第二章 二〇〇三年四月~五月
第二章 二〇〇三年四月~五月
1
とちぎ競馬の村井厩舎、午後3時、歩美が学校から帰ってくる。厩舎の2階に歩美の部屋があり、いつものように階段をばたばたと駆け上る。ランドセルを自分の部屋にほうり投げて階段を駆けおり、そのまま馬房に向かう。
村井厩舎には全部で5頭の馬がいる。それを歩美が一頭一頭、チェックしながら、馬に話しかけている。これが彼女の日課だ。様子を見終えた歩美に村井が話す。
「どうだ、みんな異状ないだろ」
「プリティプリンセスが体調悪いみたい。なんか変なもの食べた?」
「え、そうか、わかった。気を付ける。他は大丈夫だろ」
「うん、でもアムロはやっぱり脚が痛むみたいだね」
「ああ、しっかりとは走らせてはいない」
「伝説の装蹄師は無理だったからな」
「御子柴さんも動いてくれたんだけどな」
「あのおばさんを信用したのがまずかったな」
村井は苦笑いをしながら、「お姉さんな。そう言うなよ。あの人も一生懸命動いてくれたんだからな。わざわざ福島まで行ってくれたんだぞ」
「温泉巡りでもしたんじゃないの」歩美は妙に勘が鋭いところがある。
「そんなことしないよ」
「わかってるよ。でもなんとかしないと、アムロはパワーがありすぎるんだ。いい蹄鉄ないのかな」
「うん。そうだな」
ごんじいがアムロの足をアイシングしている。歩美が近寄って、「歩美も手伝うよ」
「ああ、ありがとね」ごんじいが歩美に譲る。歩美が冷やしたタオルをアムロの足に当てる。馬の屈腱炎にはアイシングが一番である。アムロには連日、そういった対応を続けていた。歩美がアムロに話しかける
「アムロ、伝説の装蹄師は来れないみたい、それまでは私がケアするね」
歩美の言葉に反応して、アムロが首を上下に振る。
しかし、ここにきて最強地方馬アムロが青葉賞に挑戦することが話題になって来た。
雑誌ヒーローが特集したこともあり、世間が注目し出したのだ。スポーツ新聞や競馬情報誌の取材も増え、とちぎ競馬も久々の盛り上がりを見せていた。
それを受けて、とちぎ競馬の広報が報道陣に対して共同インタビューを競馬場でおこなうことを企画した。とちぎ競馬から参加するのは村井調教師と騎手の御手洗武である。
とちぎ競馬場の会議室に長机をしつらえて、村井と御手洗が座っている。その前に報道陣が10数名参加している。もちろんその中に御子柴もいる。
歩美は記者たちの後ろのほうで見ている。事務局の橋本が司会進行をおこなった。
「それでは青葉賞参加を表明しましたアムロの関係者インタビューを開催します。まずは村井調教師の方から決意表明をお願いします」
村井はこういう場に慣れていない。すでに大汗をかいている。
「調教師の村井です。この度はまことにお日柄もよろしく」
御子柴が苦笑いする。結婚式の祝辞か。
「アムロを青葉賞に挑戦させます」これだけ言うのにも必死の形相だ。
続いて御手洗武がマイクを持って話をする。
「アムロの主戦騎手の御手洗武です。おてあらいと書いて御手洗です」
というつまらない洒落を言う。歩美が頭を抱えている。またいつもの小ネタのようだ。
ボケに反応しないで橋本が進行する。
「はい、それでは皆さんから質問をお受けします」
報道陣の質問が始まる。
「村井さん、まずお聞きしたいのは勝算です。アムロは勝てますか?」
「はい、芝は初めてなのでそこは心配ですが、アムロはなんとかしてくれると思います」
「つまりは勝てるということですか?」
「はい、出るからには勝ちたいです」
「アムロの足の状態がよくないとの噂がありますが?」
「はい、少しソエが出ていますが、レースには支障がないと思っています」
御子柴はアムロの症状を知っている。ソエではない、もっと悪いはずだ。屈腱炎だ。
「血統を見るとあまり芝向きとは思えませんが、その辺はどうですか?」
「そうですね、どうですかね。走りからすると問題ないようには思っていますが、芝の経験がないのは不安ではあります。武はどう思う?」
村井は御手洗に話を振る。
「僕自身、芝のレース経験があまりないですが、アムロの走法からして芝が向いてないとは思いません。こなしてくれると思います」
「アムロは今年になって連勝を続けています。どういった調教をおこなったんでしょうか?」
「はい、昨年末に北海道に戻して現地で再調教をおこないました。その成果が出たものと思います。また、調教もあるんですが、馬自身が走る気を起こしてくれたのが大きかったように思います」
「それは元から潜在能力があったということですかね?」
「そうです」
「現在はどんな調教をしていますか?」
「とちぎ競馬は競馬場がトレセン代わりになります。強い追い切りはやらずに15ー15を基本にやってます」
15ー15とは馬の調教でよく使われる言葉で1ハロンを15秒で走るというものだ。1ハロンは約200mでそれを15秒で走る。それほど強い調教ではないが馬としての基礎能力を維持、向上させるためには必要な調教と言える。
「戦績を見ると、逃げで勝つことが多いですが、中央でも同じ戦法でしょうか?」
「アムロに関していえば、逃げようと思って逃げてるわけではありません。ただ、自然と前に行ってそのまま逃げているということなんです」
なるほど御手洗からすると、けっして逃げようと思ってはいないし、アムロもかかり気味に逃げているわけではないということだ。
「言い換えると、絶対能力の違いで逃げになるということですか?」
「そうです。逃げようと思ってはいません」
「青葉賞では逃げるわけではないということですね」
「はい、戦法にはこだわっていません」
報道陣からおそらく出るだろうと思っていた質問が出る。
「中央への移籍は考えていないんですか?」
「それはオーナーサイドの話になりますが、ただ、オーナーからはそういった考えを聞いていません」
「また、本日、オーナーが不在ですが、それはどうしてですか?」
この質問には事務局の橋本が答える。
「オーナーは自身のお仕事が多忙で参加できません。それとオーナー側への直接の質問はご遠慮ください。いくつか直に連絡を取られた方がおられるそうで、今後は事務局の私、橋本のほうで代わりに確認してから、お答えさせていただきます」
「仮定の話ですが、青葉賞で権利を取ったら、当然ダービーに向かうんですよね」
「出来れば、そうしたいと思ってますが、地方馬は青葉賞で一着にならないとダービーには出られません。そのハードルは高いとは思っています」
「御手洗騎手の意気込みはどうですか?」
「はい、がんばります」
インタビュー慣れしていないのがまるわかりだ。歩美が後ろであきれている。
「御手洗さん、アムロの乗り心地はどうですか?」
これは御手洗が言いたかった質問が出たようで、笑顔になる。
「はい、これまで経験したことがない感覚です。なんていうのかバネというか、とにかく前進していく感じがありえない感じです。でもアムロは底を見せていないというか、こんなもんじゃない気もしてます」
この回答に報道陣が驚く。
「えーと、とちぎ競馬のレコードを出してますよね。一説によると世界レコードだとか、それでも底を見せていないんですか?」
「はい、そうですね、これは私の感覚なんでアムロに聞かないとわかりませんけど、なんか余裕を感じるというか、そんな感じです」
再び報道陣がどよめく、御子柴は御手洗の話に同意する。確かにアムロは本気で走っていないような余裕の様なものを感じる。それは実際に走りを見たものに共通の感覚なのかもしれない。
「アムロは小泉牧場で庭先購入されたと聞いてます。値段はいくらだったんですか?」
「はい、100万円と聞いています」
「十分、元は取れたというところですね」
「そうですね。まあ、維持費もかかってますから、もっと稼いでほしいですけど」
この回答に一同が笑う。初めて村井の話が受けた。しかし、あながち村井の話も嘘ではない、それほど、地方競馬、とくにとちぎ競馬の賞金は低い。そういったことを報道陣は理解していないのかもしれない。
御子柴は今日のインタビューで、明日のアムロの各紙の記事のタイトルが想像できた。底を見せていない云々が書かれるんだろうなと思う。
以降も質問が続いて、最後にアムロの馬房に報道陣が移動して撮影会となった。
御子柴が馬房を訪ねるのは3回目だが、アムロがどんな態度を見せるのかが、気になっていた。10人以上のカメラを構えた知らない人間が来てどうなるのだろうか。
報道陣がアムロを見る。ほとんどの人間が初めて見ることになる。そしてほぼ全員がアムロの雄姿を見て驚いていた。確かにこの馬には気品と言うか気高いものを感じるのだ。御子柴が最初に見たときに感じたものをみんなが感じたようだった。こんな地方競馬にここまでのサラブレッドが存在することが信じられない気がする。狭い厩舎にそれこそ入りきれない人が集まってカメラマンが一斉に撮影を始める。アムロは報道陣にまったく動じなかった。実に堂々としていた。報道陣の撮影に対しても気にする素振りは見せなかった。
御子柴はあらためてこの馬の底知れない怪物ぶりを見た気がした。
報道陣が帰ったあとに御子柴が残り、村井たちと話をする。
「装蹄師の件はすみませんでした」
「いえいえ、大丈夫です」
「ただ、福原碧先生は9月には戻るようなのでその時にあらためて聞いてみます」
「なんでも大学の先生だとか言ってましたね」
「はい、宇都宮大学でサラブレッドの研究をされているそうです。論文なんかも読みましたけど、それなりに豊富な知識を持っておられる方のようです」
「宇都宮大学だと近いね。そんな偉い先生が見てくれるのかね」ごんじいが話す。
「どうでしょうか、研究対象として興味が持てればというところでしょうか」
「アムロを実験に使うの?」歩美が血相を変える。
「違う違う、あくまで治療を前提とした研究対象だよ。実験なんてしない。大丈夫だから。アムロを治すことが目的だからね」
歩美は信用できないと言った疑いの眼を向ける。
「それにしてもアムロは度胸が据わっていますね。あれだけの報道陣を前にして鳴きもしない」
「そうですね。度胸があるというか、元々何に対しても動じないところがありますね」
「馬は本来、臆病な動物だって聞きますけど、アムロはそういったところがないですね」
「そうなんですよ。私も色々、馬を扱ってきてこんな馬は初めてです」
歩美がアムロを撫でながら言う。
「アムロは特別なんだよね」
「そうなんだ」
「うん、おばさんには色々世話になったから教えるけど」
「歩美、おねえさん!」村井が血相を変えて訂正する。
「そうか、おねえさんか」御子柴は笑いながら聞く。
「何を教えてくれるの?」
「今年の一月にアムロが戻って来た時にさ、祐ちゃんは入院になったんだけど、なんとかアムロに会いに来たんだ」
「祐介君が」
「その時にアムロが祐ちゃんのために走るって言ったんだ」
「え、どういうこと?」
「その時、祐ちゃんが泣いてたんだよ。入院するからもうアムロに会いに来れないって、そうしたら、アムロもがんばるから祐ちゃんもがんばれってアムロが言ってくれたんだ」
御子柴が面食らう。どういうことなのか。村井が助け舟を出してくれる。
「祐介君の夢はアムロが勝つことだから、それを叶えるってアムロが言ったんだろ、もう負けないよって、だから祐介も病気に負けないで頑張れって言ったんだよな」
「そうそう、それでアムロが勝つことが祐ちゃんを喜ばすことだって、アムロが気づいたんだ」
「そうなんだ」初めて聞く話だ。
「まあ、歩美がアムロに伝えたって言ってるんです。そうしてアムロも歩美に今言ったような話をしたらしいんです。でも、本当にそれからアムロは走り出した。そういう意味でも頭のいい馬なんですよ。どうすれば祐介君が喜ぶのかってわかってるんですね」
「つまり、アムロは自分が祐介君の馬だって理解していて、彼のために走ってるっていうことですね」
にわかには信じられない話ではある。ただ、アムロと祐介の間に絆のようなものはあるのかもしれない。そうでなければ活躍し出した理由付けが出来ない。
「村井さん、アムロの脚の状態はどうなんですか?今日はテーピングしてないみたいですね」
「まあ、報道陣も来てるんで、見栄えが悪いでしょ。アムロの状態はあまり良くはないですが、走れない感じでもないです。アムロの頑張りに期待しています」
「そうですか」
御子柴がアムロに話かける。
「アムロ、青葉賞で勝つんだよ。みんなの度肝を抜かさせてね」
アムロはきょとんとしている。御子柴の話は通じないみたいだ。ちょっとがっかりする。いずれにしろ、アムロがとちぎのレースで見せた走りを青葉賞で見せれば、観客の度肝を抜くことは確実だ。
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翌日のスポーツ新聞各誌の競馬欄はアムロ一色となった。やはり底を見せていないことを中心に書いてあった。そういった記事の効果もあり、さらに青葉賞が盛り上がって来た。そこで御子柴としては祐介とアムロの絆が本当なのか、知りたいこともあり、また、祐介の病状についてもオーナーに直に取材出来ないかと思っていた。
思い切って広報の橋本を通じて阿部オーナーに取材を申し込んでみた。相変わらず非常に多忙でもあり、無理かと思ったところ、時間を割いてくれるとの事だった。ちょうど、阿部オーナーが東京に仕事で来るとのことで、宇都宮への帰途中に東京駅で会えることになった。
御子柴が待ち合わせの東京駅構内のカフェで待っている。阿部はこのまま宇都宮まで帰るとのことでインタビュー時間は30分しかなかった。待ち合わせ時間になっても阿部は来ない。携帯電話で確認しようかと思ったところで入り口付近に阿部が現れた。走ってきたようだ。御子柴が手をあげる。
「どうもすいません、遅れました」
阿部の息が荒い、走ってきたようだった。こういったところが律儀な人だと思わせる。
「いえ、こちらこそ、無理を言ってすみませんでした」
「新幹線に乗らないとまずいんで、あと30分ぐらいしか時間が取れません」
「じゃあ、早速本題に入りますね」
「はい、お願いします」
阿部はアイスコーヒーをオーダーし、出てきたおしぼりで顔を拭く。阿部は熱いおしぼりで生き返ったような顔をした。
「祐介君とアムロに関して聞きたかったことがあります。村井厩舎で話を聞いたのですが、何か二人に絆の様なものがあるそうなのですが、オーナーはご存じですか?」
「ああ、そのことですね。祐介がアムロを見つけたのは、当歳の頃でした。まだ、生まれたばかりの子馬ですね。祐介が気に入って購入した経緯はお話しましたよね」
「はい」
「それから、祐介と私にとって不幸な出来事が続いたんです。翌年になって私の会社の状況が悪くなって、家に帰ることも出来ないような状態が続きました。まあ、実際は今も同じなんですが」
阿部の顔色をみればそれが伺える。どうみても仕事に疲れている顔だ。
「そしてその夏の事です。妻が洪水の被害にあいました」
「聞きました那須豪雨ですよね」
「そうです。妻の両親が那須に住んでいるのですが、集中豪雨になり心配だと言うので帰郷したんです。今考えると行かせない方がよかった。これには悔いが残ります」
これも運命なんだろうか、実際、天災なので誰が悪いというわけでもないが、御子柴もかける言葉がない。阿部が話を続ける。
「堤防が決壊しました。両親の家はまさにその堤防近くで、一気に家ごと流されました」
「相当な被害だったそうですね」
「まさかという感じです。両親と妻は行方不明となりました。2次被害の恐れもあって現地にはしばらく行けなかったのですが、それから何日かたって両親は遺体で見つかりましたが、結局、妻に関しては行方不明のままです」
「いまだに何人かが行方不明だそうですね」
「そのようです。せめて遺体だけでも見つからないかとは思っています。そんなわけで祐介の傷心度は計り知れません。しばらくは学校にも行けない状態でした」
「あの年頃の子供には辛い話ですね」
「はい、そしてその傷が癒えかけたところで、今度は祐介の心臓病がわかったんです」
「洪水事故の翌年になりますか?」
「そうです。昨年の夏の学校の体育の時間に倒れたんです。胸が苦しいって話でした。それで精密検査をしたところ、心臓病がわかったんです」
「そうだったんですか」
「拡張型心筋症という先天性の病気です。難病指定されています。私も知らなかったんですが、祐介の様に大きくなってからわかる場合もあるようなんです。子供の心臓の精密検査なんてあまりやりませんので」
「拡張型心筋症ですか・・・」御子柴がメモする。
「祐介の場合、その病状は芳しくありません。さらにこの病気の治療方法も確立されてはいません。いずれは手術もできるようになるかもしれませんが、現在のところ移植手術しか治す方法がないようなんです」
「そうなんですか・・・」
「ええ、祐介にはそれなりに話をしていますが、命の危険もある病です。移植が出来ないとなるといつ亡くなるかわかりません」
「そんな」御子柴は初めて聞く祐介の病状に愕然とする。
「祐介は自分の病と母親の死を乗り越えないとならなかったんです。そんな時にアムロが村井厩舎に来ました。それで祐介にとってアムロは希望の星になったんです」
「確かにそうですね」
「祐介は自分の悩みを厩舎にいたアムロにずっと話していたようです。私も多忙だったんで祐介が悩みを打ち明けることが出来るのは、アムロと歩美ちゃんしかいなかった。特にアムロには何でも打ち明けていたようでした。しかし、アムロはレースでは走らなかった。祐介はそれでもアムロに会いに行っていつも色んな話をしていたそうです。僕が寄り添ってあげられないので、アムロがその代わりになったようです」
阿部がうつむく。父親とすればつらい話だ。
「そうですか」
「そして祐介はその後、入院になります。医師の許可が下りればアムロには会いに行けるので、その時にアムロと約束をしたそうです。アムロが祐介に話したそうです。アムロもがんばるから、祐介もがんばれと、私にはそういったことが本当なのかはわかりません。
ただ、その思いが通じたのか、今年になってアムロが俄然、走り出しました。祐介の喜びようたるやものすごかったです。ええ、アムロに自分の気持ちが通じた喜びと、祐介のために走ってくれているという期待感ですね。ですから二人になんらかの約束のようなものはあったんだと思います。実際にアムロは勝ちだしたし、祐介はそれを信じています。アムロが勝てば自分もがんばって病気を治せると」
「それが二人の絆なんですね」
「そうです」
「私も心臓移植について少し調べさせていただきました」
「はい」
「日本では小児の移植手術は行えないみたいですね」
阿部の表情が変わる。
「そうなんです。私も愕然としました。1997年に移植法が制定されて、恥ずかしい話、当時、その内容をよく知りませんでした。しかしいざ、自分の子供の話になって確認すると15歳以上しか適応されないじゃないですか、つまりは15歳以下の子供に移植手術は出来ないことになります」
「そうですか」
「臓器移植の問題が難しいのはわかりますが、これでは片手落ちではないでしょうか。今も法改正の要望は出ているそうですが、とにかく法律が出来るまで時間がかかる。祐介には時間がないんです」
「わかります」
「今できることは海外での移植手術しかありません」
「はい」
「それと海外では保険が適応されませんので、手術費用は非常に高額になります」
「そのようですね。それで阿部さんはどうされますか?」
「現在、手術のために日本臓器移植ネットワークに登録しました。費用についてはなんとかしないととは思っています」
「目途は立っているんでしょうか?」
「いえ、お恥ずかしい話、これからになります。まずは自分の会社をなんとかしないとなりません」
「失礼な話ですが、それこそアムロの活躍があればということでしょうか?」
「そうですね。非常に不確定な話なんでそこに過度の期待は出来ませんが、そういったものにもすがりたい気持ちです」
「我々も何か力になりたいとは思います」
「ありがとうございます。まずは自分でお金を融通できるように頑張りますが、もしどうしようもなかった場合はお願いするかもしれません」
「全国から寄付などを募る方法もあるみたいですね」
「そうですね。それも含めて考えてはいます。なんとか祐介にはがんばってほしいです」
「わかりました。うちの社でも協力させてもらいます。以前、息子さんの病気の話を伏せてほしいとおっしゃっていましたが、今の話を記事にしてもよろしいですか?」
阿部は躊躇している。個人情報の観点からなのだろうか。御子柴が再度、お願いする。
「やはり、世の中に今の実情を知ってもらうことは重要と考えます。いかがでしょうか?」
「わかりました。こちらからもお願いします」阿部氏は深々と頭を下げる。
「阿部さん家族の個人情報について問題がある部分は公開しません。発行前にはご確認いただきます」
「はい、ご配慮ありがとうございます」
「あ、それから大した話ではないんですが、阿部オーナーも気にされていた馬名の件です」
「はい、著作権ですよね」
「アムロは人名でも使われていますし、アニメを特定できるものではないので、大丈夫だろうというのが当社の顧問弁護士の話です」
「そうですか、ありがとうございます」少しほっとした顔をする。
「お仕事の方はどうなんですか?」
「バブル崩壊以降、厳しい状況が続いています。バブル時期の設備投資費用が首を絞めている状況です。さらに景気も悪い。先が見えない状況です。今日も昔のつてで都内の関係先を回りました。色々、仕事をお願いしてきたところですが、あまりいい返事がもらえていません。各社、状況は芳しくないようです」
「失礼ですが、阿部工業さんの現状も踏まえた記事にしてもよろしいですか?」
「構いませんよ。それこそ、商談のネタになります。かえって話もしやすくなります」
阿部は初めて笑顔を見せるが、少し自暴自棄になっているのかもしれない。御子柴が時計を確認する。
「わかりました。ああ、もう時間ですね」
「はい、あわただしくてすいません」
「いえ、こちらこそ、お忙しい中ありがとうございました」
阿部が伝票を取ろうとする。それを御子柴が手で制する。
「阿部さん、それはこちらで、あと、これを」そう言って封筒を出す。
「何です?」
「取材費用です」
阿部は少し躊躇するが、受け取った。
「ありがとうございます。それでは失礼します」
阿部オーナーは走るように離籍していった。こちらが体の心配をしそうなぐらいだ。しかし、アムロをめぐる色々な状況がわかってきた。確かにアムロの勝利が阿部さん家族の希望の象徴になる。記事についても現在の心臓移植の課題についても触れることが重要になる。
御子柴が編集部に戻って阿部オーナーとの取材内容を確認している。外から戻って来た編集長が御子柴を見つけて話しかける。
「御子柴、どうだった?」
「ああ、阿部さんから話を聞きました。それで今、日本の移植事情について確認していました」
「オーナーの息子さんは心臓が悪いんだったな」
「そうです。拡張型心筋症だそうです。彼の場合、移植しか手がないそうです」
「拡張型心筋症?」
「私も今調べたんですが、難病指定されています。原因は不明で具体的には心臓の左心室が肥大するらしいんですが、全国に患者は多いようです」
「そうなんだ。原因不明か」
「治療方法もあるようですが、根本的治療は心臓移植が一番いいようです」
「そうか、大変だな」
「私も勉強不足でよくわかっていなかったんですが、日本で子供の移植はほぼ無理なんですね」
「制定された移植法と言っても型どおりのものだからな。あれでも今までよりは進歩したんだ」
「心臓移植で日本がここまで立ち遅れたのは、1968年の事件ですよね」
「御子柴はリアルタイムじゃないからな。俺は子供だったけど、報道が異常だったな。担当医は殺人犯扱いだったよ。刑事告発もされた。まあ、手術の過程で色々疑惑が出てきたこともあったんだ。それを割と興味本位で書いた記事もある。とにかくセンセーショナルな扱いの事件だったよ。しかし、あの事件で日本の移植手術は大きく立ち遅れた。本来ならば、もっとも問題にすべきなのは、日本で救えたかもしれない命が失われたということだろうな」
「そうですね。今、調べていたんですけど、1999年になってようやく日本で心臓移植が行われたんですね。それまで何をしていたんですかね」
「脳死問題が大きかったんだよ。その決着をどう付けるかで一向に話が進まなかった」
「そこまでくると政治の話になりますよね。どういう定義づけにするか、海外に倣えばいいじゃないですか」
「日本人の倫理観の問題もあるんだろうな。欧米とは異なる部分もある。日本人は脳死と言う考え方がない土壌じゃないか」
「どういうことですか?」
「脳死を死と認めない風潮と言うか、ほら、昔から死んだと思った人が生き返るみたいな話が多いだろ」
「そういえば、そうですね」
「棺桶から音がして、開けたら生き返っただの。植物状態の患者が数年たって眼を覚ましただの」
「はい、よく聞きます」
「まずは脳死というものをはっきりさせる必要があったんだろうな、そこに時間がかかっている。欧米とは異なる点だ。そういった話し合いを時間をかけておこなったというのが政府の見解だろうな」
「ああ、でも同じアジアでも中国や韓国などでは移植は進んでいますよね。少なくとも日本の様な状態ではないです」
「うん、そうだな。それはやはり最初の躓きが原因だったのかもしれない」
「政治指導でかじ取りするべきです」
「そのとおりだな。政府主導でもっと積極的に動けばよかったとは思うな。まあ、脳死問題を扱っても選挙でのメリットはないからね。むしろ触れない方がいい」
「全国に移植を待ってるたくさんの患者がいるのに。移植は心臓移植だけではありませんよね」
「それでもようやく移植法が制定された」
「しかし、小児には適応されない。どうしてこんなことになってるんですか」御子柴が憤る。
「子供の臓器だからな。より慎重になるんだよ。提供側も受ける方もさ」
「私は海外で移植するしかないって言うのが信じられません。それこそ、日本の子供たちに死ねと言ってるみたいじゃありませんか」
編集長がさすがに慌てる。
「そこまで書くなよ、落ち着いてな。そういった面でもこれから議論の余地はある。御子柴も今回の話を移植の現状に結び付けてみたらいいんじゃないか、いい機会だ」
「はい、そのつもりです」御子柴の鼻息は荒い。
実際、現在になっても日本の移植手術は遅々として進まず、2008年に国際移植学会で『イスタンブール宣言』がなされる。これは移植についてその国の患者への臓器提供を優先するといったもので、この宣言を受けてようやく日本でも移植について動きが出てくる。2010年に移植法が改正されて移植についてのドナーの意思表示などが明確になった。しかしながら、今もって海外の移植比率と比べ、日本の移植件数は著しく少ない。さらなる政治指導を切に願う。
阿部が会社に戻って来る。すでに夜の8時を過ぎているが、一階の現場では若い社員たちが残業している。阿部は皆にねぎらいの言葉をかけ、差し入れのお菓子とジュースを差し出す。そして、2階の事務所に行く。岸田が一人残ってパソコンに向かって仕事をしていた。
「お疲れさん」
「ああ、社長、どうでした?」
「うん、少しだけ仕事をもらえたよ。ただ、まだまだ手形分には足りない」
「あと、500万円ぐらいですか?」
「そうだな。銀行ももう融資は限界だったし、こっちに担保物件もない。最悪、高利貸しに借りるしかないかもしれない」
「そうですか・・・」
「あとは、アムロ次第だな」
「今週末のレースですか?」
「なんとか勝ってほしい。神頼みだよ。それでしのげれば後はなんとかなる」
「僕も祈ってますよ」
阿部は疲れた体に鞭打って、仕事に向かう、阿部工業の夜は長い。
3
アムロは強い調教ができないままにレースを迎えることになった。
レースが行われる三日前の木曜日に東京競馬場の厩舎に入った。村井と御手洗は厩舎の違いに驚く。村井が話す。
「さすがに中央の厩舎は違うな。なんてきれいで大きいんだ」
「アムロはあんまり気にしてないようや」
そういう、ごんじいもあんまり気にしていない。このじいさんは歳のせいかあんまり感動することがないのかもしれない。アムロもいつものように飼い葉を食べている。
村井が御手洗とごんじいに話す。
「明日は東京競馬場で調教する。アムロのスクリーニングだな。それと馬場状態も確かめないと。武も芝の感触をつかんどけよ」
「はい」
スクリーニングとは初めて走る競馬場を競走馬に試走させることを言う。これをやることで馬がその競馬場に慣れることを目的とする。馬は元来、臆病な動物で初めての経験では必要以上に驚いたりする。
厩舎から道路を隔てた向こうに東京競馬場が見える。村井も御手洗もまったくの異世界を見るようである。こんな大きな建物が競馬場なのか、まるで別の国に来たようだ。とちぎ競馬とはまるで違う。ひょっとすると東京競馬場の内馬場だけでとちぎ競馬場が収まるのではないだろうか、そのぐらい大きな競馬場だ。
「武、自信を持っていけよ。お前だってとちぎじゃあリーディング争いが出来るぐらいになってるんだ。のまれるなよ」
「まあ、競馬はどこでやっても同じですからね」言いながら、御手洗の笑顔は引きつっている。
翌金曜日にアムロは東京競馬場で調教する。
角馬場で軽い運動をした後、ダートコースにて左回りでダク(速歩)、キャンター、常歩で走らせる。その後、芝に入れて同じくキャンターで左回りを一周走らせた。アムロは時折、止まって競馬場や馬場を確認しているようだった。こういったところが、アムロが他の馬と違い、頭がいいところだ。
夕方にJRAの職員からアムロの関係者にレクチャーがあった。地方競馬との違い、中央ならではの色々な取り決めがある様だった。例えば地方競馬だとゲート入り後に厩務員がしっぽをつかむが出来るが、中央では禁止されている。ごんじいは厩務員としてゲートに立ち会う必要がある。どこまで理解したのか不安だったので、終わってからも村井がごんじいに確認、再度説明した。アムロより手がかかるかもしれない。
騎手である御手洗はその夜から東京競馬場の調整ルームに入る。中央の騎手とともに明日のレースまでは隔離される。外との連絡も禁止されている。居室のほかに、食堂、娯楽室、サウナ付きの浴室などもあり、御手洗にとっては自宅よりも快適である。
そしていよいよ土曜日、レース当日である。好天にも恵まれ馬場状態は良馬場だった。
昼過ぎに阿部オーナーと息子の祐介、そしてオーナーの車に同乗した歩美が到着する。阿部の車は社用車を兼ねている大衆車である。横に阿部工業と大きく記載がある。東京競馬場に入るのが申し訳ないような車である。あらかじめ、JRAから連絡があり、入門証などが用意されていたので、案内図に沿って馬主側の入り口から競馬場に入ろうとする。
警備員が驚いた顔で阿部の車を止めようとする。
「ああ、だめです。ここは馬主しか入れません」
馬主が会社のロゴ入り社用車で来ることはない。ほとんどがとんでもない高級車である。
「ああ、私も馬主です」車の窓を開けて入門書をかざす。
警備員がびっくりしてリストを確認している。怪訝そうな顔をしながら、
「はい、失礼しました。どうぞ」
なんとなく、阿部オーナーのほうがばつが悪い。高級車じゃないとな。確かにオーナー用の駐車場には外車などの高級車しかない。祐介が言う。
「おとうさん、うちの車、小さいね」
「まあね。小さい方が運転しやすいんだ」単なる負け惜しみである。ベンツの隣に傷をつけないように駐車する。祐介は期待が大きいのか、顔色も良い。歩美もそんな祐介を見るのがうれしかった。
「祐ちゃん、私はアムロの所に行くね」
「うん、アムロによろしくね。頑張ってって言ってね」
「伝えとく」
歩美は村井の所に向かい、阿部親子は東京競馬場の馬主席に向かう。馬主受付をしてから、エレベータで7階に上がる。フロアーが絨毯張りでどこかの高級ホテルに来たかのようである。祐介は興奮気味である。
「おとうさん、すごいね。お金持ちになった気分だ」
そして、阿部オーナー用の部屋に入る。リゾートホテルの一室ぐらい広い。そこから競馬場全体を見渡せる。
「うわあ、すごい、広い競馬場だね。あ、富士山が見えるよ」
東京競馬場からは天気がいいと、富士山がきれいに見える。
「本当だね。すごいな」
まさに絶景である。アムロに感謝しないと。馬主席から観客も見える。今日は観客が多そうだ。世間はゴールデンウィークになっている。
「こんなに人が入るんだね。とちぎとは違うね」
「ああ、雲泥の差だな」
阿部も自分の馬が東京競馬場で走ることは感無量だった。元々、競馬が好きになってからは何度も訪れた競馬場である。学生の頃から何時かは馬主になってここで馬を走らせたいと思っていた。アムロのおかげでまた一つ夢が叶った。この馬主席から愛馬が走る姿を見ることが出来る。
歩美は別行動で厩舎のアムロに会いに行く。これ以降、歩美はアムロのスタッフの一員になる。村井とごんじいがアムロの様子を見ていた。
「とーちゃん、来たよ」
「歩美、お疲れ、時間かかったか?」
「かかったよ。世間はゴールデンウイークだから、渋滞で車が全然動かなかったんだ。トイレも行けずにまいったよ。でもここもすごい人だね」
「アムロ人気かもしれないな。例年よりも多いみたいだ」
歩美がアムロに話しかける。
「アムロ、みんなお前を見に来たんだって、いいところ見せないとね」
アムロはきょとんとしている。
「今日は祐ちゃんも来てるんだよ」
「そうか、祐介君も外出許可が出たんだね」村井が話す。
「うん、今日は体調もいいみたいだった」
アムロが祐介と言う言葉に反応したように見えた。
「いい、アムロ無理しちゃだめだよ。お前は強いんだから、無理しなくても勝てるんだよ。祐ちゃんが来てるんだから、絶対、勝つんだよ」
アムロが理解する。首を上下に振って任せとけと言ったところだ。
歩美はそういうが、村井は果たしてそんなうまくいくとは思っていなかった。今年の青葉賞はレベルが高い。本番のダービーでも勝ち負けが出来そうな有力馬がめじろおしだ。アムロの芝適正にも疑問符がつく。いずれにしろ、今日のレースでアムロの今後に目途が立つことになる。
時間が来てアムロが厩舎を出ていく。地下馬道を通ってまずはパドックに向かう。東京競馬場のパドックはすり鉢状になっていて、馬が周回しているのを観客は上から見ることが出来る。またスタンド側の観客席からもパドックを見ることが出来、パドックはちょっとした舞台に立つ演者の気分になる。また、パドック自体も広々としている。
ごんじいが歩きながらアムロの手綱を引く。ごんじいはいつもの作業服だ。洗濯はしたのだがちょっと汚らしい。村井は次回はごんじいも新しい服にしないとなと思う。村井は紳士服チェーンのバーゲンスーツだ。アムロはゼッケン1番で、ごんじいに引かれてパドックに最初に顔を出す。村井と歩美はパドックの外側からそれを見守る。パドックがきれいだ。それとなんて大きく奇麗な電光掲示板なんだろう。
アムロが出てきた瞬間、観客がどよめいた。アムロに掛け声もかかる。
アムロは450㎏と競走馬としても小さいほうだ。しかし青毛の全身から醸し出す雰囲気はそれを感じさせないスケール感だ。そして実に落ち着いている。これが3歳馬なのかといった落ち着きぶりである。掲示板のオッズを見ながら歩美が話す。
「とーちゃん、アムロはあんまり人気が無いね」
「そうか、4番人気だぞ。どこの馬の骨かもわからないのにすごいことだぞ」
「そうかな。アムロは有名じゃないのか?1番人気かと思ったよ。単勝で7倍もつくよ」
パドックの二人に御子柴が近づいてくる。
「こんにちは」
「ああ、どうも」
「いよいよですね」
「ええ、まあ、なんとか持ってきました」
「とーちゃん、弱気だな。圧勝するよ。アムロは。武がちゃんと乗れば」
「そうだね。アムロだもんね」御子柴が笑顔で話す。
「調子はどうなんですか?」
「一応、仕上げては、来ました」
「絶好調です」歩美が胸を張って根拠のない話をする。
「そうなの、でも落ち着いてるね。アムロは」
「歩美はアムロが興奮したところを見たことがないよ。いつも落ち着いてるんだ」
「へー、大物だね。村井さん一番人気はモヒートです。どうです?」
「11番の馬ですよね。父親はサンデーサイレンスか、良い馬だな」
「遅れてきた大物ですよ。関東リーディングの藤枝調教師の馬です」
「知ってます。ここを勝ってダービーに向かうんでしょうね」
「アムロもダービーに出るんじゃないんですか?」
「地方馬は1着じゃないと出られません」
「そうでしたか」その答えに歩美が憤慨する。
「とーちゃん、さっきから弱気すぎるぞ、アムロは勝ちます。そしてダービーで賞金を稼ぎます」
「すごい自信」
歩美の鼻息だけが相変わらず荒い。
騎乗命令の掛け声がかかる。パドックに騎手が出てくる。御手洗の緊張した顔を歩美が見る。
「こらあ、武!お前が緊張してどうする!」
歩美が吠える。中央の騎手がそれを見て笑う。御手洗も苦笑いする。おかげで少し落ち着いたようだ。御手洗がアムロにまたがる。大丈夫だ、アムロはいつものアムロだと気が付いたようだ。
村井がアムロの周回を見ながら、掲示板のオッズを確認する。ああ、どんどん下がっていくな。先ほどは7倍だった単勝人気は5倍まで下がっていた。観客も実際のアムロを見てこの馬が普通の馬ではないことに気が付いた証拠だろう。アムロに期待してオッズが下降している。
そしていよいよ本馬場入場だ。アムロが地下馬道に消えていく。
それを見届けて村井と歩美は御子柴に挨拶してから、5階の調教師席に向かう。調教師席は一般の観客と同様に座席があり、当日、馬を出走させる調教師連中が席に着いている。
座席に座って村井が見渡すとテレビでしか見たことのない中央の有名な調教師たちが座っている。なんとなく、肩身が狭い気がする。ただ、歩美は堂々としている。そんな歩美に近づいてくる調教師がいる。なんと藤枝調教師だ。美浦のリーディングトレーナーだ。
「かわいいトレーナーだね」歩美に話しかけてる。
「え、私は未来の騎手だよ。とーちゃんが調教師」きょとんとして歩美が村井を指さす。
「村井と申します。娘なんです。お騒がせしてどうもすみません。一応、JRAさんの許可は取ってます」
「いえいえ、ちょっとお話したかったので、アムロのトレーナーの方ですよね」
藤枝は50歳ぐらいで温厚そうな人だった。村井はテレビや雑誌などでも何度も見ている。憧れの調教師である。
「はい、そうです」
「いい馬ですね」
「はい、ありがとうございます」
「初めての東京競馬場なのに落ち着いている。それでいて何か風格もある」
「おじさんの馬はどれなの?」歩美が話す。
「こら、おじさんはやめろ。藤枝調教師さん」
「藤枝さんの馬はどれですか?」
「ああ、11番のモヒートって馬だよ」
「11番、あっ一番人気じゃない。いい馬だね」
「歩美!」村井が真っ青になる。
「馬がわかるんだ」藤枝は笑顔だ。
「うん、歩美は馬の言葉も分かるんだよ」藤枝がさらににこっと笑う。
「それはすごいな。おじさんにも教えてくれよ」
「うん、今度ね」
藤枝は歩美が冗談を言ったものと思っている。にこにこしながら自席に戻る。村井は汗だくだ。まったくこの娘は。そして、いよいよアムロが本馬場に登場する。大歓声だ。ダービーの前哨戦とは思えない盛り上がりようだ。
「アムロって人気あるな」歩美がつぶやく。
全16頭が馬場入りし、アムロが返し馬に入る。特に入れ込んだ様子もなく、発汗もさほどない。上々の様子だ。ただ、鞍上の発汗が気になる。御手洗武入れ込むなよ。
馬主席からは祐介と阿部が見守る。双眼鏡で見ている祐介が話す。
「アムロ、良い感じだね」
「そうだな。どきどきするね」
「うん、心臓に悪いよ」祐介がヒヤリとするようなことを言う。
青葉賞は2400mでダービーと同じ距離、同じコースを走る。アムロは今まで1900m以上の距離を走ったことがない。ましてや芝も初めてだ。
スタート地点は馬主席の真ん前になる。アムロがゲート前で輪乗りをしている。
阿部は自分の馬がダービーに出られるかもしれないことにもワクワクしている。競馬の格言でダービー馬のオーナーになるのは一国の宰相になるよりも難しいと言われている、それが叶うかもしれない。そして青葉賞はそのダービーと同じコース、同じ距離だ。興奮しないわけがない。祐介が言う。
「アムロは東京競馬場、初めてなのに落ち着いてるね」
「そうだね。逆に中央の馬の方が興奮しているぐらいだね」
一番人気のモヒートは落ち着いているが、他の馬は目の前にいるたくさんの観客の前で興奮気味で汗が馬体に白く浮いている。阿部も競馬好きなので、ある程度、血統は理解している。アムロの血統は地方競馬によくあるダート血統だ。ただ、そうは言っても芝で走れないわけでもないはずだ。オグリキャップがネイティブダンサー系で同じくダート血統だったが、実際は芝でも走っている。血統どおりにいかないのが、競馬の面白いところかもしれない。村井も御手洗も芝の適正があるように思えると話している。アムロにも同じく、芝適正があることを望む。
調教師席でも村井と歩美がドキドキしてみている。
そしていよいよスタートの時間が来た。観客のボルテージも一段と上がる。
スターターがスタート台に上がり、旗を振った。それを合図にファンファーレが鳴り、各馬がゲートに入る。ごんじいはちゃんとゲート入り出来るかな。アムロは1番の奇数枠で最初にゲートに入る。慣れない中央競馬のゲートのはずだが、問題なく入る。ごんじいもうまくゲートから出ていく。今までもアムロはゲートに難はなかった。順調に各馬がゲートに入る。そしてすべての馬のゲートインが完了する。
緊張の一瞬だ。御手洗はスタートに備える。
ゲートが開くと同時にアムロはいきなりトップスピードで走り出す。どの馬よりも早いスタートだった。そして加速する。
「バカ武!何してるの」歩美が血相を変える。
村井が見ると御手洗は必死でアムロを抑えようとしている。手綱を引きっぱなしだ。しかし、アムロはそれを無視して猛然と走る。2400mはほとんどの馬が未経験だ。当然、押さえようとする。それを無視するかのようにアムロはどんどん逃げていく。1コーナーですでに10馬身も差が付く。
ここで御手洗は抑えるのをあきらめ、長手綱にしてアムロの好きにさせることにした。アムロは走りたいのだ。故障のせいで今まで押さえつけてきた走る欲求を爆発させている。脚は痛いはずだが、それよりも走りたい欲求を抑えられないようだ。また、祐介との約束を果たそうとも思っているのがわかる。
「アムロ、お前が大丈夫だと思ってるんだな。わかったよ。お前に合わせる」
御手洗は覚悟を決めた。行くに任せて走らせると、後続との差は向こう正面で20馬身差にまで広がっていた。徐々に観客からざわめきが出てくる。
1000mの通過タイムは57秒だった。ありえないタイムだ。明らかに暴走している。場内放送が通過タイムを言うと場内が騒然とする。しかしアムロはそのまま走り続ける。
「とーちゃん、アムロどうしたんだろ?」
歩美が心配そうに話す。村井は苦々しい表情で答える。
「うん、今まで故障もあって走らせなかったから、その反動かもしれない。アムロは走りたくてしょうがないんだ」
第3コーナーに入ってもまだアムロは走り続ける。すでに後続とは20馬身以上の差になっている。走りは依然として変わらない。これ以上、離されるわけにはいかないと後続も必死に追い出しているため、差の広がりは少なくなっているが、一向に縮まらない。このまま楽勝してしまうのか。そしていよいよ最終コーナーに入る。まだ、その差は20馬身はありそうだ。
このまま、逃げ切れるのかもしれない。
場内は騒然としている。北関東の無名馬が中央の良血馬に対し、力でねじ伏せて逃げ切ろうとしている。
ただ、鞍上の御手洗はアムロの様子がおかしいことに気が付いていた。
「アムロ、がんばれ、もうすぐゴールだぞ」
直線に入って残り400mでアムロは止まった。御手洗はアムロの前脚が悲鳴をあげたのを感じた。ついにやってしまったのだ。後続が襲い掛かる。それでもアムロは必死で粘る。差がどんどん詰まってくる。しかし御手洗は追わない。いや、追えない。
「アムロがんばれ!」歩美が叫ぶ。
「アムロがんばれ」御手洗も叫ぶ。
あと100m、アムロは必死に走る。そこにモヒートが近づく、アムロが抵抗する。しかしゴール直前でアムロが抜かれていく。モヒートとさらにもう一頭にも抜かれてしまった。
そしてなんとか3着でゴールした。
そしてゴールした直後に御手洗はアムロから下馬する。ごんじいがアムロに駆け寄る。場内は騒然となる。アムロ故障か!場内アナウンスが騒ぐ。アムロのゴールを見るやいなや、村井と歩美は検量室に向かって走っていく。
御手洗が下馬したのを見て、馬主席の祐介が青ざめている。
「おとうさん、アムロ大丈夫なの?」
「うん、どうなんだろうな。おとうさん、ちょっと見てくるから、祐介はここで待ってなさい」
阿部はなんとなく、アムロはもう無理なのかとも思った。今までも競馬で騎手が下馬した際には馬に大きな故障が起きている。
「うん」本当は祐介も行きたいが、無理は出来ない。我慢している。
検量室前に村井と歩美が到着する。ごんじいと御手洗、そしてアムロが戻ってくる。
「武、どうだ?」
「多分、やっちゃったと思います」
「アムロ・・・」歩美がアムロに駆け寄る。歩美にはアムロの痛みがわかる。ここまで痛そうなアムロは初めてだ。
「とーちゃん、アムロがアムロが・・・」歩美が泣きじゃくる。
村井が足元を確認する。見た感じではわからないがおそらく屈腱炎を再発したんだろう。
そこへ血相を変えた阿部オーナーが駆け寄ってくる。
「村井さん大丈夫ですか?」
「詳しくはこれからですが、多分、厳しい状態です」
「そうですか、アムロ、よく頑張ったな。祐介も喜んでたぞ」
阿部オーナーがアムロに話しかける。アムロが反応したように見えた。アムロは祐介のために走った。
村井調教師に報道陣が駆け寄る。矢継ぎ早に故障について質問が飛ぶ。
「まだ、わかりませんが、何らかの故障が起きたと思っています。詳細は後日、発表します」そこまで話すのが精いっぱいだった。
阿部が馬主席に戻って来た。祐介が心配そうな顔で話す。
「おとうさん、アムロは大丈夫なの?」
「まだ、わからない。でもケガはひどいみたいだ」
「アムロ、もう走れないの?」
「どうかな。わからない」
「アムロ・・・」
祐介も大粒の涙をためている。走れない祐介にとってアムロは憧れだった。悠然と走るアムロは生きがいでもあった。そのアムロがもう走れないかもしれない。自分の命とアムロを重ねている。
アムロの中央競馬挑戦は儚く終わった。