生への執着という呪い
「いい飲みっぷりですね」
「喉が渇いてたんだ」
「そう見えます」
「金は払う」
俺はポケットから二つ折り財布を取り出して、小銭入れのボタンを開ける。
「いやいや、百二十円くらいいいですよ」
そう言って制止する彼女を気に留めず、俺は小銭を三枚摘まんで差し出す。
「人殺し志望とは思えない程律儀な行動ですね、よく分からない人です」
軽く溜息を吐きながら、彼女はそれを受け取ってベージュのシンプルな長財布に仕舞った。
「立ち話も何だし、適当に店でも入るか」
「カフェに入って、人の殺し方についてでも話合いますか?別に私はいいですけど」
「…………歩こう」
さっきの出来事とウィスキーのせいで碌に頭が回っていないようだ。絶妙なタイミングに受信したメッセージのおかげで、少しは目が覚めたと思っていたのだが、まだ俺の気は動転したままらしい。
俺はやけに重たく感じる腰を上げ、自販機横のゴミ箱に飲み干した缶コーヒーを入れる。
その時背中に悪寒が走った。誰かが俺の背中を嗅いでいる。大方、そいつの予想はついているが。
「お前……何してるんだ?」
俺は内心引き気味になりながら、振り向いた。
「お酒臭いなあと」
「一杯しか飲んでない」
「へえ。今から人を殺しに行くって時に、アルコールを入れて来たんですか、いい御身分なことで」
「何とでも言え」
「まあいいですけど、時雨さんって、私とさほど変わらないように見えるんですけど、おいくつなんですか?」
「来年で二十歳になる」
「未成年飲酒じゃないですか。それに、さっき煙草も吸ってましたよね?悪い人だなあ」
「人殺しに比べれば些細なもんだ」
「まだ殺してないじゃないですか」
「一応聞いておくが、お前は何歳なんだ?」
「……時雨さんって、絶対彼女出来たことないですよね……」
俺は舌打ちをしながら、無駄に晴れ渡った雲一つない青空を仰いだ。
下らない戯言を酌み交わしながら、俺達は駅のロータリーを進み、タクシー乗り場を見送りながら歩いていく。
「それで?アテはあるのか?」
「何のアテです?」
「墓場は決まっているのかという意味だ」
「気が早いですね……会ってまだ間もないのに」
「それ以外の目的がないからな。俺は別に雑談をしに来たんじゃないんだ」
「私は何も、殺してくれるなら誰でもいいという訳ではないんです。契約を結ぶ前に、先ずはあなたが私のブログを見つけた経緯と、私を選んだ理由、そして犯行動機を知る必要があります」
「なん――」
「詮索は無用です」
右手の人差し指を唇に当て、俺の目をじっと見つめて彼女は言う。
「あくまで主導権は私にあるということを忘れないで下さい。私が拒否すればそれだけであなたの計画は水泡に帰すんです。私が知りたいと言えば、あなたに採れる選択肢は一つです」
「分かった分かった。答えればいいんだろ?お前の質問は全部」
「そうです。答えればいいんです」
自分のことを他人に話すのは億劫だが、こうなっては仕方がない。俺は深く息を吸い込んで彼女の目を見た。
「俺の目的を叶える為には先ず、適性者を探す必要があった。その過程でお前のブログを見つけ、無題を読んだという訳だ」
「なるほど。では何故、無題の筆者である私が、その適性者だと思ったんです?」
「お前にメッセージを送るまでの三日間、俺は心からこの世界に絶望している人間を探していたんだ。他人の目を惹く為に着飾られた自殺願望ではなく、もっと純粋で実直な<諦め>を俺は求めていた。あの記事を読めば、お前がどれだけ今世に飽き飽きしているかくらい伝わるさ」
「そうでしょうね」
そう言って彼女は可笑しそうにせせら笑う。
「何が面白いんだ?」
「すみません。あんな陰気な文を真面目に読んでいる人がいたんだと思うと、可笑しくって」
「その必要があったってだけだ」
彼女は綻んだ口角を正し、話の先を促すように控えめに顎をしゃくって見せる。
「……何故お前を、人を殺そうと思い立ったのか。単純な話だ。何もないから、奪うことにした。これ以上語れることはない」
「それだけじゃ分かりません。もう少し詳しくお聞かせ願いたいんですけど」
「人生が、下らなかったんだよ、何もかも全部。だから俺は他人からそれを奪おうと決めて、人殺しを思い立ったんだ」
「……予想はしてましたけど、やはり殺人を図ろうとする人だけあって、頭の螺子が数本飛んでるみたいですね……話が飛躍しすぎて清々しいくらいです」
「螺子が揃ってる人間なんていないだろ。一見まともに見える奴だって、何かしら狂気を孕んでるものだ。俺の場合、偶然その衝動の行方が他人だっただけの話だ」
「まともな人間なんていない。その主張はまあ、分からなくもないです」
特に行く先も決めず歩いていた俺達は、明滅する赤に従い立ち止まった。
俺は行き交う自動車から視線を外し、隣に佇む少女の方を覗き見る。、彼女は信号横の歩道橋を見ていた。
「あの、あっちから渡りませんか?」
「少しくらい待てばいいだろ」
「この先の話は、お互い誰にも聞かれたくないでしょう?」
その言葉は、これから本題に入るということを示唆するものであり、待ちに待ったその瞬間を想像して、俺の体中に流れる血液がけたたましく騒いだ。
「そうだな。道を変えよう」
態々歩道橋を利用する者は俺たちの他に一人もいなかった。横並びに階段を上る間、俺と彼女の間に会話はなかった。
階段を上りきり、歩道橋の真ん中辺りまで歩いたところで、彼女は立ち止まった。
二メートル程彼女の先を行った段階で、ようやく俺は振り返って足を止めた。
「あなたが人を殺したい理由、そして私がその適任者であることは分かりました」
とてもこの後殺される人間とは思えない、嫣然とした表情で彼女は言う。
「……いいですよ。あなたに殺されてあげます」
「契約成立、ってことでいいんだな?」
「いえ、契約を交わすには、一つ条件があります」
「条件?」
「はい。あなたには、私にかけられた呪いを解いてほしいんです。どうせなら、最期は笑って死にたいですから」
何を言い出すかと思えば、呪いだと?こいつ、頭がどうかしてるんじゃないのか。
「時雨さんはこんな風に思ったことがありませんか?自分は何故生きているんだろう、一体何の為に生きているんだろう。って」
快晴に抱擁を求めるように、彼女は天空に向けて両腕を伸ばした。
「……下らない蝉問答に付き合うつもりはない」
見上げた首を少しだけこちらに傾げて微笑を見せると、彼女はまたすぐに視点を青天井に戻した。
「生きている意味なんて、答えられる人はそういません。第一、それが必要なのかすら、分かりかねると思います」
快晴が彼女を抱きしめることはなかった。世界に見放され、世界を見放したその少女は、空を切った両手を寂し気に引き戻すと、俺に向き直って言う。
「みんな、何となく生きているんです。意味も知らず、自分で選んだ訳でもなく、誰かの都合によって、知らずの内にこの世界に産み落とされてしまったから、ただ流されるままに、施された生を享受しているだけなんです」
「……だからなんだって言うんだ?そんなもんだろ、人間なんて。理由もなく生まれたから、理由もなく生きてる。それが愚かだとでも言いたいのか?」
「いえ、そう言う訳ではないんです。ただ……」
ビル風に舞う枯葉が俺と彼女の間を通り過ぎてゆく。
哀愁を纏う少女は、凩に揺蕩う一枚の落葉の行方を、どこか悟ったような表情で見送った。
「私には、生きていたいと思えるようなことが一つもないんです。楽しいことも、嬉しいことも何も。だからもう、死んでしまったって構わない。本心からそう思っているのに死にきれないのは、この胸の中の心臓が、それを拒むからなんです」
そう言うと彼女は左胸に手を当てて、口元を固く結んだ。
「私がまだ生かされているのは、この心臓が、生にしがみつくからなんです。生物として予め植え付けられた生存意識が、私の意思決定に反して、死への旅路を拒絶する。だから生きたくもない私を、私は捨て去ることが出来ない……まるで呪いみたいだと思いませんか? こういうの」
<呪い>その言葉が彼女にとって何を意味するのか、まだ不完全だが、俺にも少し理解出来た。
すべての人間に備え付けられた、死への本能的抵抗、恐怖。それだけが今、彼女をこの世界に繋ぎ止めているのだろう。だがそれは多くの人間にとって必要不可欠なものだ。死を何とも思わない奴がいたとしたら、そいつは生物として破綻している。
「極端な思想だな。生存本能を呪いだというなら、全人類呪われているってことになるぞ」
「それを呪いと取るかは人によります。でも私は、本当は今すぐにでもこの身を投げ出してしまいたいんです。でも……ただひたすらに曖昧な生への柵と、死への恐怖心がそれを邪魔する……だから私は今も尚こうしてこの世界にしがみついているんです」
「お前がそれを煩わしく感じていることも、お前の死生観がこの上なく歪んでいることも分かった。それで?話の先が見えないんだが、一体その呪いとやらを解くのに、俺はどうすればいいんだ?」
「生への執着という呪い。それを解く為には、この身を投げ捨てる前に、私に残された僅かばかりの未練を断ち切らなければならないんです」
「未練?」
「つまり、時雨さんには、私のやり残したことの手伝いをしてほしいんです」
俺は今日何度目かの大きな溜息を吐いた。思った以上に面倒なことになりそうだ。
「……大体分かったが……俺がそれを手伝う必要はどこにあるんだ。お前の柵とやらをどうにかすることに関して、全くの他人である俺は役に立てないと思うんだが」
俺は右手で顔を覆って俯きながら、呆れるように言う。
「それを決めるのは時雨さんじゃなくて私です。初めにも言いましたが、あなたが採れる選択は限られています。ここで大人しく家に帰って新たな適性者を探すか、私の条件に従うか」
「詳細を……」
そこまで言って俺は彼女からもう一つ釘を刺されたことを思いだした。
「そうです。詮索無用、です。勿論、承諾してくれた後は全てお話しますよ。一体どんなことを手伝ってほしいのかってこと」
この状況で俺が選り好み出来る選択肢はなかった。この場からそそくさと逃げ出して、またあの薄暗い部屋でモニターと睨み合うなんてうんざりだった。
「お前、名前は?」
嘆息もほどほどに、俺は顔を上げた。
「本名を尋ねている、ということでいいんですよね?」
彼女はそれが何を意味するのか分かったように柔和な笑みを浮かべる。
「あぁ。この先どうなったとしても、お前とは長い付き合いになる。名前くらい聞いておこうと思ってな」
遅かれ早かれ、俺はこの女を殺すことになる。彼女を縛り付ける生への執着を解くのにどれだけの時間を要するかは見当もつかないが、終着点はただ一つだ。
「雛木紫蘭です。あなたは?」
雛木、紫蘭。俺は特に意味もなく、いい響きだと思った。
「……水無瀬時雨」
「時雨……お互い、本名だったんですね」
上品に丸めた左手を口元に当て、彼女はくすっと笑う。
俺達は文字通り死ぬまで、互いのことを忘れないだろう。
希望にうらぶれるこの少女が、俺を好こうが嫌おうが関係ない。俺達の結末は情で左右されない。殺すか、殺されるかで完結する、形ある強固な契約で繋がれているのだから。
仮令、二人過ごした時間が、どれだけ短く薄いものだとしても、最期の時まで、俺の無意味な人生は彼女に記憶され続けるのだ。そしてその時初めて、俺のこれまでの苦悩が報われる。
「俺がお前の呪いを解いて、そして、お前を殺してやる」
歩道橋の上、十二月の冬風がビル街の谷間を吹き抜けて、揺れる少女の髪と、諦めきった笑顔。そんな景色を受け止めながら、俺は言った。
「はい。よろしくお願いします。人殺し志望の、みなせしぐれさん」
――こんな形で出会わなければ、俺達はきっと、この先数十年と幸せな日常を重ねてゆくことだって出来ただろう。だが、そう都合よく世界は回っちゃいない。
俺達には初めから、破滅への片道切符を持って、馬鹿げた最終便に乗り込む他、辿れる筋書きなどなかったのだ。
それならこれはこれで、よかったのかもしれない。
出会えただけ、
よかったのかもしれない。
今俺は、そんな風に、傍観的な目で、見送っている。