第三章 二〇〇三年五月~六月
第三章 二〇〇三年五月~六月
1
青葉賞の翌日である。アムロは村井厩舎に戻り、とちぎ競馬獣医師の検査を受けている。周囲には厩舎関係者である村井、歩美、御手洗、ごんじいと近藤が全員集まって結果を心配げに確認している。
馬の屈腱炎診査には超音波診断が行われる。いわゆるエコー検査というもので超音波を使って足の筋肉の状態を確認するものだ。獣医がプローブを使ってアムロの屈腱付近の状態を確認している。その映像はプローブがつながっている本体側の画面に表示される。医師が話す。
「屈腱炎ですね。断裂まではしていませんが、屈腱が変形しています」
以前も故障した右前脚である。外から見ても腫れがわかるまでに悪化している。
「先生、もう走ることは難しいですか?」村井が聞く。
「そうですね。この状態だと無理かと思います。再発ですしね」
その結論に周囲の全員が肩を落とす。
最終結果は屈腱炎でこれ以上の競争はできないと診断された。競争能力喪失である。
村井厩舎は火が消えたようになった。
「残念だけど、これで引退するしかないな」村井が話す。
「とーちゃん、アムロはどうなるの?」歩美が心配そうに言う。ほとんど泣きそうだ。
「阿部さんからは話を聞いてないけど、どうなるかな。種牡馬ってわけにはいかないだろうな。そこまでの実績がない」
「本当にもう走れないのかな」
「多分、無理だな。元々、屈腱炎の兆候があって無理強いしないようにしてきたけど、もう限界だったんだ」
厩舎の全員言葉がない。歩美が話す。
「これから、阿部さんと祐ちゃんが来るって言ってる」
「そうか」
しばらくして阿部オーナーが祐介と来た。村井たちが迎える。祐介がどうしてもアムロに会いたいということで医師の許可をもらったそうだ。みんながアムロの周りで見守る。
馬房でアムロはじっとしている。
祐介がアムロに近づく。
「アムロ、大丈夫?」
アムロが首を上下に振る。アムロは祐介のことがわかっている。祐介が来たことを喜んでいるようだ。祐介がアムロの顔に自分の顔を寄せる。
「アムロ、痛い?僕のために頑張ってくれたんだよね。ありがとうね」
アムロはじっとしている。
「アムロは僕の代わりに走ったんだよね。元気に走れるところを見せたかったんだよね」
アムロの鼻づらに祐介の涙がつたう。アムロはいやがらない。そのままにしている。
歩美も後ろで泣いている。村井も涙をこらえて阿部オーナーに話をする。
「獣医の話だと、もう、競走馬としては絶望的だそうです」
「そうですか・・・」
阿部は二の句が継げない。アムロをどうすればいいのか、阿部に金銭的な余裕はない。
「でもね。青葉賞でアムロががんばってくれたおかげで会社がつぶれずに済みました」
「そうですか」
3着でも賞金が出る。手形の納期が迫っていた阿部の会社には貴重なお金だった。
「祐介にとってアムロは友達以上のものがあります。アムロをどうするかは少し時間をください」
「わかりました」
阿部はアムロと祐介の関係を知っている。心筋症を患っている祐介は運動することが出来ない。ましてや走ることさえ止められている。そんな彼の代わりとなって走るのがアムロだ。そしてアムロもそれに応えていた。走れなくなったアムロはこれで祐介と同じ状況になった。それで処分するのはあまりにむごすぎる。
各人がそれぞれの思いを持って、アムロの馬房にたたずんでいた。
翌日、とちぎ競馬からアムロの屈腱炎発症が発表された。さらに引退の可能性が大きい旨も付け加えられていた。とちぎ競馬自体も火が消えたようになった。それこそ、アムロはとちぎ競馬にとっても希望の星だった。
橋本らとちぎ競馬の関係者が続々と厩舎に訪れる。そのたびに村井が獣医師の診察結果を説明することとなった。アムロの今後についての結論を早めに出す必要もあった。
歩美が祐介の病院にいる。なんとか、祐介の力になれないのかと思って歩美は来た。
アムロの屈腱炎の知らせを聞いてから、祐介はずっとふさぎ込んでいた。アムロはもう走れない。このまま引退してしまう。これから、自分は何をよりどころにしていけばいいのか、希望がないことが辛かった。アムロとともに自分も死んでしまうのかもしれない。そういう考えに支配されつつあった。
歩美もどうすることもできない。ただ、二人とも黙っているだけだった。阿部オーナーも手形の急場はしのいだものの相変わらず忙しく、お見舞いも頻繁には来れないようだ。歩美が色々な話をするが、祐介には響かない。ただ、ベッドで呆然としているだけだ。看護師の安西が来ても祐介にあんまり反応がなかった。成す術がない。
結局、会話がないまま、歩美が病院から厩舎に帰ってくると妙に騒がしい。何事かと中に入ると村井と御子柴おばさんがいた。さらにこんな時なのに御子柴の機嫌がいい。
「歩美ちゃんおかえり」
「ただいま。どうしたの?」
「歩美、御子柴さんが伝説の獣医さんに話をしてくれたんだ」
「伝説の獣医さん?」
「正確には伝説の装蹄師のお孫さんの獣医さん」
「何か長いな。誰なの?」
「うん、福原碧さんという獣医さんなんだけど、その先生がアムロを診てくれるって言ってるの」
「え、じゃあアムロ治るの?」
「それはまだわからない。でも可能性はゼロじゃないって言ってる」
歩美の顔が輝く。「ほんとに!」
御子柴は今回のアムロ屈腱炎発症のニュースを聞く前から、9月の帰国を待たずにケンタッキー大学で研修中の宇都宮大学の福原碧と連絡を取っていた。
福原は現地で研究中のため、手が離せないがアムロの資料を見たところ、非常に興味のある案件であると述べていた。御子柴とはメールでのやり取りだったが、アムロの詳細情報とともにレース映像や全身の動きなどの画像データも送ってあった。
そして今回の屈腱炎再発のニュースである。早速、その旨のメールを送ったところ、日本に戻ってから力になれるかも知れないとの返答をもらうことができた。御子柴は引退を決意したという村井にこの情報を連絡しなければと厩舎に来たのだ。あきらめるな。まだ、望みはあるのだ。
「その獣医さん、正確には宇都宮大学の先生なんだけど、屈腱炎の治療を研究しているみたいなの。アムロについても治るかもしれないとは言ってくれてる」
「すごい」
「それと、その人が言うにはアムロの競走馬としてのポテンシャルに驚いてるの」
「ポテンシャルって何?」
「ああ、元々アムロが持っている力という意味。それが桁違いなんじゃないかって言うの」
「そんなの歩美だってわかってるよ。アムロは桁違いだよ」
「うん、そうだね。それでその力がありすぎて脚が耐えらえれないんじゃないかって言ってるの」
「そうか」
「ただ、治す方法はあるかもしれないって」
「そうなの、それはすごい!で、いつ来るのその伝説の先生は?」
「今、アメリカにいて研究中だから7月には帰って来るって」
「あと、二月も先じゃんか」歩美が口をとがらせる。
「そう言わないで、本当は9月に帰国予定だったんだけど、早めてくれたんだよ。ちょっと待ってみようよ」
村井が期待を込めた顔で言う。「御子柴さん色々すみませんでした。アムロが治る可能性があるということなら、それまで俺たちもアムロに何ができるか試してみますよ」
「はい、お願いします」
村井厩舎では少しでも可能性が見えたために、アムロの引退は撤回し、治療を継続することにした。
屈腱炎は幹部の冷却が一番で、水を使って冷やすことを中心に圧迫肢巻の装着などを行うこととした。基本は冷却である。どの程度の効果があるかはわからないが、少しでもこれからのアムロの治療に貢献できればとの思いだった。
2
それから数日後、歩美が祐介の病院にアムロが治ることを報告に行く。受付に名前を記載し、いつものように祐介の病室を訪ねる。病室に入ったとたん、歩美を見た祐介がベッドから飛び起きた。
「歩美ちゃん、大変だ!」祐介の様子がただ事ではない。
歩美が思う。祐介がアムロの復活を知ってるのかな。いったいだれが話したんだ?
「どうしたの?」
「おかあさんが生きてる」
「え、どういうこと。だってお母さんは洪水で死んだんじゃないの?」
「それが間違いだったんだよ」
「どういうことなの?」
興奮気味の祐介の話によると、今朝、テレビを見ていたら、朝の情報番組でゴールデンウィークの観光地の様子を見せていたそうだ。祐介はぼんやりとその画面を見ていた。しばらくして、その画面の端に母親によく似た人が映ったそうだ。それから真剣に画面を見たが、二度とその女性が映ることはなかったそうだ。
「それ、どこの観光地だったの?」
「わからないんだ」
「わからないって、何か覚えてないの?」
「えーと、朝の番組で僕、ぼーっと見ていたからどこだか、よくわからない」
「どこのチャンネル?」
「たしか、4チャンネルだった」
「わかった。調べてみる。あ、おとうさんに話をしたの?」
「電話したんだけど、つながらなかった。また、あとで連絡してみる」
「うん、わかった。私、こうしちゃいられない」
歩美が病室を出るが、すぐにそのまま戻って来た。
「歩美ちゃんどうしたの?」
「大事な話を忘れてた。アムロが治りそうなんだよ」
「え、そうなの?」祐介の顔は増々輝く。
「伝説の装蹄師の孫の獣医が治せるって言ってるんだ」治せるとは言ってないが、まあいいか。
「ほんとに!それはすごい」
「でしょ、ただ、今、アメリカにいてあと二月先になるみたいなんだ」
「でも、治るんでしょ?」
「うん」
「やった!また、アムロが走れる」祐介は心底うれしそうだ。歩美もその顔を見て幸せな気持ちになる。再び病室を出て、看護ステーションに顔を出し看護師に声をかける。
「すみません。4チャンネルに電話したいんだけど、どうすればいい?」
中から看護師の安西さんが出てくる。「何?歩美ちゃん、どうしたの?」
歩美が事情を話す。
「本当にそうなの?だってお母さん行方不明なんでしょ、生きてたらすぐ帰ってくるんじゃないの?」
「ああ、そうか、それもそうだよね」安西に言われて、歩美が祐介の病室に戻る。
「祐ちゃん、もし玲子ママだとしたら帰ってくるんじゃないかって」
「それはそうだけど、ほら記憶喪失とかになってるかもしれないじゃないか」
「ああ、それもそうか」
歩美は再び看護ステーションに向かおうとするが、そこに安西さんが入ってくる。
「祐介君、気持ちはわかるけど、ちょっと落ち着いてね。おとうさんに相談してからにしようよ」
「ああ、うん。わかった」
安西さんにそうは言われたものの、その後も歩美と祐介は二人でお母さんを見つけるためにどうするかを検討する。まずはお父さんに話をしてからなのだが、二人とも居ても立っても居られないのだ。母親を早くに亡くした歩美にとっては、祐介の母親は二人目のお母さんのような存在だった。玲子ママといって慕っていた。もし、生きているとしたらなんとしても見つけないと。
厩舎に戻って夕食を取りながら歩美が村井に話す。
「玲子ママは記憶喪失になってるんだ。洪水のショックで自分が誰だかわからなくなってさ」
「それで、どこにいるんだ?那須にいるのか?」
「それがわからないんだよ。今朝の4チャンネルに映ったらしいってことはわかってるんだけど、どうやって確かめたらいいの?」
「どうなのかな。テレビ局に電話するしかないのかな。でも本当に玲子ママなのか?祐介君も少しだけ見ただけなんだろ。俺も生きてたら、すぐ帰ってくると思うぞ。記憶喪失だったら病院に入るだろ、なんかそんな話は昔のドラマか映画でみたぞ」
「そこは何か事情があってさ」
「どんな事情だ?」
「うーーーん、大人の事情」
「なんだ、それは」
歩美は返事が出来ない。確かにどうして帰って来ないんだろうと思う。祐ちゃんに会いたくないのか、謎だ。
「4チャンネルに電話をしないと」
「テレビ局がそんなの相手にしてくれないぞ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「とにかく、落ちつきなさい。多分、他人の空似だと思うけど、その番組を見ている人は多いから、とちぎの厩舎関係者で見た人がいないか聞いてみるよ。録画してる人がいたらいいけど、それは難しいだろうな」
「そうか、なんとかその番組を見てみたいなあ」
「そんな全番組を録画してる人なんかいないからな、テレビ局なら別だけどな」
その話で歩美が何か思いつく。「出版社とかはどうなの?」
「出版社?どうかな、一応、業界は業界だけど・・・」話しながら今度は村井が気付く。
「あ、歩美、御子柴さんはだめだからな。迷惑だからやめときなさいよ。とにかく俺が周りに当たってみるから、それからにしなさい」
歩美が納得したようには思えなかったが、とにかくその場を切り抜けないと、どう考えても玲子ママが生きているとは思えなかった。おそらく祐介が母親恋しさから似た人を画面で見つけてそれが母親だと思い込んだんだろう。ましてや今、祐介は失意のどん底だ。少しでも希望を見つけたい心が幻を見たとしか思えない。
そしてその日の夜に、歩美に病院の祐介から電話が入る。
「祐ちゃん、どうしたの?こんな遅い時間に大丈夫なの?」
『歩美、助けてよ。お父さんが違うって言うんだ。お母さんじゃないって』
「どういうこと?」
『お父さんにお母さんがテレビに映ったって話をしたんだけど、お母さんじゃないって調べもしないで言うんだよ』
「え、そうなの?どうしてかな、それはおかしいよ」
『そう思うだろ、全国には似た人がいる。お母さんは亡くなったんだって』
歩美が考える。どうしたらいいんだろうか。
『歩美、助けてよ。僕はここから動けないし、お母さんを探しに行けない』
もう、祐介は半泣き状態だ。ここは歩美が何とかしないと、
「祐ちゃん、歩美に任せてよ。なんとかする」
『うん、ありがとう』
なんとかしないと、歩美は少し考えてから、こういう話は大人の業界人だと思い、やはり御子柴に連絡をしようと思った。ただ、とーちゃんには知られないようにしないと、何かとうるさそうだ。
翌日、歩美は学校から帰って、とーちゃんがいないことを確認してから、家の中を探す。たしか、御子柴の名刺をもらっていたはずだ。厩舎内のいつもの棚に名刺が入っているはずで、そこを探すとたしかにあった。もらったばかりなので一番、上に置いてあった。とーちゃんも甘いな、これでは歩美に電話をしなさいと言うようなもんだ。よし、これで電話が出来る。歩美は早速、ヒーロー編集部に電話をする。
「もしもし、ヒーローですか?私、村井歩美といいます。御子柴さんをお願いします」
電話を受けた人間が怪訝そうな声でどういう用件ですかと聞く。こんな小さい子から御子柴宛に電話が来るのは明らかにおかしい。
「はい、わたしはとちぎ競馬で調教師をしている村井の娘です。御子柴さんに相談があります」
村井調教師ということで納得したようで、しばらく待つと御子柴が出た。
『もしもし、歩美ちゃん?どうしたの?』
「祐介君のお母さんが生きてるかもしれない」
『え、どういうことなの?』
「あのね、昨日の4チャンネルに玲子ママが映ってたんだよ」
『???』
歩美が玲子ママの話をするが、子供の話なので内容確認に時間が掛かる。しばらく話してようやく理解できた。
『わかった。テレビに映ったって言うのね。まずはその確認をしてみましょう。昨日の朝の4チャンネルね。ちょっと待っててね。いったん切るよ』
「御子柴さん、ありがとう」
いったん、電話を切る。歩美はしてやったりの表情だ。
ちょうど村井が厩舎に戻って来た。
「歩美、お帰り、あれ、電話してたのか?」
歩美は名刺を後ろに隠す。「うん、祐ちゃんとこに話があって電話してた」
「そうか、ああ、そうだ。色々、周りの人に聞いてみたけど、玲子ママを見た人はいなかったぞ」
「そうなの、ちゃんと聞いたの?」
歩美が疑いのまなざしで見る。村井は思う、この娘は亡くなった嫁と似たところがある。村井の嘘には敏感だ。実際は昔なじみの調教師に世間話の一環で確認しただけだった。その調教師は6チャンネルを見てたと言っていた。
「もちろんだよ。誰に聞いても映ってなかったって言ってたよ」
「そうなの」
歩美は疑いのまなざしをやめない。村井が居づらくなって席を外す。歩美はそのすきに名刺を棚に戻す。歩美は思う、いずれにしろ御子柴おばさんが確認してくれる。それで玲子ママが発見されるはずだ。
出版社であっても各テレビの放送内容は全局分、録画している。御子柴は早速、昨日の朝の4チャンネルのテレビ番組を確認してみる。歩美の言うゴールデンウィークの観光地特集は朝の情報番組で確かにやっていた。
ただ、御子柴にはどこのシーンに映っているかが良く分からない。玲子ママをよく知らないこともあって、御子柴は番組を全部録画して歩美の所まで持って行くことにした。
その夜、村井厩舎に電話をする。村井は歩美から事情を聴いていないようでびっくりしていた。とにかく、明日、そちらに行くと話を付けた。御子柴もその後のアムロ情報を入手する目的もある。
村井は電話を切って、歩美をにらむ。
「歩美、やっぱり電話したんだな。あれほど、止めるようにいったのに」
「だって、祐ちゃんが可愛そうなんだもん。とーちゃんも見つけられなかっただろ」
「まあ、それはそうだけど」
「とにかく、番組を見てみたいんだよ、頼むよ」
「明日、御子柴さんが来てくれるって、助かったな」
「うん、意外と御子柴っていいやつかも」
「いいやつって、良い人だろ。まったく歩美は。あと、おばさんはだめだからな。お姉さん」
「わかったよ」
そして翌日、御子柴が村井厩舎を訪ねてきた。
「御子柴さん、わざわざすいません」
「はい、アムロの取材にかこつけて来てます。一応、その番組を録画したものを持ってきました。私も見てみたんですけど、祐介君のお母さんの顔を知らないのでどの方なのかがわかりません」
「わかりました。早速見てみましょう」
御子柴がDVDを村井に渡す。早速、再生してみる。厩舎のテレビ、20インチぐらいだろうか、それに情報番組が映る。
「多分、7時頃から始まる観光地特集だと思うんですが」
「なるほど」
村井が早送りをしながら、画面を確認している。画面上の時間が7時をすぎて確かに観光地特集が始まった。全国各地の観光地の案内のようだ。色々な地方が映っている。
しばらく、そのまま見ていると、歩美が気付いた。
「あ、いた!本当にいたよ」
「どこにいた?」
画面は北海道の小樽を紹介していた。村井が巻き戻す。
「そこで話している男の人の後ろにいる」
小樽の朝市を紹介している。売り場の男性がインタビューを受けていて、そこの画面の後ろに映りこんでいる女性がそうだと言っている。ただ、横顔で画面としても小さいものだ。
「この人が祐介君のお母さんですか?村井さんどう思います?」
「どうかな、確かに似ている気はしますが、違うといえばそうとも言えるし、この画面だけではよくわかりませんね」
「とーちゃん、これは玲子ママだよ。祐ちゃんと私は間違いないと思うよ」
「祐介君のお母さんの写真か何かある?」御子柴は質問する。
「あるよ。ちょっと待ってて」歩美が2階に走る。村井が御子柴に話をする。
「すみません。無理ばかり言いまして」
「いえ、大丈夫です」
「祐介君の母親は歩美にとっても大事な人なんですよ。あいつは5歳のころに母親を亡くしてるんで、祐介の母親を自分のお母さんみたいに思ってるところもあるんです」
「そうですか」
「はい、良く面倒も見てもらって。実際、水難事故で行方不明の時も探しに行くって聞かなかったんですよ」
「洪水でしたよね」
「そうです。当時、那須地方に大雨警報が出ていて、玲子さんの実家は那須なんです。御両親は高齢だったんですが那須に二人で住んでいて、雨が止まないので洪水の恐れがあるということで、彼女が心配して実家に帰ったんです。そうしたらあの被害にあってしまった。阿部オーナーも帰すんじゃなかったって悔やんでいました」
「そうですか。確か御家族全員亡くなったんですよね」
「そうです。ご両親と玲子さんです。両親の遺体は見つかったんですが、玲子さんはついに発見されなかったんです」
「確か、まだ、今も3名の方が行方不明のままだと聞いています」
「そうらしいです。相当な洪水だったらしく、堤防が決壊して一気に水が押し寄せたんだそうです」
そこに歩美が戻ってくる。「この人だよ」
歩美が差し出した写真は歩美と玲子さんが二人で映っているものだった。歩美が玲子さんの腕にからみついている。これだけでもこの娘の玲子さんへの愛情がわかる。御子柴も玲子さんが生きていれば自分の家に戻るはずだと思うが、子供たちの思いに応えてあげたいとも思った。村井が話す。
「事情は呑み込めましたので、この動画を借りていいですか?阿部オーナーにも見てもらいます」
「はい、この?Ⅴ?は差し上げますのでいくらでも見てください」
「はい、ありがとうございます」
「それと、アムロの様子を確認させてください」
「はい、どうぞ」
アムロの馬房に御子柴が立ち寄る。前足のバンテージが痛々しい。
「今は脚部の冷却を中心にやっています。あとはいま付けてるでしょ、バンテージで圧迫、それから獣医からは抗炎症剤をもらうことにもしています」
「炎症を止める薬ですか?」
「そうです。飼い葉に混ぜて供与することになると思います。私も初めてなので暗中模索です。まあ、やれることはすべてやるつもりです」
「歩美ちゃん、アムロはなんて言ってるの?」
「走るつもりだよ。足は痛いけど、また走るって言ってる」
御子柴は思う、本当にそんなことがあるのだろうか、馬は痛いと走らないはずだ。
「村井さん、運動は何かしているんですか?」
「引き運動だけはやるようにしています。何もしないと太る一方ですから」
「そうですか」
アムロは馬房でじっとしている。ただ、歩美の言うようにアムロからは走る意志のようなものを感じてしまう。
御子柴が社に戻って一仕事を終える。夕方になって再度、情報番組の画像を確認してみる。社のモニターは大型で拡大機能もある。朝市の画面でインタビューアの後ろに映りこんでいる女性を拡大してみると、確かに写真の人に似ている気がする。小さい画像でもあるし、髪型も写真とは違うので御子柴には同じ人物とは断定できなかったが、似ていることはわかる。まあ、母親恋しさからちょっとだけ似ている人でも母親のように思うのかもしれない。ましてや、その観光地は北海道だ。北海道小樽の朝市。栃木とは関連性が薄い。
そしてそれから数日後、編集部に再び電話が入る。歩美から御子柴あてだった。
「どうしたの?」
『うん、御子柴さん助けてよ』
「え、何?」
『私と祐ちゃんは玲子ママだって言うんだけど、祐ちゃんのお父さんは違うって、それと、北海道の小樽の朝市に電話もしたんだけど、そういう人はいないって言うんだ』
「二人ともお母さんだと思うの?」
『多分、間違いないよ』
「多分なの?」
『いや、絶対!』歩美の必死の声が受話器に響く。鼓膜に悪い。
「わかった。私からもお父さんに話をしてみるよ」
仕方なく御子柴は夜になってから阿部オーナーに電話する。
「御子柴です。例の奥様の画像の件なんですが」
『はい、御子柴さんにも面倒掛けました。息子たちにも話をしたんですが、信じてくれなくて困ってます』
「つまりはご本人ではないということですね」
『ええ、他人の空似です。よく似た人が全国には3人ぐらいいるっていいますよね。一応、小樽の市場の方にも確認を取ったんですが、そういう名前の人はいないって話でした』
「そうですか、わかりました」
『子供にとってはどうしても母親が生きてるって思いたいんでしょうが、現実を理解してもらわないと困ります。私から何度か説得しているんですが、聞き分けてくれません。御子柴さんも冷たいようですが、あきらめるように言ってください。色々、面倒をかけてすみません。それでは』
電話を切る。御子柴は何か少し違和感を感じる。子供たちと父親の思いが違い過ぎる。夫婦仲でも悪かったのかな、などと勘ぐってしまうほどだった。
3
阿部は資金繰りに追われながらも新規得意先の開拓も怠らなかった。アムロの賞金のおかげで急場はしのいだが、手形期限との自転車操業が続いていた。とにかくどんな小さな仕事であっても話があれば取引に結びつけようとしていた。阿部工業の社員も前向きに対応してくれている。社員全員の期待に応えたい気持ちも強い。
そんな忙しい中、夕方になって少し時間が空いたので祐介の病院に行く。看護ステーションの脇を通るところで何やら騒がしい。看護師がナースステーション内に数人集まっている。阿部が話かける。
「どうか、されましたか?」
ナースステーションから看護師が出てきて、
「あ、すいません。お騒がせしてます」
見ると何か点滴の器具が外れており、薬液らしきものが床に散乱している。
「困るのよね、これが外れやすくて」
点滴とスタンドをつなぐジョイント(継ぎ手)が外れている。
「見ても良いですか?」
「え、いいですけど・・・」
阿部がナースステーション内にはいって機械を見る。
「ああ、私、こういう機器を見ると直したくなるんです」
阿部が器具を確認してみる。樹脂製のジョイントの構造が緩いのがわかる。これだとケーブルを保持しても自重で外れやすくなる。そしてふと気づく、これだったらうちでも作れる。阿部がその樹脂製のジョイントを力で変形させる。それだけでケーブルとのフィッティングがよくなり、外れにくくなった。阿部は点滴袋を少し下側に引いて強度が上がったことを確認する。
「また、時間がたつと元に戻るでしょうけど、しばらくは大丈夫ですよ」
「あら、ほんとしっかりした」看護師が驚く。
「今度、うちの工場で部品を作ってきましょうか?」
「そういうことが出来るんですか?ええ、やってもらえるとうれしいな。こんなんで時間を無駄に使うのはもったいないのよね」
「少し寸法を測りますね」
阿部はカバンからノギスを取り出してパイプやジョイントの寸法を測って手帳に書き込む。祐介の病室を目指して歩きながら、ふと考える。意外と病院の設備には盲点があるかもしれない。阿部工業は今まで医療機器の分野については今までアプローチしていなかった。何かうちが出来る仕事が医療機器にあるかもしれない。
翌日、会社で岸田に話をすると彼も興味を持ってくれた。
「確かに今までは事務機器メーカーや電機メーカーを今までの伝手で探してましたけど、医療分野は未知数でしたね」
「そうなんだ。医療機器と聞くとハードルが高い気がしてきたけど、実際、現場で使ってる装置なんか見てると思ったより、いい加減な仕事をしているのが多い気がするんだ」
「やってみましょうよ。アタックするだけならタダですから」
岸田に前向きな意見が聞けて、阿部もやる気になった。
それで手分けして、県内の医療機器メーカーに飛び込みで電話することにした。一日かかって1件程度の面会まで取り付けるがそこからうまく仕事に結びつかない。そんなことを続けていて1週間たった頃にようやく、可能性のある業者に当たった。とりあえす面会してからとのことで、宇都宮市内の先方まで出かけることにした。
そこは主に海外の医療機器を輸入販売している会社で、自社で内作化を進めたい案件があるそうだった。面会前にその会社の情報を調べると業績は問題なく、利益も十二分に上げていた。阿部工業にとってはなんとか仕事に結び付けたい案件だった。
そこは栗原医療機器という会社で従業員は100名近い。宇都宮市内にある現地に着くと割と新しい3階建ての自社ビルがあった。面会は阿部と岸田で行った。
「けっこう大きい会社だな」
「はい、自社ビルのようですね。仕事がうまく取れればいいな」
玄関を通り、一階は総務関連なのだろうか、前の席にいる女性に話をする。アポイントの旨を伝え、一階の打ち合わせスペースに通された。
テーブルに対し、2個ずつの椅子が対面で4個あり、会議場所がパーティションで区切られている。そういったスペースが4,5個存在している。さらに今はそのスペースがほぼ埋まっており、この会社の景気の良さが伺える。商談の際に担当者の笑い声も聞こえ、切羽詰まった阿部工業と比較すると何とも羨ましい限りだった。
二人が椅子に座り、緊張の面持ちで待つ。しばらくして担当が来た。阿部と同じ歳ぐらいの40歳は越えている、割と恰幅のいい男性だった。
「はい、どうもこんにちは、砂原です」
名刺交換をおこなう。購買課長とあった。
「あとで技術の人間も呼びます」
「はい、よろしくお願いします」
砂原からカタログを見せられた。どうやら超音波診断装置のようだ。
「電話で話をした限りでは、阿部工業さんは今までは事務機器をやっていたそうですね」
「そうです。大型のプロッターなどのアセンブリー部品の設計、製造までやらせてもらっていました」
「えーと、取引先はショルパ精工さんだったよね。今はもう無くなったんだよね」
「そうです。残念ながら会社は倒産してしまいました」
「それで、新たな取引先を探していこうというところですか?」
「はい、御社のお手伝いができればと思っています」
阿部は必死だ。砂原は阿部工業のパンフレットを見ながら、淡々と話を進めていく。阿部と岸田は砂原から今回の案件でもある医療機器のカタログを見ている。
「今、阿部さんがご覧になっている超音波診断装置ね。当社でこの装置を輸入販売してるんですよ。それで、この機械に使ってるプローブなんだけど、これを自社で作ろうとしてるんです」
「プローブですか」
確かに箱型でモニターが付いている本体とそこからコードが伸びた先にプローブがある。ゲーム機のリモコンのようなものだ。
「病院の検査で使ったことないですかね。エコー検査装置とかいうやつ」
「はい、あります」
「あれは超音波を使ってその反射波を画像にするんですよ。?線だとうまく映らない内臓とかを写すんだけどね。うちは海外からそれを輸入販売しているんですが、プローブは消耗品なんでよく部品交換をするんですよ。そこそこ交換の頻度も多くてね。輸入するのに時間もかかるし、ぶっちゃけ良く壊れるんですよ。輸送費を考えると割に合わないんで、プローブだけは自社開発しようということになって今回の話になってます」
プラスチック製でもあり、阿部のところでも作れそうだ。
「このプローブのセンサも設計するんでしょうか?」
「今の所、センサは複雑なんで輸入品をそのまま使おうと思ってます。それを入れるケースとコード類を内作します。コードもプローブの根元からよく断線するんですよ」
阿部がカタログを見ると、確かにプローブ本体からコードがむき出しで出ていて、コードを保護するスリーブなどもない。これだと確かに耐久性に問題がありそうだ。
「そうですか」
「そういった改善も併せてやろうと思ってます。ああ、実はほかにもあたっててね。コストがあわないのと、精度が出ない問題もあってね。うまく行ってないんですよ。お宅でやれるんだったらやってほしいんだけどね」
「はい、是非、やらせてください」
「そう、じゃあ今、技術担当を呼んで図面なんかも見せるから、とりあえず、見積作ってよ。組立てもできるんだよね」
「ええ、大丈夫です。それで数量はどのくらいなんでしょうか?」
「今のところ、毎月100台以上は出てるね。増えていく傾向があるからそういうところも考慮してよ」
「はい、わかりました」
これはなかなか良い案件かもしれない。阿部は俄然、やる気になる。
「じゃあ、技術の人間を呼ぶね」
課長さんが技術担当を呼びに行った。そこに来た技術課長は下村という人間で、現物や図面と注意事項を阿部たちと確認した。その下村技術課長が話をする。
「あとですね。この製品は医療機器なんで薬事法を取る必要があります。御社はそういった体制は取れますか?」
阿部達が以前いた会社も国際規格であるⅠSOを取得しており、その観点から阿部工業も起業時にそういった体制に準拠はしていた。
「工場で国際規格を取得はしていませんが、当社はⅠSO規格に準拠した体制にはなっています。すみませんが薬事法についてはよくわかっていません」
「そうですか、国際規格に準拠してるんだったらなんとかなるかな、そういった点もおいおいお願いすると思いますよ。文書類や記録の管理が必須になります」
「はい、わかりました」
基本的な話を終え、阿部達が会社に戻る。車の中で二人が話す。
「阿部さん、やっと良さそうな案件に出会えましたね」
「そうだな。うまくいけばいいけどな。うちとしては是非やりたい仕事だよ。早速、検討しよう。月産100個は魅力的だな」
それからは二人で図面とサンプルを前にプローブの設計、検討をおこなう。見積納期は短納期で一週間しかない。栗原医療機器はそういった対応内容も評価項目にしているようだった。
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御子柴は連休中も青葉賞やその後の取材活動で出勤となったため、代休が取れることになった。さてどこに遊びに行こうかと思ったところ、またもや歩美から電話が入った。
「歩美ちゃん?どうかしたの?」
『お願いがあるの』
「何かな」
『うん、私と北海道に行って欲しいんだけど』
「どういうこと?」
歩美の話はこうだった。祐介は母親が別人だという阿部オーナーの話が信じられず、自分が小樽に行って確かめたいと泣いて歩美に話したそうだ。しかし祐介が行くのは到底、無理な話で、それで歩美が代わりに小樽に行くことを祐介に約束したそうだ。
当然、村井は猛反対する。歩美も歩美で一歩も引かない。しばらく話し合いが続いた結果、村井も折れて、交換条件として誰か大人の人が一緒なら良いということになった。それで御子柴に電話したそうだ。
「歩美ちゃん、他に頼める人はいなかったの?」
『だってみんな馬の世話があるし、そこまで暇・・・あっ』
「私が暇ってことね」まったく素直な子だ。いつもブラブラ厩舎に来るから暇だと思われてるのか。
『ごめんなさい』
「まあ、いいわ、ちょうどアムロの牧場にも行って見たかったし、他の牧場にも取材予定があるから、仕事がてら行くかな。いつ行く予定なの?」
『御子柴さんに合わせる。でも早い方が良いな』
「じゃあ、来週の土日で行くかな。学校はどうする」
『一日休むよ』
「ちょっと引っかかるけど、まあいいか、了解。じゃあ、切符はこっちで取るね。それとお金は請求するからね。お父さんに言っといて」
『うん、ありがとう』
御子柴は電話を切って考える。なんかノリで仕事を受けてしまったが、他人の子供を預かって旅行なんてしていいのだろうか、後から冷や汗が出てきた。そしてその日の夜、村井から御子柴に謝りの電話が来た。
『御子柴さん、すいません、歩美が無理を言ったそうで、断ってくれるものだろうと思ってました』
やっぱりそうだよな。普通は断るよな。なんか歩美に乗せられた気がする。
「そうですか、まあ、取材もあるのでそんなに気にしないで良いですよ。それより私が保護者でいいんですか?」
『大丈夫です。何かあったら遠慮なく体罰でもなんでもやっちゃってください』
また、このお父さんはとんでもない事を言っている。
「それと歩美さんの旅費と宿泊費は払ってもらいますよ」
『はい、本来は御子柴さんの分も含めてこちらでお払いするべきなんでしょうが・・・』
「それはいいですよ。うちは取材もあるんで、じゃあ、金額は後で話をしますね」
『はい、本当にありがとうございます』
そして、御子柴の方で航空券と宿の手配をすませる。
さらに御子柴はアムロの生まれ故郷の小泉牧場に電話を入れる。ちょうど、仔馬も生まれて一段落との事で取材は構わないこととなった。他にこの秋に備えて北海道で休養中の有力馬動向も取材するために大手牧場関係者にも確認の電話を入れた。
その有力馬の中でも一番の目的は先日のダービーで2着に惜敗したモヒートの取材だ。故郷でもある北海道の白老牧場で休養し、秋に備えているはずだ。藤枝調教師は3歳馬ながらモヒートは菊花賞に向かわず、秋の天皇賞に使うと公言しており、秋に向かってどのように進化していくのかを見極めたかった。青葉賞でアムロとの対戦もあったので、何かモヒートには因縁めいたものを感じていた。
土曜日の朝一番の飛行機に乗るため、宇都宮から出発だと間に合わない。歩美は前日から御子柴のアパートに泊まることになった。
村井はこのことにも恐縮しきりだった。御子柴の自宅アパートは中央線の武蔵境駅で子供にそこまで来させるのは難しいので、会社帰りに新宿駅まで迎えに行った。2001年から湘南新宿ラインが運行し、宇都宮から新宿までは子供でも問題なく行けると思った。それでも一人でちゃんと来られるか少し冷や冷やしたが、今の子供は電車慣れしている。予定通りに新宿駅のホームに歩美が来た。
「おばちゃん!あっ、おねえちゃん」
「こんばんは、あのね、歩美ちゃん、おばちゃんでもいいのよ。あっそうだ、名前で呼んでよ。私はちとせって名前なんだ」
「ちとせね。わかった」
「呼び捨てでいいからね。ち・と・せ」
「ちとせ。いい名前だね」歩美が笑う。この娘の笑顔を初めて見た気がする。
中央線に乗り替え武蔵境駅に行く。車中でも祐介の母親の話が続く。子供たち二人の考えはこうだ。玲子ママは洪水にあったあと、ショックで記憶喪失になって北海道まで流れ着いたということだった。どうやって北海道まで行ったのかがよくわからない、どこかのアニメかドラマなんかの影響だろうか、実際、そういったことが起きたという話は今まで聞いたことがない。どうして北海道なのかの説明が希薄だが子供の話だ。
アムロの取材を通して仲良くなった子供たちのたっての希望なので、これも何かの縁だと思って付き合うことにしたが、御子柴はあまり子供と縁がない。田舎に帰れば、親戚の子供がいて、会話はするが、遊んだり何日間も一緒にいた覚えがない。果たして自分自身に母性なるものがあるのかどうかも疑わしいところだ。
晩御飯は御子柴が行きつけの駅前の定食屋にした。御子柴は基本、自炊はしない。出版社近くで食べるか飲むか、武蔵境だとコンビニ弁当かここの定食屋になる。歩美はカレーライスを食べていた。御子柴は焼肉定食とビールだ。
歩美の話は止まらない。とちぎ競馬の話やら厩舎の人の面白話、村井の話や学校の話。
この娘はとにかくおしゃべりで元気だ。御子柴が聞きたかったことを聞いてみる。
「そうだ。歩美ちゃんのお母さんはいつ亡くなったの?」
「あゆみでいいよ。歩美が5歳の時に交通事故で亡くなったんだ。小さかったからあんまり覚えてない」
「そうなんだ」
「でも祐介のお母さん、玲子ママが歩美の面倒を見てくれたんだ。だから歩美も玲子ママがいなくなって寂しかった。記憶喪失って治るのかな」
この娘は相変わらず記憶喪失と決めつけている。
「どうだろ、今は医学も進歩してるから大丈夫じゃない」御子柴も根拠のない話をする。
「そうだよね。うん」
アパートに戻った時点で9時過ぎだったが、歩美はそのまま寝てしまった。まあ、宇都宮から武蔵境の旅行はそれなりに疲れたんだろうな。御子柴は小樽への道順と牧場への行き方を地図を見ながら検討する。空港からはレンタカーで行くことにして、予約を入れた。御子柴も気疲れしたのか早めに寝ることにした。
翌日は朝から大騒ぎだった。歩美は飛行機に乗るのが初めてだそうで、興奮の極みであった。御子柴は小学校の先生に同情する。こんな子供が30人以上もいるわけだ。気が休まらないだろう。
羽田空港までは浜松町からモノレールで行った。歩美はまずはモノレールに感動する。
「ちとせ、モノレールって初めて乗るよ。なんか面白いね。空中に浮いてるみたいだ」
窓から外を見ては、はしゃいでいる。途中、大井競馬場を通る時には大興奮だった。
「競馬場だ。こんなところにも競馬場がある」
「ここは南関東競馬だね。大井競馬場、とちぎ競馬と同じ、地方競馬だよ」
「へー、でもとちぎより全然大きいな」
羽田空港に着いても、ちょっとした遊園地気分である。
たしかにみやげ物屋も多いし、子供には楽しそうな場所だ。羽田は空港を拡張中で2004年には第2旅客ターミナルが完成する。海外にも行きやすくなるし、ますます、使い勝手がよくなるはずだ。
飛行機の出発時間が迫っているので、空港カウンターに急ぐ、チケットを出し、荷物を預ける。そしてそのまま、出発ロビーに向かう。歩美は妙に緊張している。
「歩美、緊張してるの?」
「うん、飛行機に乗るの初めてだから」
「大丈夫だよ。北海道まではあっという間だからね」
「うん。でもさ、あんな大きな飛行機が飛ぶのが信じられない」
ロビーから見える飛行機を見ながら話すが、確かに御子柴もあんな金属の塊が飛ぶことが若干不思議ではある。しかし特にそういったことを子供に説明する知識はない。御子柴は文系出身で数学、物理はからっきしだめだった。
いよいよ、搭乗手続きになる。ロビーから通路を通って、飛行機に乗り込む。歩美は興味津々だ。まわりをきょろきょろ見ている。飛行機はボーイング777で朝早い便だったので運よく窓際が取れた。二人掛けの席に座る。
「歩美は窓際ね」
「うん、ありがとう。あ!座席にテレビがついてる。すごいね」
「あんまり、見る時間は無いと思うよ。あっという間だから」
歩美は窓から外を見ている。御子柴は自分の子供の頃を思い出すが、最初に飛行機に乗った記憶が曖昧だ。ひょっとすると高校時代の修学旅行が最初だったかもしれない。その時も北海道旅行だった気がする。
客室乗務員がシートベルトや救命胴衣の説明を始める。御子柴が見ると歩美はすべての事に集中している。救命胴衣など使ったこともないが、この説明は規則なんだろうな。歩美が真剣に緊急事態に備えている。いざとなったら歩美に聞こう。
そしていよいよ離陸である。歩美の興奮は絶頂を迎えつつある。ジェットエンジンの回転数が上がるとともに歩美の顔つきが変わるのが面白い。飛行機が動き出す。歩美は自分のシートを両手で掴んでいる。そして加速、さらに離陸していく。飛行機が滑走路を離れた瞬間。
「とんだあ!」
歩美が叫ぶ。近くにいた乗客が笑っている。御子柴も気持ちはわかる。確かに飛んだな。歩美は窓から外を見て大興奮だ。
「ちとせ、すごいすごい、どんどん陸地が離れていくよ」
御子柴は早起きのせいで眠気が襲ってきた。飛行機の様に高度が上がると人間は眠くなる気がする。ただ、隣の客人のせいで眠れない。次から次へと質問やら自分の話やらがどんどん出てくる。この娘はこの若さですでにおばちゃんの領域に達している。
御子柴はふと自分が歩美の頃のことを考える。果たして自分は歩美の様に快活な幼少期だっただろうか、長野の山奥でけっこう鬱積した小学校時代を過ごしてきた印象しかない。それとも大人から見れば、こんな感じだったのだろうか、今度、田舎に帰ったら母親に確認してみようと思った。
そしてやはり、あっという間に新千歳空港に到着する。1時間もかからなかった気がする。機内アナウンスが流れる。当機はまもなく新千歳空港に到着いたします。
「ちとせ、しんちとせくうこうだって、ちとせの名前はここから取ったのか?」
「違うよ。ちとせって漢字で書くと千の歳って書くんだ。私の名前はひらがなだけどね。それは千年も歳を取れる、長生きするって意味で縁起がいい名前なんだよ」
「へー、そうなのか、この空港も縁起がいいんだな」
ちょっと違う気がするが、あえて訂正しないでそのままにした。
千歳空港でレンタカーを借りる。ここから小樽までは高速道路を使えば1時間ちょっとで着く。レンタカーに乗ったら歩美は寝てしまった。今まで興奮しすぎだっちゅうねん。
道央自動車道を走る。
御子柴も小樽は初めてだった。北海道はやはりいい。特にこの新緑の季節はすがすがしい。車で走っても外の景色は自然が多く、気持ちがいい。小樽にもあっという間に着いた。
市内の駐車場に車を止めて、小樽の街を歩いてみる。港から海も見える。栃木県は海がない。歩美は海を見ただけでも大騒ぎだ。
「ちとせ、海だ!この川は何なの?」
「運河だね。昔は船で品物を運んだんだよ」
「運河って何?」
「人間が作った、人工の川って意味」
「へー、きれいだね」
確かに小樽の運河はきれいで、運河沿いに倉庫らしき建物が続いている。倉庫には蔦がからまっており、運河の光景と合わせて何か芸術性を感じさせる造形物である。
まずは旅の目的である母親探しだ。
テレビ中継していたのは小樽の鱗友朝市らしい。一応、テレビ局にも確認は取った。メイン通りである北運河の一番近くにある市場である。朝市は4時からやっているらしいが、すでに昼前なのでそれなりのにぎわいになっていた。つまりは閑散としている。
市場の関係者に話を聞く、予想では人探しに難航するはずだったが、実にあっさり見つかった。というか、写真の人物を知っているという人がすぐに見つかった。
御子柴が朝市にいた販売員に写真を見せたところ、
「ああ、知ってるよ。佐藤さんだね」
「佐藤さんって言うんですか?」
「佐藤みゆきだったかな、その先の鳴海屋っていう食堂で働いてた」
「働いてた?」
「最近になって辞めたんだ。田舎に用が出来たような話だったよ。鳴海屋さんに聞けばわかるよ」
女性は佐藤みゆきと言う名前で、仕事は食堂で買い出しや給仕などをしていたそうだ。しかし、辞めたとは残念な話だ。
「歩美、名前が違うけど玲子ママなのかな」
「佐藤みゆきか、なんでそんな名前になってるのかな」
少し記憶喪失疑惑が薄れたようで、歩美の調子が狂ったようだ。さらに辞めてしまったとなるとその後はどうなったんだろう。まずはその食堂に行って見る。朝市にある鳴海屋は小さく、カウンター席があり、テーブル席が一つで10人も入ればいっぱいになりそうな大きさだった。
「すみません、ちょっとお話を伺いたいんですが?」
「はい、何でしょう?」店のおかみさんが出てくる。60歳近いのだろうか年配の人だった。これから昼食が始まる時間前だったので店は閑散としていた。
「実は人を探していまして、こちらで働いていたと聞きました」
おかみさんは御子柴と歩美を不思議そうに見る。
「はい」
「この女性なんですが、ご存じないですか?」歩美と玲子ママが映った写真を見せる。
「ああ、わかります。佐藤さんね」
やはり即答だ。似てることは似てると言うことになる。
「実はこちらで働いていた女性がこの娘の知り合いじゃないかと思ってまして」
「あらら、そうなの」歩美を見る。歩美が質問する。
「この人、記憶喪失じゃなかった?」
「え、記憶喪失?そんなんじゃなかったわよ。しっかりしていた」
「佐藤みゆきさんと言う名前だったそうですね」
「そうですよ」
おかみさんは少し怪訝な顔をする。
「今はもうおられないんですか?」
御子柴の話で、よくぞ聞いてくれましたといった表情になりおかみさんが話す。
「そうなのよ。先週になって急に国に帰るって言いだしてね」
「そうだったんですか?田舎はどちらっておっしゃってましたか?」
「確か、東京のほうじゃなかったかな」
「少し経緯を聞かせていただきたいんですが、よろしいですか?」
「はい、いいですよ」
「佐藤さんはどういったことでこちらに来られたんですか?」
「2年前から働いてもらってたのよ。店でアルバイトを募集しててね。店は小さいけどけっこうやることもあって人手が足りないのよ。それで働きたいということで来てもらったの」
2年前からというと行方不明の時期と一致はする。
「お住まいはこの近くだったんですか?」
「そうよ。この近くのアパートに住んでたわ。このお嬢さんと知り合いだったのね」
「このひと、玲子さんだよ」
「え?」それを御子柴がフォローする。
「まだ、よくわかりませんが、よく似た人なのか、名前を変えて働いていたのか、その辺を調べているんです」
「・・・」おかみさんは不思議そうな顔をする。
「何か、思いつくことはないですか?」
「そうね。とっても気が利く人でこっちも助かってたのよ。料理も手伝ってもらったりしてね。不自然なところはなかったわね」
「小樽にはどうやって来たって言ってましたか?」
「昔、観光で来たことがあって、東京で仕事を辞めてこっちで働きたかったって聞いたのよ。嘘とは思えなかったな」
「東京ではどんな仕事をされていたんですかね」
「普通のOLさんだって聞いたわよ。仕事が嫌になったとかで辞めてこっちに来たって聞いてたわ。独身だそうよ。結婚願望はないって言ってたな」
「そうですか」
その話で歩美が複雑な顔をしている。
「ああ、でもね。子供は好きみたいだったわね。よくお子さんが来ると、うまく相手をしてたから、結婚願望がないのにって思ったわね」
「こちらで働きだした正確な日付はわかりますか?」
「ああ、ちょっと待ってね」
おかみさんは店の奥に入っていく。歩美が話す。
「ちとせ、どういうことなの?わけわかんないよ。玲子ママだよ」
「うん、ちょっと待ってね」
確かに色々違和感満載ではある。もし仮に佐藤みゆきという別人がいたとしても、いかにも胡散臭い内容だ。
おかみさんが店の奥からノートを持ってきた。
「平成13年の9月からね。正確には17日から働いてもらってるわね」
御子柴がメモを取る。
「わかりました。すみません。あと他に何か気が付いたようなことはないですか?」
おかみさんが少し考えて、「特にはないわね」
「そうですか。ああ、おかみさん、佐藤さんの連絡先はわかりますか?」
「それがね、後で電話するって行ったきり、連絡がないのよ。どうしたのかね。ずいぶん慌ててたから、田舎で何かあったのかとは思ってたんだけど、いまだに何の連絡もないのはおかしい気はしてたのよ」
「そうですか、履歴書とかはないですよね」
「住所は書いてあったかも、ちょっと待ってね」
再び、奥から履歴書を取ってくる。履歴書にあった東京の住所をメモする。
「色々、ありがとうございました」
「そうね。何かわかったら私にも教えてね」
「はい、わかりました。あと、お昼ご飯を頂けますか?」
「はい、どうぞ、何でも注文してくださいね」
食事するには丁度いい時間でもあるし、話を聞いてくれたお礼も兼てだ。店の壁にある献立一覧を見る。
「歩美、何にする?」
「カレーはないな」
「歩美はカレーが好きなんだね。やっぱり北海道なら海鮮丼じゃないの?」
「じゃあ、それでいい」
「おかみさん、海鮮丼二つで」
「はい」
御子柴と歩美はそのまま、食堂でお昼を頂く、出てきたのは新鮮な海鮮丼でこれはうまかった。
「ちとせ、小樽の海鮮丼はおいしいな。こんなおいしい丼もの初めて食べたよ。カレーよりもうまいかもしれない」
栃木県は海がないから、特に北海道の海鮮はうまく感じるのかもしれない。
御子柴はまずは編集部に電話を入れる。さきほどの佐藤みゆきの住所の確認だ。しばらく待つと、やはりそういった住所はないようだ。町名までは正しいが以降の番地に該当するものがないらしい。偽の住所を書いたということだ。
その後、店を出て、おかみさんから聞いた佐藤みゆきが住んでいたというアパートを確認する。普通の木造モルタルの2階建てで、アパートの前に不動産屋の看板もあった。電話番号も記載されており、御子柴がその不動産屋に電話をしてみる。すぐ近くにあるそうで、訪ねてみた。
不動産屋は年配の親父が一人で仕事をしていた。そんなに需要があるわけではないんだろうな。暇そうだ。
「すみません、さきほど電話したものです」
「はい」老眼鏡だろうか、眼鏡をずらしてレンズの上側から眼をのぞかせる。
「近くのアパートに住んでいた佐藤みゆきさんについて知りたいのですが?」
「佐藤さん?」
「この女性なんですが」御子柴が写真を見せる。
「覚えてないな」つれない感じだ。
ただ、御子柴もジャーナリストの端くれだ。こういう手合いの扱いは慣れている。財布からお金を出して、親父にそれとなく見せながら封筒に入れる。
「すみません、手土産を持ってこなかったのでこれで何か食べてください」
とたんに不動産屋の顔つきが笑顔になる。
「ああ、そうかい。それで誰だっけ?」あっさり封筒を受け取って話す。
「佐藤みゆきさんです。近くのアパートに住んでいて最近、出ていかれた方です」
「ちょっと待ってね」
対応が全然変わる。親父は店の奥の棚からファイルを出してくる。そのファイルを確認しながら、
「えーと、個人情報なんで見せるわけにはいかないんだけど・・・」
「ああ、東京の住所はこれと同じですか?」
御子柴が先ほど、食堂で聞いた住所を見せる。
「うん、そうだね」
「連絡先はわかりますか?」
「電話番号はないって言うんだ。携帯も持ってなかったな」
やはり、個人の特定を避けている。電話も携帯もないし、住所もでたらめだ。アパートに住みだした時期は鳴海屋で仕事を始めた時と一致している。ここまでのことから、玲子さん本人である可能性は否定できない。ただ、不自然だ。なぜここまで身元を隠す必要があるのだろうか。歩美に話す。
「歩美ちゃん、この件はちとせが調べる。少し時間がかかるかもしれないから、ちょっと待ってて」
「うん、わかった。ちとせにお願いする」
話が終わって、不動産屋を出ていく、扉を閉めようとするが、うまく閉まらない。不動産屋のくせに、建付けが悪いのか壊れているのか。歩美が扉に向かって話す。
「これ、ぼっこれてる」
「何?ぼっこれるって」
「え、言わないの?ぼっこれる」
「壊れてるってこと?」
「そう、ぼっこれる」
「栃木弁だな。それはみんなよく使う言葉なの?」
「うん、普通に使うよ」それで御子柴がひらめく。
「さっきの食堂に行ってみようか、そういう言葉を使ったかどうか」
「うん!」
鳴海屋に御子柴達が戻る。「すいません」
おかみさんが出てきて、「はい、何か忘れ物ですか?」
「先ほどの佐藤さんの話なんですけど、何かお国言葉みたいなものを使ってなかったですか?」
「お国言葉ですか?」
「こっちじゃ使わないような方言っていうんですか」
「どうだったかな」
女将さんは思い出そうとするが、出てこない。歩美が叫ぶ。
「ぼっこれるって言わなかった?」
「ぼっこれる・・・ああ、そういえば、ぼっこれるって言ったかも。なんか壊れることだよね」
「そうです。ぼっこれるって言ったんですね」
「本人は方言だとは思ってなかったみたいだけど、こっちも東京弁かと思ってた。変なこと言うのねってからかった覚えがあるわ」
これでますます玲子ママの可能性が高まった。あとは何故、身元を隠していたのかということになる。歩美が興奮気味に話す。
「ちとせ、玲子ママだよ。記憶喪失だよ」
たしかに記憶喪失じゃなければ、家に戻るのが普通だ。それがなぜ、偽名まで使って小樽で働いていたのか。何か裏がありそうである。
明日は日高に行く予定だが、せっかく北海道に来たので、歩美のために札幌観光をすることにした。時計台、大通公園、赤れんが庁舎、円山動物園にも行く。
歩美は厩舎の仕事もあるので、あまりというか殆ど家族旅行に行ったことがないそうだった。とにかく楽しそうに観光していた。子供の楽しそうな笑顔は御子柴の心も和ませる。
十分に観光をしてから、宿は支笏湖温泉にした。御子柴は温泉好きだ。
歩美は温泉旅館も初めてのようで温泉でも大はしゃぎだった。大浴場に入るとプールのように泳ごうとするし、洗い場で滑りこけるし、御子柴の気が休まらない。支笏湖温泉は濃度が高いそうで、ナトリウム+炭酸水素塩泉で美人の湯らしい。老舗の旅館のせいか、大浴場で湯船もちょっとしたプール並みに広い。泳ぎたくなる気持ちも分かる。温泉から見る景色も湖が見えて実に気持ちいい。
温泉につかりながら、二人が話す。
「歩美、ここは美人の湯だそうだよ。入ってるだけで肌がきれいになるってさ」
「へー、それはいいな。広いし気持ちいい」
再び、歩美が泳ごうとするのを御子柴が止める。
「ちとせ、玲子ママはなんで嘘をついたんだろう?祐ちゃんに会いたくないのかな」
「どうだろう、会いたくないわけないよね。色々、事情があるのかもしれないね。そうそう、歩美、祐介と阿部オーナーにはこの話をしないでね。私から話をするから、お願いね」
「うん、大人の事情ってやつだよね。ちとせに任せるよ」
歩美が御子柴をじろじろ見ながら話す。
「ちとせは幼児体形だな」
「何、それ!」
「武がよく言うんだよ。そういう胸の無い女は幼児体形だって」
武の野郎、子供に余計なことを教えないな。
「歩美、こういう体形はスレンダーって言って、まあそれなりに需要もあるんだぞ」
「需要って何?」しまった。子供にはまずい話だった。
「こういう体形が好きな男の人もいるってこと」
「そうか、わかった」
本当に分かったのかどうかはよくわからない。
風呂から上がって、旅館の浴衣を着る。ここの旅館は部屋食だった。中居さんが持って来た夕食を取りながら、話をする。
「歩美、明日はアムロのふるさとの小泉牧場に行くよ」
「日高だよね」
「そう、牧場には連絡済だから、色々、話が聞けるよ」
「楽しみだよ。歩美は今まで牧場に行ったがことないんだ。ずっと行きたいって思ってた」
「そうなんだ。村井さんはよく来てたんだよね」
「うん、とーちゃんは毎年、年に数回、北海道で馬を選んでたよ。歩美はまだ早いって連れて来てくれなかった」
多分、歩美がうるさいからだろうな。村井さんにとってはじっくり馬も見てられないだろう。
「そうなんだ。大体、村井さんが一人で来てたの?」
「あとは馬主さんと一緒かな」
「そうか、スポンサーが必要だもんね」
「そうそう」
御子柴は歩美に聞きたかったことを聞いてみる。
「ねえ、歩美はいつごろから馬の気持ちがわかるようになったの?」
「え、ああ、歩美は小さい頃は今と違っておとなしい子供だったの」
「え、そうなの。私もネクラな子供だったけど、歩美もそうだったんだ」
「ちとせもそうなのか、歩美は幼稚園の時にかーちゃんが亡くなってから、色んなことをどうしていいか、わからなかった。だって誰も教えてくれないんだもん、とーちゃんは馬の世話で忙しいから、だから、あんまり人と話が出来なかったんだ」
「どうやって自分が動けばいいかってことかな」
「そう、どうやってみんなと話をしていいのかとか、自分が何をしていいのかとか、なんかよくわからなかった」
「そうか。そんなものかもしれないね」
「それで、小学校に入ってからも友達ができなくて、歩美は厩舎の馬とばっかり話をしていた。学校であったこととか、周りで起きたこととか、なんでも馬と話をしていた。そうしてるうちになんとなく、馬が思ってることが見えてきたんだ。ああ、こんなこと感じてるんだとか、今、こうしたいとかの気持ちがわかってきた」
「へー、すごいな」
「だから、だいたいだけど、馬が考えてることはわかるよ。それとこうしたいとか、あそこが痛いとか」
「そうか、そういうことか、でも、今の歩美は全然、物おじしないし、人ともじゃんじゃん話せるようになったね。どうして?」
「それは祐ちゃんのおかげなんだ。幼なじみだから小さいころから祐ちゃんとは話が出来た」
「そうなんだ。それで?」
「祐ちゃんが歩美を元気づけてくれたんだ。歩美はほんとは元気な子じゃないか、思った事をしゃべっていいし、もっと元気にしたほうがいいって、そのほうが歩美らしいって言われたんだ」
「そう」
「あと、玲子ママも歩美を応援してくれた。歩美は言いたいことをやって、やりたいことをやっていいんだよって、だって、かーちゃんがそれを望んでたって教えてくれた」
こんな小さい子供でも色々、悩んでいるんだ。自分の立ち位置をどうしていくのか、悩むものなのか、自分はどうだったか、まったく記憶にない。歩美の話が続く。
「それで、歩美は元気になろうって思ったんだ。かーちゃんがそうなってほしいって思ったんだったら、元気にならなくっちゃって」
「いいことだね。私も歩美が元気で羨ましいって思うよ。今はお母さんが望んだ子供になってるね」
「どうかな、とーちゃんはもっと女の子らしくしてほしいみたいだけど、私は今の方がいいんだ。自分を出せてる」
「そうだよ。女の子らしいって何なのかな、今の元気な歩美は女の子らしいと思うよ。」
「そうだよね。ちとせに賛成!」歩美は満面の笑みでうれしそうだ。
「歩美は祐介君に元気になって欲しいんだね」
「みんな、思ってるよ。祐ちゃんみたいないい子が病気になるなんて、歩美は信じられないよ」
「祐介君は急に悪くなったんだね」
「そう、去年の体育の時間に倒れたんだ。胸が苦しいって言って。それで精密検査をしたら病気だったみたい」
「それで今年になって入院になったんだよね」
「そう、最初は学校にも行ってたんだけど、発作が出て入院の方がいいって話になったみたい。阿部さんの仕事も忙しくて、いつも一緒にいられるわけじゃないから」
「そうか、なんとか治ると良いな」
歩美が少し考えてから、話を始める。
「祐ちゃん、移植手術は、いやみたいだよ」
「どうして?」
「だって、死んだ子の心臓をもらうんでしょ。なんか、悪いことしてるみたいだって」
「うーん、そう思うのはおかしいよ。だって死んでしまった子は生き返らないでしょ。だけど、その子の心臓は違う子供の心臓になって生き続けるんだよ」
「そうか」
「うん、歩美はもし死んだら、自分の心臓をあげたくない?」
「あげるよ。それで祐ちゃんみたいな子供が元気になるなら、あげる」
「そうだよね。私も今回の件を知ってからなんだけど、臓器提供を考えたよ。ただ、手続きとかが難しいんだよね」
「そうなんだ」
「そういった社会の課題みたいなものは、私たちジャーナリストがなんとかしないといけない。私もがんばるよ」
「うん、ちとせもがんばって」
歩美の目がとろんとしてきた。そろそろ寝る時間かな。
「じゃあ、もう寝るかな」
「うん、そうする」
中居さんが食事を片付けにくる。しかしながら歩美はすでに夢の中だった。早めに布団を敷いてもらって御子柴も寝ることにした。さすがに小学生の世話を一日すると疲れる。世間の親の偉大さに気づく。
翌日は宿で早めの朝食を取り、レンタカーで日高まで向かう。
小泉牧場は日高でも特に小さい牧場で、20ヘクタールで繁殖牝馬を委託を含めて5頭持っている。委託とは別にオーナーがおり、その繁殖牝馬の世話をすることを意味する。そしてそのオーナーが希望する馬と種付け、出産までを請け負う。自牧場の馬ではない。小泉さんとは電話で面会をお願いしており、ほぼ時間通りに到着できた。牧場内にある事務所で話を伺う。歩美は馬を見たいというので牧場に放し飼いにした。大はしゃぎで走り回っている。
「ちとせ、馬がたくさんいるな」
ちょうど、生まれた仔馬が母親と一緒に行動している時期である。
御子柴のみがインタビューする。小泉さんは夫婦でやっている牧場で、ご主人は60歳を越えているのではないだろうか、年配の方である。
「今回はお忙しい中、インタビューに応じていただきありがとうございます」
「はい、こちらこそ、遠くからわざわざ申し訳ないです」
「どうですか、アムロの活躍は?」
「いやあ、驚いてるんです。あの仔馬がこんなに活躍するなんてね」
「今まで生産なさってて、これだけ活躍した馬は初めてですか?」
「もう20年以上、馬の生産をやってますが、地方で何勝かした馬はいましたけど、重賞まで勝つような馬は初めてです。おかげでアムロの下が高く、売れました」
牧場で活躍した馬が生まれると、その下、兄弟が高く売れることがよくある。
「でも、アムロは安かったんですよね」
「そうですね。仕方ないんですよ。実は馬の生産で牧場側はあんまり儲からないんです。特にうちのような血統的に魅力のない馬はだめです。それこそ、高額の種牡馬をつけられればいいんでしょうが、そこまでの費用が大変です。うまくいって軽種牡馬協会さんのところの馬を付けるぐらいしかないんですよ」
軽種牡馬協会はJRAが母体となっている種牡馬提供団体である。よって零細牧場でも低予算でいい血統の馬を種付けすることが出来る。日高で活躍した馬には軽種牡馬協会絡みが多い。日高ではないがテイエムオペラオー、メイショウサムソンなどは軽種牡馬協会の種牡馬から生まれている。
「そういう意味では、馬が活躍しても牧場側に賞金は入らないんですよね」
「そうなんですよ。中央競馬ならグレードレースを勝つといくらか出るようですが、地方競馬は出ないんです。うちみたいな零細はそれこそ、アムロみたいな馬が出て、その下が高く売れてくれることしかないです」
「そうですか」そこへ奥さまがお茶を持ってくる。
「あれ、お嬢さんは?」
「牧場で馬を見ています。ああ、彼女は娘じゃなくて、アムロの厩舎の娘さんなんですよ」
「失礼しました。まだお若いですものね。そうなんですか、お嬢さんは馬が大好きなんですね」
「ほんとかどうかは定かではないんですが、彼女は馬の言葉がわかるんだそうです」
「まあ、それはすごい」
そこへ歩美が戻って来た。奥さんが話しかける。「あなた、馬の言葉がわかるの?」
「うん、今も話をしてきたよ」歩美は奥さんが持ってきたジュースを見つけて喜ぶ。
「ジュースどうぞ」
「ありがとう、あの鹿毛の子、なんか足が痛いみたいだよ」
小泉さんが驚く。「え、わかるの?」
「うん、まだ痛いって」
「びっくりだな。いや、実は先日、柵にぶつかって足を怪我したんですよ。もう治ってるかと思ってたけど、まだ痛むのかな」
「あまえてるのかな」
御子柴は目を丸くしている夫婦の話を元に戻す。
「それで、アムロの話なんですけど、当歳の頃のアムロはどんな様子でしたか?」
「そうですね。特に目立った印象はなかったんですよ。顔のマークが変わってるぐらいかな」
「写真とかはありますか?」
「どうだろう、あるかな」
「アルバム持ってきましょうか?」奥さんが話す。
「ああ、そうしてくれ」
奥さんが奥にアルバムを探しに行く。
「今、牧場はお二人でやられてるんですか?」
「アルバイトがもう一人と忙しい時は応援を頼みます」
「そうですか」
「二人だったらお金は食うだけで良いので、人を雇うとそれだけお金がかかります。あまり人も雇えません」
こういった零細牧場はギリギリのところでやっているんだな。それだけにアムロの活躍に期待が持てる。すべての日高のこういった牧場が希望を持つことができることにもなる。
「先ほどの種付けについても、血統を考慮するようなことはないんですか?」
「そうですね。なるべく売れやすい種牡馬を中心に健康な馬になるようには配慮しますよ。とにかく、死んでしまったら何にも残りませんから、アムロの下がいい値段で売れたので来年はもう少し勝負できるかもしれません。でも全兄弟のほうがいいのかな」
「そうですか」
そこへ奥さんがアルバムを持ってくる。歩美が興味深そうに見る。
何ページかめくりながら、奥さんが指さす。
「ああ、この仔馬がそうですね」
奥さんが差し出した写真は仔馬が母親と一緒にいるもので、確かにアムロのシンボル、渦巻型の乱星がある。まだ、仔馬なのではっきりとはしていない。その写真からの印象は小さくて華奢な馬でとてもあそこまで走るようには見えない。御子柴が歩美に聞く。
「歩美のところにはいつ来たの?」
「去年の9月ごろだったかな」
「じゃあ、この写真を撮った頃からは、ずいぶん時間がたってますね」
「そうです。アムロは当歳(零歳)の時に売れたんですよ」
「そうでした、阿部オーナーからもそう聞いていました。村井さんと阿部オーナーが牧場で見て買われた話を聞きましたが、当歳の時でしたね」
「そうなんです。うちとしたらそこまで早く売れることは珍しいことです。けっこう売れ残って2歳の夏を越えるようなこともあるのでね」
「オーナーの息子さんが気に入って購入したように聞いています」
「そうでしたか、確かに小さいお子さんがいたことは覚えてます」
「祐ちゃんは私の友達なんだ」歩美が話に加わる。
「そう」奥さんがにっこりする。御子柴が質問を続ける。
「それとアムロは最初、走らなくて、2歳の年末に北海道に戻したと聞いています。こちらに戻って来たんですか?」
「いえいえ、うちに馬は戻ってこないですよ。そういうことなら育成牧場じゃないですか、日高にはそういった施設がありますから」
「そうなんですか。すみません、あまり知らないもので」
「普通はそうですよ。アムロは2歳の時に育成しなおしたんですか、知らなかったな」
その話で、日高の育成施設はどこになるんだろうと御子柴はメモする。
「日高の馬産はどうですか、20年やられていると色々あるんじゃないですか?」
「そうですね。私らは元々、酪農をやってたんですけど、サラブレッドが金になると思ってやりだしました。馬産ってギャンブル要素が大きいんです。みんな、ダービー馬を出したいと思ってやってますけど、そうそう走る馬が生まれるわけではない。生涯やってオープン馬になるような馬が1頭も生まれないこともざらにあります」
「確かにそのようですね」
「まあ、夢のある仕事ではありますが、うまくいかないことの方が多い。せっかく買って来た繁殖牝馬がすぐ死んでしまうとか、高額の種牡馬を種付けしたのに不受胎だったとかね。そうやってなんとか生まれた仔馬が死んでしまうとか、もう本当に生き物は大変です」
「そうですね」
「そういった意味では、今回のアムロは我々にとっての神様からの贈り物みたいには思ってますよ」奥さんも同じようにうなずく。
「長い事やってきて、少しは報われた気がします」
「よかったですね」
その後、御子柴も小泉さん夫婦と牧場で馬を見る。
「アムロの下はどこにいますか?」
「えーっと、あそこの一番遠くにいる馬ですね」
「あれですか」
見ると母親は栗毛だった。当歳は鹿毛である。
「あの子は全兄弟でアムロとまったく同じ血統になります。青毛じゃなくて鹿毛になりました」
「乱星もないんですね」
「そうです。面白いですよね。同じ配合でも出てくる子供は違ってくる。競争能力も一致しません」
「そうですね。足を怪我した子供はどこにいるの?」歩美に聞く。
「今言った子馬だよ」
「ああ、あの子なの。アムロの下なんだ。足は丈夫なのかな」
「大丈夫だよ。けがしただけだから、すぐ治る」
歩美は柵を超えて再び中に入る。この娘はよっぽど馬が好きなんだな。
「歩美、大丈夫なの?」
「平気、平気」
「元気なお子さんですね」
「母親がいないんですよ。小さいころに亡くなったみたいで」
「そうですか、でも元気に育ってますね。将来は何になるのかな」
「本人は騎手になりたいみたいですよ」
「そうですか」
小泉夫婦は眩しそうな顔をして歩美を見ている。
小泉牧場での取材を終え、その後は御子柴が気にかけていた2,3の牧場めぐりに向かった。そして、最後に今回の取材の目的のひとつである休養中の競走馬モヒートの現状確認で白老牧場に行った。
白老にある白老牧場は日本を代表する大きな牧場で、小泉牧場とは規模がまったく異なる。牧場に来て驚いた。どこまで牧場が続いているのかわからないほどの広さである。東京ドーム何個分なのだろうか。牧場の入り口で御子柴が雑誌社の人間でアポイントを取得済であることを説明し案内された。入り口からしてそのセキュリティ度が全く異なる。インタビューは牧場長自ら対応してくれるそうだ。駐車場に車を止めて、待ち合わせの厩舎前まで歩く。
「ちとせ、すごい広さだな。この牧場どこまであるんだろう。終わりが見えないよ」
「どうだろうね、スタッフだけでも100人ぐらいいるみたいよ」
「すごいな。小泉牧場は夫婦ふたりだったのに」
同じ馬産を業としているのに確かにこの差はすごい。
「馬も多いけど、ここは生産から育成までやってるんだよ。ここの牧場からは次々と名馬が生まれている」
「でも、うちの厩舎には来たことがないな」その回答に御子柴は笑いながら、
「そうだね。その分、値段も高いみたいだよ」
厩舎の前に男性が待っている。牧場長の緑川さんだ。40歳後半だろうか若い牧場長だ。
「雑誌ヒーローの御子柴と申します」
「緑川です。遠路はるばるようこそ」
「それとこちらがとちぎ競馬の村井厩舎の娘さんで歩美です」
「ようこそ、歩美ちゃん」
「こんにちは」
「村井厩舎って、あのアムロの厩舎ですか?」
「ご存じですか?」
「はい、青葉賞の時はびっくりしましたよ。モヒートが負けるかもって思って見てました。そういえば、アムロは故障したとかで、残念でしたね」
「そうなんですよ。でも何とか再起できないか、模索はしています」
「そうですか、うちにも屈腱炎の馬はいますよ。とにかく根気よく治すしかないんです。色々研究も進んでますからね」
「はい、ありがとうございます」
「モヒートを見たいんでしたよね。どうぞ」
モヒートが休養中の馬房に案内される。厩舎間も広々しており、そこまで歩くのも大変だ。
「ここにいます。あれがモヒートですね」
数頭が馬房におり、手前にモヒートがいた。青葉賞の頃よりも一段と精悍さが増した印象だ。
「緑川さん、モヒート、前よりもずいぶん大きくなった感じじゃないですか?」
「そうですね。体重も増えてきたんですが、身体に身が入ったというんですか、大人になってきましたね」
「モヒート、こんにちは」歩美が話しかける。
モヒートが歩美に懐く。歩美がモヒートを撫でてやる。
「さすが、厩舎の娘さんですね。馬の扱いがうまい。モヒートも警戒しないですね」
「緑川さん、嘘のような話なんですが、この娘、馬の言葉がわかるんですよ」
「え、まさか」そういって冗談だろうと笑う。御子柴が質問を続ける。
「モヒートは藤枝厩舎にはいつ頃戻るんですか?」
「神戸新聞杯に使いたいみたいです。なので8月の下旬あたりですか」
「なんでも天皇賞に出るそうですね」
「そうです。これからは3000mの菊花賞ではなく、2000mの天皇賞のほうが種牡馬としての価値が上がる部分もありますからね。オーナーと藤枝さんの気持ちが一致したというところですか、うちとしてもいい考えだと思います」
「そうですね。今、ステイヤーを育てることに魅力はないかもしれませんね」
ステイヤーとは長距離を得意とする馬のことを言う。現在は日本の競馬は長距離よりも2000mまでの短い距離を主戦場としている。
「長距離レース自体が減っていますからね。それとモヒートは秋になって強くなりますよ。多分、歴史に残るような活躍をしてくれるはずです」
「そうですか、今はどんな調教をやってるんですか?」
「今はダービーの疲れを取ることを中心にやっています」
「激戦でしたものね。ダービーも半馬身差でしたよね」
「そうです。やっぱり青葉賞の疲れがあったのかもしれませんね。アムロを追いかけるのに疲れたみたいです」
歩美はさっきからモヒートと色々、話をしているみたいだ。
それを見た緑川牧場長が歩美に話をする。
「モヒートは何だって?」
「ここは生まれ故郷だってわかってるみたい。気持ちが落ち着くって」
「へー、そうなの」緑川は半信半疑のようだ。確かにモヒートはここで生まれた。
「あと、疲れは取れたみたいだよ。早く走りたいって」
「ああ、そう。どこかおかしいところはないのかな?」
緑川に興味がわいたのか歩美に色々聞いている。
「ないよ、絶好調だよ。モヒート、アムロがまた競争したいってさ、アムロ覚えてる?」
「覚えてるのかな?」緑川が言う。
「青葉賞の時、追いかけた馬だよ。青毛の早い馬」
緑川が驚く、モヒートがうなずいたように見えた。
「覚えてるんだね。今度はアムロは負けないよ」
モヒートが頭を上下に揺らしてかかってこいといった雰囲気だ。
「御子柴さん、なんかほんとに話が出来てる気がしますね」
緑川牧場長が不思議そうな顔をする。
「私も最初は疑ったんですけど、何度か見てるうちに今は間違いない気がしています」
緑川は半信半疑のままだが、うなずいた。
それから、何頭かの気になる馬の取材を続けて牧場内を回っていた。そろそろ帰りの飛行機の時間かなと思ったところで、突然、牧場の担当者が走って来た。血相を変えている。
20歳ぐらいの若い男性だ。
「緑川さん、大変です。ロードミッシェルの様子がおかしいんです」
「どういう状態だ?」
「少し苦しそうに前掻きしたり、汗をかいてます」
「疝痛だな。いつからだ?」
「今朝ぐらいからなんですが、ひどくなってるみたいで」
「分かった。すぐ行く」
緑川が御子柴達に向いて、
「すいません、ちょっとトラブルでここまででよろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です。本日はありがとうございました」
歩美も心配そうにおじぎをする。緑川は歩美のその様子を見てひらめいたように、
「すみません、歩美ちゃんをお借り出来ますか?」
「え、どういう?」
「歩美がロードミッシェルと話をするのね」
歩美のほうが呑み込みが早い。緑川が歩美を連れて厩舎から出ていく。御子柴がそれに付き添う形だ。少し離れた厩舎、おそらく繁殖牝馬がいるところなのだろう、そこに緑川たちが走って到着する。
馬房に数人が集まり、馬を囲うようにその様子を見ている。その輪の中心にロードミッシェルがいた。苦しそうに前掻きしている。確かに異様に汗もかいている。担当の女性が泣きそうな顔で緑川に言う。
「すいません、私が気付くのが遅くて」
「いや、仕方ない、それでどういう状況なんだ」
「今朝から少し体調が悪かったみたいで、少し前掻きをしていたんです。ちょっとした腹痛なのかと思ってそのままにしていたんですが、段々ひどくなっていって、苦しがってきました」
「獣医はどうした?」
「今、呼んでいるところです」
歩美がロードミッシェルに近寄る。従業員の若者が止めようとするが、緑川が制する。
「大丈夫だ。ちょっと診てもらう」
若者が怪訝そうな顔をする。
「ミッショルお腹が痛いの?」歩美がロードミッシェルを撫でる。
ロードミッシェルに警戒する様子がない。相当に苦しそうな息を吐き続けている。
「どこが痛いの?」
歩美がミッシェルの顔を優しくなでる。それにミッシェルが頭を振る。そして前掻きを続けている。
「お腹が痛いって、それも今まで経験したことがないくらい痛いみたい」
歩美がお腹を触る。
「どこなの?もっと下?」
回りから見ている授業員が呆気に取られている。この女の子は何をしているのか?
歩美はしばらく腹回りをさすって確認している。ミッシェルの様子を見ながら、
「この辺だから、ひょっとして腸ねん転かもしれないよ」
腹部の下側をさす。さきほどの若者が怪訝そうに言う。
「緑川さん、この子、何なんです?」
「うん、馬と意思疎通が出来るみたいなんだ。とにかく獣医さんに腸ねん転の恐れがあることを伝えろ。緊急手術になるぞ」
「は、はい、わかりました」
もし腸ねん転だったら命の危険がある。手術も必要になる。担当の女性従業員が携帯電話を使って獣医と連絡を取る。歩美が心配そうに馬を見ている。御子柴が話す。
「歩美、腸ねん転って馬にもあるの?」
「うん、馬は腸が長いからなりやすいんだよ。とちぎ競馬にもいたの、それで少し勉強したんだ」
「歩美は馬の勉強はするのね」
「へへ」
御子柴が時計を確認する。まずい飛行機の時間に間に合わない。
「緑川さんすいません、飛行機の時間があるので、我々はこれで失礼します」
「ああ、そうですか、どたばたしてすみませんでした。歩美ちゃんありがとうね」
「うん、大丈夫、ミッシェル元気になると良いね」
「うん、ありがとうね」
「じゃあ、すみません、失礼します」
厩舎にいた人に挨拶を済ませ、御子柴と歩美が帰る。厩舎内では先ほどの歩美の話に半信半疑でざわついている。いずれにしろ、手術の可能性が高いため、その準備をしようとしていた。
御子柴と歩美が車に乗って、空港に向かう。
「そうだ。歩美、ロードミッシェルってモヒートのお母さんかもしれない。確かそうだったと思う」
「え、そうなんだ」
「治ればいいね」
「そうか、モヒートのお母さんなんだ」
飛行機の時間には間に合った。白老から新千歳空港には時間通りに到着し、無事、レンタカーを返却した。空港で搭乗手続きを終えて、出発を待っているところで御子柴の携帯が鳴った。
「はい、御子柴です。ああ、どうも、はい、ああ、そうですか、それはよかったです。はい、わかりました。伝えます。はい、どうも失礼しました」
携帯を切って、歩美に話す。
「歩美、ロードミッシェルは緊急手術になったって、歩美の言うように腸ねん転だったらしいよ。でも発見が早かったから大丈夫だろうって、よかったね」
「そう、よかった。モヒートのお母さんが死ななくて」
競走馬に母親の記憶などはないだろうが、歩美は馬でも自分の様に母親がいなくなることは悲しいことだと思ったようだ。そして祐介の母親が戻ってこないことが不思議でしょうがないようだった。歩美が言うことは正しい、そして御子柴は何か裏があると思っていた。
さすがにこの強行日程は厳しかった。帰りの機内では二人とも爆睡し、羽田空港まで一回も目が覚めなかった。
浜松町駅のモノレール降り場には村井調教師が迎えに来ていた。時間は夜の8時過ぎだ。
「御子柴さんお疲れ様」
歩美は半分寝ているような感じでフラフラ歩いている。村井が歩美の手を取る。
「はい、どうも」
「夕飯、まだでしょう。何か食べませんか?」
「そうですね、行きますか」
浜松町の食堂街で夕食、和食の店にする。歩美は村井に半ば引きずられるように連れて来られて、少し食べてそのまま寝ていた。
御子柴は食事を終えて、村井から歩美の分の旅行代金を受け取る。
「色々、お世話になりました。歩美の世話は大変だったでしょう?」
「元気いっぱいですね。羨ましいぐらいです」
「すみませんでした」
「いえ、こっちも童心に帰ったようで楽しかったですよ。あの、それで村井さん阿部オーナーの奥さんの話です」
御子柴は歩美が寝ていることを確認して話し出す。
「多分、彼女は生きています」
村井は覚悟を決めたようにおもむろにうなずく。なるほど、村井もそう思っていたということか。
「やはり、そうですか・・・実はあのテレビの画像を見たときからそうではないかとは思っていました」
「それはどういうことですか?」
「玲子さんが生きているとして、帰って来れない理由です。なんとなくわかる気がします」
御子柴が怪訝そうな顔をするが、村井は話しを続ける。
「阿部さんの経済状況です。実際、彼の会社は倒産寸前でした。昨年の今ごろはもう無理かと思っていましたから」御子柴が水を飲む。
「それが奥さんの生命保険が降りて、それこそ九死に一生を得たといった感じでした」
「生命保険ですか」
「そうです。特別失踪と言って行方不明の場合でも1年を経過した時点で死亡とみなされ、保険金を受け取ることが出来るんです。今回はそれで保険金がおりたようです」
「しかし、本当は生きている」
「そうです。どういった罪になるかはわかりませんが、いずれにしろ返金は必至です」
「阿部さんは奥さんが生きていることをご存じなんですね」
「今回の阿部オーナーの対応を聞いた時にそう感じました。そして今回、御子柴さんが見てきたことで確信が持てました。オーナーはご存じです」
「保険金はいくらだったのですか?」
「3000万円だと聞いています」
「そうですか、今、生きていることが判明すると本当に破産になりますか?」
「ええ、間違いないです。実は阿部さんの会社は先日の青葉賞の前にも不渡りを出しそうになったようです。あの賞金で急場をしのいだみたいです。あの、御子柴さん、それで相談です。ちょっとこのことは黙っていてもらえませんか」
「構いませんが、どうされるんですか?」
「僕の方からオーナーに聞いてみます。御子柴さんが聞くよりは僕の方がいい、旧知の中ですから、それでオーナーにどうするのか確認してみます」
「わかりました。この件は村井さんにお任せします」
「はい、ありがとうございます」
「ただ、奥さまが名乗り出ない選択肢はないように思います。祐介君のこともありますし、このままでいい訳がない」
「そのとおりです。僕もそう思います」
御子柴は思う。今、祐介君は生きるか死ぬかの病状だ。どんな理由があるにせよ、母親が必要なのは間違いがない。なるべく早く決着を付けることが一番だ。
「それで話は変わりますが、アムロの脚はどうなりましたか?」
「ええ、変わらずといったところでしょうか、ただ、悪くはなってないので徐々に効果が出てくれることを期待しています」
「今回、小泉牧場に行ってみて、少し驚きました」
「そうですか」
「失礼な話ですが、あそこまでの零細牧場からアムロみたいな馬が出てくるとは思えなかったです。取材をしてみてもまさに青天の霹靂というか、サラブレッドの不思議というんですか、あらためて血統というか馬産って奥が深いと思いました」
「そうですね。僕もそれほど、血統とかには詳しいわけではないですが、実はこういったことは、昔からよくあったと思います。突然変異というか、この血統からここまでのスーパーホースが生まれてくるのかといったことです。日本で言うとオグリキャップがそうなります。父親はダンシングキャップというんですが、オグリ以外はそれほどの産駒は出ていません。なので一定の確率で神様がサイコロを振ってとんでもない馬が生まれてくることがあると思います。現在、そういうことが減った要因はやはりサンデーサイレンスという桁違いの種馬が出てきたことだと思います」
「なるほど、最近はサンデーサイレンス一色ですものね」
「そうです。サイコロの確率がとんでもなく高いです。良血の肌馬につけるとほとんど走る馬しか生まれてこない。こんなこと、本来はありえません」
「そうですか」
「そういった時代にもかかわらず、アムロが生まれてきたことは奇蹟ですが、祐介君の思いがそうさせたのではないかと僕は勝手に思っています」
「そういう意味だと、アムロが種牡馬になったら成功するんですかね」
「ああ、そこなんですが、それは何とも言えないと思います。今までの例から言うと成功例が少ないんです。そういった突然変異的なサラブレッドが種牡馬で成功したことがないようです」
「そうなんですか?」
「ええ、オグリキャップも期待が大きかったですが、あまり優秀な子が生まれて来ませんでした」
「難しいんですね」
「そうですね」
「村井さん、あとアムロが2歳の時に再調教した牧場を教えてください」
「え、何でですか?」村井が驚く。
「はい、どういった育成をしたのかなって思いまして、出来れば育成牧場にも話を聞いてみたいと思ったものですから」
「ああ、なるほど、実は日高の民間の育成場に出したんですが、インタビューはやめてくれって言われてるんです」
「え、そうなんですか?」
「はい、小さいところなんで取材自体を断ってるそうなんです」
「そうですか、何か変わったことをやったのかなって思ったものですから」
「アムロの場合は元々の素質はあったので、馬のやる気次第だったと思ってますよ。なので再育成にあまり意味があったとは思っていません。実際、1カ月未満ですから、そこまでの効果はなかったです」
「なるほど、そうなんですか」
歩美は気持ちよさそうに寝入っている。
4
阿部と岸田はその後も栗原医療機器の案件に必死で取り組んでいた。プローブ設計にそれこそ昼夜を問わず挑んでいた。二人にとっても医療機器は初めての設計であり、基本的な設計作業よりも製品の情報収集に時間を要した。
そもそも超音波診断装置の歴史は浅く、医療用として実用化されたのは1970年代である。X線などと違い人体に与える影響がなく、また、機器の設置も安全上の制約がないことから普及が広がっている。各社が開発を続け、ここにきてようやく形となって来た経緯がある。栗原医療機器が輸入している製品は低価格帯のもので高いものは1000万円を超える。超音波を発生させ、部位に当て、その反射波を受信し、画像に変える。簡単に言うとそういった仕組みになる。
部たちは日常業務をこなしながら、毎日、深夜まで作業を続け、ようやく納期までに基本設計が完了し、見積を作ることが出来た。ただ、阿部達に詳細なノウハウがないため、現存する機器とその図面だけを元にして、設計しており、細かい寸法がどうやって決定されたかが、わからない。そのため、阿部と岸田で何度も打ち合わせを行い、確認の意味をこめて詳細寸法が異なる試作品を3種類作り、動作試験の結果で最終寸法を決定することにした。そうこうして約束だった1週間後に見積もりを持って、栗原医療機器と打ち合わせをおこなうことができた。
見積書を前に栗原の担当者と面会している。阿部と岸田の顔にはクマができており、1週間の激闘を物語っていた。実際、ほとんど寝ていない。購買課の砂原課長と下村技術課長が見積もりを見ている。内容をあらかた確認して、まず砂原が話をする。
「どうですか、御社で作れそうですか?」
「やれると思います。ただ、当社にノウハウがない分野で、試行錯誤をする必要があると思います。いかがでしょうか、この見積もりで」
「試作品は3種類作って、さらに2回の動作確認を行うと言うことで、この見積もり金額になっているんですね」
「そうです。2回目の動作確認は試作品の変更も含めておこなうつもりです。その段階でうまく行けば、それ以降は金型を作り、量産試作品で最終確認します」
「もし、それでうまくいかなかったらどうなります」
「はい。さらに試作をやることになると思いますが、その場合は超過した金額は当社で負担します。ただ、そうはならないようにとは考えています」
「この見積もり以上に請求はないということですね」
「はい、大丈夫です」
砂原課長が下村技術課長に確認を取る。
「どうかな、問題はあるかい?」
「いや、良いと思うよ。実は技術でもなんでこの寸法になっているか疑問もあったんだよ。この試作で確認できる点も気に入ったね」
技術課長のお墨付けが出たようだ。ここで砂原が笑顔で阿部達に話す。
「本当を言うとね、御社が過去に作った製品も確認したんですよ。打ち合わせをする前ですが、ここならばやれそうかなという感触はうちの技術とも持っていました。見積もりについても妥当なところだと思いますよ」
「はい。」いい感触を得られた。阿部達の表情が明るくなる。
「この内容で進めてください」
「え、よろしいんですか?」
「ただ、納期は守ってください。年内には発売まで持って行きたいですから。まあ、今回も期限を守っているので信用はしていますが」
「はい、ありがとうございます」
それから、細かいスケジュールの詰めに入る。これからは薬事申請も考慮した日程が組まれていく。秘密保持契約や取引契約書の文書類も渡された。これで会社同士の基本契約が出来たことになる。
阿部と岸田は天にも昇る気持ちだった。帰りの車で話をする。
「岸田、よかったな」
「やった甲斐がありました。それにしてもあの見積りが通るとはびっくりです」
「そうだな。値下げ要請があるかもと思ったが、あのまま認めてくれた」
「まあ、うちとしては適正な見積もりですがね。ただ、今までの事務機業界だと必ず値下げ交渉があったから、そういった意味では拍子抜けです」
「医薬業界は相場が違うのかもしれないな」
「俄然、希望が湧いてきました」
「そうだな。ただ、これからが本当の勝負だ。早速、試作機を作るぞ」
「やりましょう」
こんなにすがすがしい気持ちはいつ以来だろう。これで物事がうまく進んでくれれば玲子も祐介も幸せにすることが出来る。しかし死の淵まで見た阿部にはもう怖いものはなかった。
阿部達が会社に戻る。2階の事務所に戻ったところで、事務担当の麻田麻衣子が阿部に話をする。
「社長、村井さんから電話がありました。連絡が欲しいそうです」
「そうか」
なんとなく、阿部には思い当たる部分があった。いよいよ、この件も決着をつける時が来たようだ。