思考、最終列車、孤独
もう人も少なくなった夜の駅。腕についた時計はゆっくりと零時に向かって針を進めていた。
最寄りの駅まで走る電車はあと二本。
次に出るいつもの快速と、快速より三十分も時間がかかる普通列車。
今日も最後の快速に乗ろうと足を進める。
だがそこで、なんだかやけに遠くに見える光が気になっていた。
それが何かと言われれば、きっと何でもないのだろうが、妙にそれが見たくなったのはわかった。
金曜日の夜であることもあり、明日は幸い仕事も休み。多少遅くなったところでどうということはない。
そうと決まれば快速の扉から背を向けて、近くに会った自動販売機でいつも飲むお気に入りの缶コーヒーを買い、閉まる扉、過ぎていく電車を眺めてから、いつもならこの時点でサヨナラをする普通列車の扉をくぐった。
出るまで十分ほどあることを確認し、俺は二人がけの席に座って息をついた。
窓の外は車内の明るさではっきりとは見えないが、今まであまり意識してみていなかったのもあり、少しだけ新鮮に見えた。
缶コーヒーを開けるとカシュッという親の声より聞いたであろう軽く空気の抜ける音が、人のいない車内に響く。
どこか乾いた音のように聞こえた。
ちびちび口をつけながら、帰ってからのことを考える。
待つ人もいない部屋の中で、途中のコンビニで買ったチューハイを片手に一週間の労働を呪う自分の姿が頭に浮かんだ。
いつもの姿、いつもの時間。
疲れているのだから早く寝れば良いものを、そうしようとしないのは夜ふかしが大好きだった学生の頃からの癖。
なぜだか昔から、早く眠ってしまうのがもったいなくて、テレビ、ゲーム、パソコンに本・・・いろんなものにしがみついては次の日の授業を睡眠時間に変えたものだ。
今でこそ、そんなことを平日にしたりはしないが、次の日が一日中寝ていられるとなれば、大人の特権である酒を片手に趣味に走る。
もうすぐ二十代も終わる。友人の結婚式にも二回出た。
そんな中で彼女も作らずに一人でこんなことをしている自分に虚しさを感じることはある。
だが、それ以上の楽さに溺れてしまい、友人に軽くいじられながらも、この生活をやめるつもりはあまり起きていなかった。
無機質なアナウンスが流れ、扉が閉まる空気音。
どうやらもう十分も経ってしまったらしい。
下から大きく揺れ、電車はゆっくりと動き出す。
窓から見える夜景は後ろに流れ始める。
同時に、仕事をしていた俺自身も、後ろに流れていくような気がした。
コーヒーの香りが宙を漂う。
誰もいないから良いだろうが、他の乗客がいたら、とても迷惑であろう。
そんな中でも無機質に流れる車掌さんのアナウンス。
そういえば、子供の頃、どんな電車でも車掌さんが乗車券を拝見してパチンパチンと穴を開けているのだと思っていた。
田舎でも都会でもない場所に住んでいる俺は、電車に乗る機械も少なく、小学校高学年までそうだと思っていたのを覚えている。
電車に乗り、一緒に乗っていた兄に「車掌さんはまだか」とワクワクしながら聞いて何言ってんだこいつというような顔をされたのが、俺の思い込みが壊れた瞬間であった。
今でも、そんな路線はあるのだろうか。
あったとしてももはや観光名所というか、アトラクションの一つとなっているもので、日常的にそのシステムを採用しているところなど、もうどこにも存在しないのではないだろうか。
暗く、後ろに流れる夜景の中に、幼い日の俺が写った。
俺はぼーっとその姿を眺める。
やがてジャケットが重く感じてきて、脱いで、畳んで、膝の上に乗せた。
クルクルと回る景色を目の奥に写した。
何もかもがどうでも良くなるほど、煌めく姿が綺麗に見えた。
会社のことを思う。
正直あまり考えたくないが、頭に浮かんでしまうことは仕方ない。
嫌な上司の顔。薄い頭、臭い息と体、うるさい怒鳴り声。
気が滅入る。嫌な顔が思い浮かんだ。
頭に流れてくるのはヤツの顔から通り過ぎ、仕事の内容、書類の文字列。
今日も同じような書類を作って、企画書書いて、会計書類にデータ入力・・・
あれ?、俺の仕事じゃないの混じってね?
俺が担当しているのはプロジェクトの企画と社外文書のはずだ。
無意識のうちに押し付けられていたのか。
ゆっくりと、仕事中の中身を思い出す。
文字以外、数字以外、ヤツの顔以外・・・
遠く写ったのは女性の顔。
少し幼い顔立ちで、髪を茶色に染めた、俺の後輩。
微笑むような、顔で先輩と俺を呼ぶ声が脳裏をよぎった。
嫌な音がする。
ハッと顔を上げると、数駅過ぎたことを知らせるアナウンス。数分前からずっと流れているであろう無機質な声。
あとまだ数十分ある。もう一度視線を戻す・・・つもりだったのだが
ちょっとだけ寒そうに震える俺の携帯に、視線が吸い寄せられた。
この日本に超絶普及したメッセージアプリの特徴的なバイブ音。
開けてみれば、渦中の後輩からだった。
『先輩!今帰りですか??』
軽い。仕事の先輩相手にしては相当軽いメッセージ。馴れ馴れしいとも言う。
「こっわ」
正直な感想が洩れた。
正直、俺はこの子が苦手だ。信用できない。
このこと話すとき、周りからの視線が刺さるのを思い出す。
嫌いではないのだが、環境とか、行動とか、結果とか、いろいろ怖いのだ。
確実に、狙われている、または利用されている。
俺なんかがだ。
『いま電車だよ』
速攻既読がつく。早い怖い早い
気づかないふりして返さなきゃよかった。
『そうなんですね〜また残業ですか!お疲れ様です!!』
何だこいつ。
考えすぎ、と言われればそれまでなんだろうけど、陰キャはこういう反応をする(偏見)
『ありがとう』
そう返してスマホをバッグの中にしまった。
もう返さない。今日は返さない。
いつもだとちょっとズルズルしちゃうから、今日は早めに逃げることにする。明日返せばいいや
改めて視線を戻して、過ぎる夜景に思考を戻した。
今日は何を飲もう。家の近くのコンビニの棚の列を思い出す。
今日は何をしよう。たしか、溜まった録画が全然消費できてなかった。
明日は・・・多分寝てる
きっとまた何もない休日を流して、消費していくのだろう。
この景色と同じように。
スマホがしまわれたバッグに視線が落ちる。
寂しいやつ。一人で一生を過ごす。
俺はいつか、あんな部屋で一人腐って死んでいくのだろうか。
今、本気で彼女と向き合えば、俺は一人じゃなくなるのだろうか。
そんな勇気がどこにあるのだ。
そんな度胸がどこにあるのだ。
自分が孤独なのを知っている。
この夜景に経っていたって、誰も気づかない。
俺が死んでも、世界はきっとうまく回る。
それどころか、会社もきっと、何もなかったかのように、誰もいなかったかのように
スマホに手を落とそうとしてやめた。
俺は今、彼女を利用しようとした。
相手がしてるからって、自分がしていい理由にはならない。
そう、自分に言い聞かせた。
そろそろ近くなってくる。また無機質なアナウンスが鳴る。
最後の思考を、窓の外に投げる。
生きる意味、生きる価値、生きるとは、死なないよりは
死にたくはないな。でも、死ぬのは
「・・・少し、楽しみ」
未知への探求が、俺の趣味の原動力だったのを思い出す。
飽きっぽいのは多分そのせいだった。死んだら満足するのだろうか。
あれ?俺ヤバイ?
心療内科にでも予約入れようかなぁ・・・
夜景の写る窓に、自分の顔が一瞬写る。
このまま、夜景の一部になれたらいいな、なんてポエムっぽいことを思ってしまう。
スマホが震えた。後輩のときと同じ震え。
ちょっと怖いが、既読をつけないように電源つけるだけで見る。
構えてみたが違った。小学校時代からの友人。数少ない友達。
『おひさ。元気してる?』
軽い。友人としては適切な軽さ。馴れ馴れしい
できる限り後輩からの連絡に触らないように、慎重に開く
実に一年ぶりくらい。学生が終わってすぐくらいまでは結構な頻度で遊んでいた。
どうしたんだろうか。
『死んでる。どうした?』
『遊びに行こうぜ。カラオケオールしよ☆』
当時から変わらないテンション。懐かしい
妙に安心する。
なんか、急に全部くだらなくなった。どうでも良くないけどどうでもいい。
また、今度でいいや。この夜景も、きっとまた回ってくる。
後ろに流れて、一周回って、またこの列車の車窓に現れる。
『明日も仕事でしょ?いい加減ちゃんとしなさい』
『一緒にすんな』
思わず笑みが溢れる。
とりあえず、彼女とか、未来とか、死とか、酒のつまみでいい。
今は、この夜景にサヨナラを
出会えてよかった。また乗ろう
そう思って、止まった電車に無機質なアナウンスが耳に残る
最寄り駅は乗った駅よりさらに暗くて、少し寂しい。
家につくまでの道中にあるコンビニを再度、頭の隅から掘り起こす。
「・・・あ、梅酒の気分」
全然チューハイじゃないことをもう一人の自分がツッコミながら、自動改札を出た。
今度、誰か誘って切符を車掌さんが切ってくれる列車を探しに行こうか。
その前に、カラオケの予定を固めてやらなくては。
次の休みはいつだったろう。
楽しいことばかりじゃない。
でも、少しでも楽しいと思えることを探す。
未知を探る。生きる
俺は、どこか運命的なものを感じた列車にもう一度別れを告げた。
明日は、ゆっくり寝るとしよう