を何頭も見てきたはずの装蹄師がアムロに驚嘆している。
そしていよいよ15―15に入る。アムロの身体が躍動する。黒い馬体はまるでビロード細工のようだ。ビロードの下に鋼の筋肉が脈打っている。
朗氏は完全に言葉を失う。心なしか青ざめてもいる。
そして、いよいよ目一杯の追切に入る。競馬場のゴール板をスタートに見立てて御手洗の合図で走り出す。アムロはまるで機械の様にうなりをあげる。風を切る音がする。足取りは力強く、それでいてしなやかに走る。朗氏が走りを凝視する。碧はビデオ撮影をしながら、一方では双眼鏡で観察している。それに対し、朗氏はただ、肉眼で凝視している。さらに音も注意深く聞いているようだ。全身を使ってすべての要素を吸収しようとしているかのようだ。
御子柴もアムロの本気の走りに感動すら覚える。馬はここまで優雅に気高く走れるのだろうか、さしてきれいでもないとちぎ競馬場に天をかけるペガサスがいる。いつもながらアムロの走りには感動させられる。
最終コーナーを回ってアムロが走って来る。そしてゴール板を過ぎる。
アムロの調教を見学していた調教師たちから驚きの声が上がる。村井がストップウォッチを止めてタイムを確認する。そして首を振る。
「どうしました?」御子柴が聞く。
ストップウォッチのタイムを見せる。1分6秒、芝でも出せないタイムだ。ありえない。
朗氏が碧に話しかける。
「碧、こいつは規格外だな、信じられない。たしかにここまでの走りだと落鉄しないという保証はできないな。蹄鉄を見せてくれるか?」
碧がカバンから蹄鉄を出す。オーダーメイドのアルミ製蹄鉄だ。朗氏はそれを手に取ってアムロの脚部と見比べる。
「うん、ああ、これはこれでいいのかもしれないな。接着するんだよな」
「そうだよ。接着剤の分が装蹄するとさらに厚くなるよ」
朗氏はしばらく熟思する。それから10分もそのままの姿勢で考えた末に話出す。
「碧、これはあつらえ品だよな」
「そう、アムロのオーナーが製作したの」
「じゃあ、作ってもらおうかな」
「え、新しい蹄鉄?」
「ああ、接着と釘を併用しよう」朗氏が驚きのアイデアを出してきた。
「え、釘を使うの?」
「そうだ。ただ、ヤツの蹄は薄いから、釘も専用のものにするしかない。昔は俺が自分で加工したもんだが、蹄に合わせた細く小さい釘を抜けにくく加工するんだ。蹄が薄い馬には効果がある。それで接着の強度不足を補う。碧の話だと接着することで衝撃を緩和しているんだろ?」
「そうなの、接着剤にクッションの役割も持たせている」
「だから、釘は最後の抜け止めだ」
「うん、わかった。じいちゃん、釘をどう加工するのかを教えてくれたら図面を書くよ」
「ああ、釘についてはじいちゃんが説明する」さすがは伝説の装蹄師だ。知識の奥行きが違う。
福原朗氏指定の釘は細く短いものだが、釘の周囲にくさび状に切れ込みを入れており、抜け止めの効果を狙っていた。過去には同様の釘を自分で加工したそうだ。碧が計算したところによると、それと接着装蹄を併用することで計算上の強度は安全係数を考慮しても、落鉄の恐れはなくなった。匠の知恵と現代科学のハイブリッド蹄鉄である。
そして、阿部工業に再び加工を依頼する。阿部も技術屋なのでこういった試作品はワクワクする。大学の研究費から試作費用も出るので会社の利益に貢献も出来る。今回は最短納期で熱処理を含めて1週間後には専用蹄鉄と専用釘が完成した。
村井厩舎にみんなが集まり、碧の装蹄作業を見守っている。
阿部と一緒に阿部工業に入社した早川女史も参加している。彼女はこういった新しいものにとんでもなく興味をもっている。阿部も蹄鉄の仕上がりが気になる。
歩美が早川に話しかける。
「今日も真っ赤な自転車なの?」
「今日は社長と一緒だから、会社の車だよ。だって私は制服でしょ」
確かに今日は前の体操服ではない。
「そうか、歩美も自転車が欲しくなったよ」
「そう、今度、一緒に買いに行こうか?」
「お年玉を溜めたら買えるかな」
「どうかな、あ、そうだ。有馬記念を勝ったら賞金が入るでしょ、お父さんにお願いしてみたら」さすが早川だ。早速、調教師の取り分も計算したようだ。
「なるほど、その手があったな」歩美がほくそ笑む、早川はろくなことを教えない。
接着剤の準備が完了し、碧の装蹄作業が始まった。
アムロの脚を一本ずつ折り曲げて、馬に対し後ろ向きになった碧が彼女の股の間、両足の真ん中に脚を挟み込んで装蹄の準備をする。アムロはじっとしている。まずは古い蹄鉄を剥離剤で剥がす。次に刀の様な治具で蹄を蹄鉄に合わせて削る。これを削蹄作業と言う。この削蹄による蹄の形状が重要で、蹄鉄の形を考慮した削り方が必要になる。
アムロの蹄鉄はミリ単位で指定している。碧はその蹄鉄に合わせて、削蹄もミリ単位の精度で行っている。そして、接着剤のエクイロックスを使って蹄鉄を接着し、今回作った併用釘を打ち込んでいく。今回の蹄鉄にはそれ用の穴が開いている。この作業を素早く行っていく。時間をかけると馬が疲れてしまう。碧は一流の装蹄師と変わらない速さでこの作業をおこなっていた。
朗氏も碧の仕事ぶりを嬉しそうに見ている。あたかも自分の後継者はこの娘だと言わんばかりである。あっという間に4脚すべての装蹄が完了した。接着硬化時間を待ってアムロを馬場に連れていく。そして御手洗が騎乗してキャンターをおこなった。結果としてアムロは問題なく、走り続けることができた。
馬場から戻って来た御手洗が話す。
「今までと変わりないです。大丈夫ですよ」福原碧に安どの表情がでる。朗も碧に話す。
「碧、成功だな。今までと変わらず走りがスムーズだ」
「じいちゃんから見て、そう思う?」
「ああ、大丈夫だ」
そして、その後もその蹄鉄を使用して、調教を続けたが走りや落鉄などの問題ないことが確認された。これですべての準備が整った。
10
歩美が学校から帰ると、馬房に村井と早川がいた。そういえば厩舎の前に彼女の自転車があった。今日の早川は自転車で来たのでトレーニングウェアだ。早川は熱心にアムロの蹄鉄やら馬具を見ながら、村井に質問している。歩美がランドセルを背負ったまま、近くに寄る。
「こんにちは」歩美が挨拶する。
「はい、こんにちは」早川はノートに熱心に書き込みをしている。
「今度は何しているの?」村井が歩美に話をする。
「蹄鉄以外の馬具にも興味があるんだって。今は鐙(あぶみ:騎手が脚を載せる道具)を見てるんだ」
「ヘー、そうなんだ」
「この前、競馬ビジネスの話を聞いたでしょ、たしかに馬を持つっていう馬主ビジネスも存在してるんだけど。とんでもなく資金が必要なのがわかったのよね。馬の値段があんなに高いとは思わなかったの、それでうちの会社がやれるのは馬具かなって思って調べてる。蹄鉄はいい値段で売れたので他の馬具も作れるかなと思って」
「とーちゃん、どうかな?」
「そうだね。狙いは良いと思うよ。意外と馬具は高いんだよ。民生品じゃないから、そこそこオーダーメイドに近いだろ、それと騎手によっては馬具にこだわる人も多いからね」
「とちぎ競馬はお金がないから厳しいけど、それこそ、中央競馬に売り込めばいいかもしれない。あそこはお金持ちだから」
「そうですか、やっぱり中央競馬ですか」
「そうです。中央競馬は国の管轄で農林水産省の外郭団体であるJRAがやってるんです。そこは全国規模で利益もとんでもなく上がっています。反面、地方は県が管理運営していて、赤字続きなんです。とちぎはその中でも厳しい方です」
「そうですか、でも蹄鉄は高く買ってもらいましたよ」
「ああ、あれは福原碧先生の研究費で作ったんですよ」
「なるほど、それで宇都宮大学に請求したのか?」
「えーと、早川さんは何をしてる人なの?」歩美が素朴な質問をする。
「私は阿部工業で経理をしているの、お金の計算ね。まだ、入ったばっかりだけど、阿部工業を一流企業にしたいんだ」
「すごいな。頭いいんだね」
「どうかな、色々考えていくのが好きなのよ」
「算数は得意なんだよね」
「うん、大好きだよ。経済学部にいたからそういった数値計算は得意だな」
「やっぱり、頭がいいんだ。みどりにも算数は必要だって言われたんだ」
「宇都宮大学の先生だね。そうだな、算数もそうだけど、国語だって社会だって必要だよ。そういった色々なことをわかってないとお金儲けなんてできないでしょ」
「お金儲けが好きなの?」歩美がびっくりして聞く、早川は顔を輝かせて語る。
「大好きだよ。だってお金がないと何もできないでしょ、食べ物も美味しいものは高いだろうし、好きな洋服だって買えないもの。そうだ、歩美ちゃんだって自転車欲しいでしょ、そうだ、その話どうなった?」
「その話か、有馬記念で調教師も賞金がはいるはずなんだけど、とーちゃんに条件を出されたんだ」村井が歩美の話を後ろで聞いている。
「どんな条件?」
「3学期の成績が上がったら買ってくれるって」
「どのくらい上がればいいの?」
「ああ、そうだ、聞いてなかった。とーちゃんどのくらい上がればいいの?」
「そうだな、全体的に一つずつ上がればいいかな」
「簡単じゃないの?今の成績はどのくらいなの?」
「大体、真ん中ぐらいかな。2とか3とかついてるな。体育は5だよ」
「じゃあ、ちょっと勉強すればいいじゃないの。がんばれば?」
「それが、難しいんだな」村井が話に加わる。
「早川さんの話を聞いてなかったのか?これからは騎手になるにしても勉強が必要なの。今のままじゃ騎手は難しいぞ」歩美が悩んでいる。
「歩美ちゃん勉強だったら少しは教えてあげられるよ」
「うん、そう言ってくれる人は多いんだけど、本人にその気がないと」歩美は他人事にする。
「お前は他人事にするな。歩美がその気を起こすんだよ。まったく、少しはアムロを見習わないと」早川が笑いながら、
「歩美ちゃんは騎手志望なんでしょ、そのためには色々、勉強しないとだめだよ。算数も必要だけど、これからは英語も覚えたほうがいい。歩美ちゃんが大人になったら競馬で海外に行くことが増えると思うよ」
「え、だって、歩美は騎手になるんだよ。海外は関係ないよ」
「いや、これからは競馬も海外に行くことが増えると思うし、強い馬がいれば海外に挑戦するでしょ、海外から馬を買うことも多いみたいだよ。海外を視野に入れた動きはこれからどんどん増える。騎手だって英語が出来ないと困るはずだよ」
「そうか、英語も勉強しないとだめなのか」歩美は勉強することが増えるのは困るといった顔つきだ。
「そうだよ。でも日本の教育は遅れてるよね。英語は中学からでしょ、語学なんかは小学生の頭が柔らかい時期にやりだしたほうがいいに決まってるよ」
「へー、そうなんだ。自転車は欲しいから3学期は頑張ってみるか」
「歩美がその気になったか」村井は妙にうれしそうだ。早川が話す。
「じゃあ、村井さん一通りわかりましたので、今日は会社に戻ります。歩美ちゃんも勉強教えてほしかったらいつでも呼んでね」
「わかった。そうする」
早川が真っ赤な自転車で戻って行く。その姿を見送りながら、歩美が村井に話をする。
「とーちゃん、なんか最近、若い女が厩舎の周りに増えてきたな」
「そういえば、そうだな」
「とーちゃんも再婚するか?」村井が慌てて話す。
「はあ、なんだそりゃ、おれなんかのところに嫁になんか来ないよ」
「え、ちとせもダメか」
「無理無理、御子柴さんはインテリだぞ、どっかのいい大学出のエリートさんだ。とーちゃんなんか相手にするか」
「そうか、とーちゃんもつらいところだな」
娘に同情されるとは何か情けないし、余計に落ち込む。
11
12月の最初の金曜日、阿部工業の2階事務所。いよいよボーナスの支給日である。
従業員一同が2階に集まっている。プレハブの2階が抜けるのではないかとも思う。現在の従業員は正社員が12名、パートが10名まで増えている。やはり、久々のボーナス支給にみんなの顔が綻ろんでいる。阿部が話す。
「従業員の皆様、それではボーナスを支給させてもらいます。今まで長い間、ボーナスも出せずに申し訳なかった。ローンも組めないような会社で申し訳ない」
一同、本当にそうなのだが、笑顔である。
「今までも利益がでればボーナスで大きく還元したかったんだが、うまくいかずに申し訳なかった。今後も利益が出れば必ず、ボーナスで還元させてもらいます。それと来年には昇給も考えます。とにかくみんなが頑張ってくれた結果だ。本当にありがとう」
従業員から図らずも拍手が起こった。その光景を見て阿部は泣きそうだ。
「それでは配らせてもらう、まずは岸田さん」
岸田に明細の入った封筒を渡す。岸田も感無量のようだ。思わず二人して泣きそうになる。今まで一番、苦労を掛けたのは岸田だ。彼がいなければとうにこの会社を諦めていた。ここまでこれたのも彼の功績が大きい。岸田の目も潤んでいる。そして順番に従業員へボーナスを支給する。従業員は査定をしたが、パートには金一封と言う形で一律の金額を提供した。最後に早川にも渡す。
「早川さん、ほんとうにありがとう、少ないけど」
早川は上期ぎりぎりの入社なので支給額は少ないが、出さずにはいられないと、こちらも寸志と言う金額だ。全員に配布が終わった。
「それと、私事で申し訳ないが、有馬記念に持ち馬アムロが出走する。もし、勝つようなことがあればその分は新年会でみんなに還元したいと思う」
「社長、祐介君に全額で良いですよ」岸田が言う。従業員の気持ちも同じで皆が頷いている。
「ありがとう、大丈夫だよ。工場で乾きもので一杯だから」
従業員が笑う。阿部工業に笑顔が戻って来た。阿部はもう二度と同じ轍は踏まないと心に誓う。