第四章 二〇〇三年七月~八月
第四章 二〇〇三年七月~八月
1
宇都宮駅。御子柴ちとせが東口駅前の陸橋を渡り切った道路沿いで人を待っている。幹線道路沿いなのか、ここは車の通行が多い。特に大型のトラックも通るので御子柴はその砂埃に閉口していた。
そこに自家用車が到着する。車のウインドウを開けて中から村井調教師が声を掛ける。
「御子柴さん、お疲れ様です。乗ってください」
「お疲れ様です」ようやく来たとばかりに御子柴が助手席に乗りこむ。
車は近くの宇都宮大学に向かう。ようやく福原碧との面会が叶った。福原はアメリカケンタッキー大学での研究を終了し、本来は夏季休暇となるところを急遽、帰国し大学で待機していた。帰国前からアポイントを取って、おそらく今日は帰国2日目のはずだ。
村井がまずこの話をしないとと言う感じで切り出す。
「御子柴さん、阿部オーナーに奥さんの件を確認しました」
「どうでしたか?」
「おそらく御子柴さんの思った通りで間違いないようです。ただ、少し待ってくれと言われました。今、オーナーの方で抱えている仕事があるそうです。それが今月末には目途がつくそうで、その後、話をしてくれるそうです」
「そうですか、奥さまが生きているとなると、生命保険の件もなんとかしないといけませんものね」
「まあ、そのようです」
宇都宮大学は駅からも近く、歩いて行けなくもない。車で行くとほんの数分で現地に着いた。大学受付で手続きをおこない、一般駐車場に停める。農学部生物生産科学科は駐車場から近いところにあった。
村井と御子柴が大学のキャンパスを歩く。宇都宮大学は緑豊かなキャンパスでこういったところで勉強できる学生さんが羨ましくもある。御子柴などは都心の私大で緑とは縁遠く、キャンパスも狭かった。その分、飲み会などで遊ぶところは多かったが。
3階建ての割とこじんまりとした白い建物の2階に青嶋研究室がある。二人が研究室に顔を出す。扉を開けて御子柴が中に声をかける。
「すみません。雑誌ヒーローの御子柴と申します」
中から作業服の学生さんが出てきた。御子柴は農学部の学生は作業服なのかと思う。
「はい、なんでしょうか?」
「福原先生と面会の約束をしています。御子柴と申します」
「はい、ちょっと待ってください」
学生が中に引っ込む。研究室はいかにも理系といった感じで、ガラスの扉のあるクリーンベンチや実験器具が至る所に置いてあった。ちょっとした化学実験室のようだ。
先ほどの学生が戻ってきて話す。
「福原先生が会議室で待っててくれとの事です。こちらにどうぞ」
学生が案内してくれて、会議室に通された。8畳間ぐらいの大きさで真ん中に大きなテーブルがあり、その周りに椅子がある。御子柴達は窓際の席で待つ。
しばらくして二人が入って来た。一人はおそらく教授だろう。銀縁眼鏡をかけた背の高い男性と、そしてもう一人が福原碧か、小さい女性で丸い黒縁の眼鏡をかけている。なにか昔のアニメのあられちゃんをほうふつとさせる。御子柴が立ち上がって挨拶する。
「お電話で失礼しました。御子柴と申します。こちらがとちぎ競馬で調教師をしている村井さんです」村井調教師が緊張気味にお辞儀をする。
「はい、どうも私が青嶋です。ここの研究室を任されています」
青嶋教授は50歳ぐらいだろうか、身長は170cmを超えている、長身やせ型の紳士然とした先生だ。
「福原です」あられちゃんがぺこりとおじぎする。一同、着席し、御子柴が口火を切る。
「今回は無理を言ってすいません」
まずは青嶋が話す。「なんでもすごいサラブレッドだそうで、福原さんから話を聞きました。」
「そうです。屈腱炎さえ治れば相当な活躍をしてくれるはずです」
「なるほど、まあ、我々も地元とちぎ競馬に所属している競走馬の話なので、力になれる部分は強力したいと思っていますよ。特に福原さんが乗り気でね」
「そうですか」
「実際、彼女、アメリカから戻って来たばかりで、まだ時差ボケもあるぐらいなんですよ。それと本当は今、夏季休暇のはずなのに研究するということでね。私もちょっとびっくりしています」
「そうでしたか、色々、ご面倒をお掛けして申し訳ありません」
なるほど、大学構内や研究室も閑散としていたし、今、学生は夏休みだったのか、社会人を長くやっているとそういう意識がなくなってくる。
「いえいえ、まあ彼女は昔からサラブレッドが大好きでね。それが高じて大学で競走馬、特に馬の故障についての研究をしています。昨年度はケンタッキー大学と共同研究をしていてね」
「はい、聞いております。今回はアメリカでの休暇まで返上して帰国していただいたそうで」
「そうなんですよ。アメリカの大学はちょうど年度が終了して、9月から新学期なんで、旅行でもしてきたらと思っていたんだけど、今回の案件でね」
「はい、重ね重ね申し訳ありません」
よくよく考えると御子柴が謝る話ではないな、村井が言うセリフだ。村井はどうしていいかあたふたしている。申し訳ないという気持ちはあるみたいだ。
「それと、今回の依頼が彼女の研究テーマと合致してるんですよ。アメリカでやったことも応用できそうだしね」
先ほどから教授と御子柴しか話をしていない。村井が口下手なのはわかるが、福原も口下手なのか、まったく話さない。
「一応、この案件は当大学の研究テーマとして協力しますよ。福原さんの要望でもあるんでね」
「そうですか、ありがとうございます」
「じゃあ、ここからは福原さんにお願いするよ。私はこれで失礼します」
御子柴と村井が立ち上がってお礼を言う。青嶋教授は離籍した。福原はぼんやりとすわったままだ。御子柴の方から話を進める。
「あの、青嶋教授も夏休みだったんですか?」
「ええ、そうです」
「わざわざ大学まで来ていただいて申し訳ないです」
相変わらず、福原は最低限の応対しかしない。御子柴はしびれを切らして話を振る。
「それで、どういう手順で進めればよろしいですか?」
「まず、馬を見せてください」
本題に入って、初めてはっきりとしゃべった。声も小さい、プラス幼いアニメ声だ。
確か御子柴と同年代の30歳ちょっとだったはずだが、話をした印象は10代にも見える。
「わかりました。いつ来てもらえます?」
「あの、これからでもいいですか?」
「え、いいんですか、こちらは構いませんが」
「じゃあ、いきます」
「お車ですか?」
「いえ、車はないので」福原は少し困った顔をする。
「それでは私たちの車に乗ってください。お連れします」村井も初めて話す。
「お願いします。ああ、ちょっと待ってください」
福原はどこかに行ってしばらく待つと、何か機材を持って来た。割と大きなもののようだ。
「これ、持って行きます」なにやら大型の測定器のようだ。
「車のトランクに入れていいですか?」村井が聞く。
「いえ、それだと振動で壊れるかもしれませんので、後ろの席で私が押さえていきます」
「何ですか、これは?」不思議に思った御子柴が尋ねる。
「エコー診断装置です。屈腱炎の状態を観察したいので」
機械はモニターが付いていて、パソコンのようでもある。村井と福原で後部座席に積み込む。本体以外にも器具があるようでそのケース類も積み込む。また、それ以外の機器も数点積み込む。結局、後部座席は機械だらけで福原がそれを抑えている図式になった。
そして車は村井厩舎に向かう。助手席から御子柴が話す。
「福原先生はサラブレッドの研究をされているのですか?」
「はい、祖父の影響で競走馬に興味を持って、以来ずっと研究しています」
「それはすごいですね。たしか装蹄も出来るんですよね」
「はい、祖父に教えてもらいました」
「そういえば、私、福島でおじいさまに会ったんですよ。それで先生を紹介してもらいました」
「ああ、そのようですね。祖父から聞きました」
「先生の研究テーマって何ですか?」
「今は屈腱炎の治療です」
「え、そうなんですか?」
「そうです」
まさに今回はテーマと適合したことになるのか、それにしてもおとなしい人だな。会話が続かない。村井も緊張して話をしないので、以降はそのまま厩舎まで無言で行った。
厩舎に着くとちょうど学校から帰ったばかりの歩美がいた。
「ちとせ!こんちわ!」歩美はすっかり御子柴に懐いている。
歩美は福原先生を見ると、不思議そうな顔をする。
「歩美、福原先生だよ」
「こんにちは」先生がペコリとお辞儀をする。歩美は相変わらずの顔だ。
福原と村井が車の後部座席から機材を出してくる。
「アムロを治すの?」歩美があられちゃんに話しかける。この娘はものおじしないが、福原も小さい子には抵抗感がないようだ。普通に話している。
「そうだよ。私はそのために来たの」
初めて福原の声を聴いた気がした。力強い一言だった。歩美もそれを聞いて嬉しそうな顔をする。御子柴が歩美に白老牧場の話をする。
「歩美、白老牧場のロードミッシェルの手術うまくいったって、よかったね」
「そうなの、うん、よかった」歩美はうれしそうだ。
「緑川さんも驚いてたよ。本当に馬と話が出来るんだねって」
「出来るよ」
「早めに腸ねん転がわかったんですぐに手術も出来たって、ちょっとでも躊躇してたら危なかったらしいよ」
「よかった」
「大きくなったら白老牧場に就職して欲しそうだったよ。歩美に伝えといてって言われたの」
「それは無理だな。歩美は騎手になるから」
「そうだったね」
御子柴は歩美が褒められて、なんだか誇らしい気持ちになる。
厩舎スタッフも出て来て、みんなで福原の機材を持って馬房に向かう。歩美が福原を案内する。馬房にアムロがいた。心なしか元気がない、脚が痛むのだろうか。
「電源はありますか?」
「100ボルトですよね。はい、あります」超音波診断装置を厩舎の電源につなぐ。
「先生、どんなことするの?」心配そうに歩美が聞く。
「エコーで脚を診る」
「右前足だよ」歩美がアムロの右足を指さす。福原がうなずいて笑顔になる。
それからは一通り触診や聴診器などで、アムロの身体や脚部の状況を確認してから、エコーで両前脚を診る。モニターは白黒でもやもやした画像だ。御子柴が見ても何が何やらよくわからない。福原はデータを記録しているようだ。
御子柴と村井が福原の作業を後ろから見ながら話をする。
「村井さん、獣医さんはいつもこんな感じですか?」
「ええ、屈腱炎はエコーで診断するのが一般的です。うちの獣医さんも同じです。でも福原先生の機械ほど進んでいないかもしれません。この機械は最新式じゃないでしょうか」
歩美が福原の隣で寄り添って見ている。歩美が福原に質問する。
「先生、どんな感じ?」
「うん、屈腱が変形しているね。あまりよくない」
「今も痛いみたいだよ」
「わかるよ」この先生は歩美の言葉をそのまま受け入れている。
「屈腱炎って治るんだよね」
「アムロの場合は断裂まで行ってないから、治すよ」
福原は治るよではなく、治すよと言ってくれた。これは期待が持てそうだ。
「そう!」歩美がうれしそうな顔をする。
「アムロを歩かせてみてください」
次にエコー診断をやめて歩かせてみるようだ。
「はい」村井も元気に返事をする。
村井がアムロを馬房から出して引き運動をする。福原は歩行の様子をビデオカメラで撮影している。福原が色々な機材を持って来たのがわかる。しばらく測定や観察を繰り返す。それが一通り終わり、報告会を厩舎でおこなうこととなった。まずは音頭を取って御子柴が話す。
「先生、どうでしょうか?」
「はい、細かい部分は研究室で再確認しますが、アムロは想像以上の馬でした。私が見る限り、ここまでのサラブレッドは見たことがない」
「そうでしょ」歩美が嬉しそうだ。御子柴も確認してみる。
「えーと、それは馬の能力ということでしょうか?」
「そうです。元々のポテンシャルが高い。そのため、足への負担が大きすぎるようです。まず蹄壁が薄い、それと蹄質もあまりよくない。よくないというか彼の走りに見合っていない」
「蹄壁って何ですか?」御子柴が確認する。
「ひづめの外側のことです。蹄壁が薄い馬は走るとも言われています。アムロの場合、その蹄壁が薄いから蹄鉄がうまく付けられていない。おそらくアムロは今までまともに走れていない」
福原の言葉に一同がびっくりする。そうだったのか。
「アメリカでは今はそういう馬のために接着装蹄が行われています。アムロもそれにします。それと腱の再生医療を行いましょう」
「再生医療って何?」歩美が聞く。福原がそれに答える。
「幹細胞を患部に注入し、正常な腱組織を再構築させます」
歩美はきょとんとしている。村井も似たようなものだ。仕方がないので御子柴が話を引き継ぐ。
「アムロ自身の幹細胞を取って、それを培養して患部に注入するということですね」
「そうです。今回の幹細胞は骨髄、脂肪組織から分離します。それを屈腱に注入して新たに最適な屈腱を作り出します」
村井厩舎の一同は今話した内容が日本語とは思っていない。何語を話しているんだろうといった風だ。御子柴のみが理解して質問する。
「蹄鉄はどうします」
「それも重要な要素です。この馬に最適な蹄鉄にしないと・・・それは私の方で用意して装蹄します。材質も試してみたいものがあります」
「それで、復帰まではどのくらいかかりますか?」
「早く治したいんですよね。そうですね、それでも半年はかかるかも、スケジュールを立ててみます。あとは馬の治癒能力次第です」
それでもアムロが再び走れるようになるかもしれない。村井厩舎に活気が戻ってくる。福原は研究室でデータ類を再検討して、また来るということだった。機材を再び詰め込んで村井が大学まで車で送る。
厩舎に残った歩美と御子柴が話す。
「ちとせ、なんか、凄い先生だな。中国語を話してたみたいだけど・・・」
「歩美、日本語だよ。あとで何を言ってたか、教えてあげるね。でもいい先生みたいだね。アムロは最強のサラブレッドなんだね」
「そうだよ。やっぱりそうだったんだ」
歩美がアムロの前で踊りながら彼に話しかけている。
「アムロ!治るって、また、走れるよ。お前は最強だって」
御子柴もまさに踊りだしたい気分だった。アムロまた走れるって。
2
阿部と岸田は超音波プローブの設計を続けていた。依頼されたプローブは簡易型のリニア形式のもので、構造などはそれほど難しくはない。それでも図面からでは読み取れないノウハウもあるようなので、試作品は3種類作って寸法などを確認することにした。
また、輸入製品ということもあり、持ってみたところ、外国人には適正な大きさでも日本人にとっては若干、大きいようだ。病院では使用者が女性の場合も多い。それで出来る限り小さめにかつ持ちやすい形状に変更した。
阿部の会社はプラスチックの成形と加工が得意なため、NC旋盤やNCフライスの自動機を持っている。NCとは加工機をコンピュータであらかじめプログラミングしてその通りに加工するもので、いったんプログラムすると同じ形状の加工を続けることが出来る。
職人が加工する工程を自動で勝手に機械がおこなうことが出来るものだ。そういった設備投資が資金繰りの難しさを生んだわけだが、そのため加工技術と生産性は秀でている。
今回は試作も自社でおこない、プラスチックをそのまま削って機械加工した。こういった工程を自分たちでおこなうことにより、納期も短縮することが出来る。
また、阿部は村井調教師からついに妻の失踪の秘密を指摘されてしまった。この製品が上手く言った時点では保険金の返却も含め、なんらかの対応と説明が必要になるだろう。
月末までにプローブの試作機は3種類作成した。それぞれ形状やセンサ類の微妙な寸法を変えたものになっている。工場内での試作品の動作試験は問題ないようだったが、本体の分析器部分とつないでの試験は先方でしか出来ない。
完成した試作機を持って、阿部たちが栗原医療機器に向かう。阿部と岸田はほとんど寝ていない状態が続いていたが、妙に目がさえていた。これがうまく行くか、行かないかで今後の阿部工業、さらには阿部の人生も大きく変わることになるからだ。阿部と岸田は二人とも無口になっている。寝てないせいもあるが、これからの最後の試作品評価に緊張が高まっている。
栗原医療機器ではいつもの購買砂原課長と下村技術課長、さらに技術の若い担当者の3名が参加していた。出来上がった試作プローブを見ながら話をする。
「いいですね。大きさも小さくしたんですね。うん、持ちやすいな」下村技術課長が話す。
「コードの出ている部分も保護ブッシュがついてますね。これだと断線が減るな。いままではこの部分がよく切れていたんですよ」技術の担当者がプローブのコードが出ている部分を見ながら話す。概ね高評価のようだ。
そしていよいよ本体とつないで測定を開始する。決められた試料の特性を測るようだ。
「これが基準の試料になります」
技術担当が超音波診断装置の性能を評価するための試料を出してくる。この試料で決められた性能がでるかを、プローブを動かしながら画面で確認する。
「なるほど、標準特性も出ています。うん、いいですよ」
阿部と岸田がほっとする。阿部が話す。
「今回、3種類の試作品を作りました。外観の違いもそれぞれにあるんですが、プローブの音響レンズと先端の距離をすこしずつ変えたものを作ってみました。センサーの受信部との適正な距離を知りたかったためです」
「ああ、そうなんですか、じゃあ、それぞれ試してみますか」
若手の技術者がそういいながら、3種類のプローブをそれぞれ測定してみる。確かに距離の違いで画像の見え方が変わるようだ。下村技術課長が驚く。
「ああ、なるほど、画像の見え方が変わりますね。これでいうとサンプルCが一番いいかな。いや、こういうこともあるのか」それについて若手の技術者が話す。
「今までも交換するとプローブで見え方が変わっていたんですよ。お客さんから問い合わせもあったんですが、よくわからなかった。多分、今までは製品ごとにこの距離にバラツキがあったのかもしれませんね。ところで阿部さんのところでこういった寸法精度は出せるんですか?」
「はい、寸法さえわかれば、適正に精度を出すことは可能です」
阿部工業の得意な分野だ。プラスチックであっても極限の寸法精度を出すことが出来る。成型機を使いこなしている強みでもある。
「そうですか、いやあ、いいなあ」
その後、基本動作を確認し、外観と色については栗原内で意見をまとめて回答することとなった。結果的には大成功であった。阿部と岸田は帰途につく。
「阿部さんよかったですね」
「うん、よかった」
阿部はほっとする。今までのどん底から少しづつ光が見えてきた。今までやってきたことがまったくの無駄ではなかったことになる。ひとつひとつのことを地道にやってきてよかった。そういえば昔、先輩などからよく聞いた話だが、人生においていい事と悪い事はそれぞれあって、全体として最終的な辻褄が合うことになっている。確かにこれまでが悪すぎた。そのつけを返してもらってるだけかもしれない。今はそう考えるようにしよう、そう思った。
その日の夜は阿部、岸田の二人とも久々に心から爆睡することができた。
3
福原碧は翌日、早速スケジュール表を持って村井厩舎を訪れた。
厩舎1階の打ち合わせ場所で話をしている。村井厩舎は村井、御手洗騎手、ごんじい、歩美が立ち会っている。村井厩舎の面々も福原が作ったスケジュール表を見ている。
「このスケジュール通りいけるかはアムロ次第ですが、目標は3カ月にしましょう。それでレースに復帰できるようにします。今日、早速アムロの幹細胞を収取します。そして1週間程度、培養してから細胞を注入します。これは数回に分けてやります。基本は1週間間隔で行います」
「わかりました」
「新しい蹄鉄の接着装蹄は今日、やります。それで軽い引き運動をやってみてください。歩美ちゃんはアムロに蹄鉄の様子を聞いてみてね」
「わかった」
「それから再腱ですが、屈腱炎のひどいのは右前脚ですが、左前脚も少し炎症を起こしています。なので、数回は左にも注入します。それで注入と同時にリハビリを行う必要があります」
「リハビリですか?」
「適正な屈腱にするためにある程度の運動をしないといけません」
「なるほど」
「ただ、いきなり人が乗るのはどうかと思っています。御手洗騎手は50kg以上ありますよね」
「はあ、頑張って50kgまでは減らせますけど」
「キャンターでいいんですが、本当は人が乗らずに馬が単独で走ってほしいぐらいです」
「歩美が乗る!」突然、歩美が目を輝かせて手を上げる。
「え、歩美ちゃん乗れるの?」
「キャンターで良ければ、大丈夫かと思います」村井が話す。
「えーと歩美ちゃんは体重どのくらい?」
「27kgかな。育ち盛りだけど」
「それならいいかな。歩美ちゃんキャンターできるね」
「もちろん、15ー15も出来るよ」
「こら!歩美だめだぞ」村井が慌てて止める。
実際、歩美は、15―15ぐらいで馬に乗ることも出来る。村井が見てないだけだ。御手洗は知っているがあえて言わない。
「わかりました。じゃあ、細胞注入後、1週間は歩美が毎日、キャンターをやって馬場を1周する。リハビリの後はクールダウンもやります。それで様子を見たいと思います」
「はい、わかりました」歩美の鼻息が一番荒い。
福原が接着装蹄をおこなうのを厩舎スタッフ全員が見学する。とちぎ競馬の装蹄師と同じようにアムロの脚を持って削蹄、接着剤の塗布、蹄鉄の装着までをおこなった。実に手際がいい。蹄鉄の加工も普通の装蹄師と同じように熟している。
福原がおこなったアムロの装蹄後を見ると、蹄と蹄鉄が完全に一体化しているかのようだった。今までの蹄鉄とは全く違っている。村井は感心しきりだった。装蹄のできる獣医とはまさに理想的だ。その上で大学の先生であり、最新の競走馬治療情報も持っている。福原はまさに競走馬治療には理想的な人だ。
それから、福原は度々、村井厩舎に顔を出してくれた。村井は何回か会ううちにこの女性が極端な人見知りであることがわかった。最初は顔を見て話ができなかったが、こうして数回会ううちに徐々に打ち解けてきた。
福原は計画通り幹細胞移植を使った再腱を進める。細胞の培養には約1週間かかっていた。
「通常、こういった再腱には半年から1年はかかるんですが、私の研究によると培養方法の見直しと適切な供給方法により効果も変わることがわかっています。アムロには私が考えうる最適な幹細胞移植を施します」
「それはすごい」村井が感心する。
福原による接着装蹄結果について歩美がアムロに聞いたところ具合がいいそうだ。
「接着装蹄はうまくいきましたので、今日から幹細胞を注射していきます」
福原はエコー診断装置を使いながら、馬房のアムロの脚に注射をしていく。歩美が聞く。
「伝説の先生、その画像を見ながら注射するんだ?」
「そう、一番効果の出る部位に注入したほうがいいからね」
「へー、そうなのか」
福原が手際よく注射を終え、歩美に感想を述べる。
「アムロは全然、動じないね。普通、注射しようとすると怖がる馬が多いのに」
「アムロはわかってるんだよ。早く脚を治したいんだ」
「そうか、頭が良いね」
福原はアムロの頭を撫でてやる。馬の扱いには慣れているようでアムロも嫌がらない。そして村井に向き直って言う。
「それでは村井さん最初の話の通り、明日から歩美がアムロに乗ってキャンターで馬場一周から始めてください」
「わかりました」
村井の心配そうな表情とは対照的に歩美の表情は輝いている。アムロにキャンターでも乗れるのを喜んでいる。
翌朝、とちぎ競馬のすべての馬の調教が終わり、最後にアムロのリハビリ調教が始まった。時間は朝の7時を過ぎている。普段、歩美は学校があるので調教には不参加だが、これは特別任務なので仕方がない。朝早く起きると歩美は授業中、居眠りをするそうだ。それで調教には参加させないようにしていた。今までは見学もさせなかったのだが、やむを得ない。村井も渋々了承した。
馬場に歩美が登場する。なんかぶかぶかの服を着ている。ヘルメットもしており、ちゃんと騎手の格好にはなっている。その様子を見て御手洗が気付く。
「歩美、その服はあれじゃねえか?」
村井も気が付いた。「よく、見つけてきたな。そんな古いやつ」
「これは昔、あまり活躍できなかった騎手の勝負服です。歩美が直したんだけど、まだぶかぶかだ、いいかな」
それは村井が騎手時代に着ていた勝負服だった。村井はとちぎ競馬で騎手としてデビューしたが、あまり活躍できずに30歳になってから調教師を目指し調教補佐から調教師になった経緯がある。たしかにほとんど活躍することもなかった勝負服である。それでも村井にとっては思い出の多い勝負服である。
ちなみに中央競馬と違って地方競馬は騎手が着る勝負服はその騎手特有のものになる。中央は競走馬ごとにオーナー指定の勝負服を着るが、地方はオーナーに限らず、騎手固定の勝負服だ。地方競馬にはそういった面に費用をかけられない事情がある。
「歩美、その勝負服に負けない騎乗をしろよ」御手洗が茶化す。村井が指示する。
「よし、歩美、キャンターだからな。無理させるなよ。アムロが壊れちゃうぞ」
「わかってるよ」
村井が持ち上げて歩美は器用にアムロにまたがる。村井が思う。思ったよりも歩美はしっかりと乗れている。あぶみの脚のかけ方も堂に行っているし、騎乗フォームもそれなりに見える。騎乗練習だけはしっかりやっているようだ。厩舎内の木馬にも始終乗っているし、御手洗から指導も受けているからかもしれない。勉強もこのぐらい熱心に取り組んでほしいものだ。
「アムロ、キャンターで一周回って来るよ。痛かったらやめるんだよ」
歩美の声にアムロがゆっくりと歩きだす。
「どう、アムロ、走れそう」
アムロが了解したようにキャンターをしだす。久しぶりのアムロの走りだ。
「アムロ、良い感じだね」歩美が話しかける。
確かにアムロは違和感なく走れているようだった。軽く一周を回って戻って来た。
「歩美、どんな感じだ」
「大丈夫、まだ痛いけど、蹄はいい感じだって」
「そうか、よかったな」
そしてそれから毎日、競馬場を1周だけキャンターをした。歩美はアムロがもっと走りたいと言っているのをなだめながら走らせた。そして1週間後に福原が再び、培養液を注入しに来た。いつものようにエコーで確認する。
「うん、いい傾向ですね。徐々に再腱出来ています。治りも思ったより早くなりそうですよ」
「伝説の先生、リハビリの効果が出てるの?」
「そうだね。いい感じだよ。騎手歩美、やるな」
「へへへ」
「歩美、学校で寝てるんじゃないだろうな」
村井の言葉に歩美が聞こえないふりをしている。実際、爆睡している模様だ。
「じゃあ、村井さん明日からはキャンターを2周に増やしましょう」
「わかりました」
そしてそれから、1週間ごとに培養液を注入、リハビリを繰り返した。福原は毎週、注射のタイミングで再腱の状態を確認していく。結果は至って順調だった。そしてリハビリも徐々に距離を伸ばしていく。2週目からは馬場を2周となり、週ごとに延ばしていくことができた。
そして村井厩舎でスタッフが集まり、今後のアムロのスケジュールを協議している。
村井が話す。「まだまだ、先の話になるけど、アムロのレーススケジュールを考えてみた。今はまだ夢の様な話になる」
一同、聞き入っている。歩美も参加している。
「最終目標は中央の有馬記念だ」
みんながきょとんとしている。歩美が話す。
「有馬記念って年末にやるレースだよね。紅白歌合戦みたいなやつ」村井は笑いながら、
「まあ、そんな感じかな。ただ、これは人気投票で選ばれるレースだから、アムロが選ばれるとは限らない」
「じゃあ、どうするの?」
「うん、その前に中央競馬のレースに出る」
「ふーん」歩美はよく分かっていない。御手洗が聞く。
「どこを使うんですか?」
「第一候補は毎日王冠だな。10月12日。これは東京競馬場で1800mだ。アムロは東京で走った経験があるから、ここが良いと思う。ここを勝ってみんなに認めてもらう。その結果で有馬記念だ」
「毎日王冠を勝ったら天皇賞も出られますよね」毎日王冠は秋の天皇賞のステップレースだ。御手洗がもっともな質問をする。
「そうだな。でもアムロにそこまで無理はさせられない。故障明けだしな。じっくり待って有馬まで使わない」
「なるほど」
「そしてその前にとちぎ競馬でも走る。まずは走れるところをみんなに見せないとな。それと地元で顔見世の意味もある。とちぎ競馬を盛り上げないと我々の義務が果たせないだろ」それには一同がうなずく。
「どこを使います」
「スプリンターズカップにしようと思う。1400mでとちぎ競馬じゃあ大レースだ」
「いいっすね。そこが復帰戦ですね」御手洗の顔も輝く。
「そうだ。9月1日だ」
「やりましょう!」みんなの意気があがる。
「それでアムロの状態はどうなんです?」御手洗が質問する。
「先生によると経過はいいみたいだ。予定通りに来ている」
「足はよくなってるみたいだよ」歩美が話す。
「そうだね。腫れとかもない。痛がる素振りも見せない」ごんじいの弁。
「俺が乗る調教はいつぐらいから出来るようになりますか?」
「最終的には先生の判断だが、8月には開始する予定だ」
「そりゃすごいな。もう2度と走れないって言われてた馬がそこまでになるんだ」調馬師の近藤が話す。村井が言う。
「うん、なんか蹄鉄も違うんだよ」
「接着だけじゃないのか?」
「鉄じゃあないんだよな。アルミらしいんだけど、形状も微妙に違ってるんだ。もちろん接着してるんだけど」
「最新の蹄鉄なんですね」
「そうらしいよ。アメリカ製らしい。それとあの先生、装蹄もできるから、なんか削蹄も普通じゃないんだよな。あの辺は伝説の装蹄師譲りなんじゃないのかな」
「へー、すごいんですね」
「先生が言うにはアムロは今世紀、いやいままでのサラブレッドを超える存在かもしれないってさ」
「すごいんですね」その御手洗の言葉に歩美が言う。
「武は今まで乗ってて気が付かなかったの?」
「気が付いてるよ。確かに今までとは全然、違う感触だよ。でもそこまですごいんだ」
「先生はアムロを全力で走らせたいんだって、そう言ってる」
「そうですね。おれもアムロの全力を見てみたいっす」
その後、みんなが帰って村井と歩美が二人になる。歩美が今まで聞けなかったことを聞く。
「とーちゃん、それで玲子ママの話はどうなったの?」
「そうだな。それを話さないといけない。歩美、約束を守れるか?」
「約束?」
「ああ、祐介君にはまだ、話をしないでほしいんだ」
「どういうこと?」
「うん、祐介君が動揺するとよくないと思うんだ」
「今も動揺してるよ」
「ああ、そうだよな」ここで村井が真剣な顔をする。
「お母さんは生きてるよ」
「やっぱりそうなんだ。祐ちゃんに教えないと」
「そうしてあげたいんだけど、今すぐには会えないみたいなんだ」
「どうして?」
「阿部さんが言うには少し待ってくれって言ってる」
「どうしてよ。よくわからないよ」歩美が泣きそうな顔をする。
「大人の事情ってやつだよ。でも生きてるって祐介に言うと、彼は会いたくて仕方ないだろ」
「そりゃそうだよ。あんなにお母さんに会いたがってるんだから」
「それが出来ないとなると、かわいそうだろ」
「でもどうして?」
「もう少し待ってくれって言ってる。オーナーがそう言ってるんだ」
「・・・・」歩美が不思議そうな顔をする、子供には難しすぎる話だ。
「俺が思うにお金の話だと思う」
「お金・・・」
「そうだ。だからアムロに頑張ってもらわないと」
「ちとせには何て言うんだ?」
「それもおれから話すよ。あと一か月したら話が出来ると思う。阿部さんがそう言ってる」
「祐ちゃんにも話が出来るのかな」
「どうだろうな。祐介君はお母さんに会いたくて仕方ないだろう、生きてるのがわかって会えないんじゃもっとかわいそうだ。それに彼は普通の状態じゃない」
「歩美は意味が分からないよ!大人の事情なんてくそくらえだ」
歩美は怒ってそのまま2階の自分の部屋まで行く。村井はつぶやく。
「ほんとだな。大人の事情なんてくそくらえだ」
4
いよいよ阿部はプローブの量産試作に取り掛かっていた。栗原医療機器から最終形状およびカラーリングについての承認が出て、さらに量産試作費用ももらうことが出来た。
いよいよ、樹脂成型用の金型製作に移る。プラスチックの成形には金型という金属の型が必要になる。それに樹脂を注入して同じものを何個も作る。金型加工には専用の機械が必要であり、阿部工業では製作出来ないために外部に委託した。阿部のなじみの金型専門業者があり、そこは以前メーカーにいたころからの旧知の中である。
そしてついに、ほぼ最終品と同じ形での量産試作品を作る段階に入った。
阿部工業ではプラスチックの成形はお手の物でそのための成形機も高額で購入していた。こういった資本投資が自らの首を絞めたのだが、そのために迅速に製品が立ち上がっていく。金型を受領し、阿部の会社で成形を進めていった。樹脂成型は阿部の本領発揮と言ったところである。最終品の成形を進めていく。試し打ちのサンプルを確認しながら岸田が話す。
「阿部さん、上々ですね。思ったより出来が良いです」
「そうだな。ファーストショット(一回目の成形品のことで、これから徐々に成形の条件出しをおこなっていく)からこの状態だったら、まったく問題ないだろう」
「すべてが順調で怖いぐらいですよ」
「そうだな。しかし、どこかに落とし穴があるかもな」
阿部は今までの経験から、マイナスの要素ばかりが浮かんでくる。
「まあ、いままで落とし穴だらけでしたからね。ここからはうまくいって欲しいです」
岸田の話に阿部がうなずく。たしかに昨年の今ごろは自身の運命を呪い、すべてをあきらめようとも思っていた。やはり、どこかで神様が辻褄を合わせてくれたのかもしれない。
「じゃあ、これで栗原に最終試作品を持って行きますか」
「よし、いくか」
阿部はこの段階で阿部工業の今後に目途が付き、村井と御子柴に話をする決意もできた。
実際、その後栗原医療機器から量産のゴーサインが出て、薬事申請に向けた最後の詰めにはいった。薬事認可までには時間もかかるので、本来の量産作業はまだ少し先になる。
さらに良いことに、今回の件で栗原から信頼を得て、追加の仕事も入って来た。医療機器の小物の成形品などがあり、そういった仕事も受けることになった。阿部工業の仕事が一気に増えた。規模とすれば数年前の最盛期と同等かそれ以上の仕事量となった。
5
8月にはいり、御子柴はアムロの再始動を受けて、ヒーロー誌の次月の特集記事を任されることになった。記事はとちぎ競馬での復帰戦を終えてのものになる。その中では復帰戦からの最終スケジュールだけでなく、祐介君の移植手術も含めての内容にするつもりだった。阿部オーナーの許可も必要だが、誌面には祐介君本人の話も載せていきたいと思慮していた。以前から現状の移植手術の課題について患者の実話を加えて書きたいと思っていた。
そんな時にまさにその阿部オーナーから御子柴に直接電話がはいった。
「はい、御子柴です。お世話様です」
『阿部です。こちらこそ、お世話になってます。御子柴さん、以前から懸案になってました例の件についてこちらからお話させていただきたいのですが、ご都合いかがでしょうか?』
御子柴には来たなという感じだった。
「阿部さん、それは奥さまの件でよろしいでしょうか?」
『そうです。当方から経緯などを話させてください』
「了解しました。こちらからお願いしたいこともありますので、面会はいつでも大丈夫です」
『そうですか、では、あさってはどうでしょうか?』
御子柴が手帳のスケジュールを確認する。
「大丈夫です。どちらに伺えばよろしいですか?」
『はい、御子柴さんには申し訳ないんですが、宇都宮までお越しいただいてもよろしいですか?』
「はい、大丈夫です」
阿部が指定したのは宇都宮の和食割烹屋だった。午後7時に集合との事で現地に向かう。
宇都宮からタクシーに乗ったが、運転手が困った顔をするので、どういうことかと思ったら、店は駅から1㎞ぐらいであっと言う間に着いた。お店は新装開店のようでそれほど大きくはないが、小綺麗な和食割烹といった体だった。引き戸になっている入り口から入る。店のおかみさんだろうか、年配の女性が顔を出す。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でしょうか?」
「はい、阿部で予約していると思います」
おかみは予約表を確認して、笑顔で話す。
「はい、皆さんお見えですよ」
御子柴が最後だったのか、奥の和室に通される。
「失礼します。お連れさんがお見えになりました」
和室のふすまを開けて御子柴が通される。10畳ほどの広さで中も落ち着いた雰囲気で居心地が良さそうだ。手前に座った女性が振り返る。御子柴は息をのむ、なんとその女性は玲子さんだった。御子柴は驚いたまま、立ち尽くす。
「御子柴さん、まず席について下さい」
にこやかな顔で阿部が話す。奥には村井がいる。同じくにこにこしている。御子柴が村井の隣に座る。すでにビールが出ており、村井たちは飲み始めているようだ。
「御子柴さんもどうぞ」阿部がビールを注ぐ。御子柴がコップを手に取って受ける。
「乾杯と言う気分でもないと思いますので、まずはよろしくお願いします」
阿部と玲子がお辞儀をする。「家内の玲子です」
「御子柴さんですか、この度は色々ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
テレビ番組と歩美の写真でしか見たことがなかった玲子だったが、実際はもっと若々しい雰囲気でとても40歳とは思えなかった。彼女が背負っていた重荷を取り払ったせいもあったのかもしれない。表情も吹っ切れた感じだった。
そうして阿部と玲子が話出した内容は次の様なものであった。
2年前の7月下旬に那須地方で集中豪雨が発生した。とにかく雨が数日間降り続き、災害の危険が高まっていた。玲子の両親は彼女の実家でもある那須に二人で住んでいた。家屋は昔からある平屋の一軒家だった。ご両親の祖父の時代に建てた家らしく、古い建物だったらしい。
雨は一向に止む気配もなく、いつ避難警報が出てもおかしくない状況だった。両親は高齢でもあり、避難が問題なく出来るのか心配になった玲子が様子を見に行くこととなった。大雨だったがなんとか、自家用車を使って現地に入り、両親と再会、避難指示がでればすぐに逃げようということになった。
そして17日の夜。降り続いていた雨が一旦小康状態になり、そのすきにと玲子は自家用車に置いてあった荷物を取りに自分の車に向かった。車は自宅から少し離れた駐車場に置いてあった。雨の勢いとは裏腹に実際は河川の状況は想像以上に悪かったようだ。車に着いたところで那珂川支流の余笹川などが一気に氾濫した。川沿いの玲子の実家は堤防の決壊と共に流されてしまった。駐車場からも洪水の被害がはっきりわかるほど、水の勢いは激しく、玲子は為す術もなかった。目の前で実家があっという間に濁流に飲み込まれ跡形もなくなってしまった。
河川の氾濫はその時点の雨の勢いではなく、少し遅れてくるもののようだった。特に決壊してからの水の勢いたるや想像を絶するものがある。玲子は何も出来ずに実家が流されていくのを見るしかなかった。さらに以降は水の勢いはさらに増し、いつ自分がいるところにも洪水が襲って来るかもわからない状態だった。それで少しでも山のほうへと高地に逃げ、そのまま夜を迎えることとなった。翌日になって濁流は止んだが、被害は甚大だった。死者・行方不明7名、家屋の全壊45棟など大きな災害となった。
そしてここからが今回の顛末の始まりである。市役所の発表で行方不明者の中に阿部玲子が記載されていた。どうやら、当日、実家に帰った玲子を見かけた知人が警察に通報したらしかった。家屋の損壊状況から、両親も含め、その時点では全員が行方不明の扱いになっていた。
そこで自分が生きていることを警察に連絡すればよかったが、この時は阿部の会社がいつ潰れるか分かない状況だったため、自分が死んだことになれば生命保険が下りるのではないかと余計なことを考えてしまった。そして玲子が阿部に電話をしてその話をする。阿部にしてみれば、事故にあったかもしれなかった玲子の無事を喜んだが、会社の実情を考えると玲子の提案は喉から手が出るほど欲しい話だった。
それで、二人で共謀して玲子を行方不明のままにして、保険金を受け取ることとした。実際、この保険金がなければ阿部の会社は翌年には倒産し、家族が路頭に迷うことにもなり、窮地を救ったことにもなった。
ただ、この時点では祐介は発病しておらず、会社が軌道にのれば保険金も返済し、なんとかなると甘く考えていた。しかし、阿部の会社の状況も一向に改善せず、さらには祐介の心臓病まで判明し、ますます阿部に金銭的な負担が増えてしまった。もう、取り返しがつかないところまで来てしまったのだ。そこからは現状を打開することが出来ず、玲子は身元を隠し、小樽での生活を続け、阿部も玲子を死んだものとして生活を続けることとなった。
それでも、祐介の病気は玲子には耐えられないほどの苦しみだった。なんとか息子の力になりたいと思いながらも、会えない日々は地獄の苦しみだった。そして今回、阿部の仕事に希望が見え始め、返済の目途が立ったことから、弁護士に相談し保険金を完済する方向で進むことになった。あとは保険会社の返答次第だが、弁護士の話だとおそらく返金さえすれば大きな罪には問われないのではないかとのことだった。
玲子が話す。
「小樽へは昔、旅行で行ってなんとなく住んでみたい場所ではありました。とにかく自分を知らない人がいるところということで行きました。それが意図せずに今回、テレビに映ってしまい。さらには祐介の目に触れてしまいました。この辺が潮時だったのかもしれません。主人から見つけられたと言われた時には正直、迷いました。もう早く止めにしようかとも思ったのですが・・・」
玲子が項垂れる。御子柴が話す。
「私は子供もいないし、偉そうなことを言う資格もありません。でも、やはり子供の事を優先するべきではないでしょうか?ましてや祐介君は重病です」
阿部夫婦は二人とも項垂れている。村井が助け舟を出す。
「そのとおりだよ。二人ともそれは分かってる。でも、祐介君の入院費だってお金がかかる。ましてや手術をすることを考えればお金はいくらあっても足りない。俺にはわかるよ。したくてしたわけじゃあないよ。玲子さんだって祐介に会いたい一心だったと思う」
ここで玲子がこらえきれずに号泣する。「祐介に会いたいです」
「仕事もうまくいきそうだったらもう止めにできますよね。保険金については弁護士に相談してるし、それ以外にもいい方法があるんじゃないですか、祐介君の手術費用は俺が何とかします」
阿部夫妻がびっくりする。村井は何を言い出したのか。
「あ、いや、おれの貯金はないよ。無いと言ったらおかしいか、歩美の分だから、そうじゃなくて、アムロが稼いでくれるさ」
「アムロがですか?」
「今、年内の競争スケジュールを立てています。出るレースすべて勝ったら、結構な賞金が入ります。祐介君の移植手術も可能になります」
「え、そうなんですか?」玲子がびっくりする。
「はい、多分・・・」
「村井さん、多分って、どのレースに使うんですか?」御子柴が確認する。
「とちぎのスプリンターズカップ、中央の毎日王冠、そして有馬記念です」
「ちょっと待ってください」御子柴が競馬資料を見ながら金額を確認する。
「とちぎのレースはたいしたことないけど、毎日王冠が6400万円、有馬記念が1億8千万円でその8割が馬主ですから、なるほど全部勝ったら2億円近くにはなりますね」
阿部夫妻が二人して目を丸くする。
「え、そんなにもらえるんですか?」阿部もそこまでとは思っていなかったようだ。
「そうです。ですからアメリカでの移植手術は可能です」
「あなた・・・」玲子が阿部を見る。
「勝てばの話だよ。競馬はそんなに甘いものじゃない」
「そうです。でもアムロは頑張りますよ」村井が言う。それについて御子柴がフォローする。「村井さん、アムロじゃなくてチームアムロですよね」
「うん、そうだ。みんなの力で祐介君を元気にするんだ」
たしかにまったく期待できない話でもないはずだ。アムロのけがが治り、レース復帰が可能になれば見れない夢でもない。御子柴が話す。
「有馬記念はファン投票で出場が決まります。うちの雑誌で今回のアムロの復活を特集します。そうすればみんなが応援してくれるかもしれません」
「それは虫がよすぎるよ。我々は犯罪も犯しているし」阿部が言う。
「ですから、その部分は早めに方を付けて下さい」
「はい、わかりました」
「それとこれは私からのお願いなんですが、祐介君をヒーロー誌に載せたいんです」
「どういうことですか?」阿部が心配そうに話す。
「アムロの特集の一環にはなりますが、今回、私としても移植手術の実情を調べました。日本の移植事情が海外と比較してここまで遅れているとは恥ずかしい話、よく知りませんでした。この現状をなんとかしたいんです」
「はい、われわれも今回、祐介の病気で初めて知った話です。日本では移植手術が必要な子供に未来がないんです」
「ほんとにそうですね。だから祐介君の話を誌面に載せてみんなに訴えたいんです。この国の移植をせめて世界と同じ水準にしてほしいと」
「わかりました。祐介に聞いてみます。本人が載ってもいいというなら、お願いします」
「それは当然です。祐介君に聞いてみてください」
「わかりました」
話が終わり、ひと段落となった。ここで珍しく村井が音頭を取る。
「じゃあ、ここで本当に乾杯しましょう」
みんなであらためて乾杯する。ああ、こういうビールはうまい、これで一安心だ。乾杯後、御子柴が村井に話す。
「そうそう、調教師の取り分は10%ですから、2000万は入りますよ」
村井がビールを吹く。「そんなにもらえるんですか?」
「知らなかったの?」
「いやあ、少しはもらえるのかなとは思いましたが、細かく計算してなかったから」
みんなが笑う。
「ところで奥様は今どこにおられるのですか?」
「はい、自宅に戻っています。外には出ないようにしてましたが・・・」
「玲子がなるべく早く祐介に会えるようにするよ」
阿部の提案に奥さんが大きくうなずく。
「歩美ちゃんも奥さんに会いたがってましたよ」
「私も歩美ちゃんに会いたいな。祐介のいい話し相手になってくれてたようだから」
「いいですね。幼なじみって。でももし結婚したら間違いなく、かかあ天下でしょうけどね」
みんなが笑う。すべてが吹っ切れた感じだ。御子柴もほっとする。
食事を終えて、御子柴が東京に戻るというと阿部が言う。
「御子柴さん、ホテルも予約してますよ」
「いえ、明日も仕事を抱えてますので、この時間ならいつもと同じ時間に自宅に帰れます」
「そうですか、いつも遅いんですね。それではお仕事頑張ってください」
「阿部さんこそ、頑張ってくださいね」
「はい、もちろんです」
「それでは失礼します」
御子柴が店を出て駅に向かう。駅まで近いのがわかったし、実際、見えている。帰りは歩きだ。すると誰かが近くに来た。村井だった。
「駅まで送ります」
「ああ、すいません」
「御子柴さん、色々ありがとうございました。今回の件もそうですが、御子柴さんと知り合ってなかったら、我々だけだったらここまで来れたかどうか・・・」
「そんなことないです。こっちも商売ですから、遠慮なく記事にさせてもらってます」
御子柴が笑顔を見せる。何となく村井は目を伏せる。
「歩美も御子柴さんに懐いてしまって、わがままな娘ですいません」
「小学生なんて相手にしたことがなかったから、こっちも童心に帰れてよかったです」
「はい」
二人で駅まで歩く。宇都宮駅の陸橋を渡り、改札口まで来て、御子柴が挨拶する。
「それじゃあ、また」
「はい、これからもよろしくお願いします」
村井は駅の階段を下りていく御子柴を見送ったまま、しばらく改札に佇んでいた。
「さあ、いよいよチームアムロ始動だな」
6
祐介が入院している大学病院。祐介は朝から落ち着かない。やっぱりお母さんは生きていた。ようやく今日、お母さんに会える。何故か一人で会うのが怖いので歩美に来てもらった。どうして怖いのかと思ったらこれが夢だったとなるのが怖いのだ。歩美がいれば、これは夢じゃない。そう思えた。
祐介のベッドわきに歩美がいる。
「祐ちゃん、あんまり興奮するのはよくないよ。心臓に悪いからね」
「わかってるよ」言いながら、すでに祐介の顔が赤くなって興奮気味だ。
「それから、お母さんは祐ちゃんに会いたくてしょうがなかったんだよ。でも、色々あって会えなかったんだから」
「それもわかってるって」祐介の顔がどんどん赤くなる。やっぱり興奮している。
「そうだ。アムロが走り出したよ。なんと歩美が乗ってるんだ」
「そうなの」歩美が乗ってることをもっと驚いて欲しいのに祐ちゃんは上の空だ。
「うん、伝説の先生が治療したおかげでアムロの脚が良くなってきたんだ。レースにも出られるんだよ」
「そうか・・・」やっぱり反応がない。さっきから外ばかり見ている。ここは3階の北側だから、入り口は見えないんだよ。まったく祐ちゃんは。
「お母さん、遅いな」
「病院の人に挨拶周りしてるんだよ。もう少しだよ」
「うん」
その時、病室の入り口に人影が見えた。祐介はそれが誰だか瞬時にわかった。
「おかあさん!」祐介がベッドから飛び出して落ちそうになる。それを歩美が支える。
それを見た玲子が駆け寄る。「祐介!」
親子が抱き合う。あとはただ涙で祐介は何度も何度もお母さんって呼ぶ。歩美ももらい泣きしてしまう。
「お母さん、ずっと僕のそばにいてよね」
「うん、ごめん、これからは何があっても祐介と一緒にいるから」
何故か、歩美はいたたまれなくなって、病室からひとり出る。入り口で阿部さんに会う。
「歩美ちゃん、どうした?」
「うん、ちょっとトイレ」
阿部が少し不思議そうな顔で歩美を見送る。
歩美はうらやましかった。祐ちゃんはお母さんに会える。自分はもう二度とお母さんには会えない。お母さんに会いたい。歩美には母親の記憶がほとんどない。幼稚園の年長になった時に母親は事故でなくなった。はっきりと記憶があるのは、母親の葬式の風景だ。お棺に入って動かなくなった母を見て、お別れを言うように言われた。何か悪夢のような思いしか残ってない。祐ちゃんが羨ましくてたまらなかった。
7
福原の再腱治療も1カ月を経過し、今はキャンターで馬場を3周するところまで来た。歩美がアムロに確認すると、もっと速く走りたいとのことだった。アムロの馬房で福原がエコーで確認する。画面をみながら福原が笑顔になる。
「村井さん、大丈夫です。適正な屈腱になってます。これなら御手洗騎手が乗っても大丈夫ですよ」
「そうですか、それはよかった」
「レースは9月ですよね」
「そうです。とちぎで走らせます。9月1日のスプリンターズカップです」
「うん、そこには間に合います。まずは明日から御手洗騎手が騎乗してみて、少し早めのキャンターで行きましょう」
「15―15まで行かないぐらいですね」
「そうです。ただ、アムロは力がありすぎるので15―15近くは走っちゃうかもしれません。なるべく抑えるようにしてください。そこは歩美が上手く話しをしてね」
「わかった。でもアムロは走りたくてしょうがないみたいだよ。脚も痛くないし、どうして我慢するのかって思ってる」
「うん、それはね。本番の有馬記念で勝つためなんだよ。そして祐介君を幸せにするためなんだ。今は我慢しないとだめ。そうアムロに話してね」
「そうか、わかった。歩美が説得するよ」
そして翌日からは御手洗が騎乗してキャンターを始めた。歩美がアムロに話をしたら、アムロは納得したみたいだった。素直に御手洗の手綱に応えて、15―15以下でキャンターをやっていた。歩美の騎乗はこれで終了となった。しかし、歩美はいつの日か騎手歩美が誕生することをぶかぶかの勝負服に誓っていた。
8
弁護士の仲介もあり、阿部オーナーと保険会社の保険料返済の件は折り合いが付いた。保険会社も今後の阿部との取引も見こせることから、返済計画に沿った形での対応で了承してくれた。
御子柴が依頼した祐介の取材も行っていいこととなった。祐介も母親を探すのを手伝ってくれた御子柴には並々ならぬ感謝の思いがあり、是非、御子柴と会いたいとの事だった。
病院に御子柴が着く。受付で面会者名簿にサインをし、祐介の病室に向かう。3階のナースステーションで部屋を確認して、病室に向かっていく。部屋に近づくと、中から祐介の声が聞こえてきた。母親がいるようで祐介は楽しそうでもある。
「失礼します」
部屋には玲子ママがいた。ベッドの脇に座っている。立ち上がって御子柴に挨拶する。
「御子柴さん、こんにちは。お見舞いありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、取材引き受けて頂いてありがとうございます」
お見舞いと言うより取材なので御子柴は恐縮する。御子柴が袋を差し出す。
「これ、どうぞ」出版社の近くにある割と人気のパティシエが作ったケーキをおみやげにした。
「わ、ケーキだ」祐介がうれしそうだ。
「祐ちゃん、ちゃんと挨拶なさい」
「御子柴さん、いつもお世話になってます」
祐介がぺこんとお辞儀する。御子柴と祐介が会うのは初めてだ。病気のせいもあるのか色白で、言い方は悪いが、いいとこのお坊ちゃまと言う感じだ。歩美の天真爛漫なガサツさとは全く異なる。この二人が友達というのも対照的で面白いと思う。
「こちらこそ、体調はどうなの?」
「今日は大丈夫だよ。最近はいいみたい」
母親と再会できたことがよかったのかもしれない。
「歩美と御子柴さんがいなかったら、お母さんと会えなかったんだから、御子柴さんは僕の恩人だよ」
「そんなんじゃないよ。歩美が頑張ったからだよ、気にしないでね。今日は色々、話を聞かせてください」
「はい、何でもどうぞ」祐介がにこっと笑う。
「まず、最初はアムロの話なんだけど、祐介君が北海道で見染めたんだよね」
「見染めたって?」
「気に入ったってこと」玲子ママが補足する。
「うんそう、でもあの頃はお父さんの会社が段々と悪くなってきたみたいで、お父さんは馬を買う気はあんまりなかったみたい」
「そうなの?でも村井調教師と阿部オーナーで馬を見に行ったんだよね」
「そうなんだけど、お父さんにすれば、どうしてもって言う話じゃなかったみたい。村井さんのほうが乗り気だったんだけど、おとうさんが僕にだけそう言ってた。凄く良い馬がいれば買うけど、もう難しいかもしれないって」
「そうか、でも色々、見てまわったんだよね」
「僕のためもあったんだよ。北海道旅行が目的で日高の知り合いの牧場を転々としてた。僕は北海道の牧場に行くのが初めてで、凄く楽しかった」
「祐介君は馬が好きなんだね」
「うん、でも今まで、おとうさんが買った馬はどれも走らなかったんだ。なんか、運が悪いって、村井さんも言ってた」
「そうなの?」ここで玲子ママがフォローする。
「そうなんですよ。村井さんの厩舎はとちぎでもリーディングの上位に来る成績なんですけど、阿部の馬はまったく走らなかったんです」
「確か、毎年買われてたんですよね」
「ちょうど、祐介が生まれたころですね。その頃から買い続けていました。基本は毎年1頭ぐらいを買ってました。まあ、そんなに高い馬は買えないんですけど、それにしてもまったく走らないのは不思議なくらいでした」
「それで、買う気がなかったけど、アムロを見つけたんだね」御子柴は祐介に話を戻す。
「おとうさんが買う気がないのは聞いてたんだけど、あの日、車で宿に戻る時だった。夕陽が落ちそうな頃に小泉牧場の前を走ってて、僕が見つけたんだ。夕陽に照らされててアムロがこっちを見てたんだ。僕が思わず、車を止めてって叫んだ」
「へー、なにかひらめいたのかな」
「うん、夕日の中に光ってる馬を見つけたんだ」
「光ってたんだ?」夕陽を受けてそう見えたのかな。
「うん、それで降ろしてもらってアムロに会ったんだ。最初からアムロが僕に近寄ってきて、僕を気に入ってくれたんだよ。あんなことは初めてだった」
「そうなんだ」
「おとうさんも僕の様子を見て、この仔馬、どうなんだろうって言いだして、村井さんが牧場に話をしてくれたんだ。そうしたら、値段も手ごろだし、買ってくれるってことになった。僕、嬉しくてさ」
「アムロのどこが気に入ったのかな?」
「僕が気に入ってアムロも僕を気に入ったんだよ」
「相思相愛ってことね。」祐介がきょとんとしている。玲子さんが説明する。
「ああ、お互いに好きってこと」
「そうそう」
「祐介君、ちょっと辛い話になるけど、君の発病とアムロのデビューは同じころになるのかな?」
「うん、そうだよ。体育の時間に走ってて急に苦しくなったんだ。それまではそんなことなかったのに急にだよ。目の前が真っ暗になって倒れたんだ」
「そう」
「検査をしたら、心臓の病気だって言われた。だから無理はできないって。それから体育は見学ばっかりだよ」
「アムロが厩舎に来たのはその頃だよね」
「僕が落ち込んでたら、厩舎にアムロが来てくれた。凄くうれしかったよ」
御子柴がメモを見ながら、確認する。
「ああ、でもその前年に玲子さんが行方不明になってるんだ」
祐介と玲子ママが顔を見合わせる。玲子が答える。
「そうです。前年の夏にはそういうことになりました」
「祐介君に辛いことが続いて起きたんだね」
「ほんとにお母さんがいなくなったことが一番、辛かった。毎日、泣いてたんだ」
「そうか」
「歩美がいなかったら、僕は死んでたかもしれない」玲子ママが涙を拭いている。
「この子には悪い事をしました。もっとも母親が必要な時期に雲隠れなんてしてしまって・・・」
「そして発病ですか、ほんとに辛いことばかり続いたんですね」
「そういう意味ですと、阿部の会社が悪くなってきたのも同じ時期だったんです。その年の春先に大口の仕事を受注していた会社が倒産してしまって、利益がほとんどなくなってしまいました。先の展望が全く見えない、このまま自己破産しかないというところまで追い詰められました」
「そうですか」
「阿部も必死で仕事を探していたんですが、世の中、不景気で新規の仕事をいただけなくて、いよいよ、終わりかもしれないという時に私の事件が起こったんです」
「そうですか。そして祐介君の発病ですね」
「本当に八方ふさがりで、今、考えれば自己破産でもなんでもしてゼロからスタートした方がよかったかもしれません」
「そういうお考えもあるかもしれませんが、でも今回、アムロが活躍してくれたわけですよね」
「そうですね。何か不思議な気持ちです」
「私も色々、話を聞いてきて、人生の浮き沈みを感じます。最悪の状態から、好転してきていますよね。悪い事が続くと、その分、埋め合わせで良いことも続くのは本当なのかもしれませんね」
「そうなってほしいです」御子柴が再び、祐介に向かう。
「祐介君、もう少しお話いいかな?」
祐介の状態を確認してみる。顔色はそれほど悪くはない。
「うん、大丈夫だよ」
「アムロが村井厩舎に来てからの話を聞きたいの。9月ごろに入厩してきたんだよね」
「そうだよ。僕も見に行ったんだ。アムロは僕を覚えていたみたいだった」
「え、そうなんだ」
「うん、歩美がそう言ってた。祐ちゃんを覚えてるみたいだって」
「そうか、アムロは頭がいいもんね」
「うん、そうなんだ。でも来たばっかりの頃はまだまだ子供みたいで、教えることも多かったみたい。村井さんが苦労してた」
「そうか」
「とにかく、僕は行ける時はアムロに会いに行った。色々、アムロと話をしたよ。家族の話とか、僕の病気の話とか、アムロは何でも聞いてくれてた」
「そうか、祐介君の友達になったのかな」
「そうだね。友達だよ」
「でも、レースは走らなかったんだね」
「そうなんだ。最初は全然、走らなかった。多分、アムロもどうしていいのかわからなかったんだ。レースすることをわかってなかった」
「競争するってことを分かってなかったということかな」
「そう、だから、レースの後は歩美と二人でアムロにレースの話をしたんだ。勝たないとだめだよって」
「それでも勝てなかった」
「うん、それで村井さんが北海道で再調教するって話になった」
「12月になってからだよね」
「確か、11月の終わりごろだったかな。僕の病気もよくならなくて、入院の話が出てたから、その頃かな。凄く寂しかったのを覚えてる。アムロがいなくなって話し相手が歩美ちゃんだけになったから」
「そして、年明けにアムロが戻って来た」
「そう、正月が開けてその次の週だったかな。アムロが帰って来たんだ」
「どんな感じだった」
「なんか、大人になった感じだった。ずいぶん、しっかりしたみたいで、歩美もびっくりしてた」
「そして連勝が始まったんだね」
「アムロに僕の気持ちが通じたんだ。病気も悪くなって学校にも行けないかもしれない。アムロに話をしたら、アムロが僕のために走るって言ってくれたんだ」
「歩美が話したんだよね」
「そう、歩美が話してくれた。僕の気持ちも歩美が伝えてくれたんだ。でもアムロは僕の話も分かってる気がしたよ。すごく頭がいいんだ」
「今、アムロは必死でリハビリしているよ。祐介君のために走るって言ってる」
「うん、僕はアムロが走ってるのを見るのが大好きなんだ。アムロは僕の代わりに走ってくれてるんだよ。もう僕は走れないかもしれないだろ」
この子は自分の命がなくなるかもしれないことを理解しているのか、あまりに残酷な話だ。
「祐介君、私は君に生きてほしいよ。移植手術をしてまた、走れるようになってほしい」
「ありがとう、そうなればいいな」
「うん、大丈夫。絶対そうなる。それでね、今度のヒーロー誌に祐介君の話と移植手術の今の状況を載せようと思ってる。祐介君はどう思う?」
「え、僕の話を載せるの?」
祐介が玲子ママの顔を見る。玲子ママがうなずいて祐介に話す。
「祐介はどう思う?いやならいいのよ」祐介が御子柴を見る。
「御子柴さん、それは移植を待ってる子供たちの話も書いてくれるってことだよね?」
「そうだよ、祐介君だけじゃなく、世界中に移植を希望している子供や大人がいることを書きたいの。今の日本はまだまだ、移植が行われていないことを書きたいんだ」
「うん、わかった。いいよ、書いても、僕みたいな子供がいなくなるようにしてほしい。誰も好きで病気になったわけじゃないし、移植手術もしたいわけじゃないけど、そうしないと生きていけないんだもの」
「うん、少しでもそういって悩んでる人がいなくなるようにしたい」
「御子柴さんがんばって」
本人の許可が出た。その後は祐介に病気についてもインタビューを続けた。
一通り、取材を終えて後は御子柴がどうやってこの件を記事にするかだ。祐介とアムロの絆と心臓病に悩む少年の気持ち、現在の移植状況などを読者に伝えないとならない、御子柴の課題は何とも大きなものだ。