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ヒーロー 競走馬と見た夢  作者: 春原 恵志
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第五章 二〇〇三年八月~九月

第五章 二〇〇三年八月~九月

今日も福原碧先生が来ている。なにやらアムロの心臓の音を聞いているようだ。聴診器を当てている。歩美は馬房にいる先生に近づいて話をする。

「伝説の先生、アムロはどうですか?」

「エコーで見たけど、順調に治ってる。これならそろそろ強い調教もできるね」

歩美がうれしそうにアムロに話しかける。「そうか、アムロもっと走れるよ。よかったね」

歩美はアムロの顔を撫でてやる。アムロもうれしそうだ。

「歩美、アムロは何て言ってる?」

「やっぱり、ちょっと不安もあるみたいだよ。また痛くならないかって思ってる」

「そうだよね、やっぱり不安だよね。でも大丈夫だよ、もう痛くならない」

「アムロ、痛くならないってさ。伝説の先生が言ってる」

そこまで聞いて福原が真剣な顔で歩美に話す。

「歩美、伝説の先生はおかしいって、まだ、現役なんだから、伝説というのはもうこの世にいなくなってから使う言葉だよ」

「え、そうなの?だって伝説の装蹄師の孫で先生だから、伝説の先生だと思ってた」

「みどりでいいよ」

「伝説のみどり?」

「伝説はいらないみどり」福原は笑いながら答える。

「わかった。みどりだね」福原は聴診器をしまいながら、歩美に話をする。

「歩美はキャンターはできるけど、本当はもっと乗れるのかな?」

「うん、実は乗ってるよ。とーちゃんには秘密だけど、追い切りも出来る、全然平気」

「そうか、でも気を付けないと、馬を甘く見ないこと、突然、思っても見ない動きをするのが動物だからね。えーと歩美は将来は騎手になるんだよね」

「そうだよ。勉強しなくていいから」

「何だ、そんな理由か」

「それもあるけど、やっぱり馬が好きなんだ」

「私もそうだよ。でも私は馬が好きだから勉強したんだよ。足を痛がったり、故障して走れなくなったりする馬を見るのは嫌だもの。そのために色々な知識が必要でしょ、だから勉強したんだ」

歩美はなんとなく、福原の言うことは理解できる。ただ、勉強をするのが嫌いだ。

「みどりは伝説の装蹄師に修行したんでしょ」

「そうだね。子供のころからじいちゃんに色々、教えてもらったよ。そのおかげで装蹄もできるようになった」

「とーちゃんが言ってたけど、獣医さんと装蹄師の両方が出来ることはいいことなんだってね。普通は意見が合わなくてよくケンカするらしいよ」

「そういうこともあるみたいだね。装蹄師は職人さんが多くて、経験や感覚でことを進めたがるし、逆に獣医は医者だから理論的に話を進めたがる」

「みどりはどっちなの?」

「やっぱり理論的、科学的に物事を進めるよ。これを見て」

そういって福原は自分のノートパソコンの画面を見せる。何か難しい計算式と図面がある。

「なんなの、これ?」

「これはアムロの走行フォームや体重、足が着地する衝撃とかをシュミレーションしたものなんだ。これで最適な装蹄方法を検討してる」

「そうなんだ。すごいね。算数好きなの?」

「好きだよ。ちゃんと答えが出るからね。歩美は嫌いなの?」

「どうも、難しくて九九は覚えたけど、どんどん難しくなるんだよ。とーちゃんも分からないって言うし、武も知らなくて生きていけるって言うから」

「それは困ったね。少なくとも算数は理解しないと将来、困るよ。騎手になっても算数できないとあとで困ることになるぞ」

「そうか、みどりの言うことの方がそれっぽいな」

「わからないことがあったら何でも聞いていいよ」

「うん、ありがとう」

「ところで、歩美はいつから夏休みだったの?」

「7月の19日からだよ」

「そうか、いいね。でも宿題もあるでしょ。早めにやらないとね」

「そうなんだよね。夏休みなのに宿題があるのはおかしいと思うんだけどな」

「まあ、歩美の言うこともわからないでもないけど、長い間、勉強しないとだれちゃうからそうなってるはずだよ」

「学校の先生もそんなこと言ってたよ」歩美は勉強せずに休む気満々である。


福原碧の許可が下りたので御手洗はアムロの調教を15―15以下のレベルでやりだした。福原はその光景の動画を撮ったり、時間を計測したりと科学的な分析を繰り返していた。そして、乗り運動後は患部の状況確認とクーリングダウンをしっかりとおこなっていた。ごんじいにもアフターケアについて詳しく説明してやらせるようにしていた。もちろん、村井と歩美がごんじいをフォローできるように一緒に聞かせていた。

福原は歩美がアムロと会話ができることに違和感を持っていなかった。科学者としてどうかと思うが、まったく疑問に思っていないようだった。素直に歩美にアムロの状況を確認させていた。

夏休み中、歩美は厩舎でアムロや他の馬の世話にまい進する。チームアムロの中心は福原碧先生と自分だと歩美は信じきっている。夏休みも終わり頃になって、いよいよアムロに強めの追切ができるようになった。その頃には以前のアムロと同等かそれ以上の状態にまで回復していた。そして予定通りとちぎ競馬でおこなわれる9月1日のスプリンターズカップにアムロが出場することとなった。


とちぎ競馬事務局の橋本はアムロの復帰戦を、とちぎ競馬の命運をかけて臨むことにした。今までも苦情の多かった競馬場のトイレの修繕と清掃を職員総出でおこなった。

とにかく、地方競馬で苦情が多いのはこういった施設の不具合だった。女性や子供がトイレや施設の汚さに閉口しているという話はよく聞いた。家族がそろって観戦できるような環境作りは必須だと思っていた。また、今回は職員だけでなく厩舎関係者も協力してくれて、競馬場の清掃活動もおこなってくれた。

9月初旬開催のメインイベントはスプリンターズカップだが、そこまでの連日五日間の開催はアムロ復活記念ともいうべき一大イベントとした。まずは手作りだがアムロが映っている開催案内ポスターを作製し、宇都宮市内に配布、掲示してもらった。地元のラジオ局でも宣伝を打ち、観客動員増加を目指した。極め付きは9月1日当日来場の子供先着1000名までにアムロのシールを渡すこともやった。

その効果もあってか、地元の英雄、アムロが復帰戦に出るというので、とちぎ競馬は空前の盛り上がりを見せる。9月1日当日は月曜日にもかかわらず、なんと1万2千人もの入場者数を記録した。まるでお祭りの様な賑わいで、いつもは閑古鳥が鳴いている売店なども長蛇の列が出来ていた。

競馬場の事務室で御子柴が事務局の橋本と話をしている。橋本が先ほどから満面の笑みで興奮気味に話す。

「御子柴さん、やりましたよ。とちぎ競馬の最高入場者数を記録しました」

「確かに凄い人ですね。これだと売上も期待できますね」

「はい、期待できます。トイレ掃除をやった甲斐もありました」

「橋本さんがやられたんですか?」

「僕もそうですが、厩舎関係者も競馬場内の修繕、清掃に参加してもらいました」

「それはすごい」

「はい、なんか報われた気分です」

橋本は自分たちがおこなった活動が報われた感動でいっぱいだ。メインレースまでは時間もあり、これからもっと入場者数は増えるかもしれない。


村井厩舎ではアムロの馬房前で関係者が打ち合わせしている。福原碧先生もいる。歩美がまるで調教師のように御手洗武騎手に指示している。

「武、けっして無理させないこと。1400mだってレースはレースだから、アムロは走りたがる。折り合いをつけるんだぞ」

「大丈夫だって、アムロもわかってるよ」その返事に歩美がへそを曲げる。口をとがらせて、

「アムロはわかってても武がわかってないとだめなんだよ。武は算数も出来ないんだから」

「なんの話だよ」

「まあまあ、武、歩美の言うことにも一理ある。15―15のつもりでいけばいいさ。勝つことよりもアムロが走れることをみんなに示すんだ」村井がフォローする。

「わかりました」渋々、御手洗が納得する。

「福原先生からは何かありますか?」村井が確認する。

「いえ、大丈夫です。歩美が全部話してくれましたから」

福原はアムロの治療がうまくいったこともあり、笑みが絶えない。そして歩美も自慢げだ。アムロもレースが近いのがわかっている。

3時近くになっていよいよパドックに向かう。ごんじいがアムロを引く。

とちぎ競馬は外厩制で競馬場の外に厩舎がある。出走する馬は外の厩舎から街の中を抜けて競馬場まで向かうことになる。ちょうど競馬場に行こうとしていた観客がアムロを見かける。

「アムロ!がんばれよ」

アムロは大人気だ。今回の開催でアムロは宣伝用のポスターにもなっている。青毛で額に渦を巻いた乱星のマークが目印だ。そういった部分でも見栄えのいい馬だ。すでにパドックにも多くの観客がいた。歩美と村井が驚く。

「すごい人だね。とちぎ競馬場にこんなに人が入れるんだ」

とちぎ競馬のパドックは小さい、おそらく東京競馬場の半分もないかもしれない。その分、観客は近くで馬が見られる。電光掲示板にアムロのオッズが出ている。単勝で1.2倍だ。故障明けでもあり、その分が差し引かれているだろうが、圧倒的な一番人気である。

歩美と村井がパドックを周回するアムロを脇から見ている。そこに御子柴が来る。

「村井さん、こんにちは」

「ちとせ!」歩美が御子柴に寄りそう。

「アムロの調子はどうなの?」御子柴が歩美に話しかける。

「大丈夫、走りたくてうずうずしてるよ。新しい靴を試したいみたい」

「ああ、蹄鉄を変えたんだよね」

「そう、みどりが持って来たんだ」

みどりか、歩美はずいぶん仲良しになったんだな。村井が話す。

「蹄鉄もそうなんですが、蹄鉄を接着してるんですよ」

「接着?そうなんですか、今はそんなことができるんですか」

「接着にはエクイロックスって言う充填剤を使ってるそうです」

「へー、すごいな」御子柴がそれをメモする。あとで確認しないと。

「そうなんだよ。みどりはなんかすごい計算をしてるんだよ。ところで、ちとせは算数は得意なの?」

「え、算数?どうかな、普通かな。途中から付いて行けなくなって文系志望になったけど」

「ふーん、そうなんだ。でもね、算数ぐらいはわからないとまずいよ」

歩美が福原から聞いた受け売りの情報を話す。御子柴が仕方なく答える。

「わかりました。じゃあ、私も勉強しなおさないとね」

「うん、歩美もやる気が出たよ。騎手になるのもアムロのためにも算数は必要だからね」

その福原碧も近くでアムロの歩様を確認している。御子柴が福原に近寄り、話をする。

「先生、アムロはどうです」

「そうですね。大丈夫だと思いますよ。足元は問題ないはずです」

「そうですか」

「ただ、アムロ自身のポテンシャルはもっと高いような気がします。今の状態で50%ぐらいなのかもしれません。詳しい計算は出来ていませんが、推定ではそうなります」

「なるほど」さすが大学の先生だ。いうことが科学的だ。

「あの、先生、今まで詳しい話を聞いてこなかったんですが、アムロの蹄鉄や接着装蹄はどういった効果を期待したものなのでしょうか?」

「ああ、そうですね。細かい話をすると2時間ぐらいかかるんですけど、簡単に説明すると」なるほど、さすが大学の先生だけあるな。本来は授業で話す内容ぐらいあるということか。

「馬は蹄で走ることが理想なんですね。ただ、それだと蹄がすり減ったり、ケガをしたりします。それで蹄鉄が考え出されたわけです」

「ああ、すいません、録音させてください」御子柴が録音機材をオンにする。

「蹄鉄は速度を出すことも目的の一つです。それである程度、硬くしたい。ただ、あまり硬すぎると馬の蹄に影響が出ます。アムロの場合、蹄が弱く薄いこともあって接着装蹄とアルミ材の蹄鉄にしています」

「なるほど」

「そしてここからが重要なんですが、アムロの走り方から蹄が地面に接触する際に理想的な衝撃にしたかったんです。つまり、全部の蹄鉄が均等に地面に接するような蹄鉄にしてあります」

「つまりはもっとも衝撃が分散できるといったことですかね」

「そうです。それで、削蹄と蹄鉄の形状を工夫しています。計算上は過去に使っていた蹄鉄と比較して50%以下の負荷にはなっているはずです」

「そうなんですか、それは言い換えれば今までは倍の負担が脚にかかっていたことになりますね」

「そうです。アムロの瞬発力は桁違いなんです。私が知る限り最強の競走馬です。今回、それを活かせる蹄鉄にはなっているはずです。ただ、気になるのはアムロの潜在能力がもっと大きかった場合です。まだ、底を見せていない気がしています」

「なるほど、よくわかりました。私もアムロの限界を見てみたいです。ありがとうございます」

さすが、大学の先生でサラブレッドの第一人者だ。わかりやすい、今度のヒーロー誌に記事を追加できる。


騎手騎乗の合図がかかって、御手洗武が騎乗する。騎乗と同時にアムロにスイッチが入った。より一層、気合乗りが見られる。やはり、騎手が乗ったアムロは一段と見栄えがよくなる。

そして馬場入りが始まった。

とちぎ競馬のスタンドと場内にここまでの人が入れるのかといった人数である。スタンドは満員だし、立ち見の観客には立錐の余地がない。パドックでの歓声も大きかったが、馬場入りの歓声はさらに大きかった。地元のヒーローに期待する声とアムロを見に来た競馬好きが出す大歓声だ。

「歩美、凄い歓声だね」

「うん、みんなアムロを見に来たんだね」

御子柴もアムロの単勝馬券を買ってみた。記念として持っておきたかったからだ。おそらく同じような思いのファンがたくさん来ているはずだ。あとで売り上げも確認しないとならない。今回、御子柴はカメラマン兼任のために馬場近くでカメラを構える。場内の様子もカメラに収める。

村井たちが関係者席に行く。関係者席は競馬場の脇にある指定席の上側にあるオーナーや調教師らが観戦する席になる。ここだと競馬場を俯瞰して見ることが出来る。阿部オーナーは相変わらず多忙なため、レース直前になって来場するそうだ。祐介の病院には奥さんが付き添っている。通常はレースのラジオ放送はおこなわれておらず、競馬専門チャンネルで放送されるのみだが、この日のレースは地元のラジオ局が臨時放送をおこなっていた。それほど、今回のレースは県民の関心事であった。

祐介と玲子は病室でラジオを聞いていた。祐介の病状は一進一退で良化はしていない。やはり早急に手術が必要だ。ラジオ放送がアムロの脚の具合を心配する内容を放送している。祐介は心配そうな顔をしている。

「お母さん、アムロ大丈夫かな」

「大丈夫よ。チームアムロがついてるんだから」

「うん、僕もチームアムロだよね」

「そうよ。祐介はチームアムロのリーダーよ」

「へへ、僕がリーダーなの?僕も競馬場に行きたかったな」

「そうだね。もう少しよくなったら行こうね」

「よくなるのかな・・・」

玲子は言葉に詰まる。ただ、自分が弱気になるわけにはいかない。

「よくなるよ。大丈夫だよ。アムロも祐介もがんばれ」

「うん」

祐介にとってアムロは別次元の存在だ。まさに彼のヒーローだ。玲子はなんとかアムロが復活の走りを見せて祐介に生きる希望を与えてほしいと切に願った。


いよいよレースが近くなる。直前になって関係者席に阿部オーナーが飛び込んできた。ここまで走って来たのか息切れしている。

「すみません、遅れました」

「阿部さんご苦労様です」村井が声を掛ける。

「間に合った。まったく貧乏暇なしです」

レース開始時間は4時15分だ。すでに出走馬がゲート前に集まって輪乗りをしている。

場内のボルテージも上がって来た。アムロはいったいどんなレースを見せてくれるんだろう。以前のように走れるのだろうか、観客の期待が伝わってくる。


いよいよレース開始時間となり、スターターがスタート台に上がり旗を振る。会場が悲鳴に近い歓声に包まれる。ここは本当にとちぎ競馬場なのだろうか、信じられない歓声の大きさである。アムロは大外12番ゲートだ。このレースはとちぎ競馬では最大頭数の12頭が走る。

御手洗武はいつになく緊張していた。

この日も朝からほとんどのレースに騎乗して、馬場状況も把握している。稍重だったがそれほど走りづらくもない状態だった。まず、アムロにとってそう問題のない馬場だ。1周は1200mなので、ほぼ1周で終わるレースだ。まともに走れば十分、勝てるはずだ。

ごんじいのリードでアムロが最後にゲートに入る。大丈夫、アムロは落ち着いている。

そしてスタート。ゲートが開いた。

場内、われんばかりの大歓声だ。御手洗はこの競馬場でこれほどの歓声を浴びたことがない。御手洗の高揚感と比較して、アムロは悠然とスタートする。今までもアムロに関しては出遅れやゲートに突進するようなことはない。ゲート内も落ち着き払っている。常に王者の風格だ。そして、今まではスタートと同時にトップスピードに入るのだが、今日は良い感じで自然な走り出しで漫然と走る。

アムロにしてはまだ、本調子ではないのかもしれない。そう思った。ただ、その感覚と周りの状況が異なる。気が付くと周囲に他の馬が見えない。そして足音も聞こえてこない。

御手洗は1コーナーを回る時に気付いた。他馬ははるか後方にいた。なんとアムロはいつもより遅いペースではなかったのだ。アムロは騎手の感覚をマヒさせるような悠然とした走りをしているだけだった。

しかし早い。場内は騒然となっていた。御手洗の乗っている感覚と観客が見ている光景が違っている。観客側から見るとアムロはあっという間にトップにたつと、そのまま速度を緩めない。それどころか加速しているようである。村井や歩美も言葉が出ない。しかし、アムロは無理して走ってはいない。御手洗とも折り合っている。

しかし、この速度はなんなのだろうか。

半周、600mの通過は34秒だ。すでにほかの馬は後方に追いやられて差が付く一方だ。場内放送が600mの通過タイムを言うと、場内からどよめきが起きた。そして、さらに加速していく。差は開く一方だが、アムロはキャンターでもしているかのようだ。

御手洗もアムロの初めての感触に驚く、まったく操作をしている感覚ではない。ただ、アムロに進む方向を示しているだけであり、急かしたり促したりはしていない。それでいてアムロは淡々と走っていく。

4コーナーに入り、残りは400m。1000mの通過は56秒だった。場内アナウンスが1000mの通過タイムを56秒だと話す。観客が再びどよめく、この馬はいったいどれだけの実力を秘めているのか、そしてそのまま速度を維持して走っていく。見た目には加速しているようにも見える。それぐらい早い。

最終コーナーが来る。後続はまだ、半周も過ぎていない。圧倒的な力の差である。そして最後の直線に入る。アムロは気持ちよさそうに走っている。御手洗の感覚ではほとんど、キャンターに近い走りのままだ。そしてそのままゴール板を過ぎる。まさにそういったレースであった。

掲示板の時計表示に驚く、アナウンサーはほとんど絶叫している。

なんと、1分19秒で駆け抜けてしまった。またもや世界レコードだそうだ。場内アナウンサーも前もってレコードタイムを確認していたようだ。2着馬は一向に来ない。結局10秒も差がついていた。1400mのレースで付く差ではない。場内はどよめきに近い。みんなが顔を見合わせている。自分たちが目撃したものはいったいなんだったのか。そして大歓声があがった。とちぎ競馬では経験したことがない、まさに地割れの様な歓声である。

御手洗は歓声を浴びながら、アムロが問題なく走り切れたことに感動していた。

「アムロ、やっとちゃんと走れたな。よかったな」

御手洗は涙が止まらない。アムロの力を見せることが出来た喜びで震える。

御子柴も写真撮影をしながら涙が止まらない。いままでも崇高なまでのアムロの走りに感動したが、今日の復活の走りは別格だった。目の前を優雅に走るアムロは天馬を思わせた。

「アムロ、無事、復活できたね、貴方は本当に天が与えた唯一の馬なんだね」

村井と歩美、御子柴や阿部オーナーが歓声を上げる。歩美が飛び上がって喜ぶ。

「アムロ、やったね」

そんな中、福原碧は一人静かになにやら記録している。彼女にしてみればこれは当然の結果なのだろうか、村井が呆然としている阿部オーナーに話しかける。

「阿部さんウイナーズサークルに行きましょう」

「ああ、すごい、アムロ・・・」


一方、病室でも祐介と玲子が大喜びでアムロの勝利を喜んでいた。ラジオからでも歓声が届いている。

「アムロ、やったね。すごい」

「祐介、よかったね」

「うん、アムロは走れることをみんなに見せたんだ。ほんとにすごいよ」

「そうだね」

「ああ、僕も見に行きたかったな」

玲子がうなずいている。アムロの活躍で息子が元気を取り戻すことが何よりうれしい。それからも祐介はしばらく興奮気味にアムロの活躍を母親に話していた。


アムロの表彰式が始まる。ウイナーズサークルで阿部オーナー、村井厩舎のスタッフ、当然、歩美も収まる。ついでに福原碧も同席している。御子柴は写真を撮る側だった。一通り写真撮影が終わった後に村井が御子柴に話しかける。

「御子柴さんも一緒に映りましょう、どうぞ」

「ちとせ!一緒に映ろうよ」歩美が全身で手招きする。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

御子柴もチームアムロのメンバーのつもりだ。一緒に映る記念写真はうれしい。チームアムロ、祐介を除いたメンバーがそろった。最終目標までこのまま突っ走る。

その後、競馬場ではマスコミの取材が続いていた。インタビューは村井と御手洗が受ける。

「村井さん、今日の結果はどうですか?」

「はい、これが本来のアムロの力です。今までは色々なことがうまくいってなかっただけで」

「具体的にはどういった点でしょう?」

「今回は蹄鉄やその装蹄方法も見直ししましたし、調教についてもアムロに最適なものを行いました」

「御手洗さん、今日、乗ってみた感じはどうでしたか、レコードタイムなので乗り心地も確認したいんですが?」

「はい、それなんですけど、乗ってる感じはそれほど早いと思わなかったです。確かに普通の馬の走りではないですから、早いんだろうなとは思ったんですが、自分としてはそこまで早いとは感じなかったんです」記者が首をかしげる。「どういうことです?」

「ああ、なんていうのか、楽に走ってる感じだったので、今までとは違って走り方がスムーズだったということもありますが、アムロ自体は無理していないというか、僕もしごいているわけではなかったので、ここまでのタイムが出るとは思わなかったです。」

「それは、まだ余裕があるということですか?」

「そういうことです」

記者から感嘆の声が上がる。御手洗は今までと比較してもアムロが余裕で走っていたと思っていた。足元の不安もなく、アムロは今までは出せなかった地力を出して走ったという感覚だった。

「それぐらい強いってことですね。それでレコードですか、凄い馬だな」

「僕が乗った馬の中では最強です。まあ、これからも現れることはないと思いますけど」

御手洗が笑いながら話す。心から嬉しそうな笑顔だ。

「村井さん、次はどこを走りますか?」

「はい、これからアムロの状態を確認してからになりますが、問題がなければ、中央の毎日王冠に出してみたいです」

「毎日王冠ですか」

「はい、地方馬の枠もあるので出られればということになります」

「やはり、芝のレースに出したいんですか?ダートのほうが適性があるという声も聞きますが」

「そうですね。もう一度、芝で走れるか確かめてみたいんです」

「足元の不安はどうなんですか?」

「それもあります。まだ、レース後の状態を正確に確認してはいないので」

「御手洗騎手は芝も走れると思いますか?」

「そうですね。僕自身、芝のレースの経験が少ないんですけど、アムロの走り方だと問題ないようには思えます」

「今回もそうですがアムロの戦法が逃げ一辺倒ですよね。この辺はどうですか?相手が強くなっても逃げのみなんでしょうか?」御手洗が答える。

「アムロとすれば逃げてるわけではないと思います。掛かり気味に逃げてるわけでもないし、他馬を怖がってるわけでもないです。これは自分のリズムで走ってるだけなんで、ですから逃げにこだわってるわけではありません」

「つまりは相手が弱すぎたと言うことですか?」

「いえいえ、そういうことでは・・・」

ここで今まではいなかった競馬情報誌の記者から質問が出る。御子柴は何度か顔をみたことがある割と競馬界では重鎮ともいえる人物である。

「これだけの馬が中央でデビューできなかったのが不思議なんですが、ある程度、経歴は聞きましたが、何か特別な調教とかはやらなかったんですか?」

「足元の不安もあって特別なことはやっていないんです」村井が答える。

「そうなると素質だけでここまで走りますかね」

村井も返答に困る。記者側の御子柴がフォローする。

「2歳の終わりに北海道で調教をしたんですよね」

「ええ、牧場に戻して再調教をおこないました。そこで馬が見違えるようになったんです」

「育成牧場かなんかに入れたんですかね」

「はい」

「どちらの育成場だったんですか?」

「ああ、それは牧場に任せたんでよくわかりません」

御子柴は違和感を感じた。今までの話とも違うし、小泉牧場でもそんな話はなかった。あとで確認するか、一応メモする。


村井厩舎の一同がアムロとともに自厩舎に戻ってきた。アムロのクールダウンとレース後のケアも終わり、福原はエコーを使って、アムロの状態を確認している。村井が聞く。

「先生、どうですか?」

「異常はないようです」ただ、先ほどから福原ひとりだけ表情がさえない。

「何かあるんですか?」

「はい、アムロは今日初めて本気で走ったと思います。今までとは走りが違っていました。歩美ちゃんそうだよね」歩美に確認する。

「うん、足が痛くなかったんで本気で走ったって言ってる」

「それが私の想定を超えたというか、今までの走りの延長で考えて装蹄していました。今日の走りだと計算上の負荷はもっと大きい可能性が高いです。細かく計算してみないと何とも言えませんが、芝で走った時に今の装蹄でいいのかがわかりません。持たないかもしれません」

「持たないとは?」

「足元がです。芝の方が足にかかる負荷が大きくなります」

「そうなんですか?それは大変だ」

「みどり、何とかできないの?」歩美が心配する。

「少し考えてみる」

アムロはみんなの心配をよそに気持ちよさそうに飼い葉おけに顔を突っ込んでいる。


福原はその後、研究室で再計算をおこない、最適な装蹄方法を検討した。問題はアムロの規格外の走力にあった。今までのサラブレッドを超えている。今回のとちぎ競馬で走ったアムロのレース走法と足元にかかる荷重、さらには馬場からの反発力を東京競馬場の芝に置き換えて、再計算した。その段階で行き詰ってしまった。

要はそれに見合った装蹄方法がないのである。もちろん蹄鉄は馬に合わせて装蹄師が熱を加え、変形させ蹄にあった形にするものである。福原はアメリカ製の特殊なアルミニウム製蹄鉄を2次加工して使用したが、そういった加工だけではどうにもならない。接着剤での装蹄にも無理がある。力を吸収させるためには今の3割増しの厚みとそれに見合う硬さが必要になる。それで頭を抱えていた。

今日も福原は馬房の前でアムロを観察しながら、思いにふけっていた。そこに歩美が来た。

「みどり、まだ、悩んでるの?」

「うん、今の蹄鉄をどうしたらうまく使えるのかって考えてるんだ」

「算数で計算できないのか?」

「計算できるんだけど、その結果だと今の蹄鉄では持たないんだ」

「ふーん、じゃあ、作ればいいんじゃないの?」

「作るって?しかし、そんなものを作れるところが無いんだよ」

「そういうものなのか。難しい問題だね」

「なんとか今の蹄鉄を改良しないと」

接着剤の種類や蹄鉄の2次加工をしながら、福原は検討を続けていた。アムロは調教を続けていたが、脚部の状態は変わらず、屈腱治療の効果はあったことになった。そしてその後も脚元には大きな問題が起きなかった。さすがは伝説の先生なわけだが、毎日王冠に向けて福原の悩みは残っていた。


阿部工業はその後も順調に仕事をこなしていた。栗原医療機器からの受注も増えたこともあるが、栗原以外の他社からも同様の仕事を受けることが出来てきた。いわゆる横のつながりとでもいうことで他の医療機器メーカーからも仕事が来だしたのだ。

阿部と岸田はとんでもなく忙しく動き回っていた。今までのマイナス分が一気にプラスに転じたようだった。徐々にではあるが、従業員も増やすことが出来るようになっていた。

生命保険金の返済については、弁護士の働きもあり、返済計画書を保険会社に出すことで対応できることになり、実際、計画に則って分割での返済を順調におこなっていた。

そんな中、事務所で阿部と岸田が話をしている。

「社長、このままだと、今年度は久しぶりに黒字になりそうですね」

「借金の返済も目途が立ったし、昨年を思えば夢のようだな」

「こういうと変な話になりますが、馬が走り出してから、すべての運気が良くなったような気がします」

「アムロのおかげかな」

「実際、近隣の仕事を依頼してくる会社もアムロの話がきっかけになってるんですよ」

「ああ、そうなんだよ。アムロのオーナー社長ですかって、聞かれてね。そこから商談が広がっていく」阿部が心底うれしそうな笑顔になる。

「僕もそうです。電話での問い合わせも増えました」

「今までの破格の設備投資がようやく実を結んできた。仕事はまだ受けられるし、従業員ももっと増やしていかないとな」ここで岸田が前から考えていたことを話す。

「それで社長、やはり、経理や労務関連の幹部社員が必要ですよ」

阿部工業には過去にもう一人経理畑の幹部がいたが、倒産の危機で退職してしまった。岡部と言う男で阿部の前職の同僚だった人物だ。生活が成り立たないとのことで辞めていった。岡部の退職については阿部も申し訳ないという思いが強かった。

「岸田の知り合いにいないか、そういった仕事が出来そうな人間は?」

「いないですね。職安に出してみたらどうですか?」

「それもあるが、やっぱり身内のほうが気心が知れていいんだよ。小さい会社だから、変に外から来ると人間関係が難しくなったりする。経理だと信用問題もあるからな。使い込みされても困るし、まあ、職安にも募集は出してみるけどね」

「人材派遣会社に依頼するのはどうですか?」

「いや、あれは人は集まるけど、費用面で難しい。派遣会社に成功報酬の形でけっこうな金額が必要になるんだ」

「どのくらいいるんですか?」

「確か給料の3カ月分とかそういった単位だったと思うよ」

「そんなにですか、うーん、だったらいっそのこと岡部さんに戻ってもらったらどうですか?」

阿部は確かにその通りだとは思う。しかし、岡部が戻ってきて、ずっとこの好景気を保証できるものでもない、再び、彼が退職と言った事態も考えられるわけで、そこまで彼を振り回すことは出来ない。

「岸田の言いたいことはわかるが、岡部は新しい職場で頑張ってるところだからな。いまさら、戻ってくれとは言いづらいよ。それに彼も望んでいないさ、職安と僕の方でも知り合いを当たってみるよ。岸田も知人を当たって見てくれ」

「わかりました」

確かに岸田の言う経理部門の増員はもっともな話で、今までは仕事もなく、阿部自ら人事、経理面を管理することが出来たが、今の様にここまで多忙になると社長業なども満足にこなせないほど忙しくなり、休む時間など全くない状態が続いていた。このままだと間違いなく、自分達の身体がおかしくなるだろう。


歩美が祐介の病院にお見舞いに行く。エレベータを3階で降りて病室まで歩く。祐介の病室前の廊下に玲子ママがいた。廊下の窓から外の景色を見ているようだ。

「こんにちは」歩美が声をかける。

振り向いた玲子ママは泣いていた。歩美がびっくりする。

「どうしたの?」

「歩美ちゃん、ごめんなさい、ううん、何でもないの、いらっしゃい」

玲子ママが涙を拭いて病室に戻る。いっしょに歩美も入る。

「祐ちゃん、こんちは」

祐介がうなずくが、何か元気がない。心なしか顔色も良くない。

「どうかしたの?」

「うん、さっき、先生がこの前の検査結果の話をしてくれたんだ。僕の身体のことなんだけど、あんまりよくないらしい。病気が進行しているみたい」

「そうなの・・・」歩美に返す言葉がない。玲子ママが泣いていたのはこれが原因か。歩美はどうしようかと思う。こんな時、自分は何にもできない。歩美も黙ってしまう。

「ねえ、歩美ちゃん、アムロはどんな感じなの?」祐介が話す。

そうだ。こんな時にこそ、祐介の期待はアムロ一色になる。

「ああ、みどりが悩んでるんだよ。アムロに合う蹄鉄がないって」

「え、どういうこと?」

歩美はみどりがアムロの蹄鉄で悩んでいる話をする。

「つまり、アムロ用の専用蹄鉄を作ればいいんだね。それだったらお父さんの会社で作れないかな」

「え、祐ちゃんのお父さん蹄鉄も作れるの?」

「多分、作れるんじゃないかな。前におとうさんが僕に加工したキーホルダーをくれたよ。オリジナルでどんな形でも作れるって自慢してたもん」

「それはすごいね。じゃあ、お父さんに蹄鉄を頼めるかな」

「僕から頼んでみるよ。お母さんいいでしょ?」

「オーナーなんだから大丈夫だと思うよ、頼んでみようよ」

「よし、じゃあ早速、頼んでみるよ」

「うん、ありがとう」

「歩美ちゃん、学校はどう?新学期始まったんでしょ?」

「うん、そうなんだけど、夏休みの宿題、やってなくて先生に怒られちゃったよ」

「歩美ちゃんらしいな。もしかして全然やらなかったの?」

「途中までは頑張ったんだよ。でも進まなかったんであきらめた」

「いつから宿題、始めたの?」

「えーと、8月の最後の日曜日」

祐介が目を丸くする。「それ、最終日じゃないか、歩美はすごいな」

「アムロの世話で大変だったんだ」

歩美が照れ笑いをしてごまかす。夏休み中、ずっと世話をしていたわけではない。

「じゃあ、そういうことにしておこうかな、学校のみんな元気かな」

「相変わらずだよ」

歩美は祐介の気持ちを思ってあまり学校の話をしないようにしている。歩美はたわいもない話をしながらお見舞いから帰る。病気が進行しているってことだけど、祐ちゃんはどうなるのかな、心配だ。


夜、家で夕食を食べながら村井にその話をする。

「そうか、祐介君あんまりよくないのか。とーちゃんからも状況を聞いてみるよ」

「心配だよ。玲子ママも泣いてたから」

「そうか」

「それから祐ちゃんのお父さんが蹄鉄を作れるかもって言ってた」

「え、蹄鉄を作れるの?」

「みどりが専用の蹄鉄が必要だって言ってたんだよ。普通の蹄鉄じゃだめだって、それを祐ちゃんに話したら、お父さんが作れるかもって」

「ほんとに出来るのかな。蹄鉄ってけっこう特殊だぞ」

「祐ちゃんのお父さんは算数できるから大丈夫じゃないの」

「一応、理系の大学出てるけど、そういうものなのか?」

「理系の大学か。そういえば、とーちゃんはどこ出たの?」

「俺は人には言えない学校」

「そうか、じゃあ私もそこに行こう」村井が青くなる

「何言ってるんだ。だから今、苦労してるんだろ、歩美は人に言える学校に行きなさい」

「とーちゃん、苦労してるんだ」

「そうだよ。頭が良かったら、色々出来るんだよ。今のとちぎ競馬だってこのままだと無くなっちゃうかもしれない」

「頭が良かったらなんとかできるの?」

「多分、出来る」

「そうなんだ。わかった。じゃあ、私は人に言える学校を目指すよ。競馬学校にする」

「それだったら歩美は中央競馬に行け。武豊みたいになればいい」

「そうか、中央か」

「馬鹿じゃ入れないから勉強するんだぞ」

「そうなの?わかった」

「夏休みの宿題をバックレてるところですでにアウトだけどな」

「へへへ」歩美が残ったご飯を食べながら、ポツンと話す。

「アムロは有馬記念で終わりだよね」

「うん、そうだ。最初の予定通りだ」

「じゃあ、やっぱり何としても勝たせないと、私からも蹄鉄頼んでみようかな」

「歩美は心配するな。とーちゃんにまかせろ。俺が何とかする」

「そうか」

歩美も何かしたいができないもどかしさがある。祐ちゃんの病気も治せないし、アムロの蹄鉄も調教も何もできない。

「歩美、ところで夏休みの宿題は終わったのか?」

「宿題か、そういうこともあったな」歩美が夏の思い出を懐かしむかのような顔をする。

「なにがそういうことだ。先生から怒られたんだろ、ひょっとして手つかずか」

「ぼちぼちやってる」

「いやいや、早くやらないと」

「明日からやるよ」

「今日からにしなさい」

「今日は心の準備期間」

「全くこの子は・・・」

村井家のいつもの会話が続いていく。


それから数日後、祐介から話を聞いた阿部は福原碧と連絡を取り、蹄鉄の話をするために宇都宮大学に行った。研究室で阿部と福原が打ち合わせをしている。福原が話をする。

「蹄鉄といっても近年は色々な種類のものがあります。日本では昔は鉄製でしたが今はアルミ合金製が主流になってきています。アムロはアメリカのものを私が持ち込みました」

「アルミ合金というと具体的にはどのくらいの成分になりますか?」

「はい、これがデータシートになります」

「なるほど、軽量のアルミ合金ですね。硬度も低いタイプです」

「そうです。できればアムロにはもう少し硬度が低い方、つまり軟らかいほうが望ましいんです」

「そうなんですか?アルミ合金も色々種類がありますから、福原さんの希望を言ってもらえばこっちで作れますよ。数値で言ってもらって構いません、こちらも技術屋なので、わかります」それに対して福原が破顔になる。

「そうですか、それは心強い。形状の指定もできますか?本当はもっと厚くしたいんです」

「もちろん大丈夫です。図面を起こせますか?落書きみたいなものでかまいませんよ」

「大丈夫です。図面は私の方で書きます。できれば前後、いや四肢個別に作りたいです」

「四肢個別ですか、そこまでですか、すごいな。はい出来ますよ。先ほどの材料ですがアルミ合金の場合、後処理をおこなえば強度や硬度も変わりますよ」

「そうなんですか?」

「はい、鉄などでも焼き入れとか焼きなましとかの工程がありますよね。アルミもそういった処理工程が可能です」

増々、福原の顔が輝く、この人も研究者でこういった話は大好物のようだ。

「なるほど、私の方でも少し調べてみます」

「福原さんのほうで指定される硬度があればこちらでも調べますよ」

「そうですか、いや、今回は私の研究テーマですから、こちらで指定したいです」

「わかりました」やっぱりこういうところが研究者だ。

「そうそう、日本では蹄鉄も規定があります。JRAでは厚さ10㎜以下で重さは150g以下と規定されています」

「なるほど、私の方でも確認してみます」

「ところで製作にはどのくらいの時間がかかりますか?」

「そうですね。今、本業も忙しいので、図面を頂いて1週間、後処理などを行う場合はさらに1週間いただければなんとかします」

「わかりました。2週間ですね、では、こちらも急いで準備しますね」

「はい、アムロは僕の馬ですから、こちらが先生にお礼を言わなければいけない立場です。遠慮なくなんでもおっしゃってください」

「そうですか、阿部さんさえよければ、今後も色々製作に携わってもらいたいですね。この研究室も今までは市販品で実験もやっていました。専用の部品があればと思ったことも多々あります。もちろん研究費から費用は出ますのでそこはご心配なく」

「え、それは心強い。うちは今は業務拡大しないといけない時期です。なんでもやりますよ」

阿部は会社の事もあるが、アムロが活躍してもらうことが一番である。祐介の治療費を考えないと言うことは嘘になるが、息子の夢はアムロの活躍である。自分もチームアムロの一員でもあり、なんとしてもアムロが走って勝つことこそがすべてに優先される。そう思っていた。


その後、福原からの指定はジュラルミン系の材料で焼き入れ後の時効硬化処理を依頼された。強度は増すが硬度についてはある程度の軟らかさが必要との配慮だった。図面についてもそれぞれ4脚微妙に異なるサイズのものが送られてきた。阿部の方で0.1㎜の寸法精度が十分可能であるため、指定された図面もそうなっていた。アムロの脚から適正な寸法を規定したものだと思われる。ただ、厚みについては規定のギリギリ10㎜としていた。なるべく衝撃を逃がしたいという思惑があるようだ。さらに重さも150gギリギリに設定されていた。

阿部の方で図面をもとに加工機にプログラム入力し切削加工をした。その後、後処理を関連の熱処理会社に依頼し、約束通り2週間後にアムロ専用蹄鉄が完成した。


阿部が完成した蹄鉄を持って、村井厩舎を訪ねる。福原とは厩舎で会うことになっていた。調教を終わってアムロはくつろいでいた。福原がアムロをブラッシングしている。この先生は子供の頃から馬と関わっていたために、純粋に馬が好きなことがわかる。アムロも気持ち良さそうにしている。

「こんにちは、先生、蹄鉄が出来ましたよ」

「こんにちは、出来ましたか」

福原がペコリとお辞儀をする。出来上がった蹄鉄を見ながら、顔がほころぶ。

「よくできていますね。なるほど、マークが入ってどこの脚用かわかるようになっているんですね」

「凹みの部分に小さく入れました。まずかったですか?」

「いえ、これぐらいは大丈夫です。それにしてもこれはいいですね。まさに理想的な形状です。蹄の形にぴったり合いそうですね。今までは私が削る加工が必要だったので助かります。まさに蹄の一部になりそうです」

「そうですか」

「蹄鉄は馬の蹄の一部になることが理想です。これはそれを体現できます。早速、付けてみますね」

接着装蹄にはエクイロックスを使用する。2種類の充填剤を混合させてから接着工程に移る。現在、付けてある蹄鉄を剥離液を使って外す。そして削蹄。福原は器用に足を抱えるように持ち上げて接着していく。女性でも出来る仕事であることがわかる。阿部は初めて装蹄作業をみる。村井もそばに来て作業を観察している。

「福原先生は装蹄作業も見事なんですよ。こういったら怒られるかもしれませんが、うちの厩舎でやってもらってる装蹄師よりも手際がいいぐらいです」

「そうですか、確かに無駄な動きがないですね」

福原は黙々と作業を続けている。ものの10分程度で四肢すべての装蹄が終了する。村井が見た感じは全く違和感がない。蹄が伸びているように見える。

「先生、どうです?」村井が確認する。

「うん、いいですよ。ぴったりです。蹄そのものです」

福原が嬉しそうに話す。期待以上だったようだ。

「明日、走らせてみてどんな感じか見てみます。問題なければ本番もこれで行きましょう」

「先生、この蹄鉄の製作データはありますので、同じものを何回も作ることが出来ます。それと軽微な変更でも言ってもらえれば、すぐに対応できます。何でも言ってください」

「そうですか、それはうれしいですね。ありがとうございます。それとあと、請求書は青嶋研究室の方に回してください」

「それ本当にいいんですか?何か自分の馬の蹄鉄でお金をもらっていいのかな」

「構いません、これは私の研究ですので、研究費から出します。大丈夫です」

「じゃあ、利益は取らずに実費分、請求しますね」

毎日王冠まではあと一か月になっていた。宇都宮は都心と比べると北にあるため涼しいようなイメージがあるが、フェーン現象のせいかむしろ気温は若干高めである。特に残暑は厳しいものがある。馬も夏バテしないように管理する必要がある。村井厩舎では大型の扇風機で送風し、夏バテを防いでいて、アムロは順調に来ている。村井は何としてもこの戦いに勝たなければならない。出来ることはすべてやるしかない。


福原碧に蹄鉄を届けた阿部が会社に戻って来る。阿部を見て受付にいる事務員麻田麻衣子が話をする。

「社長、職安の橘さんから電話がありましたよ、折り返し連絡が欲しいそうです」

「橘さん?求人の申し込みに不備があったかな」

この事務員の麻田も地元で採用した人間だ。歳は29歳だが一時の母でシングルマザーである。高校時代に出来ちゃった結婚をし、旦那のDVで早々に離婚、子供を抱えて仕事も見つからなかったらしい。両親とも疎遠でコンビニのパートで食いつないでいたところを阿部工業に来た経緯がある。ただ、阿部から見ても考え方などはしっかりしており、教育次第ではなんとかなると判断して採用した。当時、経理担当だった岡部が彼女に付きっ切りで教えて、彼女も必死で熟した。その成果もあり一通りの経理事務はこなせるようになっていた。また、シングルマザーのため、子供の世話が付きまとう、そういった部分について、阿部は容認していた。もっとも彼女の方であとから埋め合わせをしてくれていた。今では経理だけでなく、受付やその他の事務作業もやってもらっている。

阿部が自席に戻り、早速、職業安定所の橘氏に電話をかける。

「阿部です。橘さん何かありましたか?」

『はい、阿部さんの求人申し込みに応募がありました。その連絡です』

「そうですか、ありがとうございます」

『えーと、それなんですが、応募者が多くて、どうしますか?』

「え、多いんですか?」

どういうことだろう、今までは求人してもしばらく人が集まらないとこが多かったが、それが逆に多いとは。

『はい、すでに10人以上も集まっています』

「いや、どうしてですかね。条件面もそれほど良いものでもなかったと思うんですが。橘さんもこの要綱だと人が来るかなって、そういうお話でしたよね」

『それなんですが、何か阿部さんの所有されてる馬絡みでの応募が多いみたいで』

「ああ、アムロか・・・」

『まあ、仕事には関係ないとは話してるんですが、お子さんの話とかに共感されてる方も多くいるみたいです』

少し本末転倒な気もするが、候補者が多いことはいいことだ。

「そうですか、それでこちらはどうすればいいですか?」

『この後は阿部さんのところで個々に面談していただいて、話が合えば採用となるんですが、全部の方と面談しますか?』

「わかりました。それでは応募者を確認させていただいて、こちらで採用できそうな方と面談の形を取らせてもらっていいですか?」

『はい、かまいませんよ。じゃあ、職安の方にお越しください』

電話を切る。話を聞いていた岸田が阿部を見る。

「アムロ効果ですか、すごいですね」

「うん、雑誌の影響はすごいな。阿部工業=アムロってことになってるんだな。しかしそんな事で採用していいのかな?」

「仕事は別ですからね。会って見てその辺をはっきりさせればいいんじゃないですか?」

「うん、そうするよ。これから職安とその後、取引先を回って来るよ」

「了解です。」出掛けようとする阿部に事務員の麻田が話をする。

「岡部さんの後任を探してるんですか?」

「ああ、そうなんだ。麻田さんに話をしていなかったな、ごめん。貴方も一人で伝票類を処理するには大変だろうとも思ってるんだ」

「いえ、それは大丈夫ですよ。でも助かりますけど」麻田が笑顔を見せる。

「うん、良い人が来てほしいとは思ってるんだ」

「そうですね」


阿部は職安に行き、応募者のリストを受領する。その段階で実際は20名近い人数になっていた。職場に戻り、岸田とリストをもとに候補者を絞る。嬉しい悲鳴だ。阿部が要求したスキルは経理の職務経験があり、簿記2級の資格があればベスト、人事の仕事もあるので出来れば労務士資格もあればさらによいというものだったが、適しているものが10名もおり、阿部と岸田の経験上、採用可能と思われる5名を選別した。

各々の応募者に面談の依頼をおこない、阿部工業に来てもらうことにした。会社を見学しながら、応募者側の要望に当社があっているのかを確認する作業も兼ての面談となる。工場を見ることで思った仕事と異なるといった問題も早めに解消できることになる。

以降は応募者の都合を聞いて、面談をこなす日々が続いた。やはり、安易にアムロネタで応募した方もおり、阿部工業の実情と応募者の希望が見合わない人もいた。それでも最終的に1名が候補者として残って、その人間で採用を決めようとしていた矢先にその応募者が来た。

早川皐という29歳の女性だった。職歴を確認すると、都内の一部上場建設会社の経理部門にいたが、この夏に退職し、実家のある宇都宮に戻ってきている。資格も簿記、労務士を持っており採用上の問題はなかった。

面談の日、早川は近所に住んでいるとの事で自転車に乗って現れた。事務所の会議スペースで職務経歴書を見ながら、阿部と岸田で話をする。

早川はショートカットで中肉中背、目がくりっとした女性だった。ただ、夏と言うこともあるのか真っ黒に日焼けしており、活発な人という印象を受けた。笑うと歯だけが白く目立つほどだった。阿部が話を進める。

「早川さん、家は近いんですね」

「はい、歩いても来れるんですが、自転車で来ました」

住所を見ると確かに会社から一キロぐらいだ。阿部は単純に交通費が浮くなと思う。

「月並みですが、当社をご覧になってどうですか?想像していた会社と違ってませんか?」

「いえ、だいたい、この近辺の会社はわかってますし、前から御社も拝見してましたので、

そういった思い違いはありません」

笑顔になる。何かそういった顔を見ると村井の娘、歩美を彷彿とさせる。歩美が大人になるとこういった雰囲気になるのではないだろうか。

「そうですか、条件面も以前、在籍されていた大手に比べると厳しいですが、そういった部分はどうですか?」

「いえ、そういったところは確認済です」

「失礼ですが、早川さんの学歴や経歴を見させてもらうと、もっと大手に行っても良いように思ってしまいます」

「はい、そうですね。率直に申し上げて、新卒採用の時もそう思ったんですが、大手企業にかかわらず、女性で私ぐらいの年齢の場合、会社側は結婚、産休とか気にされますよね。なのであまりそういったことにこだわらない会社に就職したいんです。御社はどうですか?気にされます?」

「いや、そんなこと言える立場でもないですし、これからはそういったことも踏まえて企業経営するべきだと思ってますよ」

実際、阿部工業にはシングルマザーやら家庭持ちの主婦兼任社員がいる。

「なるほど。あの、こちらから質問させていただいて構いませんか?」

すでに逆質問状態だったが、応募者本人から阿部達が面接を受けているようになる。

「はい、どうぞ」

「私が色々、提案とかおこなって御社の業務改善成果が出たとします。それで利益が上がったら、給料も上がる様にはならないですか?」阿部と岸田が顔を見合わせる。

「もちろん、そういうことはありますよ。むしろそういった提案は大歓迎です」

「そうですか、正直、御社の現在の条件面は前の会社の半分ぐらいです。福利厚生面を含めての話ですが、でも私の意見を聞いていただけて、提案を御社の業務に反映できる要素があるなら、そちらのほうに魅力を感じます」

「はい、そうですか、でも、早川さんは当社では経理と労務担当になりますよ」

「はい、理解してます。そういった業務にも改善できる要素があるだろうし、もし、その仕事をこなして余裕があればさらに会社をよくする提案もしていきたいです」

阿部は早川がそこまでこだわる理由があるような気がした。そして質問する。

「前職で何かありましたか?」

「ああ、わかりますか、実は前職では色々、提案したんですが、いっこうに聞いてくれなくて、今まではこうだったとか、これは社風だとか、そんな話ばっかりで嫌気がさしました。とにかく、自分の意見で会社を動かしたいんです。失礼ですが御社の規模だと私の提案を聞いてくれる余地があるように思いました」

眼を輝かせて熱弁をふるう。今時、こういう昭和を思わせる人間がいることに驚く。阿部自身がそういった思いから会社を辞めて起業した。その当時の思いをよみがえらせる。

「経理の仕事は実務経験されているんですよね」

「一通りのことは出来ますよ。今は公認会計士を目指して勉強中です」

「それはすごいですね。会計士は難しいと聞いてます」

「はい、覚えることのボリュームがすごいです」白い歯がきらりと光る。

「入社となったら、うちの会社の経理全般をやってもらうことになると思います。それと労務管理もあります。今は外部委託なんですが、内作にしたいので。大丈夫ですか?」

「大丈夫です」

「あと、宅建もお持ちなんですね」

「前職が建設会社だったので、入社前の学生時代に取りました。使う機会がなかったです」

「早川さんはヒーロー誌を読んでの応募じゃないんですね?」

「なんですか?ヒーローって?」

「いや、すみません。応募者の方にはそういった人がおられたので」

「ヒーローを特集した本でしょうか?」

「いや、スポーツ専門の雑誌なんですよ。実はその雑誌で私が所有している馬を特集してまして、その辺の興味で応募されてる方もおられたので話をしました」

「私、馬には興味がないです。そうですか、馬をお持ちなんですか?」

「ええ、それならよかったです」阿部が岸田に向かう。

「岸田さんからは何かありますか?」岸田は少し考えて、

「早川さんの趣味は何ですか?」

「読書です。色々、読むのが好きです」

「例えば、どういったものですか?」

「小説も読みますし、心理学とか経済学とか、ああ、意外と物理学や科学の本も好きだったりします」

「そうですか、いい趣味ですね」阿部が最後に確認する。

「ところで採用になりましたら、いつから来れますか?」

「いつからでも大丈夫です。そろそろ失業保険も切れますので」

「わかりました。では採用の可否については追って連絡させてもらいます」

「はい、失礼します」

早川が帰っていく。何か二人が圧倒された感じである。台風一過で阿部と岸田が話す。

「岸田、どう思う」

「なんか、凄い人ですね。でもうちには合うんじゃないですか?なんか、昔の社長を見るようです」

「いやあ、俺はあそこまで過激じゃなかったと思うぞ」

「昭和のサラリーマンって感じですね」

「岸田もそう思うか、今時珍しいよな、採用でいいかな?」

「異存はないです」

他の選考中だった方に断りの電話を入れて、晴れて早川女史の採用となった。

実際、採用を決めた翌日から彼女は勤務についた。仕事も早く、会社の業務は数日で熟せるようになり、さらに驚いたことに、彼女はそれからの一か月で阿部工業の経理業務の見直しをおこない、10%を越える経費削減を実行できていた。とんだ掘り出し物だった。


御子柴が担当しているスポーツ情報誌『ヒーロー』は月刊誌として発行されている。スポーツ全般を扱うので、競馬の特集は不定期であり、むしろ少ない方だ。

アムロの件を気にしながらも常に取材が出来るわけでもない。秋は他のスポーツも盛りだくさんになる。この時期はメジャーリーグの松井秀喜の活躍記事が中心だった。日本もプロ野球が佳境に入り、当然記事は野球主体となった。

先月号でアムロの特集記事を書いた。今までの経緯と阿部オーナーの家族に起きた話を書ける範囲で記載した。特に小児の心臓移植の実態と祐介に訪れた不幸にも紙面を割いた。アムロの復活には宇都宮大学の才媛福原碧先生のアメリカ仕込みの装蹄技術を使い、彼女の装蹄理論や、さらには阿部オーナーの会社で専用の蹄鉄を作成した話も盛り込んだ。

結果として読者からは想像を超える反応があった。競馬に興味がある読者も移植手術の実態には胸を痛めた方も多くいて、そして年内の最終目標の有馬記念については世論の後押しが決定的なものになった。ここにきてアムロは日本におけるヒーローとなった。

アムロと青葉賞で対戦したモヒートはダービーでは2着に負けてしまったが、秋になり馬に身が入ってきたようだった。そして3歳馬としては異例の天皇賞参戦を表明した。

当時、3歳馬は菊花賞路線が既定路線だったが、管理する藤枝調教師は種牡馬としての将来の価値を高めるためにも3000mの長距離レースよりも世界標準となっている2000mのレースに価値があるとの考えで出走させることとしたそうだ。モヒートはまずは秋初戦の神戸新聞杯に出走し、他馬を圧倒する勝利を収めた。次走は秋の天皇賞、そして問題なければ、その後は有馬記念に参戦し、アムロと再戦することになる。気の早い話だが有馬記念での再戦を今から期待する競馬ファンが想像以上に多いようだった。

毎日王冠については出走馬は思ったよりも少なく、地方馬の枠も埋まることはなかったため、アムロは出走可能となった。

今でこそ、調教の外厩制が定着し、地方馬でも外部の育成場で調教を積むことが可能となり、中央との施設の面での劣勢は少なくなってきたが、当時、とりわけ北関東では中央とは調教施設の差は歴然としていた。一般に地方競馬での調教は競馬場の本馬場を使っての調教が主体で中央の様な坂路調教などは行えなかった。ましてやとちぎ競馬はさらに厳しい状況で調教は本馬場のみであった。

アムロも故障の問題もあったが、適正な調教が出来ているとは言い難かった。それなのにここまでの成績を上げる点については、以前から、とりわけ専門家は不思議がった。競馬素人の御子柴も事あるごとに同じような質問を多くされ、なんらかの専門的な回答が欲しかった。地方馬から中央で大活躍したオグリキャップにしても成績を残した時は中央に転厩しており、結果として中央競馬の施設を使って強くなったともいえた。反面、アムロはそういったこともしていない。まったくの素質だけでここまで強くなれるのだろうか。そんな思いもあって御子柴は、調教師としての第一人者である藤枝さんに話を聞くべく、藤枝厩舎にモヒートの取材を兼て美浦トレセンへ行った。

その日は神戸新聞杯を圧勝し、いよいよ天皇賞に向けてのモヒートの追切であった。競馬記者連中が大勢、取材に訪れており、御子柴は競馬記者ではないので肩身が狭かった。トレセンのウッドチップコースをモヒートが軽快に走っていく。藤枝厩舎お得意の3頭併せ調教である。モヒートは軽々と先着し好調のようだった。

調教後、藤枝の元に記者が集まる。

「先生、モヒートは好調ですね」

「見ての通り、順調そうだね」

「天皇賞は勝算ありですね」

「それは馬に聞いてください」

いつもの感じである。一通り記者連中の囲み取材が終わり、藤枝は自厩舎に戻ろうとする。御子柴がすかさず近寄って話を聞く。

「すいません、月刊ヒーローの御子柴と申します」

藤枝はちょっと迷惑そうな顔をしながら、御子柴を見る。こいつは何者だという感じである。

「私、とちぎ競馬のアムロを取材して記事を書かせてもらっています」

藤枝はヒーローに載った記事を読んだようで御子柴に興味を持ったような顔をした。

「私自身、競馬について、まだよくわかっていないところも多いのですが、藤枝先生の見解をお聞きしたいのです。私、アムロのような馬があれだけ走るのが不思議なんです」

「どういう意味かな?」

「はい、地方競馬で施設も中央に劣るし、故障明けでもあれだけ走るのがわからないんです」その質問に藤枝はニヤリとして、

「それは僕じゃなくてアムロの調教師に聞きなよ」

「はい、そのとおりなんですが、実際、私が見た限りも特別な調教をしていないんです」

「それはおかしいね。調教しないで馬が走ることはないよ。あの馬が走るとすれば馬に合った調教をしているんだろう」

「そうですか」

「まあ、持って生まれた能力値が桁外れだったともいえるかもね。昔、シンボリルドルフと言う馬がいたんだけど、あの馬の能力も桁違いだったね。海外でいえばセクレタリアートとかね。あの馬たちが成績に見合った特別な調教をしていたといったような話は聞いたことがない。要は基礎能力があっての調教だからね」

「そうですか、アムロは基礎能力が高いということですか」

「あなたの言うように普通の調教であれだけ走るんだから、そういうことだろう」

「わかりました。すみません変な質問をして」

「まあ、馬はレースを走りたくて走ってるわけじゃないから」

「え、そうなんですか?」

「そうだよ。レースじゃ無理やり走らされてるんだ。馬にしてみればいい迷惑だよ。だから、こっちは走ってくださいって気持ちで接しないといけない」

「馬は走るのが楽しいんだと思ってました」

「本来は草食動物だからね、敵から逃げるために走る能力が発達したということだよ。だから馬によってはレースが嫌いな馬もいる。基礎能力が高くてもそれをレースで発揮できないような馬もいるんだ。走らないといい暮らしが出来ないんだよって教えてあげたいんだけどね」

「そうですか、今まで間違って考えてました。アムロは走るのが楽しいんだって勝手に思ってました」

「だって、あれだけの速さで走らされるんだから、馬だって苦しいだろう、それこそ死ぬ思いで走ってるよ」

「なるほど、そうですね。よくわかりました」ここで御子柴は白老牧場での緑川牧場長との話を思い出した。

「藤枝先生、私、夏に白老牧場で休養中のモヒートの取材に行ったんです」

「ああ、そうなの」

「緑川牧場長が言ってたことを思い出しました。藤枝厩舎の馬は走ることに抵抗感が少ない気がするって、むしろ楽しんでいるかのようだといったお話でしたよ」

藤枝調教師はその話にうれしそうな顔をして、

「それは光栄だね。そういった馬になる様には気を使ってるからね。それでそのとちぎの馬はどうなの、調子は?」

「アムロですよね。順調に来ているようです。毎日王冠も出走可能になりました」

「そうか、うちの馬も毎日王冠には出るからその時にその馬も見れるな」

「そうですね」

「じゃあね」

「はい、ありがとうございました」

さすがはリーディングトレーナーだな。馬の事をよく分かってる。まあ、そうじゃないとリーディングは取れないよな。村井はどうなんだろう、とても藤枝と同じように考えているとは思えないな。


とちぎ競馬の調教は朝の3時から始まる。厩舎によって多少時間は変わるが、村井厩舎は朝一番の3時には始める。アムロに関しては、当然、御手洗が調教を付ける。また、村井自身も馬に乗る。調教場所はとちぎ競馬場になる。角馬場はあるが調教場などはない。

アムロは元々、足元に不安もあり常歩なみあしという馬を歩かせる運動を十分にやることを常としていた。その後で15―15をやる。けっして早い追切や併せ馬はやらなかった。そして馬のクールダウンもしっかりやる。ウォーミングアップと調教後のフォローアップには十分な時間をかけることとしている。これはアムロだけに特化したものではない。地方競馬には中央競馬をお払い箱になった馬が移籍することが多々ある。もちろん、地方で可能性がある馬を選別するのだが、そういった馬には故障を抱えている馬も多くいる。そういった馬をどうやって再生させるかの手法は様々考えられている。実際、中央では活躍できなかった馬が地方で頭角を現し、重賞レースを勝つまでに復活することはよくあることだ。村井厩舎も同様にそういった手法は持っていた。今日は福原が歩様を確認するために競馬場に来ていた。双眼鏡やカメラを駆使して状態を確認する。

「先生、どうですか?」

「具合は良さそうですね。歩様も問題ないし、この蹄鉄で行きましょう」

「わかりました」

調教を終えてアムロと共に御手洗が戻ってくる。

「武、どうだ?」

「問題ないです。特に変な動きもなかったです」

「そうか、先生も良さそうだと言ってるんで、このまま行くぞ」

「わかりました。追い切りはこんな感じで行きますか?」

「そうだな。レース前にはもう少し負荷をかけてみるか」

「わかりました」村井が福原に確認する。

「先生、大丈夫ですよね」

「ええ、大丈夫です。最終追い切りは存分に追ってください」

そして10月8日に最終追い切りをかけた。単走だったが今まで以上に強い追いきりだった。アムロの脚に異常はなく、いよいよ日曜日の本番に向けてチームアムロは進んでいった。福原碧も自身の設計した蹄鉄が上手く機能したことを喜んでいた。


10

アムロは10月8日の木曜日に東京競馬場に入厩した。そして翌金曜日に東京競馬場の芝コースで試走する。東京競馬場は2度目なのでアムロについては全く問題がなかった。 

さらに村井厩舎の連中も2回目のせいか、前よりも落ち着いていた。村井とごんじい、御手洗は前回同様に府中のビジネスホテルに泊まった。そして御手洗は土曜日に調整ルームに入る。歩美は福原碧と日曜日の昼前に一緒に競馬場に来た。福原に歩美の世話をお願いしたわけだ。

レース当日は朝から雨がぱらついていた。福原は厩舎の馬房にいるアムロを診る。周りを村井、ごんじい、歩美が見守る。福原が話す。

「うん、大丈夫です。蹄も問題なし、足元も異常ないです」

「アムロは万全か、あとは武の問題だな」歩美が言う。

「武も2回目だからな、大丈夫だよ。あいつも芝のレースの走り方を色々研究してたぞ」

「そんなに違うの?」

「いや、騎手にとってはあんまり違いはないと思う。ダートほど砂が飛んでくることもないから、騎手は走りやすいはずだな」

「でも雨が降ってるよ。これは大丈夫なの?」

「アムロに関してはダートも走れるんだから、多少の重馬場は問題ない」

「そっか、アムロがんばれよ」

アムロは平然としている。いつものアムロだ。

午後になって雨も上がり、東京競馬場には大勢の人間が詰めかけた。このレースには昨年の秋華賞とエリザベス女王杯を勝った牝馬のエモーションが出走しており、一番人気でもある。ただ、観客の目当てはアムロのようだった。

パドックの横断幕もアムロのものが結構あった。御子柴の雑誌の影響が大きいようだ。横断幕には祐介ガンバレともある。パドックをアムロが周回する。御子柴がパドックにいる村井親子に近づいていく。

「あ、ちとせ」

「こんにちは。アムロは調子よさそうね」

「うん、絶好調だよ。アムロもなんの不安もないって」

 ここで御子柴は藤枝調教師が言っていた話の真意を歩美に聞いてみることにした。

「あ、そうだ。歩美、アムロは走ることが嫌いなの?」

「どういうこと?」

「うん、この前ある調教師の話で馬は基本、レースは走りたくないんだって、だって苦しいじゃない。精一杯走らされるんでしょ?」

「ああ、そういう意味か、普通の馬はそうだけど、アムロは違うよ」

「え、そうなの」御子柴が驚く。

「うん、アムロは祐ちゃんのために走ってるんだよ。だから、辛くはないよ。なんとしても勝つってことしか考えてない」

「本当に?すごいね。そんなこと考える馬がいるんだ」

「うん、こんなに頭の良い馬は歩美も見たことがないよ」

「へー、そうなんだ」

歩美の話だとアムロはそういう意味でも特別な馬なのかもしれない。騎乗命令が出て、御手洗が騎乗するといよいよアムロに気合が乗って来たのが伺える。パドックからもアムロを応援する声がかかる。現在、2番人気だ。

馬場状態は稍重で、その後の馬場入りも問題なくこなし、返し馬もうまくいっていた。いよいよレースとなる。この日はG1レース並みに6万人も観衆が入っており、アムロを応援する声が多い。歩美が感激している。

「とーちゃん、みんながアムロを祐ちゃんを応援してるよ」

「うん、そうだね」

ゲート前に各馬が集まり輪乗りしている。アムロは12頭立ての12番、大外だが出走数が12頭の場合は大外の不利もそれほどないと思われる。東京1800mはスタートしてすぐにコーナーになるが比較的緩やかなコーナーだ。ただ大外の場合は注意が必要で極端に出遅れたりするとその後の位置取りが苦しくなる。


馬上の御手洗はアムロがいつもの様子であることをつかんでいた。全く動じていない。青葉賞の時もそうだったが、この馬の度胸のよさは天性のものだ。今までも動揺したところを見たことがない。

スターターがスタート台に立って、旗を振る。ファンファーレが鳴り終わるといよいよスタートだ。アムロが最後のゲート入りを終え、ごんじいもゲートに頭をぶつけることなく、出て行った。そしてスタートを待つ。観客のボルテージが上がる。御手洗も適度に緊張する。

ゲートが開いてアムロはいつものロケットスタートを切る、はずだったが、アムロの行き脚が付かない。何かが違う、御手洗は微妙な違いを感じる。アムロは懸命に走っているが、様子がおかしい。先頭には一番人気のエモーションが掛かり気味に出ている。アムロはレースで初めて2番手に甘んじている。

そして、スタート直後のコーナーに入ってもコーナーワークがぎこちない。


調教師席から見ていた村井がアムロの異変に気が付く。

「アムロがおかしいな。いつもの走りじゃない」

「とーちゃん、アムロどうかしたのかな?」

「稍重の芝が合わないのかな?あ、もしかすると・・・」


控室にいた福原碧はモニターを見ながら、アムロの変調に気が付いていた。やってしまった。彼女はすぐにこの原因をわかっていた。


アムロがコーナーにかかる。毎日王冠はスタート直後のコーナーを除けば、ワンターンでゴールまで走るコースだ。東京競馬場は日本一広いコースなのでコーナーも緩やかである。

御手洗はアムロの変調の要因にようやく気が付いた。落鉄している。それも利き足の右側のようだ。

落鉄とは蹄鉄が外れることを意味する。

馬は走りながら、前足を右側を先に出したり、左を出したりする。これを手前を変えると表現するが、アムロは右が効き足で最後には右手前で走るのを常とする。ただ、右手前のまま走ると右脚が疲れてくるため、上手に左右を変えながら走ることになる。

騎手の合図で手前を変えることが理想的だが、アムロは概ね自分の意志で適格に手前をかえていた。おそらく右側が落鉄しており、アムロ自身がその違和感に気が付いている。それで右手前に変えようとしなかった。これはいままでの屈腱炎の影響があったのかもしれない。右足の違和感をそういった故障だとアムロがとらえているような感じである。

エモーションはそのままトップで最終コーナーに入る。アムロは2番手のまま、加速するでもなく、そのままの速度を維持している。

蹄鉄は人間でいえば靴のようなもので、落鉄は裸足で走っていることになる。今日のような稍重の馬場だと蹄鉄が無いとさらに滑りやすい。実際、アムロはコーナーに入り、外に膨れるような素振りが出た。そのせいでアムロはコーナーに入ると余計に慎重になった。

後続が迫ってくる。東京競馬場の最後の直線はほかの競馬場よりも長く500mもある。

珍しく御手洗が必死に追うが、アムロの反応はいつもほどない。エモーションもかかり気味で走ったせいで余力がないようだ。アムロはエモーションをかわして先頭に立つが、さらに後続の脚色がいい。

場内が騒然とするアムロが勝つのか、残り100mアムロは先頭のままだが、左手前だけで走った脚がもうもたない。後続がさらに加速していく。場内は大歓声だ。御手洗はこれほどの歓声を初めて聞く。まさにうなりのような歓声である。

アムロがんばれ、残ってくれ、必死に追うが徐々に後続の足音が大きくなる。

そしてついに並ばれる。並んだ馬はもう1頭の有力馬のバランスボールだ。そしてゴール前で抜かれる。さらに後続も迫るがアムロはなんとか2番手でゴール出来た。

レースを終えた御手洗が後検量のために地下馬道を戻る。検量室には村井たちや福原が待っている。福原がアムロに近寄る。右足を確認する。確かに蹄鉄が外れていた。さらには左側の蹄鉄にもダメージがあり、いつはずれてもおかしくない。

「・・・」福原に言葉がない。

「落鉄です」御手洗が村井に話す。

「そうか、仕方ないな」

「私のせいです。すいません」絞り出すように福原が話す。

「いや、落鉄ばかりは先生のせいじゃないですよ」

「いえ、私のせいです。稍重のせいなのか、想像以上に足に負荷がかかっていました。私の計算ミスです」

みんな言葉がなかった。2着は地方馬にとっては大健闘なのだが、アムロの実力を発揮できなかった思いのほうが強い。


その後、御手洗と村井が記者にインタビューを受ける。

「御手洗さん、どうでしたか?2着は大健闘ではないですか?」

「馬は一生懸命走ってくれたんですが、落鉄していました。そのせいか足元を気にしていました」

落鉄の事実を聞いて、記者たちが驚く。

「落鉄ですか、その影響はあったんですね」

「そうですね。完璧な走りは出来なかったと思います。アムロの実力をすべては見せられてはいないです」

「そうですか、落鉄が無ければ、これ以上の走りができるということですね」

「そう思います」

記者一同がどよめく、つまりは一着もあったということか。

「村井さん、次戦は予定通りですか?」

「馬の状態を確認してからになりますが、問題なければ有馬記念に向かいたいです。ただ、こればっかりはファン投票もありますので、我々からは何とも言えません」

記者と並んで御子柴もインタビューする。

「アムロは接着装蹄を使用していましたよね。落鉄はそのせいではないですか?」

「どうなんでしょう、私はそこまではよくわかりません」

記者が顔を見合わせる。当時、接着装蹄は日本ではまだ行われておらずに初耳だった。

「アムロは接着装蹄なんですね?」

「そうです。蹄の関係から接着することにしました」

接着装蹄について記者から質問が続き、村井が知ってる範囲で答える。インタビューはしばらく続いた。


東京競馬場の厩舎に戻り、アムロは水浴びでクールダウンを施す、福原は足元の状態を確認する。脚部に大きな問題はないようだった。その点はほっとする。歩美が福原に話す。

「みどり、どんな感じ?」

「うん、足元は大丈夫だね。でも、落鉄をどう防げばいいのかが、わからない」

「みどりでもわからないことがあるの?」

「そうだね。ちょっと対策を練らないと」

「そうか、それは大変だ」

実際、福原はとんでもない難題にぶつかったと思っていた。接着装蹄ではこれ以上の接着強度を得ることは難しい。ましてやオーダーメイドで作った特注の蹄鉄はアムロにとってはこれ以上ないほどの装着性だったはずである。その上で落鉄を防ぐ方法が見当たらない。

計算上は今回の専用蹄鉄と接着装蹄で東京の芝でも問題がないはずだった。しかし、馬場状態による不確定要素がある。馬場にある石や窪み、芝の傷みなど完全な平面ではない、それに今回の重馬場など、そういった要素を加味すると、計算上も落鉄の可能性がぬぐいえない。それなりに安全係数(不確定要素を加味して何倍かの係数をかけることで安全性を高める)を取ってはいたが、それでは足りなかったことになる。ましてや年末の有馬記念は中山競馬場になり馬場も相当に荒れている。そういった馬場にも対応する必要性がある。


11

阿部工業は早川女史の働きにより、社内の諸々の業務を彼女に任せることが出来、阿部、岸田が営業活動や設計業務に集中できるようになっていた。そのため、新規受注や新たな受注先の開拓についても順調にこなしていた。さらに女史が社内改善を次々と提案、実行に移すために利益が飛躍的に上昇していた。

阿部が外回りから帰社したところ、その早川と事務員の麻田が親しげに話をしている。

阿部はこの二人、いつの間に仲良しになったのだろうと不思議に思う。

「早川さんは人と仲良くなるのが早いね」

この言葉に麻田がばつが悪そうな顔をして阿部に切り出す。

「社長、いままで話をしなくてすみません。実は早川とは前からの知り合いなんです」

「え、そうなのか」阿部が初めて聞く話で驚く。

「そうです。中学校の同級生で友達です」

「それはびっくりだな」

「はい、実は彼女をこの会社に紹介したのは私なんです」

話を聞くと、早川と麻田は中学の同級生で、仲も良かったそうだ。高校は麻田は人に言えない学校で、早川は進学校に行き、疎遠になった。その後、麻田は妊娠、高校中退、結婚、離婚を経てフリーター、そして阿部工業入社という人生を歩んだ。早川も中学以降は麻田とは会うこともなく、大学からは都内に下宿し建設会社の入社、そして今年退職となり、久々に地元に戻ったところ、ばったりと麻田と再会したそうだ。

元々、仲の良かった2人なので再会以降も連絡を取り合っていて、お互いの悩みを話していたりしていたそうだ。そんなときに阿部工業で求人の募集があることを麻田が聞いたので、早川にその話をしたそうだ。早川も麻田から阿部工業の内情を聞いていたので興味があり、受けに来たという顛末のようだった。阿部が言う。

「そうか、麻田さん良い人を紹介してくれたね。ありがとう」

「そうですか、そういってもらえるとうれしいです。私も早川が来てくれて助かってます。彼女とは気心も知れているので」

「わかるよ。うちもそういった縁で人が増えるのは大歓迎だよ。でも最初から言ってくれても採用だったけどな」

麻田と早川は笑顔である。そこで気が付いたように早川が話を始める。

「ところで社長、私のメールご覧になりましたか?」

「いや、すまない、まだ見てない」

「そうですか・・・携帯にメールしたんですが・・・」

「そうか、まだ携帯電話のメールになれていないんだ」早川の目が光る。

「社長、これからは携帯電話がビジネスの主流になりますよ」

「え、そんなものかな。公衆電話よりは便利だけど」

「いえいえ、今や世界各国が携帯電話の開発に明け暮れています。社長は半導体のムーアの法則ってご存じですか?」

「聞いたことはあるな」

「インテルを作った方でゴードンムーア氏が発表した理論なんですが、今後は半導体の集積度が毎年2倍ずつ増加するだろうといってるんです」

「そんなに上がるのか?」阿部は半信半疑だ。

「そして今までその予想通り進んできています。そうなると半導体はどんどん小さくなって今の携帯電話はパソコン並みの機能を持つことになりますよ」

「まさか、そこまではどうかな。だってトランシーバーみたいな大きさがようやく

このサイズになったところだろ」阿部が自分の携帯を見せる。

「いえ、間違いないです。あと、5年もしたら携帯電話の機能が飛躍的に増えてパソコンみたいになりますよ」

「そうかな。ああ、でも、そういえば最近はカメラも付いてきたからな」

「そうです。これからの時代に対処するためには今の携帯ぐらい、シャカシャカ使えないと時代に取り残されます」

「わかった。気を付けるよ」阿部はたじたじだ。

「あと、話は変わりますが、わが社も半導体分野の仕事もやれたらやりたいですね。絶対、これからは需要が増えてきますよ」

「そうなのか?ヘー、いや、実は半導体の関連メーカーからもそういった問い合わせが来てるんだよ。ただ、設備投資の問題があってね」

「そうなんですか?ちょっと、私に試算させてください。提案されている業務内容と設備投資も合わせた計画書を作成してみますよ」

「え、やれるのかい?」

「やれるのかではなく、やりたいです。いや、やります」

早川の昭和の乗りである。今時、こんなモーレツ社員がいるとは、驚きである。

「じゃあ、任せる」

阿部は先方からの依頼資料をそのまま早川に渡す。半導体生産用の測定器の製造依頼である。清浄度を要求されるためにクリーンベンチ(ゴミやほこりが入らないように清浄度を上げるため周りを囲われた机のようなもの)が必要になる。

「社長、これからは半導体とインターネットです。今、アマゾンジャパンが好調ですよね。ネットでものを買える時代です。そういったビジネスが隆盛になりますよ」

「ああ、うん、おれもそれは思うよ。便利だもんな」

早川が不気味にほくそ笑む。なんか、こいつは空恐ろしい。麻田も後ろで笑っている。早川は昔からこんな感じだったんだろうな。これじゃあ大手老舗企業じゃ浮くだろうな。

結局、早川が計画書を作成し、設備投資を行った場合でも初年度から利益が上がることが算出された。また、計画決定後はクリーンベンチは早川がどこかから中古品を購入してきて、ついに測定器の生産が可能となった。それにより阿部工業は増々、利益を上げることとなった。

また、早川は経理だけでなく、会社のホームページも改訂した。改訂というかやり直してくれた。元々、素人の阿部が市販ソフトで作ったホームページだったのだが、早川はコンピュータにも詳しく玄人なみのホームページにしてしまった。本人曰く、まったくテキストデータを張り付けただけですから、というが、それならば今までの阿部のものはなんだったのかといったレベルである。

そのホームページの効果もあり、さらに仕事の依頼が増えてくる。また、そこからの問い合わせも可能となったために色んな仕事がスムーズに進むようになった。

とにかく早川様様であった。


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